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テーマ:仏教について思うこと(1365)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 その行持の功徳、ときにかくれず。
かるがゆゑに発心修行す。
その功徳、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覚知せず。 あらはれざれども、かくれずと参学すべし。 隠顕存没オンケン ゾンモツに染汚ゼンナせられざるがゆゑに。 われを見成する行持、いまの当穏トウオンに、 これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会フエなるは、 行持の会取エシュ、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。 縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。 かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。 行持のいまは、自己の本有元住ホンヌ ゲンジュウにあらず、 行持のいまは、自己に去来出入コライシュツニュウするにあらず。 いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、 行持現成するをいまといふ。
〔『正法眼蔵』私訳〕 その行持の功徳は、時に隠れず顕れる。 そのために発心し修行するのである。 その行持の功徳は、時に顕れず隠れる。 そのために見聞覚知しないのである。 (その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。 その功徳、ときにあらはれず。かるがゆゑに見聞覚知せず。) 行持の功徳は顕れなくても、隠れることはないと参学すべきである。 (あらはれざれども、かくれずと参学すべし。) 行持の功徳は、隠れたり顕れたり在ったりなかったりすることに、染め汚されないから、我を現成する行持が、あるときは顕れあるときは隠れるときに、これがどのような縁によって行持するのか分からないのは、行持によって知られるものが、決して新しい特別な境地ではないからである。 (隠顕存没に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの当穏に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。)
縁によって起こるのは俗情の行持である、諸仏の行持は縁によって起こるのではないからと、努力し参禅学道を詳しく細やかにすべきである。 (縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。) 不染汚フゼンナ(いかなるものにも染め汚されない)の行持を現成する行持は、 すなわち我々の今の行持である。 (かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。) 行持の今は、自己に元からあるものではない。 行持の今は、自己に去来したり出入するものではない。 (行持のいまは、自己の本有元住にあらず。行持のいまは、自己に去来出入するにあらず。) 〔坐禅をしている、作務をしている、飯台についている、そのように縁起しているとき、それを行持の今と言う。〕
今という言葉は、行持より前にあるのではない、 行持が現成するときを行持の今と言うのである。 (いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。)
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最終更新日
2026.02.08 09:13:16
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