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風雲 いざなみ日記

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スピリチュアル・ヒーリングな奥座敷

2011年02月09日
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(一条戻り橋 晴明神社)


ブログ仲間の皆さんには随分と無沙汰してます。 昨年来、判官家では次から次から色んな出来事が起きて、日記は不定期更新に陥ってます。 唯一、十七歳となった愛犬の御家老だけは何事もなく、相変わらず食欲旺盛でご健在でございます。(笑)



昨年末から、何となく運気が低迷してる感じがしていた判官。 そうなのです!判官は遂に大殺界に突入です。 昨年の後半は大殺界への序章だったか、父の入院やその後の介護。 加えて今度は母が入院、大晦日には突風でバイクガレージが倒壊し、愛車スカイウェイブまでもが一時入院と不吉な事件が相次ぎました。ほえー



別に大殺界だけが動機ではないですが、立春を待って厄除けと運気の向上と、あわよくば職場の業績回復も祈願しておこうと思い立ち、京都上京区の「晴明神社」に参拝しました。



晴明神社の祭神は、ご存知、陰陽師で名高い安倍晴明(あべのせいめい)。 天文道や占いを体系化した陰陽道は、平安時代には最先端の学問で政(まつりごと)にも影響を与える呪術でした。 晴明は、平安時代最強の陰陽師で、後に陰陽道の祖ともいわれた御仁。



ことさら花山天皇の信頼は厚く、那智山の天狗封の儀式を行うなどその活躍は目覚しく、晴明の名は貴族社会ではすっかりビッグネームになります。 後年、一条天皇や藤原道長からも大変信頼されて、播磨守など官職を歴任。遂には従四位下にまで昇りつめ、何と85歳の長寿をまっとうしました。 判官のご先祖の官位が従五位下と少納言クラスなので、専門官僚の晴明はやはり凄い御仁です。



晴明神社は、厄除け開運出世財運向上恋愛などにもご利益があるとされ、近頃ではパワースポットとしてもマスコミや雑誌にも取り上げられて女性にも人気が高いとか。ハート(手書き) 間違いなく、たももも。さんも参拝してそうな神社です。



晴明神社は、京都上京区の"一条戻り橋"にあります。 さすが千年の都。 京都は地名にもいちいち情緒があります。(笑) とにかく、春のように温かい日曜日でしたから、道中の新快速電車の中ではひたすら鼻提灯。眠い.. 到着したJR京都駅前からは、市バスB1系統の9番のバスを利用して、西本願寺や二条城を眺めながら堀川通りを北上して一条戻り橋のバス停で下車。 料金は220円也。バス停に下りると直ぐに神社の幟が見えます。スマイル



神社の由来によれば、晴明神社は寛弘四年(1007)、晴明の遺徳を偲んだ一条天皇によって創建されたとか。壮健当初、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という壮大な規模だったらしいですが、応仁の乱後の秀吉の都の再興と、その後の戦火で荒れ果て、嘉永六年に再建されて現在に至ります。 穏やかな午後の陽光に照らされた境内は人で賑わい、参拝するのにちょっとした列ができていたのには少しビックリ。



今では、こじんまりとした境内ですが、整備が行き届いた落ち着いた雰囲気。久し振りの京都を堪能した一日でした。 無論、今回は神事が目的ですから、お利巧にして真っ直ぐに帰宅しました。(笑) 晴明についてはもう少し触れることに致しましょう。



つづく








最終更新日  2011年02月09日 21時51分20秒
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2010年08月14日


写真は、65年目の終戦の日を前にした、わだつみ判官家の盆供養の様子です。 太平洋戦争で跡継ぎを失い、途絶えたわだつみ判官家の一族は五家。 わだつみ判官の家は次男の父がいたため、唯一残った家なので、今年もこうして一族の陸海軍の戦没者を一同に集めて慰霊しています。 大佐から学徒兵まで合わせて103の英霊。



一族が散華した戦場は様々。 ミッドウェイ、シンガポール、満州、インパール、フィリピン、ラバウル、サイパン、アッツ、硫黄島、沖縄、神風特別攻撃隊・・・ 中には終戦日以降のソ連参戦による戦死も・・・



