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今日の My Michael
![]() 今日は、何故今頃?というくらいメジャーな 「SAY SAY SAY」です。 説明、要りませんね? ポール・マッカートニーとの共演で話題を呼んだショートフィルムです。 マイケル、かわいいです。お茶目です。 Say Say Say by Paul McCartney and Michael Jackson そういえば、先回貼ったグラミー関係の映像は削除されてしまって見られなくなってしまいましたね・・・。 アースソングに続くプリンスのスピーチまでも見られなくなってしまって残念です。 見られた方は、ラッキーでした。 早晩そうなるだろうな・・とは思ってましたが、早かったですね。 ================================== 今日、午後からひとりで映画「かいじゅうたちのいるところ」を見てきました。 原作が素晴らしいのですが、あれをどんな風に映像にするのかな?と思って興味津々でした。 不思議な映画でした。 映画というより、詩・・・かな? 評価は分かれると思います。 観ていた人もまばらでしたが、観終わって出るときに 「全然わからなかった。何?あれ。終わりなんてすっごくあっけなくて納得できない」 なんて、前を歩いてたお嬢さんが言ってましたし。 わたしは・・・というと 恥ずかしいくらいに涙がとまりませんでした。 この映画を観るのに、ストーリーを追ってはいけません。 ストーリーなど、無いに等しいからです。 出てくるのは「かいじゅう」ですし、そんなやつらのいる島にあっけなく着いてあっけなく帰ってこれちゃうし、簡単におしゃべりできて、うまく言いくるめて彼らの王様になってしまうし。 それが、全くあたりまえのように話が進むのですから混乱します。 おしゃべりの内容も、普段のわたしたちの会話とはかけ離れています。 とても哲学的です。 感じればいいのだと思います。 理解しようとしないで、感じようとしました。 すると、自分が子どもだった頃にす~っと戻って、自分をうまく表現できなかったもどかしさがそのまま自分の中によみがえってきました。 自分をわかろうとしない・・・だけではなく、もっとその前にある・・・自分を見ようとしてくれない周りの人間(家族)に対して怒りを爆発させるMAX(主人公の男の子)。 怒りは、暴力的な手段でしか放出できません。 それしか術をもたないのです。 ああ。 わかるな、この感じ。 わたしは結構厳しく育てられたから、MAXのように怒りを外に向けることはできなかった。 膝をかかえて唇をかみしめて耐えるしかなかった。 わたしもまた、寂しさから来る怒りや悲しみを言葉にすることができなかったのです。 ひどい扱いを受けて育ったわけではありません。 人並み以上にお金もかけてもらったとわかっています。 (MAXも、そう。傍から見るとお母さんは温かく、彼を理解しようとしていました) ただ、わたしの母は愛情表現がとても下手でした。 褒められたことも抱きしめられたこともないし、不機嫌でよく叱られました。 勤めていた母が帰ってくる時間が嫌でした。 いつも何かを非難されるから。 学校の成績が飛びぬけて優秀だった母には、勉強もさして出来ずどんくさく陰気な娘(わたし)がうとましいようでした。 その頃のわたしには、そう感じられました。 今、思えば母は仕事で疲れていたのだろうし、きっと彼女なりにわたしのことを愛していたのだろうと思いますが。 母は うまく愛情をあらわせなかった。 そして、わたしは他の子どもよりも強く愛情を感じたい子どもだった。 それだけのこと。 だけど、それが つらくて つらくて つらくて 寂しくて寂しくて寂しくて どうしようもなかった。 ひとりぽっちだと感じていました。 あの頃の自分が MAXになって映画の中で暴れている。 「見て!わたしを見て!」って叫んでる。 やがてMAXは、かいじゅうたちとの生活の中で、自分の痛みには敏感なのに他者の痛みには鈍感であった自分を知ります。 はじめて、家族を思います。 「きみたちにも、ママがいてくれたらよかったのにね」 そして、ママの元に帰っていきます。 大好きになっていた、かいじゅうたちと別れて。 子どもを抱きしめたいと思いました。 暴れまわるMAXを。 膝を抱えてうずくまっていたわたしを。 そして 誰からも見つめてはもらえないと思っている子どもたちを。 ・・・しょうたを。 抱きしめて、悲しみや寂しさが溶けるまで一緒涙を流したいと思いました。 こんなことを書くと、「また?」って呆れられそうですが・・・ マイケルも、こんな思いで、子どもたちを見守っていたんじゃないだろうか。 自分が感じた寂しさを子どもたちが感じなくてすみますように あたたかな思いの中で眠れますようにって。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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