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新一の「心の一票」

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2021.01.02
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カテゴリ:年頭所感
読者の皆様、

明けましておめでとうございます。

最近は記事が疎らで、読者の皆さんに対しては誠に申し訳なく思っておりますが、本年もよろしくお願い致します。

今回のお正月休みも、(多忙のため)この通り、比較的短い、「年賀状型」の記事1件で失礼させていただきます。

昨年と言えば、私の場合、宇宙際タイヒミューラー理論の連続論文4篇の学術雑誌への掲載決定発表という、昨年1月の​ブログ記事​を執筆した時点では全く想定していなかった幸運な展開があり、またコロナ禍の影響で予定されていた​RIMSプロジェクト​(=いわゆる「訪問滞在型研究」)が2021年度に延期されることになりました。海外の研究者による短期間の日本での滞在が未だに難しい状況が続いているわけですから、集会は恐らく「ハイブリッド形式」(つまり、近くにいる参加者が対面で参加し、そうでない大多数の参加者はズームで参加するという形式)で開催されることになるかと思います。

昨年11月に、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校のズーム・コロキウムで(自宅から)講演しましたが、今年はズームやマイクロソフト・ホワイトボード等による、世界各地の数学者とのオンライン交流を通した、宇宙際タイヒミューラー理論の普及活動を益々活発に行なっていきたいと考えています。

特に昨年1月の​ブログ記事​で「∧」と「∨」を通して詳しく解説した、宇宙際タイヒミューラー理論の論理構造については、昨年の秋頃になって、更により詳細な、「∧」と「∨」を通した解説ができるようになって、それに関する報告書を現在纏めているところです。この報告書は数ヶ月以内に完成する見通しですが、普及活動を行なう上で重要な道具になると期待しています。

一方で、昨年はコロナ禍の影響で仕事の業務内容や形態を含む生活のありとあらゆる場面が大きく変化した一年でもありました。このような大きな変化に見舞われること自体、仕事や生活の様々な場面において、

   本当に真に必要、あるいは本質的な
        ものは何か

について一度立ち止まって改めて見つめ直すことを余儀なくされるという意味においては、個人の人生の効率化・最適化、ひいては人類の文明の発展にとっては健全かつ有意義な刺激という面もあるように感じました。

特に私の場合、以前から本ブログの何件もの記事で訴えてきたように、誰の手にも負えない、

     ​ 破壊的な複雑度の爆発​

を避けるには、国と国、組織と組織、あるいは個人と個人の間に、「心ある壁」を設けて一定の距離を置くことが如何に大切なことであるか、(コロナウィルス感染の拡大防止という、差し迫った事態によって)改めて浮き彫りになったように感じました。つまり、平たく言うと、

  「心壁論」は自然界の論理構造=一種の
    数学に近い法則に則った考え方

であり、決して間違っていなかったのだということに関して、昨年は自分としては自信を深める場面に度々遭遇した一年でもありました。
​​






Last updated  2021.01.02 03:03:49


2020.07.18
​最近、本ブログ、特にコメント欄の運営に関連する興味深い情報を知るに至りましたので、

        情報の​​リンク

​​
を読者の皆様と共有します。別の視点によるこちらの

          解説

​​
も併せてご参照下さい。簡単に要約すると、

      名誉毀損や面会の要求、つきまとい等、
         不適切な内容のコメントの投稿

は法的措置の対象と成り得ます。お心当たりのある方は特にご注意願います。
どうぞよろしくお願いします。






Last updated  2020.07.22 23:18:34
2020.01.05
記事の標題にあるテーマについて度々聞かれますので、この際、内容をきちんと整理して皆さんにお伝えしたいと思います。この内容は報告とも言えますが、広い意味での、一種の「内部告発」とも言えます。

まず強調しなければならないことは、理論に関わっている研究者の、約7年半に及ぶ大変な努力によって、理論の論理構造は細部まで徹底的に分析・議論され、何十回もの単独講演や何件もの大きな研究集会で詳細に解説され、また何名もの研究者により(いわゆる「サーベイ」という形で)解説原稿が出版され、特に理論の正しさは何十回、何百回と確認されており、この検証活動によって多数の軽微な記述上の不備等は発見され直ちに修正されているものの、理論の本質的な正しさに関わる問題点は一件も確認されていないということです。

未だにときどき、ネット等で、「理論の正しさはまだ確認されていない」といったような主旨の主張を目にすることがありますが、多数の研究者による、この7年半に及ぶ膨大な時間や労力による壮大な規模の検証活動の中身や重みを鑑みるに、これは甚だしい事実誤認としか言いようがありません。

理論の検証や更なる発展に関わった研究者の中には、様々な国籍、所属大学、年齢、職位等の方が含まれていますが、特に講師(相当)以上の研究者の場合、それなりの研究実績を有していて、数学雑誌の論文の査読を何十件も担当した経験のある方も何名も含まれています。これらの事実だけから考えても、IUTeichの論文が未だに正式に出版されていないことは大変不思議で不自然・不可解・不条理なことであり、実際、多くの理論の関係者はまさにそのような認識でおり、またそのような趣旨の発言を度々口にしています。

​では、実際の論文の査読状況はどうなっているのでしょうか。まず、2012年8月、IUTeichの連続論文4編を某数学雑誌に投稿し、それ以降、査読報告書は一回(=2016年5月=ちょうど論文の投稿から3年8ヶ月程経過した時点)しか受け取っていません。その査読報告書(英語・約5頁)は(公開するつもりはありませんが)IUTeichの連続論文を絶賛した上で、「論文の出版を非常に強く薦める」内容となっています。20件程の誤植等、それまで私や他の関係者が見逃した軽微なミスも指摘されていましたが、それらの指摘には直ぐに対応しました。また、2017年9月に雑誌から論文の完成版(=つまり、ニュアンスとしては、「本番の出版用の最終版」)の提出を求める連絡があり、その後暫くして論文の完成版を提出しました。一方、2016年5月以降、雑誌からは査読報告書のような正式の文書は一件も送られてきません。​2019.01.02​の記事でも強調した通り、歴史的な観点から言っても、

     明示的な記録を残すことは
     非常に本質的に重要なこと

です。数学雑誌による論文の審査の場合、査読報告書は審査の実態(=論文がただ放置されているだけだという状態とどこが違うか等)を確認する上において、殆ど唯一と言ってよい「明示的な記録」ということになります。