わだつみ判官が幼い頃、海軍中佐だった祖父は、傍らに座る判官に遠い南の海の話や、近代の洋上戦では航空戦術がいかに勝敗を左右するかなどについてもいつも詳しく語ってくれました。 戦前の祖父はバーボンとJAZZを愛し、ビリヤードとダンスが得意でアメリカに数年滞在していました。 



そして、当時陸軍憲兵少佐だった母方の祖父同様に戦争には反対の立場をとっていましたが、運命とは皮肉なもので、昭和16年12月8日 真珠湾攻撃で開戦の口火を切ることになったのです。 負傷の後、祖父は大本営にいたため生きて戦後を迎えましたが、予科練から特攻に志願した長男は、終戦直前に沖縄付近で戦死しています。 長男の戦死を、祖父は夢に出てきた八咫烏(ヤタガラス)に告げられたそうです。




祖父の日記の最後のページにはこんな文章が書かれています・・・



日の丸の旗の下に、この地で千年後に平和を謳歌する人々がいますように。


日の丸の旗の下に、この地で千年後に自由と平等が根づいていますように。


千年後のこの地にも、日の丸の旗が翻っていますように。



(元海軍中佐 わだつみ判官祖父の最後の日記より)




我が家に戦前の賑やかな食卓はありません。 あれから65年.・・・ こうして我が家は、母と御家老とで、ひっそりとしたお盆を迎えています。先の戦争は、死ななくてよかった多くの若者を死なせ、同時に滅ぶべきでない、日本の美しい精神文化をも滅ぼしてしまったように思います。



戦犯合祀を理由に、国に命じられ、絶望の淵で最後まで戦った人々に礼を尽くさず、卑屈な謝罪外交を続ける戦後の日本・・・ 判官は不満に思います。 礼を尽くして謝罪すべきは、国益に殉じた将兵とその遺族にではないでしょうか。



昭和21年10月、8歳で父を戦犯として失ない、戦後、"戦犯の子"と教師にまで石を投げられたりして育った母の背中は、今年も寂しそうです。 戦犯とは、いったい何なのか・・・(怒)









最終更新日  2010年08月14日 22時43分10秒
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2009年11月10日
(熊野本宮大社)


全国的かどうかは判りません。 でも、子供の頃、こんな話を聞いた記憶はありませんか?
「夜、口笛を吹くと蛇が出る」って。 これは、口笛の吹くことで、蛇(じゃ)=『邪気(じゃき)』を引き寄せてしまうということです。



古来から、一つの因習的な概念として『昼』は生者の領域、『夜』の暗闇は、死者の領域と考えられてきました。 口笛は、注意をひいたり呼び込む行為で、暗闇でむらみに口笛を吹き鳴らすということは、死者の領域で邪気=邪鬼を招いてしまうということなんです。 



逆に、『邪鬼』あるいは『魔』を祓うというと拍子木(ひょうしぎ)を打つことであったり、手のひらを打ち鳴らすことであったり、陰陽師では弓の弦を鳴らして大きな音(明朗は音)を発するということなのです。ひらめき 



こうした、古来のシャーマニズムや信仰、風習の名残りとして残るのが、夜回りや火の用心、土俵で打つ拍子木、初詣で目にする縁起物の破魔矢、神殿へ礼拝するときの柏手として、今に伝えられています。



また、今では音楽という、別意味合いが強くなった太鼓などの打楽器類も、起源を遡ると古代の儀式に由来し、かつては魔を退散させるために銅鐸を鳴らしたところからはじまったとも考えられています。 



この他にも、『魔を切る』などといわれる通り、邪気を祓うために用いられたのが刀剣です。 今でも、剣は護摩焚きの行事の際に用いられたりしますが、一般に残っている形式では、通夜の時に死者の胸元に『守り刀』を置いたりします。 私も、ザワザワと違和感を感じた時には、手をパン!とたたいて邪気を祓うことがあります。




さてさて、『盛り塩』とか『清め塩』をする風習が各地に残っていますね。 文字通り魔除けに他なりません。 では何故、塩なのでしょう? 私が勝手に解釈しているのですが、『甘さ』は邪気や災いを引き寄せるという考えじゃないかと思うのです。



