【講演録】諸文明の祝祭──井筒俊彦の生涯と心
【講演録】諸文明の祝祭──井筒俊彦の生涯と心https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/202411-3.html三田評論ONLINEより転載アンワル・イブラヒムマレーシア首相訳・注 野元 晋(のもと しん)慶應義塾大学言語文化研究所教授〈序文〉「共感(empathy)」──アンワル・イブラヒム首相の横顔山本 信人(やまもと のぶと)(慶應義塾大学法学部教授)2024年5月24日(金)午前、第10代マレーシア首相のアンワル・イブラヒム氏が三田の山に来臨した。マレーシア首相が来塾するのは実に20年ぶりであり、今回は井筒俊彦記念講演会という機会であった。氏の講演題は「諸文明の祝祭──井筒俊彦の生涯と心」。身振り手振りよろしく40分を超える熱弁を振るった。用意していた原稿から脱線して語りかける場面がしばしばあり、会場に集った聴衆は講演に聴き入った。アンワル氏は1947年、英領マラヤ・ペナン生まれ。英領マラヤは翌年英領マラヤ連邦に、57年に独立マラヤ連邦、63年にマレーシアとなり現在に至る。両親はマレー系住民の政党で連立与党の中核であった統一マレー国民組織で熱心な党員であった。その遺伝子を受け継いだアンワル氏は、社会における経済格差の存在と道徳観が欠如する自由主義思想に対する問題意識を胸に、多感な高校・大学時代は学生運動に没頭した。氏の政治思想の根幹には、社会経済的な近代化とイスラーム的道徳(イスラーム的民主主義)との両立と実現がある。アンワル氏の半生は波瀾万丈である。1970年代から97年までは飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、副首相時代の97年のアジア通貨・金融危機をめぐる政策対立が彼の政治人生を一変させた(当時財務大臣を兼任)。アンワル氏はイスラーム市民活動家、各種閣僚(1983年〜93年)、副首相(1993年〜98年)、囚人、野党指導者(2008年〜15年、20年〜22年)を経る。マレーシアでは2018年総選挙で独立以来継続していた統一マレー国民組織の実質的な一党優位体制(選挙のある権威主義)が崩壊し、史上初めて政権交代が実現した。マレーシアでも民主化の時代を迎えた(選挙による民主化)。4年後の22年総選挙では、アンワル氏の率いる多民族・改革連合が勝利をしたことで、アンワル氏は第10代首相に就任した。2006年に政治の舞台に復帰する前の数年間、政争に巻き込まれたアンワル氏は獄中生活を強いられた。講演でも言及されたが、その間彼は洋の東西を問わず、さまざまな本を読み漁った。政治活動を再開してからというもの、国内外における講演会、政治演説、政治対話などの場で、ことあるごとに持続可能な人道的経済(sustainable humane economy)という概念に言及し、その実現の必要性を訴えてきた。この概念には氏の個人的な歩み、イデオロギー的な営み、政治的な優先順位が凝集されている。アンワル氏が井筒俊彦の著作と出逢ったのも獄中であった。井筒は本学の名誉教授であり、世界に名だたる哲学者、言語学者、イスラーム学者であった。30を超える言語を自由に扱い、日本語だけではなく英語での著作も多数ある。なかでも井筒の手によるイスラーム教の聖典であるコーランの邦語訳については、言語的に正確なだけではなくイスラーム教の本質を理解した偉業である、と海外でも称賛されている。井筒は学問的営みを通して宗教や信仰の違いを乗り越えることを試みた思索の哲学者であった。井筒の著作を読み進めるうちに、アンワル氏の心を揺り動かす概念と邂逅した。「共感(empathy)」なる概念である。「共感」を用いて井筒は東洋哲学と西洋哲学の対話を目指した。異国の哲学者であった井筒の「共感」に出逢い、アンワル氏は共鳴した。まさに共感が本講演の中核的なメッセージであった。アンワル氏は、共感こそが激動する世界にとって重要な概念であると力説した。21世紀の世界は異なる信仰、民族、政治的信条をめぐって紛争が絶えない。氏曰く、世界で進む分断と他者に対する不寛容は膝を突き合わせての対話が成立しないからである。それゆえに共感を基にした対話の重要性を幾度となく強調した。そして、私たちは井筒の遺産を継承して、共感し対話を続ける努力が必要である、と講演を力強く締め括った。