私は、これまで約30年間にわたり、著者、査読者、編集委員、編集委員長等、様々な立場、また様々な雑誌での論文の査読に関与した経験がありますが、このように「論文の出版を非常に強く薦める」極めて肯定的な内容の査読報告書が著者に送られ、その後、3年8ヶ月もの間、何の説明等もなく、論文が事実上放置される(のと、著者からすれば区別が付かない)状況に置かれる、といったような事例に遭遇したことがありません。むしろ、以前、編集委員長の立場で、「論文の出版を強く薦める」趣旨の査読報告書を受け取った後、論文が約1年間、事実上放置された状況に対して、それなりの業績のある海外の教授の方からの「怒りの抗議」の手紙(=雑誌の運営状況を厳しく批判する主旨の内容)への対応に追われた経験すらあります。(その場合、論文を担当していた編集委員や査読者との交渉により、数週間で問題を円満に解決することができましたが。)
では、どのような理由によって論文が事実上放置される状況が発生しているのでしょうか。もしも実質的な数学的な問題があるのであれば、その問題を詳細に記述した査読報告書を著者に送るのは通常の数学雑誌の手続きになります。もちろん査読報告書を用意するのに多少の時間は必要になりますが、以前から審査に掛かっている論文であるにも関わらず、査読報告書(=多くの場合は、1~2頁程度、長くても通常は5頁を超えない)を用意するのに3年8ヶ月もの年月が必要であるというのは通常の雑誌の運営状況からして如何にも正当化が困難な話になります。実際、2016年5月の5頁の査読報告書は、論文の投稿から(偶々ですが)ちょうど3年8ヶ月後に私の手元に届きました。これまでの私の経験では、論文の投稿後、想定外に長い(例えば、5年超等)時間が経過している場合、「申し訳ない。後、~ヶ月で査読報告書が出来上がる予定なので、もうしばらくお待ち下さい。」といったような主旨の連絡が雑誌側の関係者から届きますが、IUTeichの論文の場合、雑誌の関係者とこのような話題をしても、数学的な問題、あるいは査読報告書等への言及は一切ありません。

そうすると、IUTeichの論文の査読を巡っては一体何が起きているのでしょうか。海外ではIUTeichについては、数学的には全く出鱈目な内容の指摘による様々な深刻な誤解が発生していて、この誤解については後程詳しく説明したいと思いますが、この手の誤解に対しては雑誌は如何にも不思議で、「学問の健全な発展」という、学問の世界において本来最も優先されるべき観点から言えば、極めて非建設的な立場を取っています。具体的には、雑誌の関係者はこれらの誤解の背後にある数学的に出鱈目な内容については、その数学的な出鱈目さを、査読報告書のような公式の文書という形で確認しない姿勢を取りながらも、実際には(その全体的な態度、物言い等から判断するに)十分に理解し、認識していることは間違いありません。しかしその一方で、誤解の数学的に出鱈目な内容に端を発した、海外の数学界のとある勢力による、私の研究に対する「激しい敵意」については、恐れを成してしまっている(=平たくいうと、「ビビってしまっている」)のでしょうか、毅然とした姿勢を取ることを完全に拒み、事実上、論文を放置し「機能不全もしくは機能停止」のような、如何にも残念(=情けない?)状態に陥っているように見受けられます。具体的には、「何も言えない・何も分からない・何もできない」といったような趣旨の発言をただ連発するだけで、論文を巡っては何がどうかなっているのか、誰にもさっぱり分からない

   底なしの「ブラックホール状態」を
  常態化させ、意味不明な「玉虫色天国」
   をただひたすらに永久的に維持・運営

しようとしているようにしか見受けられません。「中立的」な「玉虫色」の状態を維持することこそ、最も究極的に潔い姿勢である、と言わんばかりの方針で動いている雑誌や大学行政の関係者が相当数いるように見受けられますが、数学の場合、むしろ曖昧な状態を排して

​   なるべく効率よく白黒を付けること
   は数学の精神の基本中の基本であり、
社会的な勢力図に配慮した形の玉虫色の「中立論」は数学の研究には本質的に馴染まないものであります。なお、先ほど言及した誤解の場合、本記事の後半で詳しく解説している通り、効率よく白黒を付けることはそれほど技術的に困難なことではありません。

更にもう一つの重要な側面を指摘しますと、上述のような曖昧な状態を(10年に迫る)長期にわたって「運営」していくことは、様々な場面において学問の健全な発展を根本的に阻害するものであり、私だけでなく、他の関係者、特に周辺の若手研究者の人生(=具体的には、就職や論文の出版等)に重大な影を落とす事態であり、学問の本来あるべき姿には程遠いものであると言わざるを得ません。

ただし、ここで一つ注意しなければならない点ですが、この(本来優先されるべき「学問の健全な発展」という観点からして)余りにも奇妙で非建設的な「ブラックホール状態」の糸を引いている「黒幕」の正体については私は全く情報を持っておりません。つまり、「ブラックホール状態」の発生が、雑誌の関係者の独自の判断によるものなのか、海外の有力者の(何等かの人脈を介した)直接的な圧力によるものなのか、海外の「激しい敵意」に対して文科省官僚や大学の行政関係者が「忖度」をして雑誌に掛けた圧力によるものなのか、無数の可能性が頭が浮かびますが、現時点ではその発生の仕組みの解明には至っておりません。別の言い方をすれば、本記事の冒頭で「一種の内部告発」という表現を用いましたが、その広い意味での告発の対象は「海外の数学界のとある勢力による無意味な数学的な誤解」ということになりますが、より直接的・具体的な意味での告発の対象である「非建設的なブラックホールを発生させている黒幕」の正体は不詳のままであるということになります。

ここまでの話を要約すると、IUTeichの論文を巡っては、本来の数学雑誌による査読・審査のあるべき姿、つまり、学問の健全な発展を最優先に、細かい数学的な内容について査読報告書とそれに対する著者からの返答のやりとりを通して論文の数学的内容の検証を進めるという状態から著しく乖離した奇妙で非建設的な「ブラックホール状態」が長年にわたって続いているということです。

では、この異常な状態を解消し、論文の査読・審査を、

   技術的な数学的な内容のやりとりを
        主体とする

本来の姿に戻すにはどうしたらよいのでしょうか。まず、どの数学論文にも言えることですが、その論文の内容を本格的に技術的に理解し、査読・審査に関わる技術的な資格のある研究者は世界的に見てもかなり限られていて、論文のテーマによっては世界的に見ても数人程しか存在しないといったような場合もそれほど珍しくありません。幸か不幸かは別として、これが現代数学の実態です。論文の内容をきちんと理解する技術的な資格のない研究者に査読を依頼しても、意味のある内容の査読が行なわれないことになるだけです。

IUTeichの場合、「年頭所感 2020」でも言及した通り、関係者の大変な努力によって何名(=その人数は10名に迫る勢いである)もの理論の「習熟者」をこれまで育成することができました。そのような、査読に適任な「習熟者」に査読を依頼すれば、論文の査読は正常な形で実施することが可能であり、かつそれほど時間を要しないはずです。実際、2016年5月に受け取った査読報告書の場合、その書き方(=詳細な技術的な指摘等)からは明らかですが、立派に適任な研究者によって執筆されたものです。

