|
カテゴリ:私とダンナの物語
「お笑い系」で中断していた物語の続きです^^;
夜中に自分を苦しめる気配と金縛りを何故か自分の手で押し戻したとき、 「うそぉ?私アレを押し戻した??」と驚いていた。 「ほんまに神とか仏とかが居て助けてくれたんやろか?」とも。 なんだか驚きと共に「希望」のような感覚がうっすらと湧いた。 でも、実際にはここからが本当の闘いの始まりだったのだ。 「押せるんだ!」と 「知らんかったぁ!」と驚いた。 もう絶対に逃れようのない圧迫だ、と思っていたから。 久々に嬉しいことが自分の人生に起こった!というような感覚だった。 でも、そこから始まった。 「毎日起こる金縛り」が。 なんだか向こうも「焦った」のではないのか?と思ってた。 今までまんまと恐怖に落ちてた私が抵抗を始めたのだから。 それからは「とらえられて」は押し返す、を眠りに落ちる前に何度も繰り返すことになった。 それまで週に2回?程度だったものが毎日、に近い状態になったのだ。 毎日とらえられて毎日押し戻した。 そこから、少しずつまたそれは「間が開くように」なっていった。 とても不思議だった。 「助けを求めたら」助かったことが不思議だった。 でも、仏教には馴染みがあったのだけれど縁もゆかりも?その時までには感じなかったキリスト?が自分を助けてくれてるような気がして意外だったけれど、すごくワクワクした。 キリスト、とは? と思ってなんだか知らないけれど、なぜそれに行き当たったのかおか遠藤周作の「死海三部作」をなぜか読んで号泣してしまった。 今は遠藤周作さんの作品は彼独自の視点で描かれた創作の世界だ、と思っている。 それまでキリストの生涯に関してはごくごく一般的な知識しかなかった。 小学生の高学年のころ、図書館で「旧約聖書」を借りて一気読みして神様が怖いことに驚いた。 あれは試す神、制限する神、裁く神の話だったという印象が残っていて怖かったのだ。 それにめげて新約聖書を読まなかった。 だからほとんど私はキリストには詳しい知識がなかった。 ただ、幼いころに父がおそらくは単に「トルストイだから」と買ってきた「トルストイのこどものための全集」全10巻ほど?を読んで、やれ巡礼だ、やれ神だ、と出てきてビックリした記憶だけがある。 ロシアの人は普通の人がそんなにも神を慕う、ということがわからなかった。 でも、巡礼に行った人ではない、普通の心優しきイワンの頭上に 蜂が群れて「聖人であること」の証明のような輪をつくり 神は彼を祝福したのだ。 聖地巡礼しなかった、ごくごく当たり前に周りの人を、生活を、 愛した男に今から思うと「聖痕」、当時は「天使の輪」が現れた、という のを見て巡礼に行った金持ちが嫉妬している、という話があり 子ども心に その子ども向きの本のイラストを見て、なんだか「ざまあみろ!」と思った。 その指し絵だけはハッキリ覚えている。 とても細かい絵だった。蜂の天使の輪、がとても神々しく子どもの目に見えた。 でもその17歳の頃の私にとって「遠藤キリスト」はとても近い場所に居る心やさしき、痛みを持った一人のかつて生きていた人、としてもっと心に響いたのだ。 何よりもキリストなのか誰なのかはわからないが私のあの「恐ろしかった夜」を変えてくれたのだ。 押さえ込まれそうになって押し返す、をどれくらいの期間繰り返したのか明確には覚えていない。 おそらくは数週間から2カ月程度ではなかったか、と思う。 そして今でも忘れられない光景の「最後の夜」が来た。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[私とダンナの物語] カテゴリの最新記事
|
|