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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史
満州事変は単なる関東軍の暴走ではありません。
まず背景に、①約束を守らない支那があります。 そして、②それに対して有効な手立てを打てない日本政府がいます。 ここに経済不況も重なり、③これに対しても有効策が打てない日本政府。 国民も不満が高まります。 そこに、ガツンとかました関東軍。 メディアが乗っかり褒めそやして民意が同調します。そのため日本政府も関東軍を強く抑えられなくなります。 ④支那の横暴は止まらず、軍を抑えられない日本政府が更に国際孤立、、、となります。 【①約束を守らない支那の横暴】 支那は約束を守りません。今も。 蒋介石が北伐を進めて支那の領土が増えていき、かつ、赤化が進むにつれて横暴が更に際立っていきます。 日本とは3000件といわれるほどの懸案事項があがってしまっていました。 日本だけではありません。欧米列強とも様々な懸案があったのです。 関税自主権の回復、治外法権の撤廃、これらは日本の場合、富国強兵することで勝ち取りました。 しかし、支那は違います。暴力により無理やり承認させたのです。 欧米はあまりの横暴さに手を焼きます。 1927年の南京事件で、日英米の居留民は恥辱凌辱を受け、英米は軍艦から艦砲射撃をして支那に報復しましたが、日本は不干渉を貫きました(幣原外交)。英米が一緒にやろうと誘ったのにです。 特に第一次世界大戦後、米は日本を警戒して事あるごとに反日姿勢を示していましたが、この時は協調を誘ったのです。これを拒否して、またも心証を悪くしてしまいます。 日本としては、米英が理解を示してくれていたこの時に協力して支那を叩き、約束を守らせるチャンスでした。(3か国で叩いても守らなかった可能性も高いですが・・・) しかし、米英は1928年、関税自主権の回復を認めます。もう諦めたのでしょう。。。 むしろ、協力をしなかった日本を敵視するようになります。 1929年11月、ソ連も満州へ侵攻します。 張学良政権の易幟により、蔣介石の国民党軍に降伏してから排外運動がより激化。 東清鉄道の通信機器を実力回収に踏み切った結果、ソ連が侵攻したのです。 ところが、この時アメリカはソ連を批判していません。 日本の満州事変には激しく非難したのにも関わらずです。 ここもアメリカの日本敵視政策が見えてきます。 【②有効な手が打てない日本政府。そして国際孤立へ】 3000件とも云われる程の事項があがっていながら、解決策が打てない日本政府。 ズルズルと支那の横暴に引きずられ、更には南京事件の協調タイミングを逸して米英からも疎外され。。。 当然、世論も「政府何やってんだよ!国民の生命財産守れよ!」となります。 この帰結が満州事変です。 9月18日の柳条湖事件より始まった満州事変ですが、日本政府は9月24日に不拡大方針を発表。 一方で国連には、この問題解決のための中華民国政府との交渉にあげるものとして ・両国は相互不可侵 ・中華民国の領土保全の尊重 ・中華民国は国内の反日ボイコット・反日宣伝を取り締まる ・中華民国は満州の日本人の生命、財産を守る ・中華民国は条約を尊重 日本の思いは上記の主張に集約されています。逆に、中華民国がやってきたことが分かるというものです。 しかし、政府の不拡大方針に反して、支那の挑発も更にエスカレートするのと、関東軍はもはや中華民国と別の国にしないと3000件の案件も解決しないと思っているので、どんどん戦火を広げていきます。 国連はリットン調査団を派遣して満州の実態調査をおこないます。日本は受け入れる条件として、満州での匪賊討伐権を認めさせます。このことからも匪賊だらけの国で、約束を守るも何もない国というのが分かります。 (満州建国の1932年2月時点で、匪賊は20万もいたとされますが、1933年2月には掃討しました。そのため、満州は人口も増えて栄えていくのです。日本のおかげで) 調査報告は事件の翌年1932年10月に公表。 □支那における反日ボイコットは多少なりと中華民国に責任がある □中華民国は、1931年9月(満州事変勃発)時点での条約は守れ □日本が撤退するための準備として、満州の平和を維持するため、有能な憲兵隊が組織されないとダメ なんと、中華民国の非を認めた内容なのです!やはり列強も分かっていたのです。 蒋介石は屈辱的な内容であると言ったそうです。 ただし、支那の横暴が続くので、関東軍は進撃を止めません。 このため、「日本の満州に対する権益は認めるが、満州国は認めない」ということになり、世論は激高、これに引きずられるように国連脱退に至ってしまったのです。 日本政府の動き、どうでしょう?? 満州での支那の横暴を解決できず、事態は悪化の一途。かといって、満州国を作ろうなどとは考えてもおらず、満州をまとめられる政権を支持するという姿勢でした(1927年東方会議)。 だから現地の関東軍が満州事変を起こすと、「これ以上騒ぎを大きくするなー」と不拡大方針を出します。 そのくせ、リットン報告書で、満州国建国は認めないと云われると、国連を脱退してしまうのです。。。 この一貫性の無さが、日本政府の問題点でもありました。 