では、何で(論文の学問的内容に対する習熟度からして)適任な研究者による、通常の「正常な形での査読」(=例えば論文の投稿から2016年~2017年頃までの状態)ではだめなのでしょうか。上でも指摘した通り、非建設的な「ブラックホール状態」発生の仕組みや、発生させた「黒幕」の正体については私は何も分かりませんが、何等かの(=場合によっては複雑で「忖度」等を介した間接的な)仕組みによって海外の数学界のとある勢力を「震源地」とする妨害活動によって発生している事態と思われます。その海外の数学界のとある勢力は、(長年にわたるネット上の書き込み・誹謗中傷等からは明らかですが)私や私の研究に対して極めて激しい敵意を持っている人たちです。その激しい敵意の原因については、謎の部分が多く、純然たる感情論や様々な社会的・文化的・政治的背景、といったような非数学的な要因も少なからずあるという印象を強く受けておりますが、一方で、(これまで何度も言及していてかつ以下で詳しく解説する予定の)とある数学的な誤解も大きな要因ではないかと考えています。

誤解そのものの解説に入る前に、一つ注意しておきたい点ですが、理論の正しさを検証する活動と、(他者による)理論に対する誤解を発見し処理する活動は根本的に「業務内容」が違うということです。前者の方は、上でも説明した通り、7年半前から多くの関係者によって精力的に行なわれていて、理論の正しさは既に何十回、何百回と確認されていて、これ以上行なおうとしても、理論の検証すべき箇所が見当たらず空転するのみである、つまり、別の言い方をすれば、既に(というよりだいぶ前から)「飽和状態」にあるということです。一方、「誤解学」と呼んでいる後者の方の活動ですが、

  相手の誤解という肝心な「入力データ」
     =「誤解学の研究対象」
がないと始まらない活動になります。

簡単な喩えになりますが、例えば、黒板に「2+2=4」という式を書いた人物「ヨンさん」がいたとします。その式を遠くから一瞬だけ覗いてみて、式を「2+2=9」という式と誤認した人物「キューさん」がいたとします。キューさんは、ヨンさんが「2+2=9」という式を主張しているという認識から、ヨンさんを、とんでもない間違った式を書いた人物として激しく誹謗中傷するかもしれません。しかし、誹謗中傷だけですと、ヨンさんは対応のしようがありません。つまり、「2+2=4」という式の数学的正しさを何度確認しても、キューさんの誹謗中傷に対しては意味のある対応には全くなりません。ヨンさんが意味のある対応を取るには、キューさんが「2+2=4」という式を

   「2+2=9」という式と誤認している
    のであるという、肝心な入力データ

がないと意味のある対応は取れません。そのような肝心な入力データをヨンさんが入手して初めて意味のある形で「誤解学的な研究」に着手し、誤解の内容の適切な分析によって意味のある形での、キューさんの誤解の「決定的な処理」に当たることができます。ただし、数学的な内容からして適切な誤解学的分析が完成しても、ヨンさんとキューさんを巡る社会的な状況が、回復が困難になる程こじれてしまうと、学問的内容=誤解学的研究の分析結果だけ提示してもどうにもならない場合があります。

IUTeichの場合、2017年末辺りまでは、私や私の研究に対する、海外の数学界のとある勢力によるネット上の激しい誹謗中傷の存在は認識していましたが、その背後にある数学的な内容(=「2+2=9」に対応する肝心な入力データ!)は全くの謎でした。今でも、その「肝心な入力データ」については完璧に把握できているかどうか分かり兼ねるところがありますが、少なくとも2018年の様々な動きによって、初めて「肝心な入力データ」を入手することができました。その「肝心な入力データ」を元に、個別の誤解について分析し、その誤解を決定的に処理するための解説(=誤解の主張のどこがどういうふうに間違っているかという詳細な説明)を2018年に行ないました。

一方で、2019年の夏頃までは個別の誤解への対応が済んでいても、それらの誤解の発生の仕組みはまだ謎のままでした。2019年の夏頃になって誤解学上の大きな決定的な進展として、

​   数々の個別の誤解=「症状」を発生
   する大元の「ウィルス・病原菌」の
        ような誤解
を特定することができました。この「大元誤解の特定」は私のこれまでの誤解学の研究の中でも非常に決定的な、大きな進歩になりました。

さて、以下では、この大元誤解の内容について詳しく解説してみたいと思います。より詳細な技術的な説明は私が書いたIUTeichの解説原稿​​[Alien]​ §3.11 (iv) に書いてあります。特に、​​[Alien]​​のExample 3.11.4は事実上、高校数学程度の知識でも理解可能な形で書かれていますので、関心のある読者の方には一読をお勧めしたいと思います。以下の説明は、まさにこの​[Alien]​のExample 3.11.4の内容の、ブログ読者向け解説ということになります。

一言で言ってしまいますと、「大元誤解」の本質は、よく知られている論理演算子

   「∧」(=「AND」=「かつ」)と 
   「∨」(=「OR」=「または」)

の混乱によるものです。これらの論理演算子の意味を簡単に復習しますと、二つの命題「P」と「Q」がありますと、

        「P ∧ Q」

は命題「P」と「Q」の両方が同時に成立していることを意味するのに対し、

        「P ∨ Q」

は命題「P」と「Q」の、少なくともどちらか一方が成立しているけど、両方同時に成立しているかどうかについては言及しない(=特に、両方同時に成立していることは言えない可能性もある)ことを意味します。一般に、「P ∧ Q」より「P ∨ Q」は直ちに従いますが、逆、つまり、「P ∨ Q」より「P ∧ Q」が従うとは限りません。別の言い方をしますと、「P ∧ Q」は(相対的には)かなり強い主張をしていることになるのに対し、「P ∨ Q」の方は(相対的には)やや弱い主張をしていることになります。具体的な例は無数にありますが、例えば、ある人物「X」について

   「Xの誕生日は1月1日」∧
        「Xの誕生日は2月2日」

という主張は、かなり強い、矛盾めいた(=「びっくり!」な)内容の主張になりますが、一方で、

   「Xの誕生日は1月1日」∨
        「Xの誕生日は2月2日」

は全く驚きや不思議さのない、淡々とした調子の内容の主張になります。またもう一つの注目すべき点として、もし「Y」という、「X」とは別の人物がいたとすると、

   「Xの誕生日は1月1日」∧
        「Yの誕生日は2月2日」

という主張は、「∧」が出てくるような形をしていても、矛盾めいた驚きのある内容が一切含まれていない主張になります。

さて、IUTeichに対する「大元誤解」の話に戻りましょう。まず、議論の中心的な対象となる4つの整数

        A, B, ε, N

の記号を用意しておきます。これらの整数について、次のような不等式が成立していると仮定します:

      A>0, B>0, 3>ε≧0 .

