『第六行仏威儀』第二十二段②〔これが行仏の威儀である〕
『正法眼蔵』原文〕これ行仏の威儀なる、任心任法、為法為身の道理なり。さらに始覚・本覚等の所及ショギュウにあらず。いはんや外道二乗、三賢十聖ジッショウの所及ならんや。この威儀、たヾこれ面々の不会フエなり、枚々の不会なり。たとひ活撥々地カッパツパツチも条々聻ジョウジョウニイなり。〔抄私訳〕「これ行仏の威儀なる、任心任法、為法為身の道理なり。さらに始覚・本覚等の所及にあらず。いはんや外道二乗、三賢十聖の所及ならんや。」とある。「行仏の威儀なる」ときは、心は心に任せ、法は法に任せ、身は身に任せる道理である。確かに、今始めて始覚(始めて覚ること)・本覚(本来の覚り)等から伝わるような道理ではないのである。「この威儀、たヾこれ面々の不会フエなり、枚枚の不会なり。たとひ活撥々地も条々聻なり。」とある。「面々」とは、「任心」「任法」「為身」等をあげるのである。これらに限らず、万法をあげるべきだが、まず近いものついてこれらを示すのである。「不会」とは、「法」の全体を指して言う「不会」(渾然一体として分からない)である。「枚々」とは「面々」というのと同じことである。「活撥撥地」とは活き活きとした意味合いであり、解脱の言葉である。魚の尾を働かせるのにたとえるのである。どこまでも際限がなく残る所がない意味合いである。〔聞書私訳〕/「この威儀、ただこれ面々の不会なり、枚々の不会なり」とは、引き続きの上を言おうとして、「これ面々」と言うのではない。「任心任法」の言葉を言うのである。〔『正法眼蔵』私訳〕これが行仏の威儀(たった今の様子にいる仏の身心のすがた)であり、心に任せ法に任せ、法の為にし身の為にするのは、この道理である。(これ行仏の威儀なる、任心任法・為法為身の道理なり。)この行仏は決して始覚(始めて覚ること)や本覚(本来の覚り)等の及ぶところではないのである。(さらに始覚本覚等の所及にあらず。)ましてや、外道や二乗や修行段階にある菩薩の及ぶところではない。(いはんや外道二乗、三賢十聖の所及ならんや。)この威儀(身心のたった今の様子)は、ただ各人の不会フエ(渾然一体として分からない)であり、それぞれの不会である。(この威儀、ただこれ面々の不会なり、枚々の不会なり。)〔我れにある三昧我れもまた知らず、これを不会と言う。潜行密用とはこれである。〕魚がピチピチと勢いよくはね上がる様子も、一々みな行仏そのものなのである。(たとひ活撥撥地も条条聻なり。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村