講演後、アンワル氏は予定の時間を超過しても、学生との対話の時間をとった。そこには、学生(若者)の言葉に耳を傾け、共感し、対話する氏の生き様を垣間見ることができた。(これ以降からアンワル首相による講演録)ご来賓の皆様方、お越しのすべての皆様方。私が日本における知と革新の先導者である慶應義塾大学に本日おりますことには、心から感謝申し上げるとともに深い名誉の念を覚えるものであります。本日、私たちは、1人の非凡な学者の生涯と業績を讃えるものであります。その方がなしたことは文化と知の境界を越え、忘れえぬしるしをこの地球上の学問の、知と哲学の風景に残しました。事実、井筒俊彦が遺した、知性と神学、そして哲学の世界への貢献は、膨大にして広大無辺、また種々多様なもので、そのうちからいくつか最重要なものを選び出そうとするなど、全くおかしなことです。それは井筒の業績は相互に緊密に結び付いているので、誰かがそれらを分けて引き離し、細く分類してしまえば、それが恣意的となるのはほとんどまぬかれ得ないからです。Ⅱしかしながら、そうした留意すべき点が示されるにせよ、どこかで始めねばなりません。まずはこのお話を聖典クルアーンの日本語訳という、井筒の特筆すべき成果から始めることをお許し下さい。この訳業は比類なき卓越性を持つ大業であり、彼の深遠な言語的能力、博識と知性の深み、さらに疑うべくもなく、彼の献身の堅忍不抜ぶりの証左であります。クルアーンの翻訳という課題は、クルアーンが複雑な言語的、神学的、哲学的、精神的、かつ神秘的な諸次元を有するがゆえに、人を怯ませずにはおかないものです。ムスリム(Muslim イスラーム教徒)にとってクルアーンとは単なるテクストではなく神の啓示であり、その至高の形のものです。クルアーンはその内に7世紀のアラビア半島の歴史的・文化的環境に深く根ざす幾つもの意味の層を含むものですが、またいかなる時間と場所の限定をも受けないものです。このことを鑑みれば、井筒の翻訳へのアプローチは単なるアラビア語の単語の日本語への変換以上のことを含みこむことができたのです。ここでドイツの哲学者で文化批評家、亡きヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin 1892-1940)と、彼が述べた翻訳についての、今や伝説的な言葉を思い起こすのも有益なことかもしれません。彼によれば、真の翻訳とは透明なものである。つまりそれは原作品(オリジナル)をぼかすものでなく、その光をさえぎるものでもない。むしろ純粋な言葉をして、あたかもそれ自身の媒体に強化されたように、より十全に原オリジナル作品を照らし出さしめるものである*1。私が信ずるところでは、井筒はその方法で、原テクストの本質と意味論的なニュアンスを捉えることができたのであり、それは他のセム系の同系統の諸言語はもちろん、アラビア語とイスラームの伝統両方への理解を自家薬籠中のものとしたことに依るものでした。その[上の]課題は、クルアーンの字義のみならず、その精神に忠実であろうとすれば、まさしく原作品への深遠な共感と全き服従を要求するものなのです。クルアーンを日本語に翻訳することで、井筒はこの聖なるテクストに日本語話者がアクセスをするのを可能にしました。そしてその過程でとても大きな文化横断的な理解を涵養しました。この仕事は、彼が日本的な文脈のうちにイスラーム思想のより深い理解を可能にしたことによって、文化的・言語的な分断に架け橋をすることに献身したことを示します。クルアーンが有する普遍的意義と計り知れないほどの深みを示すことによって、彼の努力はイスラーム研究という学問分野に意味深く貢献をしたことになります。『クルアーンにおける神と人間──クルアーンの世界観の意味論』(God and Man in the Koran: Semantics of the Koranic Weltanschauung[仁子寿晴訳、慶應義塾大学出版会、2017])において、井筒はクルアーン的世界観(Weltanschauung)の意味論的構造についての、多岐にわたる探求を試みました。井筒の主たる議論は、クルアーンは言葉という媒体を通して、意味と意味論的構造の内的な織物──それは人間の神との関係を解き明かすものです──を生み出すことで、他に全く類を見ない世界観を創り出しているという前提を中心に展開されます。