IUTeichでは、以前のブログ記事(=​2017.01.06​, ​2017.05.06​, ​2017.11.14​付けの記事を参照)でも解説した通り、「Θ(テータ)リンク」という数学的対象は中心的な役割を果たします。実際のΘリンクの定義は非常に高度な数学の知識を必要とするものですが、ここでは上述の「大元誤解」の本質的な論理構造を解説するため、先ほどの4つの整数しか出てこない、高校数学レベルの議論で説明することにしたいと思います。そのようにしますと、Θリンクの定義に対応するものは

       
 (N=-2B) ∧ (N=-A)

という式になります。理論では、Θリンクから出発して様々な操作を行ない、(Θパイロットと呼ばれる数学的対象の)「マルチラディアル表示」というものを構成します。その「マルチラディアル表示」に対応する内容をこちらの議論の整数で表現しますと、

       (N=-2A+ε) ∧ (N=-A)

という式になります。つまり、「ε」という、比較的小さい「誤差」を認めてあげますと、本来一致するかどうか分からない整数 A と B を、まるで一致するものかのように扱うことができるということです。この「マルチラディアル表示」の内容を書き下してみると、まさに同一の整数 A に対して、論理演算子「∧」が成立していることによって、

    -2A+ε=-A, つまり、A=ε< 3

という式変形が可能になり、この議論の最終的な結論となる「A<3」という不等式が簡単に、形式的に従ってしまいます。

​先ほどの議論で注目したいことは、

       論理演算子「∧」が
      果たした本質的な役割

です。元々のΘリンクの定義における「∧」は、一致するとは限らない整数 A と B を用いたからこそ、整合性(=「無矛盾性」)をもって定義することができました。これは先ほどの「Xの誕生日...」∧「Yの誕生日...」と全く同じ現象です。元々のΘリンクの定義が「∧」によるものであるこそ、その肝心な「∧」性を壊さないような操作によって行なわれる「マルチラディアル表示」の構成は「∧」性を引き継ぐことになります。また「マルチラディアル表示」において「∧」性が成立しているからこそ、議論の最終的な結論となる「A<3」という不等式が簡単に、形式的に従ってしまうのです。

​一方で、(ここから先が、先ほどの喩えの「2+2=9」に対応する「大元誤解」の内容になりますが)例えば、元々のΘリンクが、何かの理由によって

      (N=-2B) ∨ (N=-A)

として認識(=誤認!)されたとします。すると、まず、整数 A と B が、一致するとは限らないものであることを仮定することには全く意味がない、つまり、最初から「A=B」ということにしても、整合性(=「無矛盾性」)の問題は全く発生しないのではないかと考えてしまいます。これは先ほどの「Xの誕生日...」∨「Xの誕生日...」と全く同じ現象です。しかし、最初から「A=B」ということにして、Θリンクの定義も

         
(N=-2A) ∨ (N=-A)

ということにすると、「マルチラディアル表示」に移行する際、(「∧」ではなく!!)「∨」を引き継ぐことになり、つまり、

      (N=-2A+ε) ∨ (N=-A)

という恰好の「∨版マルチラディアル表示」しか従わないことになってしまいます。このように考えると、実際の「マルチラディアル表示」に登場する、肝心な「∧」性を壊さないための数々の丁寧な細かい操作は全く無意味なもののように見えてしまいます。その上、最初から「A=B」ということにしてもよい状況の下で議論しているからこそ、そもそも「∨版マルチラディアル表示」(=「ε」という誤差を認めることによって本来一致するかどうか分からない整数 A と B をまるで一致するものかのように扱うことを可能にする表示)は全く無意味なものであるようにしか見えません。一方で、このように、「∨」、「∨」、「∨」で議論していると、議論の最終的な結論となる「A<3」という不等式を発生する式

        -2A+ε=-A

は、まるでΘリンクや「マルチラディアル表示」の「∨版」に登場する

   「∨」が、とんでもない「詐欺的な
   論法」によって「∧」に勝手にすり
   替えられたことによって導かれた

ようにしか見えません。ここでは、高級な数学的対象を用いる代わりに高校数学レベルの整数を扱う式を使って解説しましたが、上述の議論のように、本来のIUTeichの

​​    論理構造の根幹を成している
     「∧」、「∧」、「∧」が、
     「∨」、「∨」、「∨」と
​    誤認されてしまった​ことが、
​​
(=上述の「大元誤解」)この7年半程続いたIUTeichを巡る(海外の数学界を震源地とする)大きな混乱(=つまり、理論がとんでもない「詐欺的な論法」の上に成り立っているとの誤解等)の真相であると考えています。

当たり前ですが、もちろん、海外の(理論を理解していない)数学者が理論を批判する際、

   『自分たちは「∧」を「∨」と誤認
    しているため、数々の数学的に
    出鱈目な主張をしていますよ!』

ということを、ご丁寧に伝達してくれるのではなく、ただ凄い勢いで数学的に出鱈目な主張を並べていくだけなので、個々の個別の誤解(=正しくない数学的な主張)を発生している「大元誤解」を特定するという、誤解学的な分析には1年半程の時間を要しました。

では、そもそも何で「∧」は「∨」と誤認されてしまったのでしょうか。IUTeichの連続論文では、「P ∧ Q」のような形の内容の「∧」性に対応する部分は、

  「PとQを同時的に」、「Qを固定
   した上でPを」、あるいは「Pと
   Qを、その共通部分に沿って貼り
   合わせる」

といったような表現で記述していますが、これらの表現はどう考えても、通常の数学的な(「デフォルト」の)解釈ですと、「∧」という捉え方しかあり得ないと思います。実際、これまで交流してきた「理論の習熟者」の多く(=特に、日本語で口頭で議論した研究者たち)はこれらの表現を問題なく最初から「∧」の意味で捉えています。また、この「大元誤解」(=つまり、「∧」は「∨」と誤認されてしまっている)の話を聞かされたとき、多数の関係者によるIUTeichの解説において様々な形で「∧」性が昔(=10年程前)から表現され強調されているにも関わらず、このような根本的な誤解がここまでおおごとになることに呆れ不思議がる習熟者も少なくありません。

では、上のような「∧」性の記述に用いた表現は何で多くの(特に海外の)研究者によって誤解されたのでしょうか。これまで接してきた、誤解した人たちの数々の発言から推測するしかないですが、そのような人たちがよく強調しがちなことは、

  「理論が複雑過ぎるから、思い切って
   簡略化したい」

あるいは

  「理論を以前からよく知っている枠組
   ・考え方で捉えられるはずだから、
   そのように捉えることにしたい」

といったような考えです。そのような考えに則った思考回路の持ち主ですと、

  「とりあえず、馴染み深い枠組・考え
   方に沿った理論として捉えられるよう
   に、A=Bということにしてしまっても
   特に問題はないだろう」

(記号は先ほどの高校数学レベルの議論の記号)という、数学的な根拠が全くない主張=一種の「希望的観測」が先行して、その希望的観測を正当化するためのものとして

  『理論の細かいことは面倒くさいし、
   余り読んでいないけど、どうせ要は、
   「∨」、「∨」、「∨」と来て、最後
   の不等式を導くところで「詐欺的な
   論法」で「∨」を勝手に「∧」にすり
   替えているだけだろう』

