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灯台

MY LIFE 6

  5


 ジャニーズ系の顔立ち、中性的で、少女と少年の境目にいるようなうつろいやすい、しかし確固とした意志をそなえた美の体現者。サッカー部に所属していて、この学校一の人気者で、この学校始まって以来のプレイボーイといってもいいかも知れない。
 そして秀一は僕の親友だ。―――ひりひりする、僕は彼のもっている強烈な個性に、ときおりは嫉妬のようなものを。くらくらする、それはおそらくポーに感じ入ったボードレール。僕は自由奔放で、傍若無人な一面があると共に、そのじつ、保守的で、どうしようもないほど自分という本質からノー、目を背けることできない。しかし秀一は違う、秀一はいろんなことをとても軽く受け流す、―――
 でもそれは一年生でレギュラーの座を射止めたとか、この学校のサッカー部を全国大会優勝に導いたとかいうものではない。そんなものに僕が嫉妬≪ジェラシー≫を覚えるとしたら、心外だ。女性をとっかえひっかえやっていながら、それでも恋の上級者とばかり最終的には友達として落ち着く。ぜったいに喧嘩しない、また、相手に悪い印象をもたせない。だが、それはいわば秀一の個性ではない。仮面だ。そういうものに僕は一切の興味を持たない。秀一にはゆるぎないほどの個性がある。でもその奥底では、僕と秀一はよく似ていた。しかしその天凛の資質はおおきく異なる。僕はおおくのところ影をもち、光を遮って、拒むようなところがあるけれど、秀一にはそういうものがまったく感じられない。
 天使と悪魔くらい違う。
 「おまえ、・・・また身長はのびたんじゃねえの?」
 僕等は体育館をぬけでて、金網のところまでいく。木のアーチまで歩いていく。一服するためだ。そしてそこで、秀一が黄昏のおぼろめく中を歩いているように、眼をほそめると、
 「ああ、・・・伝説の男が隣に歩いているなんて、」
 と、ばかばかしい芝居をはじめた。こいつは、いつもこうだ。しかしそれが大変にかわいらしく思えるので、もしかしたら、僕等は兄と弟の間柄といえるのではないか。
 「おら、神崎、てめえ二、三年生をどう思っていやがるんだ、」
 上級生からの呼び出し。なんだか、しらないが、身長が高く、同級生の間の力比べで群を抜いていた僕はそういう人たちの眼についた。しかし馬鹿馬鹿しいので、無視しようかと思った。相手にすると自分までおなじ次元になってしまう。だが、小学校から仲のよい同級生が僕を誘い出すために、鼻血がでるくらい殴られていたんだ!
 僕はドラッグストアのドンキーコヨーテで売っていた、馬の面≪ツラ≫をかぶってそいつらを全員しばきにいこうかと思ったけれど、元来おとなしい性格の僕は、誰かに手をあげるのをとても嫌った。その仲のよい友達にアイスやジュースをおごって、ついでにゲームセンターへ連れていって、じぶんのことで申し訳ないことをしたと謝っておいた。神崎くんが謝ることはないよ、と彼は言ったけれど、なんだか、この馬鹿馬鹿しい騒ぎに巻き込んでしまったことを恥じた。できうるなら、それで済ましたかった。
 だが、上級生たちは、その同級生からさらにカツアゲをした。これには相当腹が立った。僕等はお年玉から、財布の中身まで知っている間柄だったので、今月分がとてもピンチになってしまう。百円玉どころか、十円玉一枚でパンを買えるか、という話になる。それを取り戻すためにも、僕は行かなきゃいけなくなった。ただ、正確に記すと、とうとうそれは戻ってこなくなってしまい、僕はその同級生にマスターに頼んで約一か月の間、僕の代わりにコーヒーのサービスを提供してもらった。しかしそういいながら、ちゃっかりマスターは淹れてくれたけれど。
 「このうすらトンチキどもめ、やあ、この紋所が目に入らぬか、」
 「水戸黄門じゃねえよ」
 僕は笑った。見てもいないくせに、よくそんなことを話す。 
 「・・・でも、体育館の裏って不気味だよな、」