井筒によれば、イスラーム的世界観を捉えることは、[その]意味論的構造を認識し理解し損なえば、不可能になるのです。このようなイスラーム的な世界の見方、つまりイスラーム的世界観を[学問的に]鋳直し再構成することは1つの事業であり、それは彼の別のクルアーン研究の著作、つまり『クルアーンにおける倫理と宗教の概念』(Ethico-Religious Concepts in the Qur’ā-n)にも照らしてみるべきなのです。井筒がその著作の中で主張したことは次のことです。神はクルアーンを通して人間に、イスラーム的な道徳律に満たされた倫理的な生き方──人間の宗教的義務へと、明確な献身と同じ意味の場にあるものとして統合されています──に従い行為するように命じています。言い方を換えれば、倫理、道徳性、そして宗教は互いに分かち難いものなのです。そのため、イスラームは7世紀のアラビア半島の部族的規範、法、文化に対抗して、革命的な重大さをもつ宗教として現れ、この上なく鋭く急激な、全てを一掃するほどの宗教的改革をもたらしたのです。例をあげれば、イスラームは社会保障の分野で規範化された喜捨のシステムを構築する「ザカート」の政策を導入しましたが、これは包括的な国による福祉政策の先駆けとみなされます。同様に、変革が女性の権利を含める形で家族構成にもたらされましたが、それは全体として男性支配的な、また女性が家財のようにあつかわれる社会に対するものだったのです。さらに根本的な変革があります。より平等な社会の創出に向けての手段に利するようにと名族支配の特権を非難したことです。井筒の記念碑的で意義深いクルアーン研究を特徴的に表すものとしては、彼が意味論的分析に通暁していることがありますが、それは深遠であり革新的でもあるアプローチを通して単語の構造と用法の解明を伴うことによるものです。とりわけ多言語使用者であることは、様々な宗教の文献を同時に原語で研究するのに必要な手段を持っていることであり、彼の立場を強めました。井筒が考えるに、クルアーンは私たちに幾つかの、言語学的な二項対立(2つの言葉の対立)(binaries)において語りかけるものであり、それらはそれぞれが、反対の極に位置づけられ、神と人間との関係を明確に示すものです。例えば、「[正しく]導くこと」(hidāya) *2 と「迷わせること」(ḍalāla)という二項対立のつながりがあります。神の命令のもとで、これらの語や、他の多くの二項対立的な言葉は、実在的条件を規定し、その条件の下で神の被造物は生き続けるのであり、あるいは存在するのです。もしも私が井筒の解説に、僭越ながら付け加えるとすれば、次のことを指摘できるでしょう。つまり言語、もしくはlisān──字義的には「舌」を意味します──とはクルアーン的な意味論の範パラダイム型では預言という制度[を解き明かす]鍵となるもので、「イブラーヒーム(Ibrāhīm)の章*3」の第4節で次のように明らかにされています。(アンワル氏が引用するクルアーンのアラビア語原文は上図参照)我らが使徒を遣わす場合には、必ずその民族の言葉を使わせる。みなによくわかるよう説明させるために。そうしておいてから、アッラーは御心のままに或る者を迷いの道に陥れ、また御心のままに或る者を正しい道に手引きし給う。まことに偉大な、賢明な御神*4。「……御心のままに或る者を迷いの道に陥れ、また御心のままに或る者を正しい道に手引きし給う」とは、先に言及したような、古典的な二項対立の例で、井筒がまことに鮮やかに解き明かした意味論的図式を明示するものです。このことは、人間の行為の倫理的・道徳的次元における自由意志と選択の問題に通ずるもので、上述の箇所は、人間が正しい道に導かれるか、迷いの道に入り込むかは、全く神の心に依るのだということを明らかにしています。井筒は信仰(īmān)と不信仰(kufr)の間の均衡と緊張の関係という背景とを突き合わせることで、この難問を考察します。そして井筒は適法性と倫理の限界を超え出でて、さらに広大な宇宙的な均衡関係を提示します。その宇宙的な均衡関係は、[人間の]自由意志は神の意志に服従し奉仕し続けること、そしてこの服従と奉仕は人間がその創造者との連携関係にあることの明示であることを前提とするのです。Ⅲ井筒の知的貢献はイスラーム研究を越えて遙か彼方にまで及ぶものです。