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カテゴリ:湯本温泉周辺
![]() 大内氏は戦国時代、山口にすぐれた大内文化を育てあげた名族です。 しかし天文20年(1551年)二十一代当主・大内義隆は、重臣・陶隆房(すえたかふさ)(のち晴賢<はるかた>)の反乱によって山口を追われ、9月1日、大寧寺で自害をしました。 義隆は境内に入る前、乱れた髪を整えようと参道のわきの岩にかぶとを掛け、そばの池に顔を映そうとしました。 しかし水面に自分の姿が映らず、運命を悟った義隆は寺の本堂に入り、いさぎよく自刃しました。 義隆の最後を伝えるこの悲話は、いまも人びとの語り草になっています。 池と岩は以前、寺の旧参道にありましたが、近年大寧寺境内に移されたものです。 大内義隆の最後 仙崎に着いた大内義隆主従は、舟を漕ぎ出して脱出を試みるが、風波が荒くて断念し、先祖の開いた大内家の香華院である大寧寺に入った。 この時早くも大寧寺包囲の気配が漂っていた。自分の命脈を悟った義隆は、住職異雪慶殊が説く、死に臨んでの「即心即仏」の教えに耳を傾けた。異雪和尚は「瑞雲珠大」という戒名を義隆に与えた。義隆は「自分が死んでも、何とかして長子の義尊(7歳)、従者の小幡義美(15歳)、二条良豊(二条尹房の子、15歳)たち若い者を落ちのびさせてやりたい」と懇請した。和尚は承知して寺から脱出を図るが、途中で追手の兵に捕われ、幼い命は無惨にも散ったのである。 大寧寺での別離の宴のまだ果てやらぬ間に、はや陶隆房一隊のときの声が門前であがった。冷泉隆豊は黒革緘(くろかわおどし)の物の具に身を固めて、敵方の応待をしていたが、やがて奥に入って方丈に火をかけ、他の武将らと共に義隆の最期を警護したという。 義隆は、隆豊の介錯で心静かに切腹したと伝えられている。義隆45歳。時に天文20年9月1日。周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・備後の7州の大守として、山口に絢爛たる文化を築きあげた大内氏一族も、大寧寺で終焉を告げ、再び日本史上に現われることはなかった。 白木屋グランドホテルから車で3分の大内義隆公姿見の池を御覧に是非お越し下さいませ。
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最終更新日
2010.02.19 00:03:43
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