思いよ。届け。
遠縁にあたる京都圓光寺の古賀慶信住職が本日夕刻亡くなった。入院されたと聞いていたので、今週末にでも京都にお見舞いに行こうかと話していた矢先だった。外出していた主人が、親戚の者から携帯電話で連絡をもらって知った。ポロポロ涙を流しながら帰ってきた主人に返す言葉もない。ただ、黙って頷くしかできなかった。ご住職は、両親を亡くした主人にとって心の支えだった。いつもあたたかい言葉をかけてくださった。どんな時もわたしたち夫婦を気遣ってくださった。照太の時も遠く京都から駆けつけて。遺体にとりすがり「照太くん!」と絶句されて泣いてくださった姿が忘れられない。私財を投げ打って、荒れ果てていた寺の再建に尽力された方だった。お陰で、寺は紅葉ライトアップの名庭となった。暗くなっても黙々と草取りを続ける姿に打たれた方たちが強力な助っ人となって寺を支えてくださっていると聞いた。檀家さんたちには「昼寝しにでもいいから寺にいらっしゃいね」と声をかけていた。あなたの葬式の時に心もないような言葉を述べられないでしょう?と笑っていた。和尚さん。主人もわたしも とてもとてもさみしいです。寺に和尚さんのお姿がないなんて信じられません。寿命はいつか尽きるのだといやというほど知ってはいても、今生の別れの苦しさに打ちのめされます。照太を亡くしたばかりの地獄の底のような日々和尚さんのくださった言葉を何度繰り返したか。「今死ぬる どこへも行かぬ ここにおる 尋ねはするな ものは云わぬぞ。」一休禅師のこの辞世の言葉。「肩こりさんの中におる。照ちゃんは、おるのだよ。見えないものは無いのだと思ってはいけないよ」この言葉が自分中にストンと落ちるまで、長い月日がかかりました。信じようとしても信じきれなかった日々はとても苦しかった。でも、今は誰に何といわれようとも笑われようとも呆れられようとも信じる自分の世界があります。照太のいる見えない世界を信じることで、わたしはとても強くなりました。和尚さん。ありがとう。生きながらに死んでいたわたしが、来世照太のおかあさんになるための今は修行の場なのだと心に決めて踏ん張っています。和尚さんの教えが心に沁みて・・・今のわたしの土台に沁みて・・・。この思いを和尚さんに捧げます。思いよ。届け!きっと わたしの傍でも「ここにおる」と笑ってくださいますね。波動を感じられる自分になるよう、努力します。照太とじいちゃんと、そちらで待っていてください。また、お会いしましょう。必ず。明日の夜、寺に顔をだします。明後日の近親者のみの密葬にも参列予定です。