といったような感覚が、ほぼ無意識・無自覚のうちに後から付随してくるのです。

ただし、この文脈においてもう一つ強調したいことは、数学の研究者の議論において上で解説したような「∧・∨」の誤解は(幸か不幸かは別として)まさに日常茶飯事といって差し支えありません。通常の状況ですと、正常な、建設的な空気の下で議論が行なわれ、このような誤解は効率よく分析・整理され、多くの場合、(年単位の時間どころか!)数分のうちに処理できてしまうのです。実際、IUTeichにおけるこの「∧・∨」の誤解も、これまで(国内外の)研究者との議論において、まさしく数分~長くて数週間のうちに、非常に効率よく処理することに私は何度も成功しております。

最後に、本記事の内容を簡単に総括したいと思いますが、総括するに当たって

​   「恐れるべきものは恐れ自体のみ」
という有名な格言が頭に浮かびます。例えば、五百年や千年後の知識人から見て、IUTeichを巡る大きな世界的な混乱は歴史の一幕としてどのように総括されるのだろう、ときどき考えることがあります(このような考え方は​2019.01.02​付けの記事にも登場します)。そのような歴史的な視点に立って状況を俯瞰すると、まず、純粋に数学的な内容の面では、先ほど詳しく解説した

       「∧・∨」の誤解

こそが混乱の本質的な原因であることが言えるかと思います。しかし、先ほど指摘した通り、数学の研究者の議論においてこのような誤解はまさに日常茶飯事であることも紛れもない事実であり、正常な、建設的な議論が行なえるような空気さえ確保されていれば、このような誤解は数分~長くて数週間のうちに非常に効率よく処理できてしまうのです。つまり、本記事の標題の「ブラックホール」の話に戻りますと、本来なら

  淡々とした技術的な数学的な議論を主体

としているはずの、論文の審査や数学の研究者の議論の場ですが、

  ・正常な、建設的な数学的な議論を
   行なっている研究者をトンデモ系
   の「狂った異端者」として描き、

その上、

  ・威圧的な政治的な空気や恐怖を撒き
   散らし、また場合によってはネット
   上の誹謗中傷で威圧的な空気や恐怖
   を拡散させ、

更に、

  ・その恐怖の文化という虚構に対して
   「忖度」や萎縮の塊と化して跪き、
   機能不全・機能停止に陥ってしまう
   関係者を究極的に潔い人格者として
   持ち上げる

といった要素・「症状」からなる文化的風潮こそが、論文の審査や数学の研究者の議論を機能不全・機能停止に追い込んでいる「真犯人」=IUTeichを巡る世界的な混乱の本質・真相と言い切ってよいのではないでしょうか。






Last updated  2020.01.09 23:23:00
2020.01.01
カテゴリ:年頭所感
読者の皆様、

新年あけましておめでとうございます。

新しいブログ記事の掲載は年始のみ、というパターンは残念ながら当分は続きそうです。年末年始と言えば、年賀状の季節ですが、まさに読者の皆さんへの年賀状のような気持ちで書いているところがあります。

2020年度、数理研では、宇宙際タイヒミューラー理論を中心的なテーマとした「訪問滞在型研究」=通称「プロジェクト」(英語で説明するときは「スペシャル・イヤー」と呼ぶこともあります)が予定されており、4件の大きな集会と、多数の海外からの訪問者により、以前にも増して多忙を極める一年になりそうです。これまでは関係者の大変な努力によって宇宙際タイヒミューラー理論の習熟者を一人ずつ育ててきており、その数も10名に迫る勢いですが、今年はこれまで蓄積された知恵や、「よくある誤解」を効率よく処理する技術を総動員して、そのような習熟者を量産できる体制を確立していきたいと考えています。

昨年3月に50歳代に突入してしまいましたが、今年は50歳代らしい充実した活動ぶりを発揮できる一年にすることを目指しますので、どうぞよろしくお願い致します。






Last updated  2021.01.02 03:01:17
2019.01.02
2018年を振り返ると、海外を発信源とする、出鱈目な内容の残念な雑音に振り回された年になってしまったな、というのが正直な感想です。

そのような出鱈目な内容の残念な雑音に接した場合、毅然とした姿勢で対応することの重要性を改めて認識させられる年にもなりました。

更に、そのような状況に遭遇したとき、毅然とした姿勢で対応することを可とせず、「おこがましい」とか、「僭越だ」、「傲慢だ」といったような批判を浴びせたり、何とか工夫してごまかしたり、(事実関係からして頓珍漢な)玉虫色の絵を描こうとしたりする等、いわゆる「事なかれ主義」的な対応こそを最も「潔い」対応の形態とする、実に残念な文化が国内外を問わず人類社会に深く根を下ろしているという実態を、改めてまざまざと見せ付けられたような思いをしました。

以前の記事(=2017-11-21付け)でも、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することの重要性に言及しましたが、より大局的な視座から考えても、

   議論全体の健全な形での進行・発展

を図る上においても、毅然とした姿勢で対応することは議論に直接関わっている関係者全員のみならず、後世の利益にも最も適った形の対応になります。

関連した指摘になりますが、昨年(=2018年)は大航海時代の地動説や、20世紀前半の相対性理論を巡る、(それぞれの)当時の激しい議論について初めてネット等で調べ、そのような激しい議論のような状況において、

 関係者全員の主張(やその主張の背後にある
 論理構造)の詳細かつ明示的で、(特に後世
 の)一般人でもアクセス可能な

        記録を残す

ことの歴史的重要性を強く印象付けられました。このような歴史的な観点から考えても、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で「ノー」を発信することは至って重要なことです。

最後に、もう一つ、このような文脈で2018年に強く感じたことを記録しますと、大学の将来計画等の様々な書類において

      「世界をリードする」

という文言をよく目にしますが、(私の印象では)多くの場合には、この表現は非常に不適切な、「履き違えた」ような意味で用いられています。つまり、以前の記事(=2017-11-21付け)でも言及した通り、このような表現を用いる多くの大学関係者は、

 「世界をリードする」=即ち、欧米の主流や
  流行りを日本でもいち早く導入し(言い
  換えれば、いち早く「ダウンロードして
  インストール」し)、その欧米の主流や
  流行りに対して精一杯、究極的な「イエス」
  を発信することこそが「世界をリードする」
  ことである

というような考えの下で表現を用いているような印象を強く受けています。しかし、上で述べた通り、(欧米に限らず)時代の主流や流行りに対して、「ノー」と言うべきときには、明確かつ毅然とした姿勢で

  「ノー」を発信できる文化を育むこと
  こそ、数学を始め、学問の原点でも
  あり、また(数学を始めとする)学問
  の真の発展を実現する出発点でもある

というのが、私の理解です。






Last updated  2019.01.04 03:27:41
カテゴリ:年頭所感
ブログ読者の皆様、明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

