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テーマ:仏教について思うこと(1366)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 生死去来は光明の去来コライなり。
超凡越聖は、光明の藍朱ランシュなり。
作仏作祖は、光明の玄黄ゲンオウなり。
修証はなきにあらず、光明の染汚ゼンナなり。
草木牆壁ショウヘキ、皮肉骨髄、これ光明の赤白シャクビャクなり。
烟霞エンカ水石スイシャク、鳥道玄路、これ光明の廻環カイカンなり。
自己の光明を見聞するは、値仏チブツの証験なり、見仏の証験なり。
尽十方界は是自己なり。是自己は尽十方界なり。
廻避の余地あるべからず。
たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。 而今ニコンの髑髏ドクロ七尺、すなはち尽十方界の形ケイなり、象ショウなり。 仏道に修証する尽十方界は、髑髏形骸ケイガイ、皮肉骨髄なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 生まれたり死んだり去ったり来たりするのは、 光明が去ったり来たりするのである。 (生死去来は光明の去来なり。) 凡夫や聖者を超越するのは、光明の青や赤の彩イロドりである。 (超凡越聖は、光明の藍朱なり。) 仏となり祖師となるのは、光明の黒や黄の彩りである。 (作仏作祖は、光明の玄黄なり。) 修証(修行即悟り)はないわけでなく、光明の汚染である。 (修証はなきにあらず、光明の染汚なり。) 草木や牆壁も、皮肉や骨髄も、みな光明の赤や白の彩りである。(草木牆壁、皮肉骨髄、これ光明の赤白なり。) 煙や霞も、水や石も、鳥道(鳥の行く道なき道)や玄路(相対を超えた奥深い境地へ導く道)も、みな光明のぐるぐる廻メグりである。 (烟霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環なり。) 自己の光明を見たり聞いたりするのは、 仏に出会った証しであり、仏になった証しである。 (自己の光明を見聞するは、値仏の証験なり、見仏の証験なり。) 〔第五十三『梅華』の巻に、「見仏といふは、作仏なり」とある。〕 尽十方界はこの自己であり、この自己は尽十方界である。 (尽十方界は是自己なり。) 回避しようとしても回避する余地はない。 (是自己は尽十方界なり。廻避の余地あるべからず。) たとえ回避する余地があったとしても、それは全ての束縛を脱して悟りの境地に入る、進むべき仏道の道である。 (たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。) 今のどくろの七尺の身が、 すなわち尽十方界の形であり、すがたである。 (而今の髑髏七尺、すなはち尽十方界の形なり、象なり。) 仏道で修証する尽十方界は、 どくろ骨格・皮肉骨髄のこの身のことである。 (仏道に修証する尽十方界は、髑髏形骸、皮肉骨髄なり。) 合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.01.20 08:53:14
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