真偽は定かではありませんが・・・ 昔から、「誘惑の甘い罠って」いいますもの。 塩っ辛きゃ、近寄ってこないですよね。(笑)








最終更新日  2009年11月11日 00時27分36秒
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2009年10月18日


楽天でブログを始めてから4年半。 最近、鏡を見る度に『悪代官』という、古いニックネームがピッタリだと思うような面構えになっているわだつみ判官です。(プロフィール写真参照) 



DNAとは、デオキシリボ核酸(Deoxyribonucleic acid)という高分子生体物質で、地球上のほぼすべての生命体において遺伝情報を担う物質となっています。 DNAはデオキシリボースとリン酸、アデニン、グアニン、シトシン、チミンなど4種類の塩基から構成される核酸です。 




それにしても、年年歳歳・・・ ヒゲなど生やすと益々似てきたと自覚。 周囲にも指摘されることですが、DNAとはゲに恐ろしいもので。 源氏の系譜・・・ やはり流れている血を意識せずにはいられません。 せめてもの救いは、"弟"が居なかったことか?(笑)








最終更新日  2009年10月18日 23時52分39秒
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2009年05月06日
(那智山 青岸渡寺 09.05.02撮影)


補陀洛(ふだらく)や 岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝つ瀬♪と、御詠歌で親しまれ、西国三十三ヶ所第一番札所として全国に知られるのが那智山 青岸渡寺(せいがんとじ)です。


那智山は熊野三山の一つで、自然信仰の霊場として長い歴史を誇ります。 元々は那智の滝を中心にした神仏習合の修験道場でしたが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離されています。 現在も寺と神社は隣接しているため、両方参拝することをお勧めします。



寺の縁起には、開基は仁徳天皇の御世の頃で四世紀頃とされ、天竺の僧、裸形上人が那智大滝にて修行を積み、その暁に滝壷で観音菩薩を感得して、ここに安置したのがはじまりと伝えられますが、熊野那智大社でも書いたとおり、詳細は不明です。



その200年後、推古天皇の時代に大和の生佛上人が来山し、一丈の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたといいます。 平安朝中期から鎌倉時代には、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野信仰は隆盛期を迎えます。 この時、65代花山法皇が3年間山中に参籠し、那智山を一番にして近畿各地の三十三観音を巡拝し、たことから、西国第一番札所となりました。



現在の本堂は、織田信長南征の際に焼失したものを天正18年(1590)、太閤秀吉が再建し、桃山時代の建築様式を今に伝える、南紀唯一の国指定の重要文化財建造物です。 堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じだといわれています。 中世以降は、青岸渡寺尊勝院は天皇、皇族の公卿などの熊野詣の際の宿泊所にあてられていました。




ここを訪れたことがきっかけで、西国霊場巡りをはじめる人も多いと聞きます。 確かに、この佇まいは気持ちが落ち着きますね。 これを機に、西国三十三ヶ所巡りをして、魂の修行をするのも良いかも知れません。きらきら







最終更新日  2009年05月06日 19時56分03秒
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2009年05月05日
(熊野本宮大社 09.05.02)


故郷に戻って、三山に詣でて感じたこと・・・ 少し愚痴っぽくなるのはお許しください。
例えば、今でも多くの人々が熊野三山を目指します。 けれども、それは中世の熊野詣とはかけ離れた、観光もしくは見物です。 2004年、紀伊山地の霊場と参詣道がユネスコ世界文化遺産に登録されました。 そのことで、見物する場所として熊野の価値が見直されたからです。




熊野三山の霊場と参詣道は、自然の圧倒的なパワーを感じ、神(自然)を感じ、神(自然)に感謝し、自分を見つめ直して、をまっとうする祈りもしくは誓いの場です。



かつての熊野信仰は、自然崇拝でした。 熊野の三山信仰において、神と自然は一体です。 神を恐れることは、自然を恐れること。 神に感謝することは自然に感謝すること。 そして、神を間近に感じることは、自然を愛しみ、自然と共生する暮らしを築く精神の基盤となりました。 それが日本人本来のライフスタイルであり、日本の精神文化の根底に流れるものだと思います。ひらめき



