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テーマ:仏教について思うこと(1362)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 しかあればしるべし、人々尽有の光明は、現成の人々なり。
光々、尽有の人々なり。
しばらく雲門にとふ、 なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。
雲門みづからいはく、作麼生是光明在。
この問著は、疑殺話頭の光明なり。 しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり。 ときに衆無対。 たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。 これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 このようであるから知らなければいけない、 人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである。 (しかあればしるべし、人々尽有の光明は、現成の人々なり。) 光々とは、すべての人々のことである。 (光々、尽有の人々なり。) しばらく雲門に問う、 「汝は何を呼んで人々と言うのか、何を呼んで光明と言うのか」。 (しばらく雲門にとふ、 なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。) 雲門が自ら言う、「光明があるとはどういうことか」。 (雲門みづからいはく、作麼生是光明在。) この問いは、 疑っているようであるが光明を言い抜いているのである。 (この問著は、疑殺話頭の光明なり。) そうであるので、「光明があるとはどういうことか」と言えば、 どのような人々も光明なのである。 (しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり。) その時、大衆は対コタえなかった。 (ときに衆無対。) たとえ百千の言うことがあっても、対えないことで、 人々に尽く光明がある道理を十二分に言いぬしているのである。 (たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。) これこそが、仏祖が正伝してきた正法眼蔵涅槃妙心である。 (これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり。) 人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである『第十五光明』15-3-2b 合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.01.24 09:11:08
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