|
カテゴリ:明響庵月刊誌より
明響庵月刊紙「からだの自然」より抜粋記事をご紹介いたします。
わが家では、長男のおたふく風邪が、見事にGWを直撃。 初日こそ余裕をかまして、野菜の収穫などしていた長男もその後、二日間は熱と痛みでほとんど横になっていました。痛みでぽろぽろ涙をこぼす姿は流石に気の毒で、何回か手当をしたものです。しかし、四日目からは、腫れこそ残っていましたが、再び動き回りはじめ、六日目にはやや腫れを残しつつも、魚釣りに行くまでに回復していました。
QOLという言葉があります。Quality Of Lifeの接頭語で、邦訳すれば、「生活の質」とでも言えましょうか。治療、というと、病気を治さなくては、と気負いがちですが、私は常々、病気だろうが何だろうが、やりたいことができたらいいんじゃない?というゆるい構えです。それこそ、病気であっても、本人の望む生活の質が保たれれば、それでいいんじゃないか、と思います。
病気を理由に、本人の希望をあきらめる場合も多々あるようですが、これはもったいない話。なぜなら、その希望に向かう欲求こそが回復を促すもとだからです(もっとも、すぐにあきらめられるようなものならば、欲求もたいしたことが無い、という場合も当然ある)。
自分の望む方に向かって行く過程の、目の前の現実に対応していくことで、結果的に身体は変化を続け、気がつけば病気から脱出していた、不調を忘れていた、ということは多々あります。それが、病気にとらわれて、居着いてしまっては、にっちもさっちもいかない。停滞を招き、病状も変わりにくい、というものです。
今まで、散々、病気、病気と記述してきたものの、そもそも病気とは何でしょう? 自らの身体の状態であり、行動や環境の影響で作り続けられた身体が一時的に表している結果、です。 だから、そもそも、病気のせいで、何かができない、という考え方はややおかしい。自分と病気の因果関係を無視しており、自分と病気を別にとらえています。そうすると、病気に対する不安は膨らむ一方。
そこで、病気=自分という極めて単純な因果関係を見つめ直せば、病気は自分が表している現象なのだから、と必要以上の不安に襲われることは減るでしょう。熱も、痛みも、治る過程で、誰であろう、自分が表している。回復に集中でき、解決の糸口も見えてきます。
長男は未だ5歳、病気やおたふく風邪、といった概念に縛られないために、身体の声をそのままに表し、動ければ動くし、動けなければ動かず休みます。余計な頭が介在せず、獣に近い。回復も早い。いい例です。
大人になると、おおいに頭が介在してくるため、話がややこしくなる。本人の頭もさることながら、周りの頭も厄介。子どもの病気など、医療をはじめ、大人の頭がややこしくしていることが多々あるように思います。言葉へのとらわれや、先入観が、身体本来の素晴らしい働きを抑えてしまう素です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.05.12 13:32:08
コメント(0) | コメントを書く
[明響庵月刊誌より] カテゴリの最新記事
|