今回、三山を巡って見かけた人々は、ほとんどお参りの作法を知らない人だったのが残念でした。



熊野を訪れたほとんどの人が感じるほど、私は自然が保たれているとは考えていません。 幼い頃に接した熊野は、今と比べて大変豊かでした。 それは、森林伐採とか、森が荒れたとか、護岸工事とか、水質とか、酸性雨とか、ゴミ問題だとかを指摘しているのではありません。ひらめき



かつて、わだつみ判官が何よりも誇りとし、最も美しく、最も豊かだと感じていたのは、周囲の自然ではなく、自然に対する人の心のあり方でした。 そんな自然を愛しむ心があったからこそ、熊野の自然は、現代まで維持されて来たのです。



   大切なのは心です!



この心の問題は、熊野だけに限った問題ではありません。 他にも、全国には素晴らしい名勝や史跡、そして守るべき大切な自然があります。 けれども、熊野三山詣という文化は、自然と調和して生きる一つのモデルになると思い、連休にこうした形でブログにしました。 自然保護活動に参加することも素晴らしいことですが、まずは心が大事です!



何よりも、まず日常で自然に触れてください。 あなたの触れた自然には神々が宿っています。きらきら そうすれば、あなたにできるエコがみつかります。きらきら 日本の自然に宿る神々を訪れることで、もう一度、人生を見つめ直してみませんか。 



一人でも多くの人々に、忘れかけた日本の精神文化に触れてもらうこと。これからのユネスコ世界文化遺産に登録された熊野の唯一の存在意義だと思うのです。きらきら 皆さん、どうぞ熊野へ是非お越しください。きらきら




連休中、いざなみ日記へのご訪問、有難うございました。 一緒に熊野詣ができ、自然と共生する熊野の文化を少し体感していだだけたものと思います。  わだつみ判官 拝


熊野三山詣 全七回 完







最終更新日  2009年05月06日 01時34分44秒
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(熊野本宮大社 09.05.02撮影)

家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、別名、熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)、または熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)を主祭神とするのが熊野本宮大社です。 ユネスコ世界文化遺産に登録されて以来、熊野三山の中で最も周辺整備が進み、参道の景観が美しく保存されているのが熊野本宮大社です。



熊野本宮の社殿は、明治22年(1889)年の洪水までは、熊野川の中州にありました。 創建以来、社殿はその中州にあったと思われ、遥か昔から社殿が流されるような事はなかったのですが、明治維新以降、山林の伐採が急速に行なわれたため、山の保水力が失われ大規模な洪水に至ったと考えられています。 旧社殿のあっや中州は、今では大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、金色に輝く八咫烏(ヤタガラス)を配した大鳥居が建てられています。



伝説によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされ、熊野坐大神(家都美御子大神)は、太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説など諸説があります。



参詣路の中央側は神の通り道ですから中心は避けて進みます。 神門を通るときは一礼。 浄財は投げ込むのではありません。 マナーを守って参詣しましょう!



余談ですが、わだつみ判官はかつてこの本宮大社の御神水を産湯としました。 そんなご縁から、この本宮大社が自分の魂の故郷だと考えています。 今でも、熊野には月や太陽の動きに合わせた暮らしをする人々がが多くいます。 こうして、自然や宇宙のリズムに合わせた人間本来の暮らしを、悠久の歴史ある熊野で垣間見ることも、現代人の貴重な魂の休息となるような気がします。



たとえば、京阪神からだと白浜の海岸線を抜けて串本に入る辺りから、熊野の神の聖域に足を踏み入れたことを実感できる風景に出会うことができます。 古代の空気漂う参詣道、そして聖地熊野の歴史に触れる旅に出かけませんか?