彼の比較思想における仕事は、イスラーム思想と他の世界的な諸伝統との間に関係を見出し、人間が意味と理解に対して普遍的に行う探求に明るい光を当て際立たせます。多様な哲学的、宗教的なパースペクティヴに向き合うことで、井筒が私たちに示したことは、1つの文化、または伝統の研究はより広い人間的な経験に光を当てることができ、私たち皆を結びつける共通の糸を明らかにするということです。井筒のアプローチの中心にあるものは諸宗教の研究における彼の共感の信条(doctrine)です。そして井筒は共感的な視点といったものを提唱し、学者たちに宗教テクストをそれ自身の概念的枠組みの内側から理解することを促しました。そうして彼は文化間の対話へのよりニュアンスに富む、敬意に満ちたアプローチへの道を整えたのです。以上のこと*5を実際問題として現在の世界に関連付けると、共感がなければ異なる信仰を持つ人々の間に偏見と不信が高まり、それらは抑制されねば、敵意と[互いの間の]恐怖症につながります。このような共感の欠如は、政治や自民族中心主義(エスノセントリズム)など他の要素と結びつけば、例えばイスラーム嫌悪(Islamophobia)を引き起こします。この[欠いてはならない]共感のレンズは種々多様な宗教的、文化的コミュニティーが共存するマレーシアのような文化多元的な社会においてはとりわけ重要です。共感的なアプローチが要請するものは単に許容のみならず、理解と慈悲の心(compassion)です。それらは調和のある、平和な社会を育てるのに無くてはならないものです。共感は私たちが他の宗教に、その信仰を告白する人々の視点に立って耳を傾け、学び、理解することを求めます。不幸なことには、私たちが対峙しているのは、宗教の学者たちや日和見主義な政治家たちなどという、こっそり忍び寄り挑戦を仕かける人々であり、彼らが懐疑と不和の種を撒いているのです。その結果は、宗教を全否定し世俗主義の旗を代わりに打ち振るエリートたちのいくつものグループの出現に見て取れます。アメリカ合衆国でもヨーロッパでも、これは、ことにムスリムたちのような自らの宗教の信仰実践を目に見える形で行う人々に対する、恐ろしくも狡猾な活動のうちに現れ、彼らがその宗教が定めた制約を遵守する権利を否定するのです。政治家たちは己れの国の少数派に向けられた差別や非道な行為を容赦してしまうことで、このような[世俗主義を押し付ける]機会を捉えるのです。私の信ずるところでは、日本では仏教とキリスト教を共に研究することについては、対話のレヴェルと頻度が示すようにとても大きな共感がありますが、イスラームへのアプローチの場合には共感がいささか足りない憾みがあるようです。このために私は貴学を讃えて、私をこの記念講演を行うべくお招きくださったことに深く感謝するものです。愚見ではありますが、もしも私たちが井筒が示した規範と貴い模範に誠実であり続けるとすれば、一方にムスリムがいて、もう一方に仏教徒とキリスト教徒がいる、その間(あいだ)にはより大きな対話があってしかるべきでしょう。私の国マレーシアはちょうど今月初めに宗教指導者の国際会議の第1回目の会合を開催国として迎えたところです。その会議にはより大きな宗教の理解と文化間の対話を成し遂げるべく世界中から宗教家や知識人たちが参加しました。井筒が唱えた、[対話の]探求に忠実であれば、共感はraḥmatan lil 'ālamīn(あらゆる被造物に慈悲を)という概念と、平和のメッセージのうちに命ぜられているようにイスラームにおいては自明のことなのです。クルアーンとスンナのうちに定められたように、社会的調和を促進し保持するべく、他の諸宗教に共感をもって接することはムスリムたるものの義務なのです。しかし、共感は相互に働くべきものです。ちょうど、ムスリムにとって他の諸宗教を理解し、慈悲の心を持つことは不可欠なことであるように、仏教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー、その他の宗教の信徒にとっても同様の共感をイスラームに持つことが必要なのです。これゆえ、そういうアプローチの果実が実際に実を結ぶべきであるとすれば、宗教指導者たちには相互に共感を抱くというメッセージを広大な信仰の領域を横断して伝える義務が課せられます。挑戦的な課題に満ちた世界で理想を現実化することは、井筒の教えを立証するものとなりましょう。