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灯台


 小さな島にある病院への研修が決まった時はどうしようかと思ったけど、[鈴風橋]とい

う名前が気に入ったし、・・橋で本州の島根県と行き来できる。島根県鈴風島への配属。

 「でも医学免許があってもなあ、・・」とは思う。

 研修医とは言っても、医療行為の経験があるわけではなく、これから、臨床研修の名で上

級医の指導の下に臨床経験を積んでいかなくてはならない。それが、[鈴風島]とかいう、

いわゆる医療行為を学ぶことなんか出来ないじゃないかという所で、しかも俺外科だし、歯

科ではないし、・・という感じなのだけれど、まあ、贅沢は言えない。朝がまた来る。

 早朝六時のバス(日に二本しかない)に乗って、僕は鈴風島へと向かった。思ったとおり

というか、客は少なく、そもそも何のために六時にしたのかも僕には皆目了解しがたかった

。七時とか、八時だろうか、――と思ったが、案外、漁や、朝の混雑を避けるためかも知れ

ない。などと慰めてみるが、バス車内は見事にガラガラであった。

 道路の向こうはもちろん海だ。曇り日のすっきりとしない、月曜日。いきなり五月病にで

もなった意味完璧に間違えているのに、確信犯と同じ意味で用いるブラックマンデイ。いや

いや、海がバスの前方のガラスを流れているような視界で、それが弱々しい朝陽と織り混ざ

って、たまに狐の嫁入り的に雨が降った。

 停車場は十か所以上あるのがわかったが、それは鈴風島にはないこともわかった。和歌山

と奈良を走り抜けるバスの噂は聞いていたが、案外それ以上かも知れない。

 ところで、自己紹介しよう。・・カメラ何処だ。お、こんにちは、僕は某医学大学卒業の新

山だ。バスで約一時間半、揺れに揺られて、忽然と、意外な景色が展開する。 ばかでかいホ

テルだ。・・そして、停車場があったので、降りた。すると、雨がしのつくやうに降り始めた

。心が落ちつかぬまま、バス停に使って下さいと置かれてあった傘をひとつかみし、僕は病

院へと向かった。でもすぐに上がった。眩ゆく日の光を反射している水銀のような海面を背

景にして、小高い丘にある白亜の診療所が姿を現した。

 と、どういう具合でそうなったのかわからないが、靄が湧いたり消えたりしている。風は

左向きだった。病院の天辺には風見鶏がついていて、くるくると逆時計まわりに回っていた

。ふわふわと脹れあがる幻の群れ。眼は何かをむさぼるように、だんだん・・、こういう所で

何年かお世話になるのか、うまくいくのだろうか、という情報をキャッチする。景色に集中

していると、なんだか昔の旅人にでもなったような気分だ。

 別に何か目新しい景色があるわけではないが――行こう、とゆるい勾配の木々のアーチ、

の煉瓦の階段をのぼってゆく。崖崩れが起きたら一発でアウトだな、と思いながら。と、そ

こへ一人の十六、七の女の子が現れた。

 (あ、)という感じで一瞬目があった。白い服・・どうやら入院患者らしい。ここはひとつ

挨拶でもしておくか、と「こんにちは、研修医の・・」と言おうとした矢先、

 「すみません」

 一体何がすみませんなのか、わからなかったが、会釈するやいなや、背を向けて足早に立

ち去ってしまった。それにしても色が白い女の子で、雪が降っていたら雪女の精だと思った

かも知れない。しかも美少女だ。

 よかもん見たばい、と何故か福岡弁で僕は病院の玄関を開けた。

 いや、開けようとした時、柱の所から、女医が現れ・・

 「君は変態か、・・・いやもし変態ならわたしも一つ考えがあるのだが・・」とか言われた。
