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三人目の恋人とは、永年の片思いの遠距離恋愛です。
その人は、イタリアで執筆活動をしている塩野七生さん。 著書「海の都の物語」の初版を読んだのが1981年か82年だったから、もう30年近くにもなろうという関係なのだ。(かなり一方的だが) その間、「コンスタンティノーブルの陥落」「レバントの海戦」「ロードス島攻防記」などの歴史物、「緋色のベネツウィア」「銀色のフィレンツェ」「黄金のローマ」のシリーズ小説、そして男諸氏へのエール激励と、痛烈な批判を繰り出す「男たちへ」や、エッセイと歴史のこぼれ話の中間領域を素材として社会を論じる「サイレント・マイノリティ」「マキアヴェッリ語録」などの著作に接してきたわけである。 こうして付き合ってきて、今になって感じるのは、塩野七生が主張しているのは「社会学的視点」の重要性であることに気づいた。 もちろんその視点の基礎にまずイタリアに大学を卒業した翌年の26歳から、追い続けてきた「ベネチアを中心としたイタリアの歴史」や、諸外国を含め「た国際情報」や、「エッセイ」などの自己主張型の作家活動があるわけですが、その大きな流れの先にふるさと日本の社会のあり方に、イタリア式の「歴史の整理学」を取り入れて、より良い社会にしたいという思いを読むことができるのです。 日本の歴史の論じられ方が、カリスマ依存型で、やれ、家康だ、信長だ、秀吉だ、 島津だ、龍馬だとなって、手を変え品を変え上から目線の有名人型で、その分析も何十年と画一化された一辺倒評価を崇めて、実のところちゃんとした歴史の広がりと集約がなされていないと思う。 その点、イタリアを含むヨーロッパは、王族から一般民衆、宗教施設などの莫大な 歴史古文書が保存され残っていたので、、まず、己の国の足下をしっかりと見つめることができる。ゆえに、後付けの「嘘」がつけない。 日本は、その「実証主義」が大変疎いところに、「崇める」文化を持っていることで、正確な情報に基づく分析より、表状的な演出と先入観からの脱出が出来づらい構造になっているような気がする そこに、塩野流のイタリア式の一刀両断、歯に着せぬ論断が光るのです。 歴史という大きな課題を背負って、大量な資料を読み解き、分解し、文章化するという作業から生じる哲学がそうさせるのだと思う。 それは現代社会の、政治経済や日本社会などの色々な諸問題も俎上にのぼることになるわけで、多少の軋轢を生んだりしてはいますが、その時は論戦を挑んだ相手方がすごく小物に見えてしまい、メダリストの格が違うことを証明することに相成るのです。 彼女には、魅力的な人物を見抜く目がある。 塩野七生の魅力は、私にとってますます増すばかりなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.19 09:02:32
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