 その場所は昔から曰くつきで、幽霊が好んで居ついていそうな場所だ。校舎のシルエットが揺れる黄昏ともなれば一切生徒が近づかなくなる。裏門から抜ける生徒もいなくなるような具合だ。ともあれ僕はそこで六人の上級生たちに囲まれた。しかし僕はあくまでもその時には、同級生には手を出さないでください、僕はべつに何もしていません、お金を返してください、というだけいおうかと思っていた。話がこじれたら、とりあえず、こちらも多少の生傷のたえないような実践経験が豊富だったから、誰かひとりをものすごく痛めつけるつもりではいた。しかし六人相手である。漫画でもない限り相当きつい。じっさい、腕をもたれて、足をもたれたらサンドバッグになってしまうし、そうなれば、僕もこいつらの眼ン玉か、性的不能者にするかでもしないとやっていられない。一方的なことをする奴は戦争だ。やられたら百倍にして返す、だから何もするな、というのが僕の主義主張だったので、一応は穏便にかたをつけるという選択をした。しかし秀一にいわせると、ひとりでノコノコいった時点でそうとうフテえ野郎、腕自慢かよ、オイ、ということらしい。ゆかりにいわせると、あんたは背中にモンモンがある。マスターにいわせると、馬鹿は死ななきゃ治らん・・・。いや、あんたにいわれたかい、暴走族まとめてたくせに・・・。希美衣≪きみえ≫さんにいわせると、男って素敵だわ、ということらしい。また同級生の意見はおおかた三つに分類されるらしい。神崎くんはアブない人だからという危険な男、あるいは第三の男説。神崎くんはヤサしい人だからという同級生擁護、しいては人情派ぶらり旅芸人男説。神崎くんはナグりたかったのよ、ただシバきたかったのよという武道派、人間兵器、核弾頭説。
 「そして俺は言ってやったぜ、この野郎といきなり胸倉をつかんだ。その電光石火の早業、上級生の顔にマッチがすられた、生皮がむけたかとおもうと、そいつは百メートルぶっ飛んでいた。おお、なんてパンチ力なんだ。誰だ、おまえは誰だ、」
 「おまえ、アニメの見過ぎだよ。つーか、おめー、こえーよ」
 だいたい、僕から手を出していない。
 「ああ、・・・伝説の男が傍にいるなんて、」
 でもまじめな話、秀一のいうような展開だったらじつによかったのだけれど、奴等は刃物をもっていて、カッターナイフをちきちきいわせたり、なめたりする真似をした。そして僕が穏便にこんなことをやめましょうというと、奴等はいきなりてめえがムカつくからだよというと、僕の左頬をドスンと力いっぱい殴りつけてきた。鈍い音がした。そしてそれを合図に六人がかりで襲って来る。よっぽど、僕がこわかったのだろうと思う。殴ったり踏んだり蹴ったりされる。
 そして僕はそのただ中で、シフトチェンジする、―――理性のタガを外す。
 「ああ、同級生が見た話によっちゃ、鬼神だったっていうしなー、見たかったな、竜也がそんなにキレるのなんか見たことがない、」
 「なんなら、いま、キレてもいいんだぜ」
 うっ、と僕は立ち止り、うおーう、
 「・・・切痔だ」
 おおくはパンドラの箱だとおもう。触れちゃいけないものが、人生の中で数多くあって、たまたま僕にはそれが多くある。僕は彼等が死なないことだけを祈った。―――シフトチェンジしたのはそれで二回目だが、もうひとりの僕はとても冷たくて、無慈悲で、争いをゲームのように楽しんでいる。しかしそのじつ、何の感情も持たない戦闘マシーン。医学では僕のような人間をおそらく二重人格というのだろうと思う。影と光の槓桿≪レバー≫。人間にとってそれは意識の抑圧の解放。あるいは、魔法の実現。もしくは悪魔といって差し支えない。潜在意識のそのまた奥にある自我には、たとえば、ドッペルゲンガーとか、夢や想像でいうところの死者。そしてそれは超常現象が起こりうる奇跡性の体現。神話だ。そしてそれは冥府だ。
 ・・・ともあれ、僕が正常に戻るまでに相当の時間がかかった。
 たかだか十分くらいのことかもしれないが、幾千幾万のカオスの偏在、悪意の集合体にとってみれば、それはおそろしく長い時間だ。僕だったら血が出れば、顔が蜂にやられてハチの巣になれば、それで気が済む。でも彼の霧はそんなことでは晴れない。多数に無勢なんていうルールも通用しない。気がつくと、六人ともが血まみれで気絶して昏倒していた。僕の顔にもいくらか血しぶきがかかって、なにかとても冷たい気持ちになる。殴るという行為で、淋しい気持ちを彼は癒そうとしている、誤魔化そうとしている。でも、後の処理が大変だ。暴力によって有無をいわせぬ勝利を得ても、病院送りにした六人は二カ月以上の通院を余儀なくされた。