  、、、、、
 「わかります」と僕は言った。

 「・・何が、だ?」

 「こんなに朝早く、傘をさしてやってきた年頃の男性がいたら、診療でもない、なら、ヘ

ンタイだ、と考えるのはわかる、ということです」

 「よろしい」と女医は男前に言った。「続けてくれ」

 「僕はこちらでお世話になることになった、・・研修医の新山と言います」

 「うん、知ってるよ、ヘンタイくん」

 「もちろん、僕は変態ではありません」

 「それも、最初からわかってる」

 「実を言うと、僕もです」

 だらだらな会話だったが、ニヤニヤと途中からほくそ笑んでいて、こいつ絶対に僕のこと

わかっていて尋ねているよなという気がしながら、こんな会話をしていたのだ。

 しばらく自己紹介をした。血液型はO型。星座は射手座です。大学での話を聞かれたので

、昔は長髪にしていて、ロックバンドのヴォーカルに顔が似ていたらしくて、昔はよく間違

えられて困りました、という話をした。

 「・・・犯ったのか?」

 「あの、先生・・初対面でそういう話題ゲスだからやめていただけませんか」

 「・・・生卵が割れるシーン、フライパンにソーセージがあり、ソーセージと生卵をかきまぜ

たやつがねとねととまざりあうシーン、突然ピストンの機械的な映像が交じり、ベッドにエ

クソシスト!地震だ!地震か?・・そしておもむろに手にコップに白い牛乳など?」

 「先生、・・シモネタ勘弁して下さい」

 くっくっく、と根暗な女医は、はじめて名を名乗った。「河井だ」

 「河井先生、・・ここに医者や看護師ってどれくらいいるんですか?」

 「ここは、数人程度だよ。何しろ、人手がない。ま、仕事も殆どないので、安心しろ」

 ・・・朝のバスで、医者の経験積めない、と悩んでいたなどと、話せるわけもなく、

 「ひとつお願いします」と言ってみた。

 ――しかし、そういえば院長先生に挨拶せねば。

 「院長先生はいらっしゃいますか?」

 「・・・くっくっく、」

 「時々、うしろから絞め殺したくなるって患者さんから言われませんか?」

 「・・・くっくっ、」

 ほっとこう、という結論に達し、それでは失礼しますと玄関を開けて院長室を探すために

辺りを見回した。すると、後ろから河井先生が追い付いて来て、こっちだ、と言った。一階

の廊下を右に向かって進んでいくと、院長室というプレートが見つかった。隣に僕の職場に

なる場所があった。それにしても――院長の名前は河井か、と思った・・

 「院長先生、まだ来ていないみたいですね」
  、、、
 「食うぞ」

 「食べないで下さい・・あのお、河井先生、院長先生はまだみたいですね」

 「くっくっくっ・・」

 「もしかしてハンガリーの熊ですか?」

 「は?」

 「いえ、ハンガリーの熊はハングリー」

 あまりにもつまらなかったらしく、空気が凍てついた。

 「ところで、コホン・・院長の話だが、――今更だが、私がこの病院の院長をしている河井

だ。いちおう、お前のことは、大学の先生からよく聞いている」

 ――絶対嘘だア、と決めつけてしまいたかったけれど、まあ、こんなふてぶてしい女医が

無人島に毛が生えたようなところにいても、大学病院は困らない、と僕は思った。

 「でも、お若い」

 「三十だ。・・父親が死んで、私が引き継いだ。元々は大学病院にいて、神の手だった」

 「河井先生、神の手だった、っていう説明おかしいですよ」

 ・・・まあなにはともあれ、優秀なお医者様だったのだろう。
 、、
 ただ、時々うしろから絞め殺したくなるって患者さんに言われる。

 「で、お前には一つ、うちにいる患者の面倒を見てやってほしい。なにしろ、うちは暇な

