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テーマ:仏教について思うこと(1198)
カテゴリ:正法眼蔵
〔聞書私訳〕 /近頃の禅僧が盛んに修行僧に示す言葉では、今問法に来たその人自身(主人)が、「却知有」(却って有ることを知る)に当たる、法を問い法を学ぶからである。お伴の若い僧こそ「不知有」(有ることを知らず)であるので「三世諸仏」と言うのだなどと言うが、これは信じ難いことである。
「大地全収のまなこ」があって、「眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに」こそ、「不知有を保任せる三世諸仏あり」と許されるのである。すべて不学・不知であれというのではないのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕 さらに、収束したり放散しない光明がある、 僧堂・仏殿・庫裡・三門、それぞれが光明そのものである。 (さらに收放にあらざる光明あり、僧堂仏殿廚庫山門なり。) 〔万物はそれぞれ自己の光明を放っている。白菊は白く光明を放ち、 紅葉は赤く光明を放つ。人もやはり光明を放っているのだ。〕
さらに言えば、行仏(たった今を行ずる身心)には、 十方に通達する眼があり、大地を全て収める眼がある。 (さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。)
みな”たった今”あるだけである。 (心のまへあり、心のうしろあり。)〔過去を悔やんだり、未来を心配したりするのも、たった今そういう思いが浮かんだだけである。〕
このように眼耳鼻舌身意の光明の功徳が盛んであるから、 たった今以外のどんなものも有ることを知らない(不知有) という境地を保っている三世の諸仏があり、
などど言う狸や白牛の輩もいる。
不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯あり。)
このつかまえどころがあり、この眼があるのは、 法(たった今)が行仏(たった今を行ずる身心)を説き、 法が行仏を許すからである。
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最終更新日
2025.01.06 09:21:27
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