共感の呼びかけは、大衆迎合主義(ポピュリズム)や極右の民族的または宗教的過激主義が優勢な世界では、ことに選挙で再選を求める政治家たちには、とても容易いものでも都合の良いものでもないアプローチかもしれません。私たちはこのようなことを世界中で、ことにヨーロッパとアメリカ合衆国で見ます。このために文化間の対話の必要性はこれまで以上に喫緊の課題となっております。これに関しては井筒の『スーフィズムと老荘思想:比較哲学試論』(Sufism and Taoism: A Comparative Study of KeyPhilosophical Concepts[仁子寿晴訳、慶應義塾大学出版会、2019])はそのような探求と献身を良く例証するものとなっております。スーフィズムと老荘思想の形而上学的、かつ神秘主義的な思想のシステムを考察することで、井筒は歴史的なつながりを欠くのにもかかわらず、[2つの思想の間に]共有される特徴とパターンを見出したのです。この著作は歴史を超えた対話への秘められた可能性を明確に示すもので、比較哲学と比較神秘思想の研究へ向けて新しい扉を開いています。比較宗教研究については、非難する人たちは[宗教間の]相違点を探す傾向がありましたし、また支持する人たちは共通点を求めたものです。後者のアプローチは共感をもってのみなし得るものです。『スーフィズムと老荘思想』の中でそのことを「共感的志向」(sympathetic intention)と呼んでいます。井筒はイブン・アラビー(Ibn ‘Arabī 1165-1240)と道家の老子(Lao-tzu 生没年不詳)と荘子(Chuang-tzu 生没年不詳)の諸著作における認識論的な範型と存在論的構造を探求し、それらの間の深い類似性を明るみにしました。スーフィズムも老荘思想もともに絶対的人間(The Absolute Man)と完全人間(The Perfect Man)などの概念の上に基礎づけられており、そのことは異なる文化がそれぞれ独自の旅路を辿りながら形而上学的レヴェルでは[共通の]深遠な真理に達することが可能であることを示しています。この比較分析は人間の精神性の普遍的側面と、究極的現実の理解の、共有の探求に強い光を当てて明示しています。ではいったい、その「現実」(reality)とは何でしょうか?まさにいま、この大切な時に、かの偉大な著作から引用するのも有益でしょう。だが、イブン・アラビーによれば、その類の『現実』は語の真の意味での現実ではない。言い換えれば、そうしたものはありのままの〈在る〉(wujūd)でない。現象世界の現象した事物の実在感が、眠り、それらを夢に見る者にわからないのと同じく、この現象世界に生きる限り、〈在る〉の形而上的実在感はわからない*6。完全人間の概念については、井筒は次のように述べます。同じ存在論的「包括性」がすべてのひとにおのずから備わるものの、すべてのひとが己れの「包括性」に同程度に気づくわけでない。己れの〈名〉と〈属性〉を神が〈意識〉する状態に極めて近い最高度の明晰さから、全くの混濁と事実上変わるところのない最低の明確さまで、さまざまな程度の違いをもって彼らはこれに気づく。最高度の明晰さにおいてのみ、ひとのこころは「磨かれた鏡」の役割を担う。最高度の明晰さをもって初めて、〈人間〉は完全人間としてありうる。これがこの問題全体の要点である*7。また井筒俊彦に讃辞を捧げるに際しては、この分断が進む世界においては文明の対話が焦眉の急であることに思いを致しましょう。いま、反啓蒙主義、頑迷、不寛容が盛んとなり、 それらは社会を分断し、世界の平和を損なうほどの脅威となっています。共感と[相互の]理解と尊敬を推し進めることで、私たちは分断を進行させる勢力に対抗して、種々多様な文化、宗教、国民の間に橋を架けることができるでしょう。さらに知により啓発され共感に満ちた国際社会──それは我々が共有する人間性を認識するために目下の様々な相違を超えて視線を定めることができる──を育て上げる。そうすることで私たちは協力関係と相互の尊敬が広く行き渡る世界を創り出すことができるのです。この[私たちが提唱する]対話は私たちそれぞれの唯一無二のアイデンティティーを抹消するためのものでなく、それらを、豊かなで多様な、そして相互に結び合う人間の体験を作り上げる一部として讃えるためのものなのです。Ⅳさて、ご来賓の皆様方、お越しのすべての皆様方。