|
テーマ:仏教について思うこと(1211)
カテゴリ:正法眼蔵
〔『正法眼蔵』本文〕 無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライのゆゑに。 始起有の有にあらず、平常心是道ビョウジョウシンゼドウのゆゑに。 〔聞書私訳〕 /「始起の有(始めて起こる存在)にあらず」と言い、「始起有の有にあらず」と言い、中ののの字一つを加えたり減じたりするのは、区別する意があるのか。これは、「本有ホンヌの有ウ」に対して説く時は、「始起の有」と説き、「無始有」に対して説く時は、「始起有」と、のの字を始起有の中に置かずに説くのである。特段の意図はない。文字を相対アイタイするだけである。 /「無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。」〈悉有は、始まりが無い存在でもない。この何物〈仏性〉がこのように現前しているからである〉とは、何物を指して、この存在だと言えるところがないことを、「是什麽物」と言うのである。 /「無始有の有にあらず」とは、始めが無いことを無始と言う。衆生のことを言うのに、その始めが、極めて隔たっていて知り難く、終わりもまた、いつまでということがないことを無始無終と表す。これは、大体において考え方が小さく、極めて隔たっていることを知らない言葉と思われるので、ここでは「無始有の有にあらず」と斥けられるのである。 仏は始終に係わらないことであるから、無始無終と言う。衆生もまた仏と変わらないので、無始無終である。生仏一如ショウブツイチニョということがあり、生とは衆生のことである。例えば、衆生と仏と一如(等しく一体)と説く。これも無理して仏も衆生も同じとは言い難い。 衆生というのも、仏というのも、この「悉有は仏性なり」の意味で理解されるが、このような説について、教家においても、また、無始有終ということがある。始めは知らないことであるから無始と言うが、終わりは、どうして無いわけがあろうか、ということである。 この流転の衆生が、或いは善知識に従い、或いは経巻に従って、成仏得道したなら、すでに終わりがあるように見える。このことは、まったく世間の考えと同じである。しかし、まったく仏には始終がないから、この教説は用いることはできない。 /「吾常心是道ゴジョウシンゼドウ」(吾が常の心、是れ道なり)。この「吾常」仏道である、疑うまでもない。我々の思慮分別の心を仏道で用いてはならない。 〔『正法眼蔵』私訳〕 仏性は、無始無終のものでもない、この何物〈仏性〉がこのように現前しているから。(無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。) 仏性は、始めてできるというものでもない、変わりのない心が仏性であるから。(始起有の有にあらず、平常心是道のゆゑに。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.11 07:46:51
コメント(0) | コメントを書く
[正法眼蔵] カテゴリの最新記事
|