新一の「心の一票」

2018/01/04(木)16:45

第68回NHK紅白歌合戦の感想と、数学(あるいは一生の「認識状態歴」の可能性(!))の有限性

人生観・テレビ・芸能人(10)

去年とは書き方が多少違いますが、今回の「紅白」で気になった出演者や話題に関する感想を書きたいと思います: ・欅坂46:今回の欅坂は去年と違って私にとっては初めてではなかったので去年のような衝撃はなかったのですが、今回のステージの「不協和音」という曲の歌詞で取り上げられているテーマは本ブログで度々取り上げているテーマと方向性が似ているなと改めて感じました。・パフューム:ちょうど一年前のドラマ・シーズンの「東京タラレバ娘」の主題歌ということもあって(「逃げ恥」のように特にそれほど深く感動したドラマというわけではありませんが)ドラマを懐かしく思い出しながら今回のステージを視聴しました。後、YouTubeのビデオは以前見たことがあったのですが、渋谷の高層ビルの屋上でそのようなステージを行なうと、迫力あるなと思いました。 ・松田聖子さん:松田聖子さんと言えば、私の場合、第一に頭に浮かぶのは約35年前流行っていた「秘密の花園」と、後、(同じころの)ドリフターズでの志村けんとの共演でしょうか。いずれにしても、ここ何年の「紅白」ではどちらかと言えば、(精一杯頑張っていらっしゃるかもしれませんが)かつてのような輝きやオーラが結構薄れてきたなというような印象でしたが、今回、余りにも鮮烈な形で若返ったように見えたのでちょっとびっくりしました。総司会の内村さんも、そのことにわざわざ注目を集めるようなコメントをしたので、もしかして何か特別なことでもあったのかなと思いました。 ・アニメ100周年:2017年がそうだったとは知りませんでした。次々と出てきた歴代の名アニメの画像の中に、子供の頃(=1970年代前半)大好きだった科学忍者ガッチャマンの画像も含まれていたので印象に残りました。数年前、当時(=1970年代前半)のビデオがネット上で公開されていることを偶々知って、ネットで調べたところ、(少し時間は掛かりましたが)無数のガッチャマンのヴァージョンの中から自分が見ていたヴァージョンのビデオを何とか探し当て、(もう少しで半世紀前(!)になりますが)私のおぼろげな記憶と全く変わらない主題歌を懐かしく聞いたりしながら再生しました。 ・福山雅治さん、黒柳徹子さん、郷ひろみさん:福山さんの年齢は私と殆ど変りませんが、一方で、黒柳徹子さんや郷ひろみさんは子供の頃から認識している「テレビのキャラクター」で、子供の私から見てやはり「大人」の代表格のような人たちでした。この二人については特に「ファン」のような気持ちがあったわけではなく、単に「あー、そう言えば、そういう人たちもいましたね」というようなレベルの関心しかなかったのです。でも、今になってみれば、現在のようなご年齢でこれほどもお元気でご活躍されているということは(私自身、体の衰えを感じ始める年齢層に入ったということもあって)本当に凄いなと思いました。後、黒柳さんと福山さんの小学生時代の話を聞いて、(小学校と大学院はもちろんレベルが全然違うわけですが)同じ教育者としての共感を覚え、また現在、私の周辺にいて、様々な問題を抱えながら奮闘している若い人たちに対して自分が(一教員=教育者として)どのように接したらよいか、考える上で参考になる話だなとも思いました。 ・乃木坂46:「インフルエンサー」という、(うっかりすると、「インフルエンザ」と誤入力してしまいそうな曲名の)曲で大きな賞をとったということで少し注目してみました。去年の「サイマジョ」と違って、個人的には特に感動するような曲ではありませんでしたが、   「重力」、「引力」、「自転と公転」、   「離れていたって働き掛けるその力」、    「存在するだけで影響与えてる」 等、様々な数学的な概念を、踊り・音楽・歌を通して非常に鮮やかに表現できていたことに関心を持ちました。その点では、2017-01-06付けの記事で取り上げた「サイマジョ」と宇宙際タイヒミューラー理論(=「IUTeich」)との対応と比較すると、数学的概念の内容は全然違うわけですが、      踊り・音楽・歌を通して    難しい数学的な概念を表現している というところに、以前の記事の比較との類似点があり、このような側面に関心を抱いた背景にある考察について以下ではもう少し詳しく解説してみたいと思います。 まず、話はがらっと変わりますが、数学の研究は通常、研究論文という形で記録され、その研究論文は通常、英語で書かれたPDFファイルという形のデータとなって保存されます。そうすると、如何なる論文も、所詮は一つの複雑な文字列、あるいはコンピューター上の抽象的なデータとして考えると、「0」と「1」の列になります。そうすると、数学者のような立場で考えると、人類の寿命は有限ですし、例え(極論になりますが)生まれたときから打ち始めて、一切(食事等をせずに)150歳のときまで打ち続けたとしても、一人の人間が一生のうちに生成できるそういう     データ(=「0」と「1」の列)の          長さは有限 であるということになり、また、そのようなデータ(=「0」と「1」の列)には(数値的には膨大な数になるとしても)      有限通りの可能性しかない ということになります。