病院だ。それでも経営できるのは、問題患者をうちが引き取っているからだ」

 そういう話はこれまで耳にしたことはなかったが、確かに、そういう病院のスタイルもあ

るのかも知れなかった。

 「問題患者を引き取って、試薬や、医療行為をし、・・・もちろん、患者の同意をとってだぞ

、実験データを作って、それを大学病院に売る」

 「売るんですか?」

 「売る。お金が欲しい」

 ――この人最悪だと思ったけれど、そんなに悪そうな人には見えなかった。

 「・・・でも、お前、医者が医療行為をしなきゃ医者じゃないとか思ってるんだろう」

 一瞬、ズバッと心を見抜かれたような気がした。

 「違うよ、医者は研究者でもいい。最低、我々の仕事は、少ない患者の日々を楽しく過ご

させることだ。もし、医者らしいことを期待するなら、半年待て、半年後に、一筆書いてや

るから別の病院へ行け。私は・・お前の医者としての資質より、研究態度や、論文に興味を持

った。真面目だ。――それに、顔もいい」

 「・・・院長先生、最後関係ないような気が――」

 「くっくっくっ、欲求不満なんだ。でも、後ろからいきなりだけはやめてくれ」
 、、、、、、、、
 僕は天井を見上げ、この人の頭にだけ電球でも落ちてこないかなあ、と思った。

 「でも、冗談はともかく――私の見込みに狂いはない、と思ってる。ここは確かに私利私

欲を貪れるような所でもないが、給料はきっちり出すし、手当もちゃんとする。研修医の扱

いがひどいのが私はとても嫌だった。だから私はお前にはしない。そして私はこういう病院

の在り方がとてもよいと思ってる。実際いま求められている病院は、こういう病院だと思っ

てる。人を騙しうちするような病院はよくない。生涯の面倒を見る。患者の値段も格安だ。

でも儲けはきっちり違う所から取る」

 とてもすごい話だ、と僕は思った。

 ただ、何故、くっくっくっ、と言わなければいけないのか、僕にはわからなかった。

 「ともあれ、患者ひとりひとりと、家族のように接してほしい。その多くは申し訳ないが

、殆ど手が尽くせない。だからできるだけ、自然に接してやってほしい。そしてお前の仕事

は、彼等の病状を事細かくチェックし、それを日々きちんと記入し、思うことがあれば熱心

に何でも書くことだ。また、食事にも気を遣ってる。時々、へんに豪華な料理があるなと思

っても気にするな」

 「はい」

 そんなに患者のことを――と、続けようとした矢先、しれっと言った。

 「私の趣味だ」

 ・・・うん、と僕は、やはり天井を見上げ、シャンデリアこいつの頭に落ちないかな、と思っ

た。なんなら夜になればいい。そして夜の星よ、隕石よ、こいつの頭に落ちればいい。

 「ここは病院という名を借りた、ホテルだ」
 
 「はい」

 「一応お前は、何も聞いていないだろうが、病院にお前は住んでもらう」

 「あ、はい」

 ――大学の先生が、寮完備とか嘘ぶっこいていたことに、ようやく気付いた。

 今度会ったら、絞め殺そう、とかたくかたく誓った・・!

 [研修医、大学の恩師殺害せり]と新聞に躍る場面を思い浮かべ、パトカーのサイレンを

響かせた。すると、後ろから、ガラッと、ドアが開く音が聞こえた。

 「あのお、河井さん・・おはようございます」

 さっき聞いた、声だった。

 後ろを振り返ると、先程の入院患者らしき美少女だった。

 「・・・あ、さっきの。」と僕は言った。

 「手が早い。もう毒牙にかけたのか」

 僕はくるりと前を向きなおして、河井先生を見た。

 「・・・くっくっくっ」

 と、実に不敵だ。もちろん、ぼくは、不満だ!