最近は忙し過ぎて、ブログを更新する時間も、テレビを見る時間もなかなかとれませんが、読者の皆様に発信したい考えや感想が大量にあるという状況は以前と全く変わりませんので、今年は仕事の多忙とブログ更新が両立するような、ブログの新しい活用の仕方を模索していきたいと考えております。






Last updated  2021.01.02 03:01:34
2018.01.04
去年とは書き方が多少違いますが、今回の「紅白」で気になった出演者や話題に関する感想を書きたいと思います:


欅坂46:今回の欅坂は去年と違って私にとっては初めてではなかったので去年のような衝撃はなかったのですが、今回のステージの「不協和音」という曲の歌詞で取り上げられているテーマは本ブログで度々取り上げているテーマと方向性が似ているなと改めて感じました。

パフューム:ちょうど一年前のドラマ・シーズンの「東京タラレバ娘」の主題歌ということもあって(「逃げ恥」のように特にそれほど深く感動したドラマというわけではありませんが)ドラマを懐かしく思い出しながら今回のステージを視聴しました。後、YouTubeのビデオは以前見たことがあったのですが、渋谷の高層ビルの屋上でそのようなステージを行なうと、迫力あるなと思いました。

松田聖子さん:松田聖子さんと言えば、私の場合、第一に頭に浮かぶのは約35年前流行っていた「秘密の花園」と、後、(同じころの)ドリフターズでの志村けんとの共演でしょうか。いずれにしても、ここ何年の「紅白」ではどちらかと言えば、(精一杯頑張っていらっしゃるかもしれませんが)かつてのような輝きやオーラが結構薄れてきたなというような印象でしたが、今回、余りにも鮮烈な形で若返ったように見えたのでちょっとびっくりしました。総司会の内村さんも、そのことにわざわざ注目を集めるようなコメントをしたので、もしかして何か特別なことでもあったのかなと思いました。

アニメ100周年:2017年がそうだったとは知りませんでした。次々と出てきた歴代の名アニメの画像の中に、子供の頃(=1970年代前半)大好きだった科学忍者ガッチャマンの画像も含まれていたので印象に残りました。数年前、当時(=1970年代前半)のビデオがネット上で公開されていることを偶々知って、ネットで調べたところ、(少し時間は掛かりましたが)無数のガッチャマンのヴァージョンの中から自分が見ていたヴァージョンのビデオを何とか探し当て、(もう少しで半世紀前(!)になりますが)私のおぼろげな記憶と全く変わらない主題歌を懐かしく聞いたりしながら再生しました。

福山雅治さん、黒柳徹子さん、郷ひろみさん:福山さんの年齢は私と殆ど変りませんが、一方で、黒柳徹子さんや郷ひろみさんは子供の頃から認識している「テレビのキャラクター」で、子供の私から見てやはり「大人」の代表格のような人たちでした。この二人については特に「ファン」のような気持ちがあったわけではなく、単に「あー、そう言えば、そういう人たちもいましたね」というようなレベルの関心しかなかったのです。でも、今になってみれば、現在のようなご年齢でこれほどもお元気でご活躍されているということは(私自身、体の衰えを感じ始める年齢層に入ったということもあって)本当に凄いなと思いました。後、黒柳さんと福山さんの小学生時代の話を聞いて、(小学校と大学院はもちろんレベルが全然違うわけですが)同じ教育者としての共感を覚え、また現在、私の周辺にいて、様々な問題を抱えながら奮闘している若い人たちに対して自分が(一教員=教育者として)どのように接したらよいか、考える上で参考になる話だなとも思いました。

乃木坂46:「インフルエンサー」という、(うっかりすると、「インフルエンザ」と誤入力してしまいそうな曲名の)曲で大きな賞をとったということで少し注目してみました。去年の「サイマジョ」と違って、個人的には特に感動するような曲ではありませんでしたが、

  「重力」、「引力」、「自転と公転」、
  「離れていたって働き掛けるその力」、
   「存在するだけで影響与えてる」

等、様々な数学的な概念を、踊り・音楽・歌を通して非常に鮮やかに表現できていたことに関心を持ちました。その点では、2017-01-06付けの記事で取り上げた「サイマジョ」と宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)との対応と比較すると、数学的概念の内容は全然違うわけですが、

     踊り・音楽・歌を通して
   難しい数学的な概念を表現している

というところに、以前の記事の比較との類似点があり、このような側面に関心を抱いた背景にある考察について以下ではもう少し詳しく解説してみたいと思います。


まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう

    データ(=「0」と「1」の列)の
         長さは有限

であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても)

     有限通りの可能性しかない

ということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。

要約すると、

 (*)数学は上記のようなデータ(=PDF,
    JPG, MP3, MP4等)によって、如何
    なる情報の損失も生じることなく(=
    数学用語でいうと、

     数学 ↦ 上記のようなデータ

     という対応は単射になる)、完全に
    記録可能である

という仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、

    数学完全に有限なゲームである

という結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、

  「全ての数学」は、とある有限的な計算

に帰着可能であるということになります。

上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、

    (**)人間の脳に体験可能
     「認識の状態」有限通り
     
しかない

という仮定の下で考えると、

   少なくとも「認識状態歴」のレベルで
   見ると、人類に経験可能な人生は高々
   有限通りしかない

という結論になってしまいます。

もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、

        有限か無限か?

という定性的な性質が一番気になる点になります。

一方、通常の人間的な感覚から言っても、

    「人類に経験可能な人生は高々
       有限通りしかない」、

つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

  一度全部計算して列挙しておけば、人間
  は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら
  生きていく意味がない

等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。

数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)

    一度全部計算して列挙しておけば、
    数学者は「わざわざ」様々な苦労
    に耐えながら数学の研究を行なう
    ことに意味がない

といったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。

そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった

    上記の(*)や(**)のような
    「有限性仮説」は果たして正しい
    のだろうか、

ということが気になります。

特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが)

    どうも正しくないのではないか、 

つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに

     「抜け落ちている情報」が
       あるのではないか、

と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、

   その「抜け落ちている情報」が忠実に
   表現されている可能性があるように感
   じる別系統の媒体=例えば、
   ・2017-01-06付けの記事で取り
    上げた「サイマジョ」、
   ・2017-11の二つの記事で取り上げた
    「芸術」や「バベルの塔の説話」、
   ・今回の記事で取り上げた
    「インフルエンサー」

の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。

ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、

   何故に同一のPDFファイル等のデータ
   を入手しているにも拘わらず、ある
   数学者にはそのデータに記録されて
   いることになっている数学が比較的
   容易に伝わっているのに、別の(同一
   の専門分野のはずの)数学者には同じ
   データに記録されているはずの数学
   がいつまで経っても伝わらないか

