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テーマ:仏教について思うこと(1381)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 震旦国、後漢の孝明皇帝、帝諱は荘なり、廟号は顕宗皇帝とまうす。
光武皇帝の第四の御子なり。
孝明皇帝の御宇ギョウ、永平十年、戊辰ツチノエタツの年、 摩騰迦マトウガ、笠法蘭ヂクホウラン、はじめて仏教を漢国に伝来す。
焚経台フンキンダイのまへに、道士の邪徒を降伏ゴウブクし、諸仏の神力をあらはす。
それよりのち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、 初祖みづから西天より南海広州に幸す。
これ正法眼蔵正伝の嫡嗣チャクシなり、釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり。
ちなみに崇山スウザン少室峰少林寺に掛錫カシャクしまします。
法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾シンゾウなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 中国、後漢の孝明皇帝は、いみ名(死後の尊称)は荘、 廟号(廟の称号)は顕宗皇帝と言う。光武帝皇帝の第四の御子である。 (震旦国、後漢の孝明皇帝、帝諱は荘なり、廟号は顕宗皇帝とまうす。公武皇帝の第四の御子なり。)
孝明皇帝の御世ミヨの永平十年(西暦六十七年)戊辰ツチノトタツの年に、 迦葉摩騰と竺法蘭が、初めて仏教を漢の国に伝えた。 (孝明皇帝の御宇、永平十年、戊辰の年、摩騰迦、笠法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す。)
焚経台の前で、道教の道士の邪教の徒を降参させ、諸仏の神通力を現した。 (焚経台のまへに、道士の邪徒を降伏し、諸仏の神力をあらはす。) 〔焚経台で道教の書物と仏教の経典を燃やし、道教の書物は燃えたが、 仏教の経典は燃えなかった、という故事をいう。〕
それから後、梁の武帝の御世、普通(元号)年間に、 初祖達磨大師が自ら西方のインドから南海の広州に来られた。 (それよりのち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、 初祖みづから西天より南海広州に幸す。)
これが正法眼蔵を正伝する正統な後継者であり、 釈迦牟尼仏より二十八代目の法孫である。 (これ正法眼蔵正伝の嫡嗣なり、釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり。)
その時、蒿山の少室峰少林寺に掛錫(滞在し修行)された。 (ちなみに崇山少室峰少林寺に掛錫しまします。)
法を二祖大祖禅師に伝えられた。 これが仏祖の光明に親しむ始まりである。 (法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾なり。) 初祖達磨大師が自ら西方のインドから南海の広州に来られた『第十五光明』15-1-2b 合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.01.04 09:17:03
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