 「彼女の名前は、吉本多恵子さん。私は吉本くん、とOL風に彼女を呼ぶ」

 最初からそう言え、と思いながら、僕はくるりと向き直った。

 「吉本さん、はじめまして、研修医の・・」

 「オオカミくんだ。気をつけろ!・・おお、夜のウルフがガルルガルル」

 「・・・いつもこういう感じなんです」と吉本さんは笑った。

 なんだか、姉や、友達のことを話すみたいに首をかしげて、笑った。優等生タイプの女の

子という気がした。河井先生の言っていることが正しいなら、病弱の、おそらく殆ど手が尽

くせない病気をかかえている患者、ということになるだろう。

 薄倖そうで、なんとなく、結核患者のような気もちょっと僕にはした。

 「吉本です。・・さっきは、すみません――人見知りがすごくて・・・」

 「僕もそうですよ」

 「そして、こいつは真夜中のロッケンロールスターだ」

 ・・・聞かなかったことにしよう、と僕は思った。
 
 「ヘーイどうしたんだい少女!・・いま俺の中のウルフが暴れてやってるぜえ」

 「院長先生、」

 「河井だ」

 「院長先生・・お願いですから、ふつうに話して下さい」

 すると、険悪な感じを察したのか、吉本さんは話に入った。

 「ここ、人がいないでしょう。いつもは、もう少しゆっくりと話すんですよ。・・もっと、

普通なんです。それに、男性も少ないから、先生ちょっと照れてるんです」
 、、、、
 照れてる――そうか、と僕は思った。吉本さんの言い分はわかるが、却下!
 
 と、その時、ふっと気になって、僕は河井先生に質問した。

 「そういえば、ここの入院患者っていま何人いるんですか?」

 「いまは本当に少ないな・・彼女一人だ」

 そういうわけで、僕は彼女の担当になったことを、察したのであった。

 「それで、・・どうしたのだね、吉本くん」

 「いえ、・・楽しそうな声だなと思って・・・」

 そしてどうやら、僕の最初の仕事が決まったようだった。


  *


 僕の仕事はだが、確かに暇だったのだが、河井先生がこの島にある内科や、産婦人科など

にいずれは行かせたりする話などをした。まあ何はともあれ、診療所の屋上にまでのぼり、

一見掘っ立て小屋みたいなシュールな光景を見た。

 「ゴキブリは出ないと思う」
 、、
 ぼく、空を見上げた。

 「それにシャワーもあるし、私が朝昼晩きっちりご飯を作る」

 「河井先生が作るんですか?」

 「・・・貴様、もしや私にSのプレイをしているのだな。頼む、」

 「頼みません」

 段々Sキャラになってゆく僕であった、自覚してるよ、僕!

