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テーマ:仏教について思うこと(1350)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 いまこの文公、これ在家の士俗なりといへども、 丈夫ジョウフの志気シイキあり。
回天転地の材といひぬべし。
かくのごとく参学せん、学道の初心なり。
不如是学フニョゼガクは非道なり。
たとひ講経して天花テンケをふらすとも、 いまだこの道理にいたらずは、いたづらの功夫なり。 たとひ十聖三賢ジュッショウサンゲンなりとも、 文公と同口ドウクの長舌を保任せんとき、発心なり修証なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 今この文公は、在家の俗人であるけれども、 (いまこの文公、これ在家の士俗なりといへども、丈夫の志氣あり。) 天子の御心をひっくり返すほどの力量のある人と言えよう。 (回天転地の材といひぬべし。) このように「仏光は青黃赤白にあらず」と参学するのは、 仏道を学ぶ初心のところである。 (かくのごとく参学せん、学道の初心なり。) このように学ばないのは、仏道ではない。 (不如是学は非道なり。) たとえ仏典を講じ天から華が降るようなことがあっても、 まだこの道理に至っていなければ、役に立たない修行なのである。 (たとひ講経して天花をふらすとも、 いまだこの道理にいたらずは、いたづらの功夫なり。) たとえ十聖三賢(上位の菩薩)の人であっても、文公と同じように「仏光は青黄赤白にあらず」という言葉を自己のものとして保持できたとき、 はじめて発心であり、修証なのである。 (たとひ十聖三賢なりとも、文公と同口の長舌を保任せんとき、発心なり修証なり。) 合掌 「仏光は青黃赤白にあらず」と参学するのは 仏道を学ぶ初心のところである『第十五光明』15-2-2お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.01.14 09:14:11
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