慶應義塾大学の、創意と影響力に満ちた学術活動を促進してきた豊かな歴史は、井筒の遺産を讃えつつさらに展開させるために完璧な舞台を提供しております。知識の限界をさらに[遠方へと]押し拡げ、社会の改善に貢献する学者たちを育成することで、慶應義塾大学はその創設者のヴィジョンと井筒の画期的な仕事を生み出した理想に栄誉を与え続けています。私たちが現在の国際情勢の眺望に思いを致せば、井筒が共感と対話に重きを置いたことはさらなる重要性を帯びてまいります。分断と誤解に満ちた世界においては、井筒のアプローチは文化の相違に架橋するばかりでなく、抑えの効かない物質的な利益と富の追求を和らげ改善へと向かわせる対抗策を供するものです。様々な価値へ心を向けなくなった、慈悲の心と人間性に欠ける世界では、また知的な探究が規則であるよりはむしろ例外的な行為となるところでは、社会は道徳における羅針盤を奪われ、その行き着くところは幻滅、冷笑、懐疑、そして不安となります。井筒俊彦の生涯と業績に栄光を帰するに際しまして、彼の揺らぐことなき知的な厳格さへの、文化間の理解への、そして言葉と共感の力への献身、またおそらく何よりも重要なことですが倫理と道徳性の卓越性への献身、それらから触発を受けて精神の力を得ましょう。さらに私たちを1つに結びつける知識を求め、様々な境界を越えて意義ある対話に従事し、[相互の]理解と共感が分断と不寛容に対して大きな勝利を収める世界を築き上げるために倦まず弛まず働く──そうすることで、井筒の遺したものをさらに前進させましょう。井筒の生涯と心はまさしく諸文明の祝祭、すなわち多様な知的伝統の調和のある混合が、私たち自身の、そして互いの理解をどれほど豊饒なものとし得るか、その1つの模範なのです。彼の遺産を褒め称え、彼のような学者たちの功績を探り続けていくに際しては、私たちは知識の追求とは目的ではなく、より公正な、共感に満ちた、そして統合された世界を築くための手段であることを思い起こしましょう。井筒の記憶に栄光を帰しましょう──彼の共感の精神を受容し、理解されることを欲する前に理解することを求めることによって、かつ叡知と慈悲の光が無知と憎しみの闇を打ち払う未来の創出に力を尽くすことで。ご清聴有難うございました。(訳者付記:ここに訳出したのはマレーシア首相アンワル・イブラヒム氏が2024年5月24日、慶應義塾大学三田キャンパスを訪問した折に、"A Feast of Civilizations: The Life and Mind of Toshihiko Izutsu"と題して行った講演である。題名にある"Feast"だが、ここでは宗教的な意味を残す「祝祭」と訳してみた。オリジナルの原稿には章区切り、セクション区切りなどなく、パラグラフごとに行間を空けるだけで続いているが、訳文では読者の便宜のために、訳者が読み取った内容にそくして仮に4つのセクションに分けてみた。各セクションの内容をざっと示すと、I はじめに、Ⅱ 井筒がクルアーン研究で試み成し遂げたこと、Ⅲ 井筒の「共感」の信条、Ⅳ 結びに代えて、となるだろうか。アンワル氏の英文は豊かな語彙を駆使した達意の名文というべきもので、訳出にあたっては、文意が日本語で平易に伝わるよう、時には言葉や表現を略し、かつ時には原文にはない日本語の表現を加えて補訳を試みた。その一部は[ ]の中に入れて示した。またアンワル氏が言及した思想家の名には原語のラテン文字表記を添え、かつ生没年を記した。ただ老子と荘子については名前のラテン文字表記はアンワル氏の表記に従った。またその生没年は諸説あり定め難いので「生没年不詳」と記した。さらに原文でラテン文字に翻字の上表記されたアラビア語の単語や節からは専門的な付加記号は省かれているが、ここでは主にアメリカ議会図書館式(ALA-LC Romanization Tables-Arabic 2012 Version)にもとづき──一部は訳者の方法によるが──あらためて表記した。なお訳文の校閲については、石丸由美氏(慶應義塾大学言語文化研究所非常勤講師)と豊田泰淳氏(日本学術振興会P.D.[早稲田大学] )のお世話になった。また井筒俊彦の特別な用語、概念の訳出については小野純一氏(自治医科大学医学部准教授)にご意見を伺った。記して深く感謝したい。言うまでもなく、訳文に如何なるものであれ、間違いや不明確なところがあれば、それは訳者の責任である。