勿論、満州事変を受けて若槻内閣が総辞職したり、その後の犬養内閣も、五・一五事件で犬養首相が暗殺され総辞職したり、など、内閣がコロコロ変わっていたというのもありますが、あまりにお粗末でしょう。 【③不況に対しても手が打てない日本政府】 タイミングの悪いことに経済不況も日本を襲います。これに対しても有効策が打つことができません。 支那の案件も相まって、国民は政府に不満を募らせます。 1931年濱口雄幸首相銃撃、1932年の血盟団事件、五・一五事件は、首相などを狙った事件です。血盟団事件は実際には首相は殺害されませんでしたが、五・一五事件では犬養首相が暗殺されます。(濱口首相はその後、銃撃の傷が元で死亡) そして、1936年の二・二六事件も政府中枢を狙ったテロです。 陸軍内の派閥争いなどの要素もありましたが、背景に貧困・格差があり、これに対して有効な手立てを打てなかった政府に対しての不満があります。 そして、血盟団事件、五・一五事件に関しては首謀者に甘い判決が下りました。同情的な民意もあったからでしょう。(民意が裁判に反映するなどあってはならないのですが・・・) そのくらい国民も、支那問題への無策ぶりと、貧困・格差問題に対しての政府への不満があったのでしょう。 軍部も政府へ不満がありました。 それは第一次世界大戦後の、ワシントン海軍軍縮会議です。もう戦争は嫌だ!軍縮を決めようという列強の話合いの中で、海軍力を抑え込まれることになったのです。 続く1930年ロンドン海軍軍縮会議でも米英に対して抑え込まれます。 国民、軍部、共に現政府に対して不満がありました。 そして、軍部によるクーデター・テロは、政府を更に委縮させ、軍を抑えることが出来なくなっていき、国際孤立が進み、支那問題解決をより困難にしていくのでした。 【④続く支那の横暴、そして支那事変へ!】 手が打てない日本政府を嘲笑うかのように、支那の横暴は続きます。 その度に協定を結ぶのですが、破り続けるという満州事変に至る道と同じ道を辿ります。 この帰結が1937年7月7日の支那事変です。 満州事変以降も、こんな感じで案件が沢山起きています。 ※蒋介石が共産党勢力に捉えられ、再度手を組まされたのは日本にとって不幸でした。いよいよ中華民国政府が、赤化共産党と一つになって、日本に嫌がらせを最大限エスカレートしていきます。 満州事変は支那の横暴に対して、現地人や日本の権益を守る為に一部の関東軍が計画的に引き起こしたものでした。 しかし支那事変は違います。数々の支那の挑発(盧溝橋事件)によりズルズルと引き込まれるように引き起こされたのでした。(支那側の発砲ということは分かっています。) やはりこの時も、日本政府は不拡大方針を出しますが、世にも恐ろしい通州事件が起こります(7/29)。 これはシベリア出兵の時の尼港事件と同じ共産勢力による惨殺事件です。 これで日本世論は激高。いよいよ支那との全面衝突が避けられないかとなりますが、それでも中華民国政府と関係の深い船津辰一郎氏を派遣して、和平工作を試みます。 この内容としては、満州事変以降に得た権益を全て返すという非常に寛大なものでした。 しかし、やっぱり徴発・虐殺が続き、これも破談します。 特に8月13日より勃発した第二次上海事変はひどいものでした。 蒋介石軍は日本軍のみならず、米英仏など外国人をも攻撃し、これを日本軍の仕業と触れ回り、外国を干渉させます。 支那のあまりの横暴ぶりに、欧米の仲裁を日本は丁重に辞退し、上海を制圧しました。 これを受け、再度、和平交渉をしますが(第一次トラウトマン工作)、同じ結果でした。徴発・虐殺が続くのです。 そうこうする内に、戦火は拡大し、日本軍は南京まで占領することになり(1937年12月)、和平の条件が上がらざるを得なくなり、再再度の和平交渉も実らず(第二次トラウトマン工作)、ついに時の近衛首相は「蒋介石政府を相手とせず」・・・と話し合い放棄になってしまうのです。(近衛声明) またも、リットン調査団の時と同じ、最後は切れてしまうのです。 最終的に切れるなら、最初から米英と手を組んで叩いておくべきだったのです。 それが、「いいよ、いいよ」で支那が付けあがり、寛大な処置に対して虐殺・惨殺の返礼を受け、関東軍が反撃をすると不拡大方針を出すのに、抑えられなくなって最後は切れる・・・ 日本だけで切れてしまうから、米英から不信感を抱かれ国際孤立していくのです。 米英と上手く足並みを揃えて対処できなかった外交の失敗と、国内テロを恐れ軍を強く抑えられなかったことが、日本をズルズルと戦火の渦の中に巻き込んでいくことになるのです。 そして、米英との戦争にも引きずり込まれていくのです。 ただ、日本は悲惨な戦争に引きずり込まれた大本の原因として、支那の横暴があったことは絶対に忘れてはならないです。 <補足:南京大虐殺というプロパガンダ> 日本は敗戦国になってしまった故、この時の南京占領で大虐殺をしたと言われっ放しで、情けないことに日本国民でそれを信じている者もいますが、上記のようにそれはありません!以上! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年08月10日 11時07分23秒
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