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2017.05.06
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昨年秋、放送されていた当時、(恥ずかしながら(?)、私も含め)皆あんなに「熱狂的に」盛り上がっていたのに、いつの間にか忘れ去られ掛けている感のある、ドラマ「逃げ恥」。私も今年に入ってからは何度か主演の新垣結衣さんが賞(=コンフィデンスドラマ賞+日刊スポーツ・ドラマグランプリ賞)を受賞したという報道や、YouTubeの関連動画の広告に接したりして偶に懐かしく思い出す程度です。以前(=2017-01-04付けの記事)から予告している通り、このドラマの感想について(本当は感想の「テーマ」が多すぎるので)少しずつ整理しながら書きたいと思います。

今の時代の日本の社会を見渡すと、みんな「身を粉にして」せっせと働いているのに、全体的に余り豊かさを実感できない状況の下で生活している、というような趣旨の「暗い」報道(=「ブラック企業」や過労死から結婚・出生率の低下、待機児童の問題、子供の貧困、若者の就職難等)が非常に多いように感じます。一方、そのような「俯瞰的な」、「マクロ」の視点ではなく、個人個人の「ミクロ」のレベルで社会(=特に自分の普段の生活の中で接する人間)を観察していると、(場合によっては)逆にこの国の人的資源の豊かさに寧ろ感動するような場面がしばしばあるのは私だけではないのではないでしょうか。そうすると、この「マクロ対ミクロ」の落差は一体どのような原因によってこれほども激しい形で発生してしまうのだろうか、解明したくなります。

この「マクロ対ミクロ落差」はドラマ「逃げ恥」の主要なテーマの一つだったように思います。大学院卒でありながら就職活動が上手くいかない、しかし様々な面においては本当は眩しい位の優れた「人的資源」ともいえる森山みくり(新垣結衣)がある意味、この「マクロ対ミクロ落差」の「代表格」・「リーダー格」ではないでしょうか。実際、みくりの数々の妄想シーンの中でも何度か登場するみくりの「政治演説」のようなものも、みくりという登場人物に託されたこのような「指導的な」役割を物語っているように感じます。一方、他の登場人物(=津崎平匡、土屋百合、沼田頼綱、風見涼太、堀内柚、梅原ナツキ)も、みくりほどの「眩しさ」を付与されていなくても、様々な舞台における、「残酷な社会的・マクロ的評価」対「個人としての尊さ・資質」の落差を描くための、一種の「道具」として登場させられているように思いました。

では、この「マクロ対ミクロ落差」はどのようにして発生しているかということについて突き詰めて考えると、

   個人が学校や就職先、公的機関等で、
   (多くの場合、不適切に)画一的な
   基準・物差しによるマクロ的・社会的
   評価

を受けて人生が大きく左右される場面に晒されながら生きていかなければならない立場にあることが基本的な原因ではないでしょうか。とすると、このようなマクロ的・社会的評価の際に適用される基準・物差しの内容にポイントがあるということになります。つまり、ドラマ「逃げ恥」の大きなメッセージの一つは、みくりを筆頭に、様々な境遇に置かれている登場人物たちに代表されるような事例では、

  実態からして極めて不適切な基準が適用
  されていることによって社会は多くの貴重
  な人材、ひいては貴重な「富」をいわば
  「溝に捨てている」ぞ!

という内容のものではないでしょうか。

少し話しが変わりますが、同様な「メッセージ」・「パターン」の事象として次のようなものが頭に浮かびます:

・何年か前にアフリカの有名な女性活動家が国連での演説の中で「モッタイナイ」という日本語を使ったことがきっかけで「モッタイナイ運動」のようなものが世界的に広がったという話を思い出します。

・人的資源ではなく食料資源の話になりますが、いわゆる「食品ロス」の問題(=つまり、本当はまだ様々な用途に使用可能なのに消費期限が来たという理由だけで大量に廃棄される食品の問題)も連想させられます。言い換えれば、社会は重大な「人材ロス」問題を抱えており、その問題への対応の甘さが社会の様々な場面において大変な「貧困」を生み出しているということになります。しかも、いわゆる「頭脳流出」という現象と違って、海外に出ることによって解決する性質の問題ではなく、貴重な人材がただ十分に活用されないまま生涯を閉じることになるだけです。

・社会が、個人の尊さや資質の実態と乖離した、不適切に「狭い」基準・物差しに拘ることによって、逆に社会全体にとっての大きな損失や様々な形の「貧困」を生じているという構図を考えると、近年多発している高齢運転者による交通事故の原因の一つとして(認知症と共に)指摘される「視野狭窄」を想起させられます。つまり、社会が、数々の場面においていわば深刻な「視野狭窄」を起こすことによって(社会全体にとって)悲惨な「自損事故」を多発しているということです。

一方、視点を変えて上述のような社会問題・状況に対して

      自分には何ができるか?

という観点で考えると、まず頭に浮かぶのは、

  数学界の(学生あるいは研究者に対する)
  評価基準には無数の「歪み」や「不具合」

があり、その歪み・不具合によって数学界も社会全体も莫大な損失を被っているように感じるという、自分の日常生活ともこれまでの人生とも密接に絡む状況です。もちろんこのような状況に対して自分一人でできることには非常に限界があることを自覚しなければなりません。しかし、個人名や他の詳細を書くと問題視されるでしょうから差し控えますが、私は学生に対する評価の際においても、若手研究者の就職・採用に関わる評価の際においても、一般的な基準と大きく異なる基準を適用することによって、一般的な基準では

  「間違いなく不適格=数学界にとっては
   事実上、ゴミ」

に等しい烙印を押された人材を拾い上げて育成し、最終的には、

  実態からして一般的な基準よりも遥かに
  実質的な基準において立派な水準の人材
  に育て上げる

ことを何度も経験しており、その人材の目覚ましい成長ぶりに度々感動を覚えさせられたことだけは書かせていただきます。

最後に、2017-01-06付けの記事の例に倣って、ドラマ「逃げ恥」と私の研究=IUTeich(宇宙際タイヒミューラー理論)との、興味深い接点・類似点について解説してみたいと思います:

・まず、上述の「マクロ対ミクロ落差」ですが、これは言い換えれば、「個人」対「社会=集団=群れ」という数学的な構造問題と見ることができます。このように考えると、IUTeichに出てくる『「単解的構造」対「正則構造」』の'緊張関係'に対応していることになります。このような側面については2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。

・上述の議論では言及しなかった側面ですが、「逃げ恥」では、少なくともみくりと平匡の場合の「マクロ対ミクロ落差」問題に対する「突破口」として浮上するのは「契約結婚」という形の対応であり、このような「突破口」を採用することによって発生する様々な結果への対処が正にドラマのストーリー展開の基本ともいえます。このように、難しい問題に対して、最初から完璧な「模範解答=満額回答」を求めずに、寧ろ、一種の

  「仮想的な満額回答」を勝手に宣言し設定
  した上で、その「仮想的な満額回答」に
  よって生じる「歪み・不具合・誤差」を
  計算する

という筋書きは正にIUTeichにおける「Θリンク」(=「仮想的な満額回答」)と、そのΘリンクによって生じる「歪み・不具合・誤差」を、アルゴリズムによる明示的記述を用いることによって計算するという展開とそっくり(!)です。つまり、標語的なレベルで整理すると、

  「契約結婚」=「仮想的満額回答の設定」
        =「Θリンク」

といった寸法になります。IUTeichのこのような側面についても2017-01-06付けの記事で詳しく解説していますのでご参照下さい。






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Last updated  2017.05.07 19:48:15



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