 「――まあ、忙しい時はちゃんと近所のおばさんに、電話かけて、頼んでるんだ。ぬかづ

けが美味しい。みそ汁もうまい。まあ、私の料理にははるか遠くに及ばんがな!」
  、、、、、
 「そうですか」

 たぶんさ、この人、大学病院にいた頃、周りのみんながチヤホヤしすぎたんだよ。それで

きっと、こんな女王様なキャラになっちゃったんだと思う。お父さん叱らなくちゃいけなか

ったんですよ、叱ろうよお父さん、と僕はやっぱり、お空などを見つめた。

 「まあ、一応外は一見あれだが、これは趣味で、中はふつうのアパートと一緒だ。いちお

う、他にも医者はいるんだが、いまは私とお前と、吉本くんの三人だ。後の者は、狭い病院

だからな、専門外だが、そういう研修は受けているので、その専門の病院に行ったり、はた

また、マッサージ師の資格とってるのでそれをする奴もいる。ネットでアフリエイトして金

稼いでる奴もいる。農業をしてる奴もいる。・・こいつの野菜が無農薬でまた美味いんだ」

 「・・・すごいところですよね、ここ」

 「私がこういうのだからな、自然そうなる」

 引き寄せの法則、と僕は思った。

 
  *


 数日が経つと、生活にも慣れてきて、朝には散歩に出掛ける習慣ができて、吉本さんとの

んびり海岸を歩いた。病気というところは殆ど見えなかったが、確かに時々気分悪そうにし

ていたり、薬を打ったりすることはあり(と言って、河井先生は僕にそれについての知識を

、嫌がらせ!たぶん嫌がらせ!だと思うのだけれど教えてくれない)――実際病名もわから

ないのだけれど、気がつくと大体そうだが、僕は吉本さんのことが少し好きになっていた。

もちろん、そういうのを気取られないようにしたりもしていたが、多くは、日常のさりげな

い行為によく現われた。医者と患者の境はあるし、踏み越えてはいけないこともわかってい

たので、時々は距離もとったが、・・それでいて、僕は僕の気持ちを結構持て余していたのか

も知れない。


  *


 僕は河井先生と飯を食っていた。

 その頃には、もう、この人のことを僕は僕なりに結構尊敬していた。

 医者にしておくには勿体ないくらいの高い宗教的な意識を持っていて、一見ふざけている

会話なんかにも、彼女特有の人生への深い隔たりに対する乾きのようなものがあった。

 「・・・患者たちに、生きる望みを与えるのが辛いことはないか、とお前は聞くんだな」

 「はい、・・インフォームドコンセントの話じゃなくて」

 先程まで、親や、患者自身に対する手順の説明を受けていた。

 河井先生は、基本的に一緒に何かしながら僕に説明する。たとえば前は、テニスをしなが

ら、研修医の問題を丸投げしている国を批判したり、死体検案書を書いている時に私は人を

殺したのだな!おお・・という胡散臭いオペラ調の、でも結局この人楽しんでいるんじゃない

かなあという話をしたりした。

 この前は、トランプをしながら、医師の定年制の問題について話した。医師の資格そのも

のに年齢制限をつける医師免許定年制と、保険医資格に年齢制限をつける保険医定年制。こ

ういうのを現場の医者が・・言うあたりが、結構生々しいな、と僕などは思ったりした。

 「辛いさ・・むしろ、安楽死の方がよいんじゃないか、と――口にはしないが、思うことも

ある。あれだな、戦争で五体不満足で戻ってきて、日常生活が出来ない。・・そういうのを、

軍関係者は何と言うんだろう」

 もちろん、それは日本の話ではない。・・ので、おそらく映画の話だろうと思った。あるい

は、映画を観て、素直にそう思った、ということなのかも知れない。

 「人が人を利用するのは知ってるが、そういうクールさは冷血だ。勲章与えて、はい、終

わりじゃない。たとえ、どんなに保障しようが、そういうのがいつだってああいうのにはつ

いてくる。医療だってそうだ。患者をどんなに救おうが、有難迷惑だっていうこともある。

試薬や、――本当に手が尽くせない中での八方塞がりの手術を行う時は、私も冷血だ」

 でも多分、本当の冷血はそんな口惜しそうな表情をしない、と思う。

 「痛み止めをして少しでも痛みを和らげてやるのを、大学病院で何度も見た。指示も出し

た。そしてここでも私はやった。してくれ、と言われて、やったこともある。でも・・あれは

辛い。私は解剖をした時に人間の肉体の精密さに神を思ったが、肉体の外は、実際、人間の

心が彷徨ってる。・・私には、とても言えない。――患者の傍で泣き崩れる遺族を見、霊安室

