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テーマ:仏教について思うこと(1172)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 玄砂ゲンシャいはく、 「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。
かならずしもしかあらざるなり。
しるべし、雪峰の道は、玄砂の道と別なり。
いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、 玄砂は、三世諸仏の聴法を道取するなり。
〔抄私訳〕 「玄砂いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。この道をきゝて、玄砂の道は雪峰の道よりも道得是ドウトクゼなりといふ、かならずしもしかあらざるなり。 しるべし、雪峰の道は、玄砂の道と別なり。いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、玄砂は、三世諸仏の聴法を道取するなり」とある。
雪峰は、火焔(たった今)を道場とし三世の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)が大法輪(たった今の在り様)を転ずる(変化させる)と言い、玄砂は、火焔の説法を三世の諸仏が聴く衆とする所が、抜群の言葉と思われる。
したがって、「玄砂の道は雪峰の道よりも道得是なりといふ」とあるが、この義はそういうことではなく、玄砂の言葉が大いに響く所をこのように言うのである。決して浅深勝劣があるはずがない言葉と心得るべきである。
雪峰は、火焔の中で三世諸仏が大法輪を転じるのであり、 玄砂は、三世の諸仏が聴くものとして火焔(たった今)が説法する(たった今の在り様を説く)のである。
これをしばらく「雪峰の道は、玄砂の道と別なり」と言うのであるが、 ただ同じ言葉、同じ意なのである。
〔聞書私訳〕 /「玄砂院宗一大師いはく、 「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」とある。
/仏の出世に必ずしも説法する所はない。 説くものと説かれるものを言わず、常説法を聴聞に替えるのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕 玄砂は言う、「火焔(たった今)が三世の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人のために法(たった今の在り様)を説くと、 三世の諸仏は地に立って法(たった今の在り様)を聴く」。 (玄砂いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。)
この言葉を聞いて、玄砂の言葉は雪峰の言葉よりも勝れていると言う者がいるが、必ずしもそうではない。 (この道をききて、玄沙の道は雪峰の道よりも道得是なりといふ、 かならずしもしかあらざるなり。)
知るべきである、雪峰の言葉は、玄砂の言葉とは別である。 (しるべし、雪峰の道は、玄沙の道と別なり。)
雪峰は、三世の諸仏が大法輪(たった今の在り様)を転ずる(変化させる)処を言い、 玄砂は、三世の諸仏が法(たった今の在り様)を聴くことを言うのである。 (いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、 玄沙は、三世諸仏の聴法を道取するなり。)
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最終更新日
2025.01.20 08:56:51
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