という、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。






Last updated  2018.01.04 16:45:39
2018.01.01
カテゴリ:年頭所感
読者の皆様、明けましておめでとうございます。

昨年の年末は本ブログの閲覧件数が急増し約30倍に(!)になり、また読者の方からのコメントやメールも沢山いただきました。本ブログを通して私の人生を温かく見守って下さる読者の方には感謝の気持ちでいっぱいです。

ブログ記事で取り上げたいテーマがどんどん溜まっていく一方で、忙しさに益々拍車が掛かる、そんな生活がここのところずっと続いておりますが、本年もブログの更新を頑張りますのでどうぞよろしくお願い致します。

今年は(昨年と違って)やはり多忙のため、お正月番組関連の記事はちょっと厳しいかもしれません。






Last updated  2021.01.02 03:01:56
2017.11.21
まず、先日(=2017-11-14付け)の記事の幾つかの要点を復習したいと思います:

・異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要です。この考え方や関連したテーマの考察を以下では「心壁論(こころ(ある)かべろん)」と呼ぶことにします。

・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。

・以前から感じていることの一つですが、古くから伝わる物語や、芸術作品等、様々な文化遺産は実は、現代数学で用いられるような定式化の技術がなかった人たちが、直観的に感じ取っていた何らかの数学的な原理を表現し、記述するために創作したものではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の物語では、まさに異なる民族や言語圏の人たちの間に本来存在する「壁」を無理に廃止し、一つの「組織」に纏めようとしても、複雑度の爆発によってその組織が必然的に空中分解し、バラバラになる状況が描かれています。

「バベルの塔」の物語に対応する現代数学の原理と言えば、「​ラッセルのパラドックス​」が頭に浮かびます。ラッセルという数学者は実際、様々な場面において人と人の間に本来存在する様々な種類の「壁」=「プライバシー」を取っ払うことに対して強い拘りを持っていたようです。

・一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=「IUTeich」)では、特定の対象(=「フロベニウス的」な対象)が通り抜けることができない「壁」を設定することも重要ですが、その「壁」を通り抜ける力のある「心」(=「エタール的」な対象)を活用することによって非自明な帰結=定理を証明することができることも重要なポイントです。この、定理を証明するという、言ってみれば、とてもめでたい「ハッピーエンド」がIUTeichにおいて実現できることは、(「空中分解・離散」や「矛盾」のような)悲しい結末が描かれるバベルの塔の物語やラッセルのパラドックスと決定的に違います。実際、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによってラッセルのパラドックスに出てくるような矛盾的な状況を、矛盾を生じることなく「シミュレート」=「仮想的に実現」しているという見方ができます。言い換えれば、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによって、バベルの塔の物語やラッセルのパラドックスで描かれている状況に対して、これまでになかった種類の「成功例」を抽象的な数学的な理論の中で初めて実現しているという見方もできます。

・先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りでは「Cドライブ・Dドライブ」に関する話が出てきます。一見すると、「心壁論」とは直接関係のない話のようにも見えるかもしれませんが、OSが収容されるCドライブと、データの保管用のDドライブの間にあるものはまさに一種の「壁」であり、パソコン全体の動作に必要なCドライブとDドライブの間のデータのやりとりが適切な形で行なわれる仕組みはまさに(「心壁論」における)「心」に対応するものと見ることができます。

・以前(=2017-05-06付け)の記事との関連性について少し解説してみますと、その記事では不適切な評価基準・「物差し」によって様々な社会的な損失が、不必要かつ大量に生じてしまっている社会的状況について論じましたが、このような不適切な評価基準・「物差し」は、(上記の「バベルの塔」・「心壁論」関連の「用語」で言うと)

   まさに心ならずも発生してしまった
   複雑度の爆発を何とか抑制し、簡明
   な
「線型的」な秩序を確立するため
   の(不適切かつ極めて非建設的な!)
   措置として講じられる

ことが、一つのありがちなパターンの社会的力学として、人類社会では古代から定着しています。

今回の記事では、上で復習した「心壁論」の延長線上にある、幾つかの補足的な観察や具体的な事例について考えてみたいと思います。

先日(=2017-11-14付け)の記事では、米国や英語に関連した「心壁論」も展開していますが、だいぶ前(=2017-01-04付け)の記事で言及した水村美苗さんの「私小説」でも、米国の社会についてまさにバベルの塔のように、「複雑度の爆発」によって様々な深刻な不具合が発生している状況が描かれています。後、この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、それにも拘わらず、

 (*) 言いたいことが山のようにあって、
  しかも、それを何としても日本語で表現
  
しないと気が済まない

ということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは実に興味深いように思いました。この点では、非常に格調の高いイギリス英語で文学活動を行なうことに対する拘りが目立つ、最近話題の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏と比較すると、かなり根源的な人間性の違いを感じます。イシグロ氏は私と同じ5歳のときに初めて英語圏で暮らすようになったわけですが、私の場合、(一般の日本人等と比較して)語学力の問題がなくても、米国の学校での科目としての英語や米英文学の授業がいつもとても苦手で、自分にとっては「天敵」のような存在として認識していました。(ただし、誤解がないように書いておきますと、サボっていたわけではなく、いつも頑張ってよい成績をとっていました。)別の言い方をすると、自分の子供のときの様々な経験を思い出すと、(お互い、置かれていた状況が違っていたかもしれませんし、安易な比較をしてしまうと、様々な問題点を指摘されそうですが)イシグロ氏のように英文学に対して憧れの念を抱きながら育つという精神状態・精神構造に対しては非常に強い違和感を覚えますし、全く理解できません。私の感覚では

 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」
 のように、英語圏の文化や世界観を反映した、
 著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」

が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、

  無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」
  を抱えた自然言語に過ぎない

       「英語」を忘れて

  数学的な内容の

        論理構造
      「組合せ論的整理術」

  (=議論や解説を細かく分割してその部分
  部分を最適な順番に並び替えたりすること)

に集中することの本質的な重要性です。つまり、このような作業の指導をする際のありがちなパターンですが、複雑な議論を上手く表現できなくて可笑しな意味不明な文章を書いたとき、学生は自分の語学力が不十分であることに原因があると訴えて、悲鳴を上げたりしますけれども、意外に思われるかもしれませんが、意味が通じる論理的な議論を書く上での本当の勝負どころは、語学力にあるのではなく、むしろ、英語を完全に忘れた精神状態で、表現しようとしている論理構造を適切に分析して分割し、議論の論理構造が追いやすい順番に並べて最適な仕組みで整理することにあるのです。その(英語とは本質的に無関係な!)作業さえきちんとできていれば、(数学の場合)数学記号や、比較的簡単な、決まったパターンの英語の表現を使うだけで、立派な文章を作文することが十分に可能なのです。しかも、論理構造が透明な、理路整然とした議論さえ書けていれば、偶に定冠詞・不定冠詞、あるいは単数形・複数形のミスがあったりしても、英語圏の読者から見てもそれほど理解の障害にはならないのです。先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りで展開した「Cドライブ・Dドライブ」の観点で説明すると、学生だけでなく、多くの日本人は

