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テーマ:仏教について思うこと(1365)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 しかあれば明明の光明は百草なり。
百草の光明、すでに根茎枝葉、花菓光色、いまだ与奪あらず。
五道の光明あり、六道の光明あり。
這裏シャリ是什麼シシモ処在ショザイなればか、説光説明セツミョウする。
云何ウンガ忽生コッショウ山河大地なるべし。
長沙道の尽十方界、是自己光明の道取を審細に参学すべきなり。
光明、自己、尽十方界を参学すべきなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕 そうであるから、 明々とした光明とは、百草(森羅万象)のことである。 (しかあれば明明の光明は百草なり。) 百草(森羅万象)の光明は、現に根や茎や枝や葉、 花や果実や光沢や色彩であり、光明が百草を奪って与えるのではなく、 ただ無始無終の道理である。 (百草の光明、すでに根茎枝葉、花菓光色、いまだ与奪あらず。) 五道(地獄・餓鬼・畜生・人・天)の光明があり、 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の光明がある。 (五道の光明あり、六道の光明あり。) ここをどこだと思って、光明と説くのか、 光明でない所はどこにもないではないか。 (這裏是什麼処在なればか、説光説明する。)
清浄本然であるのに、どうして突然山河大地が生じるのか。 (云何忽生山河大地なるべし。)
長沙が言う「尽十方界は自己の光明である」 という言葉を詳しく細やかに参学すべきである。 (長沙道の尽十方界、是自己光明の道取を審細に参学すべきなり。) 光明と自己と尽十方界と一体であることを参学すべきである。 (光明、自己、尽十方界を参学すべきなり。) 合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.01.18 09:03:02
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