映画 『バルトの楽園』 ロケ地散策
クリックしてくださると、とっても嬉しいです! 天候良好につき、出掛けるべし。 朝からそんなノリで、徳島県へ出掛けてみました。 坂東町は、第一次大戦中に捕虜となったドイツ将兵を収容した坂東俘虜収容所があったところで、ベートーベンの"第九"が初演された地として有名です。映画『バルトの楽園』で、松平健が演じたのが松江豊寿(まつえとよひさ)でした。 史実の松江は、明治6年に旧会津藩士の長男として生まれました。 会津藩は、戊辰戦争の敗北よって朝敵として冷遇され、多くの元藩士と同じく、松江の父も斗南に"流刑"となった身でした。 そのため、松江は幼少の頃から"敗者"とはいかに悲惨なものであるかを思い知りながら成長します。 やがて、松江は軍人を志して陸軍士官学校に入学。 大正3年には、第一次世界大戦が勃発し、日英同盟に基づいて連合国として参戦した日本は青島を攻略します。 この頃の日本は、すでに戦時捕虜を人道的に取り扱うことを定めた"陸戦の法規慣例に関する条約(1907年)"に批准しており、それに基づいて明治37年に制定されていた"俘虜取扱規則"を大正3年に改正したばかりでした。 国際条約に定められた俘虜情報局の歴代長官には、陸軍省の人事局長を、捕虜収容所の管理は陸軍省の軍務局が管轄するなど、国として紳士的に捕虜問題に取り組む体制を整えようとしていたのです。第一次大戦では、日本はドイツ軍捕虜4,638名を国内12カ所に設けた収容所に収容しますが、設備も乏しく狭過ぎたことから、直ぐに収容所は6つに統合されました。 四国でも松山、徳島、丸亀の3カ所の収容所が統合されて、約1,000名の捕虜を収容することになり、大正6年徳島の板東に板東俘虜収容所が新たなに開設され、新所長に松江豊寿中佐が任命されます。 松江中佐の収容所の運営方針は実に柔軟なもので、当時の部下への口癖は"武士の情け"でした。『彼らも祖国のために戦い、刀折れ矢つきて俘虜となったのだから・・・』と言い聞かせ、部下たちには常に寛容の心をもって接するよう指導したそうです。板東俘虜収容所では、捕虜たちの所外への遠足、自由なスポーツ活動や、住民との交流活動を通じて、当時のドイツ人たちの優れた技術を生かす地場産業への指導などが頻繁に行われました。 ほかの収容所でも同様の運営が行われていましたが、板東の運営は中でも卓越して、大正7年には第1回の捕虜展覧会を開催するなど大成功を収めます。 坂東の成功は、ほかの収容所にも応用され活動の模範にもなりました。 また、この徳島では、板東の捕虜たちによる日本初のベートーベンの第九が演奏されたのも有名な逸話で、第2次大戦後にドイツで出版された書籍で"世界の模範収容所"だと賞賛されています。 元捕虜たちに偲ばれる捕虜収容所の生活。 それは、松江の捕虜への思いやりあってのこと・・・ 大正9年4月に収容所は閉鎖され、松江は大佐に昇進して島根の歩兵第21連隊長を2年務めたあと、陸軍少将へと昇進し、予備役に編入されます。 その頃、郷里の会津若松市民からの要望に応えて、大正11年11月、会津若松の市長に就任して市政に励み、引退後には飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力し、昭和31年5月、83歳で故郷に永眠しました。近年の戦争では、英米軍のイラク兵捕虜の虐待など、人種差別や非人道的蛮行が目立ち、大きな波紋を投げかけていますね。 平成16年には、日本でも"捕虜等の取り扱い法"が成立したことも、こうした国際的な問題が背景にあるからなのだと思います。坂東俘虜収容所の模範的な人道運営の根底には、指揮官の松江自身が会津に生まれ、敗者の痛みを知っていたからこそ、後に思いやりと寛容の心で捕虜たちに接することが出来たのではないかと思います。 色々と殺伐とした事件が多発する現代日本には、こうした人の痛みを知り、人を思いやれるリーダーの登場が望まれますね。坂東俘虜収容所のロケ地には、ジャーマンアイリスの花が美しく咲いていました・・・ クリックしてくださると、とっても嬉しいです! ●春の四国を満喫する旅、そんな息抜きの旅をしませんか●