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2006年11月29日
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カテゴリ:雑感

<思考停止はここから始まった>

image.jpg

 上記の記事は,友人から提供してもらった今年の朝日新聞の記事で,内容は,『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』についてイノウエ氏自身がインタヴューを受けているものです。

 しばらく机の上に置いたままにしておいたものなので,この記事をいつもらったのか記憶がありません。そのため,この記事が載った年月日は不明ですが,先述書籍が発売された時期とほぼ同じくらいの時期と考えて間違いないと思われます。

 さて,なぜこのような古い記事を今になって取り上げるかといえば,先日この記事を読んでいて,イノウエ氏の思考停止がいつ始まったか,そしてその理由は何か,がすべてこの記事のイノウエ氏の発言によって明らかになっているからです。

 記事中赤線部分が引かれているところをご覧ください。赤線前後の部分を含めて書きに示すと,こう書いてあります。

 『私が憲法に出あったのは,小学校6年生のときでした。敗戦の翌年に憲法が公布され,よく理解できないながらもこの憲法に基づいて生きていけばいいんだという希望と手がかりを与えられたという気がしました。』

 もう考察するまでもないんですが,そういうことなわけです。

 要するに,彼は憲法の内容がよく分からないのにもかかわらず,それにしたがって生きていけばいい,と現行憲法に『信仰心』を抱いてしまい,それと同時に憲法の『聖典』化を行ってしまった,というわけです。

 その『信仰心』が彼の現在にまでいたる積極的な政治活動を支え,『聖典』たる憲法の改正に反対する運動に走らせている,というわけです。

 かくしてイノウエヒサシ氏は憲法発布直後からその思考を自ら停止させてしまったのです。

 私はこれを『憲法宗教視に基づく思考停止状態』を名づけ,類型Bとすることにしました。

 

 さて,この類型Bのような状態に陥ると,次のような戯言が次から次へと繰り出されてくることになります。

image.jpg

 これは26日日曜に掲載された『憲法9条が未来をひらく』と題された意見広告の一部です。

 いろいろと指摘すべきところがありますね。

 まず「ちかごろ,この第九条の中身が古いという人たちがいます」とおっしゃいますが,誰か「古い,新しい」という次元で論旨を展開している人っているんでしょうか。申し訳ないですが,そういう「古い」という根拠で改正を唱える主張は寡聞にして聞きません。

 自分は9条は古いとか新しいとかいう前に,非現実的であると思っています。そして,それは日本という国家を存続させる道具として使い物にならないと思っています。だからこそ,改正すべきだという考えです。大方の改正論もそういった「使い物になるかどうか」という観点から主張を展開しているんじゃないでしょうか。

 (なお,イノウエ氏も9条が非現実的であることは否定されておられないようですね。5行目の「(問題が起っても,戦争をせず,話し合いを重ねて解決していく)やり方はこれからの人類にとっての課題です」とか,6~7行目にかけて「『平和主義』という考え方は,人類にとっての理想的な未来を先取りしたものだといえます」としているところからすると,現在においてその手法が理想にしか過ぎないことは認められておられるようですから。)

  

 次に,3~4行目にかけて述べられている「問題が起っても,戦争をせず,話し合いを重ねて解決していく」というイノウエ氏がいうところの『平和主義』は,改正論者も否定はしないところです。

 戦わずして勝てれば(問題が解決するという状態は,お互いがお互いに有利な内容であると判断しなければ,すなわちお互いが「勝利した」と感じなければ生じないわけですから,勝利と言い換えることができます)これは最上の勝利。話し合いで解決できればそれに越したことはないわけです。なにも話し合いで解決できるのにわざわざ好き好んで戦争したいという国は少ないでしょう。

 問題はその先。話し合いで解決できなければどうするのか,というよりもどうなるのか。そこが問題なわけです。そして戦争というのはそういう状況において生ずるものであることは長い人類の歴史を振り返れば理解できるところです。

 「大多数の戦争については,戦争の原因は,分析してみればけっきょく利害間の和解しがたい争いであり,したがって,いかなる法によっても,またいかなる法廷の仲裁によっても決定できないことが判明するであろう。」

 この言葉は,英国保守党の政治家ヒュー・セシル卿の言葉です(ヒュー・セシル著 栄田卓弘訳 『保守主義とは何か』(早稲田大学出版会)p172)。

 和解しがたい場合には戦争が発生することがある。そういう場合に備えて国防力を保持しておこうではないか,というのが改正論の骨子なのです。

 おそらく,そういう場合であっても非暴力を貫き通すべきだ,という「生命が一番重要だ。だから戦争して生命が失われるよりも,奴隷の平和を」という態度。これがイノウエ氏をはじめ多くの改正反対論の趣旨とするところでしょう。

 しかし,「奴隷の平和」の状況は生命の安全さえおぼつかない状況を指すところ(奴隷は生かすも殺すも自由です。人間ではなく,物ですから),「生命こそが一番大事」という立場の人々がなんでこんな考えを取れるのか,不思議なところです。戦争するよりも「奴隷の平和」状況で失われる生命の方が多いかもしれません。個人的なスタンスとしてそのような立場を取るのは自由としても,多くの国民の生命・自由・権利の保護に責任ある国家がそのような政策をとることは,国家としての責任の放棄であり到底是認できません。

 その点で,「奴隷の平和」を肯定する立場は国家政策としてはとりえません。

 そして自分は自由と独立こそが,人間の尊厳にとってもっとも重要なものであり,これが失われてしまえば生きている価値はないと考えています。

 自分は

  「平和は,いろいろな国の真の利害-すべての国にとって名誉ある利害-に基礎を置いた,よくよく熟慮されたひとつのシステムの結果でなければならない。降伏でもありえず,威嚇の結果でもありえない。」(オークターヴ・オブリ編 大塚幸男訳 「ナポレオン言行録」(岩波文庫) p258)

 と考えます。

 それだから,自衛権と国防力の保持が必要であると考え,それに疑義が生じるような現行憲法の9条は改正すべきであると思っています。

 






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最終更新日  2006年11月29日 18時36分59秒
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