|
テーマ:仏教について思うこと(1298)
カテゴリ:正法眼蔵
〔『正法眼蔵』原文〕 この滅に多般の手眼を荘厳せり。 いはゆる無上大涅槃なり、いはゆる謂之死イシシ《之を死と謂ふ》なり、 いはゆる執為断シュウイダン《執して断と為す》なり、 いはゆる為所住《所住と為す》なり。 いはゆるかくのごとくの許多手眼、しかしながら滅の功徳なり。 滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、 不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 この滅の上で無量の功徳を荘厳ショウゴンしているのである。 (この滅に多般の手眼を荘厳せり。) それはこの上ない偉大な悟りであり、これを死と言うのであり、 執して断滅とするのであり、仏の住する所とするのである。 (いはゆる無上大涅槃なり、いはゆる之を死と謂ふなり、 いはゆる執して断と為すなり、いはゆる所住と為すなり。) このようにいろいろとある功徳は、ことごとくみな滅の功徳なのである。 (いはゆるかくのごとくの許多手眼、しかしながら滅の功徳なり。) 滅の我れである時に我滅すと言わないことと、 起の我れである時に我起こると言わないことと、 言わない点で同じであるが、死と同じ言わないことではないのである。 (滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、 不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし。) 合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025.10.13 09:15:26
コメント(0) | コメントを書く
[正法眼蔵] カテゴリの最新記事
|