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テーマ:仏教について思うこと(1364)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 雲門山大慈雲匡真キョウシン大師は、 如来世尊より三十九世の兒孫なり。
法を雪峰真覚大師に嗣す。
仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。 たれか雲門山に光明仏の未曽出世ミゾウシュッセと道取せん。 あるとき、上堂示衆云ジシュウニイハク、人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生ソモサン是諸人光明在《人々尽く光明の在る有り、看る時見ミエず暗昏々なり。作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること》。 衆無対《衆、対コタふること無し》。 自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫チュウク・山門」。 3−2 いま大師道の「人々ジンジン尽有ジンウ光明在コウミョウザイ」は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず。人々、自有、光明在と道取するを、あきらかに聞持モンヂすべきなり。 百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。 「人々、尽有、光明在」は、雲門の自構にあらず、 人々の光明みづから拈光為道なり。 「人々尽有光明」とは、渾人自是光明在なり。 光明といふは人々なり。 光明を拈得して、依報正報とせり。 光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有々尽々在なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 雲門山の大慈雲匡真大師(雲門文偃ブンエイ)は、 釈迦牟尼仏より三十九代目の法孫である。 (雲門山、大慈雲匡真大師は、如来、世尊より三十九世の児孫なり。) 法を雪峰真覚大師(雪峰義存)から受けついだ。 (法を雪峰真覚大師に嗣す。) 仏僧の後進であるけれども、禅門の傑物である。 (仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。) 雲門山に光明仏が出世したことがないと、誰が言おうか。 (たれか雲門山に光明仏の未曽出世と道取せん。) ある時、法堂ハットウに上ノボって大衆(多くの僧)に示して言った、 「人々に尽く光明がある。しかし、それを見ようとしても見ることができない。すべての人に光明があるとは、一体どのようなことか」。 (あるとき、上堂示衆云、人々尽く光明の在る有り、看る時見ず暗昏昏なり。 作麼生ならんか是れ諸人の光明在ること。) 大衆は、対コタえなかった。 (衆無対《衆、対ふること無し》。)
雲門が、自ら代わって言った、「僧堂、仏殿、廚庫、三門」。 (自代云《自ら代て云く》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」。) 今雲門大師が言う「人々に尽く光明がある」とは、 光明がのちに出現すると言うのでもなく、過去にあったと言うのでもなく、傍観者が現すと言うのでもないのである。 (いま大師道の「人々尽有光明在」は、のちに出現すべしといはず、 往世にありしといはず、傍観の現成といはず。) 「人々に、自ずから、光明がある」というのを、 しっかりと聞いて保持すべきである。 (「人々、自有、光明在」と道取するを、あきらかに聞持すべきなり。) 百人千人の雲門を集めて一緒に修行させ、 声をそろえて「人々に尽く光明がある」と言わせるのである。 (百千の雲門をあつめて同参せしめ、一口同音に道取せしむるなり。) 「人々に、尽く、光明がある」とは、雲門が自ら言い出したものではなく、人々の光明が自ら光明があると言ったのである。 (人々、尽有、光明在は、雲門の自構にあらず、 人々の光明みづから拈光為道なり。) 「人々に尽く光明がある」とは、 全身心に自ずから光明があるということである。 (人々尽有光明とは、渾人自是光明在なり。) 光明というのは人々のことである。 (光明といふは人々なり。) 光明を取り上げて、人々の環境と身体としているのである。 (光明を拈得して、依報正報とせり。) 光明に尽く人々がある、光々に自ずから人々がある、人々に自ずから人々がある、光々に自ずから光々がある、有々に尽く有々がある、尽々に有があり尽々がある。 (光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、 光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有有尽々在なり。) 〔人々と光明に主客がないことをこのように言うのである。〕 合掌 人々にことごとく光明がある『第十五光明』15-3-1お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.01.22 09:12:39
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