最終更新日  2009年05月05日 20時54分01秒
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(本宮参詣路 09.05.02撮影)


新宮から幾つもの山の尾根を眺め、右に左に熊野川に沿って進んだ先に本宮町があります。 本宮町に入ると、間近だった険しい山々は遠ざかり、神の息吹きに触れたように穏やかな集落が目に入り、八咫烏(ヤタガラス)が本宮の神の森に誘ってくれます。



私は、熊野本宮大社の木々に包まれているような参詣路の雰囲気が好きです。 さてさて、テンションもあがってまいりました! いよいよわだつみ判官 スピリチュアル・ツアーのクライマックスです。 さぁさぁ、皆さんも一緒に、参詣路を登って境内へ向かいましょう♪
 








最終更新日  2009年05月05日 16時30分03秒
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(本宮への道中の熊野川 09.05.02撮影)


新宮市内から、熊野本宮大社への道は、熊野川を右に左に眺めながら山あいを縫うように走って、1時間ほどのドライブになります。 幼い日、乳母に連れられて遊んだ川が熊野川(くまのがわ)。 私にとってはガンジス川のような川です。(笑) 熊野川は、奈良県、和歌山県と三重県を流れる新宮川水系の本流となる川で一級河川です。



面白いことに、この熊野川は一時は新宮川と名づけられていたのです。 熊野川は1970年に一級河川の指定を受けますが、指定当初は新宮川の法定名称で登録されてしまいます。 けれども、古くから地元では熊野川の呼び名で親しまれていたため、川を愛する住民の要望に応じて1998年4月、国は法定名称を改め熊野川と変更されたのでした。



熊野川は、奈良県吉野郡天川村の大峰山脈の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)大普賢岳(だいふげんだけ)の辺りが源流となります。 奈良県内では十津川と呼ばれ、五條市、十津川村を南下して和歌山に入り、同じく奈良県の大台ケ原を源流とする北山川を併せて熊野川となり、三重と和歌山の県境を流れて、やがて熊野灘に注ぎます。



この山あいを本宮へ向かうルートは、ほぼ中世のルートのままで、いにしえの蟻の熊野詣の時代から、何一つ変らない風景を見ることができます。




遠い昔、この熊野川の川原で食べた"めはり寿司"の味は、今でも思い出に刻まれています。








最終更新日  2009年05月05日 15時42分57秒
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(熊野速玉大社 09.05.02撮影)


孝謙天皇の御世に、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中で最も早く熊野権現の称号を賜ったのが熊野速玉大社です。 また、ユネスコ世界文化遺産として、2004年7月に紀伊山地の霊場と参詣道が登録されたことを受け、"命の道と甦る熊野詣での心"をテーマに打ち出し、日本文化の再生を提唱するのが熊野速玉大社の宮司です。



熊野三山の一つとして、熊野速玉大社は全国に祀られる数千社の熊野神社の総本宮で、熊野三所権現が最初に降臨した神倉山から現在の鎮座地に移され、これよって新宮と号したと古書に記されています。 熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病を癒す薬師如来として過去世の救済を行い、熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は各地に拡がりました。



中世において、熊野信仰は隆盛を極め、皇室、公卿、武士中心から信仰は庶民へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪と甦りへの道であるとして、蟻の熊野詣と称されるほど熊野街道は賑わいました。 



この熊野速玉大社は、可愛がってくれた祖母の実家と縁続きの御社です。 もう毎回のことなのですが、わだつみ判官が車が新宮市に差し掛かると、不思議なことに車内のマスコットの八咫烏(ヤタガラス)の鈴がやたらと鳴りはじめ、車を停めて境内に向かうとき、一瞬ですが出迎えの八咫烏(ヤタガラス)がはしゃいで跳ね回っているのが見えたような気がしました。




熊野詣の魅力は、過去世救済現世利益来世加護と、人々の魂をトータルサポートしてくれるところにあります。 この過去、現世、来世の加護を神々に祈ることができるのは、熊野三山以外にはあまり多くはないようにも思います。 つまり、熊野信仰とは、古代から現代に至るまで、参拝者の魂の保険のような存在なのです。(拝礼)



電車では新大阪駅からJRきのくに線(特急オーシャンアロー号)を利用。 名古屋駅からはJR紀勢本線(特急ワイドビュー南紀号)を利用して新宮駅下車。 駅からタクシーで5分。







最終更新日  2009年05月05日 00時21分35秒
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