このような議論のヴァリアントとして、PDFファイルの代わりに、画像ファイル(=JPGファイル)、音声ファイル(=MP3ファイル)、動画ファイル(=MP4ファイル)等を記録に用いられるデータ形式として想定した場合にも同様な考察は成り立ちます。また、一人の人間ではなく、地球上の人口には上限があるわけですから、「全ての人間」という形の考察もできますし、地球そのものの寿命も有限だという視点に立つと、「過去にも未来にも存在する全ての人間」という形の同様な考察もできます。 要約すると、  (*)数学は上記のようなデータ(=PDF,     JPG, MP3, MP4等)によって、如何     なる情報の損失も生じることなく(=     数学用語でいうと、      数学 ↦ 上記のようなデータ      という対応は単射になる)、完全に     記録可能である という仮定の下で考えると、最近流行りの「人工知能」の文脈でよく取り上げられる囲碁、将棋、チェス等のように、     数学は完全に有限なゲームである という結論が従ってしまいます。つまり、数値的にはとてつもなく膨大な量のデータの処理を必要とする計算になるとはいえ、   「全ての数学」は、とある有限的な計算 に帰着可能であるということになります。 上記の議論のまた別のヴァリアントになりますが、     (**)人間の脳に体験可能な      「認識の状態」は有限通り      しかない という仮定の下で考えると、    少なくとも「認識状態歴」のレベルで    見ると、人類に経験可能な人生は高々    有限通りしかない という結論になってしまいます。 もちろん、上記のような議論では、「有限」と言っても、可能性は数値的にはとてつもなく膨大な数のもの(=数学用語でいうと「濃度の集合」)を扱っていることになります。しかし、数学者の視点に立つと、数(=「濃度」)の数値的な大小ではなく、         有限か無限か? という定性的な性質が一番気になる点になります。 一方、通常の人間的な感覚から言っても、     「人類に経験可能な人生は高々        有限通りしかない」、 つまり、言い換えれば、その有限通りしかない可能性を(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)   一度全部計算して列挙しておけば、人間   は「わざわざ」様々な苦労に耐えながら   生きていく意味がない 等というような結論は、普通の人間なら受け入れることに対して強い抵抗感があるはずです。 数学者も同様に、「全ての数学」は有限量しかなく、(例え、現在の計算機技術では不可能だとしても、いつか開発される未来の計算機技術によって)     一度全部計算して列挙しておけば、     数学者は「わざわざ」様々な苦労     に耐えながら数学の研究を行なう     ことに意味がない といったような結論を受け入れることに対して並々ならぬ抵抗感を持っていると言い切ってよいかと思います。 そうすると、上記の諸々のヴァリアントの議論の出発点となった     上記の(*)や(**)のような     「有限性仮説」は果たして正しい     のだろうか、 ということが気になります。 特に、例えば(*)のような「単射性仮説」、つまり、「数学は論文(=PDFファイル等のデータ)によって完全に記録可能である」という仮説は、(私の場合、まさに自分の研究(=IUTeich)関連の様々な経験を経て感じたことですが)     どうも正しくないのではないか、  つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに      「抜け落ちている情報」が        あるのではないか、 と強く感じております。まさにそのことが以前から気になっているからこそ、    その「抜け落ちている情報」が忠実に    表現されている可能性があるように感    じる別系統の媒体=例えば、   ・2017-01-06付けの記事で取り     上げた「サイマジョ」、    ・2017-11の二つの記事で取り上げた     「芸術」や「バベルの塔の説話」、    ・今回の記事で取り上げた     「インフルエンサー」 の検証に、数年前から特に強い関心を抱くようになりました。 ただし、このような検証=「一種の研究」はまだ初期の段階にあり、例えば、数学の場合、    何故に同一のPDFファイル等のデータ    を入手しているにも拘わらず、ある    数学者にはそのデータに記録されて    いることになっている数学が比較的    容易に伝わっているのに、別の(同一    の専門分野のはずの)数学者には同じ    データに記録されているはずの数学    がいつまで経っても伝わらないか という、実務的なレベルの謎の解明には全く至っておりません。

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