 英語を勢いよく自分の脳の「Cドライブ」に
 詰め込むことこそが「幸せへの究極的な近道」
 と誤解しがち

ですが、私の無数の経験から言わせてもらいますと、

 英語を自分の脳の「Cドライブ」に詰め込む
 ことは実際にはむしろ、大変に危険であり、
 むしろ「不幸への暴走特急」

にしかなりません。つまり、

 脳の「Cドライブ」に最優先で搭載すべきOS
 はむしろ、ことの論理構造を見極め、その論理
 構造を上手く分割したり整理したりするための
 「組合せ論的整理術」を効率よく実行する仕様
 のOS

なんです。
  
上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、

ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、
古代ギリシャ語には不定冠詞がない、
・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない

等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、

 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の
 ような現代のヨーロッパの言語が日本語と
 繋がっている世界を発掘できるかもしれない

といったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。

なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、

      一神教・多神教との関係

です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である

         基点宇宙

あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である

          座標系

というものとも密接な関係にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、

   「たった一つの神しか存在しない」

ことになっているのに対応するように、

  「たった一つの、がっちり決まった物事
   の考え方=座標系=基点=`心の基軸’」

の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、

    言語空間で許容されている表現
    のイメージの、一つのがっちり
    決まった「座標系」

と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように

   許容される表現のイメージ全体に一つ
   の固定された「座標系」を敷き、表現
   のイメージ全体を通して

      同一の「座標系」=「視点」
     =「声」=「神」=「心の基軸」


   しか認めないという姿勢を徹底する
   ことにはどうしても強い違和感を覚える

ため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。

子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、

      古代ギリシャやローマ
     (「日本と同じ」)多神教

に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。

一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における

  「対米(あるいは場合によっては対欧米
    従属の文化

という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。

私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、

    「日本人の心の中の米軍基地

とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。

この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには

      「ノーと言える人間」

になりたいなと強く思ったことを覚えています。

ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、

   数学=人類の認識の仕組みの論理構造
   の解明はまさに、「ノー」と言うべき
   ときに断固たる「ノー」を突き付ける
   ための、一種の究極的な技術・手段

であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、

   (過去あるいは現在の)欧米の数学界
   のエリートに対して、憧れの念を極める
   =諸手を挙げて究極的な「イエス」
   発信することこそが「数学」である

かのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ

  そのようなエリートのような相手に対して
  は、「ノー」と言うべきときに断固たる
  「ノー」を、数学を通して突き付けること
  こそが、数学の本来の精神であり、数学が
  果たすべき役割である

ということです。

また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは

   長期的には、日本のみならず、欧米を
   含めた人類全体にとって最も健全
   建設的な道

になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。

最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、

  人類にとって最も究極的な「武器」
  やはり核兵器や化学・生物兵器等では
  なく、物事や仕組みの本質的な論理構造
  を研究し、明らかにすること、つまり、
  一種の広い意味での「数学」

ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!)

   世界の大国の権力構造を支えている
   論理構造正確に解明し、その盲点を
   突く技術が非常に高度に発達している

ことにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。






Last updated  2017.11.27 16:22:13
2017.11.14
先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。

私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、

    何で旅行や国際交流が苦手か?

と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。

先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」

 『どうも日本の人は「自分がアジア人で
  ある」ことがピンとこないらしいのね。
  不思議』

に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。

私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる

        「精神世界」

が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、

  「国境・国籍を放棄する
    =その人を自分と同じ国の人に思う」

あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、

   「その人を(自分から見て)‘外国人
    =異邦人’と呼ぶ(=として扱う)
    権利・権限を放棄する」

ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、

    「どうしても譲れない一線」

であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。

また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、

   「ザ東洋人男性」(=例えば
         「チン」という名前の)

というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。

つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。

少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります:

  そのような方は人類の様々な既存の文化を
  堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、
  整理し、演出する)

ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ

 既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」
 として認識し)なるべく自らの個人的な世界
 から排除し、自力で新しい文化の流れを自ら
 の手で創作する

ことに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。

再び

    何で旅行や国際交流が苦手か?

という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の

       「費用対効果」

(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。

例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。

一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも

  遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、
    私は自分の心の中で旅している

(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。

更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても、

  異国の人間を取り巻く状況や精神世界は
  単純な「データ」・「抽象的な論理体系」
  として扱うという立場で考えても、複雑
  度の「爆発」が圧倒的すぎて

      人類の脳の処理能力

  を遥かに超過してしまっているため、相手
  のことを、

       極めて低い解像度

  でしか認識・理解することができません。

一方、相手に対する

        「認識解像度」

が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、

 人間らしい社会生活が本質的に成り立たなく

なってしまいます。

つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する

     人類の脳の処理能力の限界

にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には

             一種の数学の問題

であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)

更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくる

              バベルの塔

の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「​バベルの塔」​の展覧会が開かれたりして話題になっています。​百科事典​等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします:

 「この物語は,民族と言語の多様性を説明する
  と同時に、神と等しくなろうとする人間の罪
  を描いている。」

誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、

  多くの芸術作品や文学にしても、古代から
  伝わる神話や物語にしても、人間が直観的
  
なレベルにおいて実質的に感じ取った

      一種の数学的な原理

  を(現代数学で用いられるような定式化の
  技術がなかったために)何とか後世に伝達
  できるように表現し、記述するための手段
  として創り出されたものが多いのではない
  でしょうか。

つまり、そのような様々な文化遺産は、

    一種の「数学的な予想」の宝庫

として捉えることが出来るのではないしょうか。

例えば、「バベルの塔」の場合ですと、

 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、
 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして
 も、それは本質的に数学的に不可能であり
 (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し
 ない)、どんなに努力して回避しようとして
 も民族・言語の多様性は必然的に発生する
 ものである

という、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。

この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「​ラッセルのパラドックス​」、つまり、

 「自分自身を元として含むような集合、例え
  ば、全ての集合をその元として含むような
  集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると
  仮定すると矛盾が生じる」

で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「​結婚論​」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。

一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない

            「壁」を設定する

ことが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その

     壁の向こう側に通用する=
       通り抜けることができる

特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。

このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、

 国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」
 =「プライバシー」が破綻しすぎていたため、
 そのようなものの間の

      「壁」に飢えている

 体質の生き物として育ってしまいました。

私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、

 米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」

ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)

ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの=

  長期的な、安定的な平和を大切にする、
   全体的に友好的で開かれた姿勢、

あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、

 「お互い様」、「お世話様」といったような
 視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある)
 豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の
 下で運用
されるを目指す姿勢

も本質的に重要であることを見失ってはいけません。

最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   「ただのデータ」の保管用に用意され
   ている)Dドライブ

に、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、

   (多くのウィンドーズパソコンでは
   オペレーティングシステム(OS)
   収容されている)Cドライブ

に取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。

つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。

旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。






Last updated  2017.11.16 04:15:47

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