空想俳人日記手塚治虫作品限定版

2006/10/08(日)00:03

手塚治虫「人間昆虫記」

ナ行(4)

角質化の 皮を剥いだら 空洞か   アクトレスから演出家、デザイナー、小説家、さらには、経済人、フォトグラファーなど、まるで昆虫が脱皮するかのごとく、様々な才能を見につけて変貌しつづける十村十枝子、本名は臼場かげり。うすばかげろうを連想させる。何も昆虫やうすばかげろうが、そうだとは言いませんが、古い表皮を脱ぎ捨て新たな表皮を形成する彼女のそれらは、すべてが模倣です。  まさに現代のマスコミ社会、ビジネス社会の中で見事に自らを商品化し生き抜く術を演じる彼女は、何も特別に変わった人間ではないんじゃないでしょうか。自分とは何か、自分らしさとは何か、そんな疑問を自己に投げかける前に、社会は、自分をどんどん評価していってくれます。その評価を思えば、自分の中身など、どうでもいい。育たなくてもいい。評価される表面が仕上がればいい。彼女は、中身はまだ母の母乳を欲しがる幼児だ。  即自と対自の乖離が哲学で述べられた久しいが、そんな哲学を現代人は知りません。あるいは知識人の遊び道具だと思っているくらいでしょう。役立たずなアカデミズムという人もいます。しかし、学問とは、学問ありきではなく、様々な生き方を統合しようとして生まれた集大成のはず。地に付いていない学問など、もともとありません。  私たちが、勝手に地から離れたところ、表層で物真似しているだけです。それが現代人の現代人たる姿だと思います。子どもの給食費を払わず自分の携帯電話代に回すとか、素手で食事する子どもに無頓着だとか、そんな母親が多い、なんて話も聞く昨今。私たちが夢見る人間像が、何のことはない、この作品の、臼場かげりでしかないことを、痛いほど知らされるのです。

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