へ運び、私は何度も考える。私がもし同じ立場だったら、ああはしたくない。私は、・・誰に

も看取られたくない。死ぬなら自分できちんと死を選びたい。さんざん、痛み止めをやって

きたから、自分だけは、痛み止めを使わずに死んでみたい」

 恐いな、と一瞬僕は思った。でもそこに、河井先生の覚悟があるのだろう。

 「でも一つだけ言えるのは、人間が人間を救うなんて、絶対に不可能ということだ」

 「・・・何故ですか?」

 「お前、私が救われているように見えるか?」

 胸に突き刺さるような台詞だった。


  *


 二週間ほどして、吉本さんの体調が崩れた。

 
  *


 新しく病院患者が一気に三人ほど入ってきて、僕はその度に、自己紹介した。いまでは、

もう、河井先生から患者の病名を教えられないようなことはない。

 「色々考えさせたかったんだ」と、ある日河井先生からそっと教えられた。

 ・・・吉本さんが僕の最初の患者であることは、とても悲しいことかも知れず、あるいは、と

ても幸運なことだったのかも知れない。僕は吉本さんと生活を共にし、そこで会話をし、・・

そこから彼女の様子を逐一観察し、本当にちょっとのことでも心配になった。何しろ、病名

がわからないから、場合によっては、それで命取りになるかも知れない。

 「・・・最初が肝心だ」と河井先生は言った。

 でも残念なこともある、と続けた。

 「――長く医者をやっていると、・・あるいは、私の勘が鋭すぎるのかも知れないが、会っ

た瞬間に、死ぬかどうかわかる。別にそれを認めるつもりなど、さらさらないが、吉本くん

にはそれがあった」

 ・・・吉本さんは、膚が白かった。鈍い鉛のような灰色の海に浮く泡のように、白かった。瞼

毛が濃くて、そこに内気そうな瞳があった。身長は百五十センチくらいで、体重はたぶん三

十キロかそれ以下だろうと思う。吉本さんの口癖は“すみません”で、冬の自動車のガソリ

ンの排気みたいに、それから少しの間、余韻が残っていた。口の中で違う言葉があるのを、

察したが、最初はそれが何かわからなかった。
 、、、、、、、、
 診療所の屋上から――高い所から・・飛びおりることを想像してみる。

 「まあ、気を落とすな・・今日は酒を飲もうじゃないか、他の奴に仕事は頼んで」

 吉本さんは、すごく優しい子だった。そして、何につけ、よく物事を見ている子だった。

院長室で会った時も、吉本さんは僕と河井先生との険悪なムードを読んで、すかさずフォロ

ーを入れた。たとえば、病室の窓から、鳥が数羽とまっていて、ある日、一羽いなくなった

ら、その日はずっとその鳥のことを考えているような子だった。

 「人間が死んだらお経をあげるのと同じことさ。私だって・・悔しい。でも、金は貰う。ま

ったく利かない薬だった。もしかしたら、・・・吉本くんを苦しめたかも知れない。すまなかっ

た、と思う。医学の進歩のためだ、とは言わない。すまなかった、と思う」

 僕は、河井先生が泣く場面を一度も想像したことがなかったけれど、暖簾をくぐって居酒

屋の椅子に座ると、店主がドンと、一升瓶を置いた。いつものことなんだ、という風にイガ

グリ頭の鉢巻きが片眼を瞑った。――人は見た目によらない。

 ・・・吉本さんは、草を踏むのをとても嫌がる子だった。最初は靴が汚れるのが嫌なのかな、

と思ったのだけれど、そうではなく、付き合っていく内に、この子は、草に命があると思っ

ていて、その草を踏むのを躊躇っていたのだと気付いた。昔の思想や知恵をわざと用いて、

アミニズムですとかいう奴もいるけど、・・アミニズムの前に心が穢れてる。彼女の繊細な、

命を丁寧に扱い、それを壊さないようにする微細な神経の在り方は、どんな天秤にもかけら

れることはないだろう。

 「でも、河井先生――不思議です・・」

 と、僕は言った。

 「吉本さんがいなくたったっていうのに、むしろ、それが、――よかったような気がして

しまう。たかだか一か月くらいの付き合いだったのに、僕は、彼女のこと、すべて知ってい

るわけじゃないのに、・・よかった、と思ってしまう」

 ――吉本さんに、ひとつだけ頼まれたことがある。僕は彼女に頼まれて、死んでしまった

肉体の唇の部分に、そっと唇を這わせた。彼女はもちろん、身動き一つしない。僕は、ドキ

ドキしながら、一体自分は何をしているんだろうと思った。もちろん、こんなこと、河井先

