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テーマ:仏教について思うこと(1170)
カテゴリ:正法眼蔵
〔『正法眼蔵』原文〕 玄砂の道ドウに、「火焔カエン為イ三世諸仏説法、三世諸仏立地聴リッチチョウ」といふ、 これは火焔たとひ「為三世諸仏説法」すとも、 いまだ転法輪すといはず、又三世諸仏の法輪を転ずといはず。
三世諸仏は立地聴すとも、 三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。
為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。
〔抄私訳〕 「玄砂の道に、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴」といふ」(以下略)、とある。
「三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん」とは、「三世諸仏の法輪」を「三世諸仏の法輪」として置き、「三世諸仏の法輪」を「火焔」が「転ずる」ということを、しばらく言うまいという意味合いである。
つまるところ、「火焔」と「三世諸仏」と「説法」とはそれぞれ別であるように思われ、「火焔裏」で「三世諸仏」が「説法」されるように思われるところを、いずれも別々にすべきものではない道理を、表そうとするほどの意味合いである。
「為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや」とある。 今の「三世諸仏の為に説法する火焔、又転大法輪すやいなや」と受けられるのは、「火焔」が「説法」すると玄砂が言われる所を、動かさずないでおいて、「転大法輪」という言葉を雪峰の言葉にいわせておこうという道理の一筋である。
また、「火焔」が「又転大法輪」である道理もあるので、「又転大法輪すやいなや」と受けられるのである。落ち着く所はただ同じことである。今の文面だけは、まずこのような考えを見失わないで書かれていると心得るべきである。結局、違わないのである。
「玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず」とある。
〔『正法眼蔵』〕私訳〕 玄砂は、「火焔が三世の諸仏のために法を説くと、 三世の諸仏は地に立って聴く」と言う。 (玄砂の道に、火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴といふ、)
これは火焔(たった今)が たとえ三世の諸仏(たった今に住む人)のために法(たった今)を説いても、 まだ転法輪すると言わず、また三世の諸仏が法輪を転ずるとも言わない。 (これは火焔たとひ為三世諸仏説法すとも、 いまだ転法輪すといはず、また三世諸仏の法輪を転ずといはず。)
三世の諸仏が地に立って聴くといっても、 三世の諸仏の法輪を、どうして火焔が転ずることがあろうか。 (三世諸仏は立地聴すとも、三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。)
三世の諸仏のために法を説く火焔が、また大法輪を転ずるかどうか。 (為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。)
玄砂もまだ、転法輪はこの時であると言わない。 (玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。)
また転法輪はないとも言わない。 (転法輪なしといはず。)
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最終更新日
2025.01.28 09:00:09
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