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元・天津駐在員が送る中国ビジネス・エッセイ

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2009.05.29
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カテゴリ:日本社会
読み始めたばかりの井上光貞氏「日本の歴史-1神話から歴史へ」の冒頭部分にこんな言葉が書かれている。

「歴史は書き換えられる」という有名な言葉には、大きく2つの意味がある。
その一つは、それまで知られていなかった重要な事実が明らかになって、歴史の常識が大きく打ち破られる場合である。

中略

歴史が書き換えれれるもう一つの場合は、国家や宗教が歴史をどのように利用してきたか、という厳しい問題と関わってくる。

歴史をまとめる場合、過去の事を記録しておきたいというすなおな動機も確かにあるだろう。しかし国家や宗教の支配に属する公の機関が歴史をまとめる場合、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようと言う意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。つまり自分たちが君臨しているのは偶然の事ではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他共にしめしたい動機がひそんでいるのである。とすれば、どうしても、自分たちに都合のわるいことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかった事でも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合の悪い事実を明らかにする者がでてくると、世を惑わす者として処罰するといった事も起こってくる。そしてこれらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書き換えられるのである。


日本の歴史を眺めていると、なんとなく腑に落ちない事実に突き当たる。

縄文式土器と弥生式土器の明らかなちがい。同じ国土の中で発展してきたのであれば、縄文土器から弥生式土器に移り変わる過程の土器がありそうなものであるが、その中間にあたるような土器を見たことがない。縄文式土器と弥生式土器は明らかに違うのである。

足利義輝は、幕府の重臣である大舘晴光を派遣。景虎・晴信・氏康の三者の和睦を斡旋、三好長慶の勢力を駆逐するために協力するよう説得した。この計画は結局うまくはいかなかったのであるが、もともと敵対している三者をわざわざ和睦させ、なぜ三好の勢力に当たらせなければ、ならなかったのだろうか。

豊臣秀吉は、全国を制圧した後、朝鮮出兵を計画する。国内の戦乱が収まったばかりの時、まだ政権としても安定してなかったであろう時に、わざわざさらなる出費と政権の不安定要素を作り出す朝鮮出兵をしなくてはならなかったのだろうか。

私がこれまで学んできた日本の歴史では、これらの矛盾に答えを出すことはできなかった。そして網野氏の「東と西の語る日本史」にその答えが隠されているとは、全く考えもしなかったのである。

小山修三氏の推計によると縄文時代中期の北海道をのぞく日本列島の人口は約26万余人。その大部分は東北南部から関東、中部地方内陸部に分布。西日本はわずかに2万人程度、全人口の7.7%しか住んでいなかったそうである。そのころは、東日本が先進的で、西日本は遅れていたそうである。

しかし、紀元前二百年、もしくは紀元前三世紀後半の時期に始まると言われている弥生時代。華北から朝鮮を経て流入して来たとする説、華中、華南を起源とする説などいろいろな説があり、定説をまだ見ていないそうであるが、北九州を初めとして、数十年という短期間に西日本一帯に伝播したそうである。そうした弥生文化の伝播は、名古屋、丹後半島で止まってしまう。その理由は、稲の品種であるという説も有るらしいが、もともと東に存在した縄文文化の影響は否定できないであろう。

こうして、日本は、東の縄文と西の弥生文化を基礎とした対立の中で発展を始めるのである。こういう見方をしていくといろいろな日本史の矛盾に納得のいく説明を加えることができる。

また、江戸時代以前、朝鮮半島や中国大陸との往来についても新しい見方を提案しておられる。私たちはこれまで日本という範囲の中でしか歴史を見てこなかったように思うが、よく考えてみると九州と朝鮮半島は大変近く、国という概念がまだはっきりしていなかった中世に、九州や中国地方と朝鮮、中国大陸との往来が無かった、もしくは少なかったと考える方が不自然である事に改めて気付かされる。

日本と韓国

江戸時代以前の歴史は、現在の日本という国の概念にしばられて考えては、おかしな事になりそうである。

日本人論を考えるとき、「日本人はずっと単一民族であった」「明治にはいるまで日本は、海外との往来や交流がほとんどなかった」という間違った思いこみが私たちの民族感を歪めているのであり、もっと大きな範囲で日本人といいうものをみなおさない限り真の日本人には、行き当たらないのではないだろうか。








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Last updated  2009.05.29 21:33:23
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