 そして病院へ連れて行かなくちゃ、警察問題になりませんかね、という教師たちのヒステリックな声だ。僕は心配になって見に来てくれた同級生に、先生を呼んできてくれないかと頼んだのだが、そうなってみて少し後悔した。
 ―――大人って我が身が可愛いんだ。大切なのは保身なんだよ。
 マスターがいつか言ってたっけ、その時は、
 ―――じぶんを非難してどうするんですか、マスターも大人ですよ。
 いや、俺は大人じゃないさ、とマスターが言う。なら、ずっと子供でいましょうか、と僕はマスターにそう慰めを言いながら、歩くたびに傷つけられている自分を知っていた。孤独に苛まれ続けていた。命をうしなうことも、友達のためなら、さっきの冗談のつづきからすぐに動くことができた。それが生存理由だと思った。それを探すために生きているのだと僕は信じていた。でも当時の僕は、身長がのびたりするのとはまったく別のところで、急激な大人の変化、感情の成長についていけなくなった。性の問題もそこにはあった。日常がやけに魅力のないものに思え、日々が鎖のように僕を縛りつけているように感じた。それはマスターを含めた大人たちにはとても危ういもののように見えたのだろう。まるで死に場所を探しているように、夜の徘徊をしている。まるで通り魔に殺されたいといっているかのようだ。でも好きでふらふらくさくさしているわけじゃない。ただ、どこにも居場所がなかった。夜のベッドタウンでは窓にともる灯がとてもきれいで、海岸の灯台のようになにかやさしい気持ちになった。でもなにか息苦しかった。なにか、いつも切なくてたまらなかった。誰と話していても僕のことをわからないような気持ちがしたし、テストの成績も、自分が誰かにどう評価されているのかをきちんと把握していても、同じ台詞、同じ毎日に嫌気がさした。箱の中にいれられたように窮屈で仕方がなかった。ごちゃごちゃ言う奴等の偏見や、色眼鏡が僕をねじまげる。苦労して入った学校も、片想いをしていた少女にも、なにかとてつもなく嫌な気持ちがした。おまえらみんな腐ってるんだよ、と思った。お前等ちっともちゃんと生きてない、そんなの見たらすぐにわかるんだよ、と思った。
 でも、マスターが僕にいつも優しくて、さりげない教えをささやいてくれる。
 ―――守るべきものを見つけるんだ。それで大人になる。
 ああ、マスター、まるでそれは静かな祈りのようだ。いくらきいてもマスターは答えちゃくれない、ことばは嘘だから。だから笑いながらいつもはぐらかされてしまう。
 そうだ、僕は守るべきものを見つけなくちゃいけないんだ。
 「竜也、・・・あの後、大変だったな」
 不意に視線をはずすと、秀一はサーファーのように髪を掻きあげて、
 「・・・さっきの騒ぎ、竜也がやったのか?」
 なるほど、と僕は思った。どうやら、変な心配をさせたらしい。
 「違うよ」


  6


 秀一は何かを考え込んでいる時、頭をぼりぼり掻く癖をいまでも直していない。そしてそんな時はいつもどうでもいいようなことを話す。予想通りというべきか、僕にどうでもいいことを訊いてくる。
 「なあ竜也、・・・セブンスターって美味しいか?」
 「うん、・・・・・・」
 チャコールフィルターだぞ、と言いたい気持ちに駆られたが、いったい誰の興味を抱かせるというのだ。セッタ、ブンタというのだぞ、といったところで、だからなんなんだろう。ウルトラマンセブンの親戚だぞ、といった方がまだ可愛らしい。
 秀一は横目で僕が喫煙をしているのを眺めている。灰が手に落ちたりすると熱くないかとか、その都度に聞いてくる。なんていう空虚さなんだろう。議論自体の空虚さが時間の無駄だと知っていて、まだ、フライパンのなかの卵をもとめている。
 ―――いったい、何の為に僕等は学校へ行くんだろう、死語を慎み、給料が貰えるわけでもなく、五、六時限の授業を真面目に受け、ときおり非日常を体験し、九科目のノートを用意し書き込まねばならないのだろう、―――
 「ところで、・・・まりがおまえのことを好きだって」
 「女の子ってこわ~いッ、信じられな~いッ」
 秀一はもじもじとわざとらしくお尻を、犬の尻尾のように振っている。葉っぱ全体が黄金色になったように錯覚するほど、きらきらと発光し、やわらかい絨毯。葉っぱは透けてしまい、手を伸ばせばそのまま緑のなかを擦り抜けてしまいそうだ。
 たぶんこんな風に、はぐらかされるのだろう。
 あ、あれ何だろおおおおおッ!