さらに最後になり恐縮であるが、山本信人先生(慶應義塾大学法学部教授)はご多忙の中、素晴らしい序文を寄せられた。あつく御礼を申し上げたい。[野元 晋])【註】*1 原文では"True translation is transparent, it does not obscure the original, does not stand in its light, but allows pure language, as if strengthened by its own medium, to shine even more fully on the original"である。アンワル氏がどの英訳を用いたか本文では明らかにされていない。ベンヤミンのドイツ語原文での該当箇所は例えば以下の版に見られる。Walter Benjamin, "Die Aufgabe des Übersetzer," in Walter Benjamin, Gesammelte Schriften VI. 1, hrsg. Tillman Rexroth (Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag, 1980), 18. 英訳の一例は以下に見られる。W. Benjamin, "The Task of the Translator," in Walter Benjamin, Selected Writings, vol. 1, 1913-1926, ed. Marcus Bullock and Michael W. Jennings (Cambridge, Mass./London, England: The Belknap Press of Harvard University Press, 1999), 260. 日本語訳は例えば以下のものがある。ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の課題」、『暴力批判論他十篇:ベンヤミンの仕事Ⅰ』野村修編訳(岩波書店[岩波文庫]1994)86ページ。*2 アンワル氏は"hadaya"と綴っている。*3 クルアーン第14章。イブラーヒームはアラビア語でアブラハムである。*4 井筒俊彦訳『コーラン』中(岩波文庫1964; 改版2009)66ページ。*5 「以上のこと」(this):前のパラグラフにある、文化間の対話をことに諸宗教の対話を中心に行うことを指すか。*6 井筒俊彦『スーフィズムと老荘思想:比較哲学試論』上、仁子寿晴訳、13ページ(英語オリジナル: T.Izutsu, Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts,Tokyo: Iwanami Publishers, 1983, p.7)。なお引用文の一部のゴシックによる強調は、引用者アンワル氏によるものであり、翻訳においても残した。*7 井筒俊彦、前掲書340〜341ページ(英語オリジナル: T.Izutsu, Ibid., p.247)。引用文の一部のゴシックによる強調は前の註を見よ。※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。スーフィズムと老荘思想 上 比較哲学試論 [ 井筒 俊彦 ]価格:5,940円(税込、送料無料) (2024/11/13時点) 楽天で購入 【送料無料】クルアーンにおける神と人間 クルアーンの世界観の意味論/井筒俊彦/著 鎌田繁/監訳 仁子寿晴/訳価格:6,380円(税込、送料別) (2024/11/13時点) 楽天で購入 コーラン 中 (岩波文庫 青813-2) [ 井筒 俊彦 ]価格:1,111円(税込、送料無料) (2024/11/13時点) 楽天で購入 【送料無料】スーフィズムと老荘思想 比較哲学試論 上/井筒俊彦/著 仁子寿晴/訳価格:5,940円(税込、送料別) (2024/11/13時点) 楽天で購入 ベンヤミン 危機の思考 批評理論から歴史哲学へ / 内村博信 【本】価格:3,080円(税込、送料別) (2024/11/13時点) 楽天で購入 【送料無料】スーフィズムと老荘思想 比較哲学試論 下/井筒俊彦/著 仁子寿晴/訳価格:5,940円(税込、送料別) (2024/11/13時点) 楽天で購入