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テーマ:仏教について思うこと(1361)
カテゴリ:正法眼蔵
『正法眼蔵』原文〕 しかあればすなはち、一日の行持、 これ諸仏の種子シュウジなり、諸仏の行持なり。
この行持に諸仏見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、 諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、 諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。
いまの花開葉落ケカイ ヨウラク、これ行持の現成なり。 磨鏡破鏡マキョウ ハキョウ、それ行持にあらざるなし。 このゆゑに、行持をさしおかんと擬ギするは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこころざすににたれども、真父の家郷カキョウに宝財をなげすてて、さらに他国跉跰 レイヘイの窮子グウジとなる。 跉跰のときの風水、たとひ身命シンミョウを喪失ソウシツせしめず といふとも、真父の宝財なげすつべきにあらず。 真父の法財なほ失誤シツゴするなり。 このゆゑに、行持はしばらくも懈惓ケゲンなき法なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 そうであるから、 一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのである。 (しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。)
この行持によって諸仏が現成させられ、行持させられるのに、 行持しないのは、諸仏を厭い、諸仏を供養せず、行持を厭い、 諸仏と共に生死せず、諸仏と共に修行しないのである。 (この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、 諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。) 今の花が開くのも葉が落ちるのも、行持の現成である。 (いまの花開葉落、これ行持の現成なり。)
鏡を磨くのも鏡が破れるのも、行持でないものはない。 (磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.02.10 11:20:33
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