生には言えない。でも、もしかしたらこういう秘密を医者は抱え込んでゆくのかも知れない

。僕はもしかしたら、河井先生よりも、そういう意味で深く接したのかも知れない。あるい

は、のめりこみすぎたのかも知れない。

 「たぶん・・、吉本くんは君のことが好きだった。何となくだが――吉本くんは、私よりも

、君に心を許しているような気がした。君も大変だったろう。・・でも私は、医者と患者との

間をとやかく言うつもりはない。何処だってそうだ。よっぽどの奴は別としても、普通の医

者でも人間は人間だ。人間同士のことなら、あとは医者でいるべきか、人間に立ち返るべき

かくらい本人に任せる」
    、、
 ――僕は、何もしなかった。でも、ある夜に・・ブザーが鳴り、僕は慌てて駆け付けた。看

護師はいたが、今現在はなるべく負担をかけない方向で僕がやっていた。というより、とこ

とんまで、・・・いつからかは思い出せないが、とことんまで、この少女と接してみたいという

気がした。吉本さんは、窓際に立っていて、ふわりとカーテンが夜風の中に吸い込まれて、

また戻っているのを見ていた。きれいでしょ、と吉本さんが言った。うん、でも夜は冷える

から、と慌てて・・実は吉本さんが窓から飛び降りるんじゃないかという気がしたからだが、

窓に手を伸ばした僕に、そっと、吉本さんの手が触れた。冷たかった・・。

 「実は、吉本君から君に手紙を預かってる。・・正直言って、渡してよいのかとも思うが、

いやいや、――医者がこれで潰れても、それは本望だろう。私は君を買ってる。でも、人ひ

とりの命はそれくらい重たい」

 河井先生らしい、独特の言い回しだった。・・

 茶封筒を胸のポケットから取り出し、僕に渡した。・・

 ぴりりと上を破り、便箋を取り出した。丸っこい文字が二、三行見えた。

 「何が書かれてる?」

 ――お願い、先生・・本当に少しだけでいいの。勇気が欲しいんです――たぶん、私死ぬと

思うの。死にたくない・・死にたくない。

 「何が書かれてる?」

 と、河井先生はもう一度聞いた

 「他愛ないことです。・・お世話になりました、先生、いろいろありがとうございました、

とかいう――他愛ない、本当に呆気ない、ことが、書かれていま・・す」
 
 気がつくと、目がすごく熱くて・・後にはもう、何も見えないくらいの涙が流れた。

 
  *


 ――あの夜、僕と吉本さんと二人きりで、ずっとお話をしていた。何処で生まれたのかと

か、どういう学校だったのか、とても他愛ない話だ。でもそんな話に、吉本さんはすごく喜

んだ。もちろん、吉本さんも喋った。というより、おかしいくらい、喋った。窓の色がさっ

きよりも深く青く見えだしたような気がするほど、・・病室は、二人だけの部屋だった。たぶ

ん十年後、二十年後になってこの場面を思い出してみても――僕は・・・他愛ない以上の言葉を

引き出せないのではないか、と思う。人生ってすごくすごく滑稽だ。でも、だからといって

、僕や彼女にとって、この場面がどれくらい深く心に沁みいるのかというのは別の問題だ。

僕は吉本さんが、僕を返さないようにするために、どれくらい喋ろうとしていたのかに気付

いていた。そしてそれはそっくりそのまま、独りきりの病室の恐さを説明していた。


  *


 吉本さんのことを思うと、僕は蝋燭が消えた後の寂寥感のような気がする。――いまでも

その病室へは行く。やっぱり違う患者が来て、その都度、色んな発見をする。こんなに踏み

込んではまずいんじゃないか、と思いながら、・・河井先生と同じように、真剣に悩む。たぶ

ん、僕も痛み止めをしないで、人生の最後を迎えようとする馬鹿に堂々と立候補するのかも

知れない。そして吉本さん、僕や、河井先生は君のことをずっと覚えていると思う。世知辛

い世の中だけれど、ああ君の言うとおり、河井先生は“ 「・・・いつもこういう感じなんで

す」”――でも、たぶん、僕も、この病院もそうなんだと思うよ。

 
  *


 そんなことを思うと、海が少し眩しく思える。

 僕は孤島にいるんだ、と思う。

 でも孤島の名前はガラパゴスと同じく

 進化を説明するにふさわしい診療所がある。

 そして多くのところ、それは朝の靄のように、

 僕も、吉本さんも、河井先生も――

 まるで誰もいなかったように胸を痛ませる。

 幻のように――夏が終わっていた・・。


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