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2025.01.24
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カテゴリ:正法眼蔵

『正法眼蔵』原文〕

「転法輪」といひ、「転大法輪」といふ、その別あるか。



転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。



しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。



〔抄私訳〕

「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とある。



これは、「転法輪」「転大法輪」とある。「説法」は玄砂の言葉で、「転大法輪」は雪峰の言葉であるから、「説法輪」と「転大法輪」と言うとあるべきだが、ともに「転法輪」「転大法輪」とあるのは不審である。



だから、原本には「転法輪」の傍に「説」と付いているのである。説と転は、ずっと違うのではないが、雪峰と玄砂の言葉をしばらく「別ある」と言われるからにはこの言葉は疑問である。



「転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや」とある。



雪峰は「転大法輪」と言われ、玄砂は「説法」と示される。しばらく「法輪」を「法輪」として置き、「説法」を「説法」として置くという一応の考えである。



だからといって、ずっと違うのではない。これは、間違いなく「説法」は口業クゴウのはたらきであり、上の聖人が下の者に受けさせるものと思うのは、凡夫の妄見(間違った考え)である。「説法」のすがたが、他の為でない道理が明らかである。



〔聞書私訳〕

/「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とは、同も別も二つの義があろう。そのわけは、大乗を説くのは「大転法輪」と言うからである。



「転法輪」とは、仏の金口より出ることは「法輪」であり、小乗も説く仏法東漸トウゼン(仏法が次第に東方に伝わったこと)ということがあり、仏法がインドより伝わって始まったことは、『四十二章経』(最初の漢訳経典)にある。これは、小乗の経であるが仏法東漸と言い、天台の初心の論議(意義を論じること)である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

〔玄砂は火焔が三世の諸仏のために〕説法(転法輪)すると言い、〔雪峰は三世の諸仏が火焔の中にあって〕大法輪を転ずると言うが、両方の言い分に違いはあるか。

(転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか。)

〔自問自答だ。〕



転法輪(たった今の在り様を転じる)は説法だけではない、

説法は必ずしも他のためにするだけではない。

(転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。)

〔坐禅、礼拝、念仏、喫茶喫飯、あらゆる行住坐臥はみな転法輪(たった今の在り様を転じる)だから、説法だけに限らない。〕



そうであるから、「三世の諸仏は火焔の中に在って大法輪を転ず」という雪峰の言葉は、言うべきことを言い尽くしていない言葉ではないのである。

(しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。)



                         合掌

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最終更新日  2025.01.24 09:05:05
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