 秀一がなにか指差し、俺、ちょっと見てくるッ・・・。と大声を出している。何なんだよ、と僕は走った方角へ目を走らせる。そこには野菜の段ボール箱がある。秀一はそこまで駆け寄り、膝を曲げて屈み込む。次の瞬間、秀一は嬉しそうな声をあげると、何かを取りだした。ごそごそという音とは違う、がりがりと段ボールに爪を立てるような音だったから、容易にそれが動物であるということがわかった。予感はものの見事にあたり、子犬がひょいと顔を覗かせる。秀一は子犬の顔が僕に見えるように抱き上げて、あらん限りの高さまで、おお、まるで王冠。そしてカツラ。秀一は頭のうえに載せると、まるで川で拾った小石を見せびらかすように僕の方へと歩いて来る。
 おそらくそれはたった一瞬で、秀一の宝物になったのだろう。
 「・・・外人ニナッチャーイマーシタ」
 「ワンダフル」
 片言の世界で、話しながら、僕は子犬の柔らかそうな金髪に目を奪われる。一見したところ、ゴールデンレトリバーの子犬のように見える。だが、実際は雑種かも知れない。血統書云々はともかくとしても、雑種である場合、生え際が黒くなったりする例を僕は知っている。僕はその時、直感的にその犬がメスではないだろうかと思った。いかんせん、そんなことを思ってしまったものだから、僕は何故か金髪女性的妄想をし、それは真ん中からモーゼが海を真っ二つに分かれさせたように、こめかみの上へ二つの漣≪さざなみ≫だった黄金の河を流すだろうと思い、丁度、黄金を頂いた女王のようにも思われるはずだとそんなことを思った。黄金の女王・・・。僕ははたと気付く。この女王は捨て犬なのだ。
 「捨て犬みたいだな、・・・どうやら」
 「まあ、日なたぼっこさせていた、という風には見えないな」
 まあ、売っているようには見えないな、野菜じゃないし、と僕は言いたかった。
 「・・・しかし、うぅん、いい値で売れそうなのに」
 バシン、と秀一の頭を僕は蠅たたきではたいておく。だが、怒る気はさらさらない。犬の商売が成り立つほど、その値段は魅力的で、同時に魔力的だ。欲しがる人がいるからこそ、売る側も現れる。それはそのまま犬や猫を貸すレンタルビジネスにまで発展している。傍ら犬を喰う食文化もある。飢饉ともなれば、僕らだって食うかもしれない。
 そこへ、十メートル向こう側、体育館の方から、図書館の管理人の小林さんがやってくる。おいおい、と声をあげると、あわてて駆け寄ってきて煙草を僕から奪い取り、メッ、と僕の手を叩き、ポケットにいれておいたスーパーの袋のなかにしまう。
 「・・・体育館の裏はまずいよ、神崎くん」
 正直いって、いまさら僕が喫煙したって誰も何も言わない。教室で喫煙したとしても、ゆかりや、山崎先生がさすがに止めなさいというかも知れないが、もう大方の人間は諦めているというか、別世界の住人とみなしている。しかしひとつだけ確かなのは、僕はじぶんの喫煙を悪いことだと思っていて、なおかつ、それを見た人間を洗脳する意図がないことだ。
 僕はキマりが悪くなりながら言う。
 「・・・今度から、ね」
 「図書館で吸いなさい、・・・屋上でもいいから」
 で、と小林さんはその犬は、と言った。もしかしたら小林さんは、動物の鳴き声を聞きつけてやってきたのではないか、と思った。・・・意識が途切れる。
 ・・・意識が途切れる。
 ごく幼い時に、捨て犬を拾ってきた過去がある。
 ボロ切れがちょっと覗いていた、段ボール箱。中に何かしらの気配を察知しておそるおそる開けると、そこに子犬がいた。毛糸の玉みたいな、ちっちゃな犬だ。僕を含めた近所の子供達は面白がって餌をあげたり、水を飲ませたりしていた。そこにも秀一はいた。だが何かの拍子に、飼い主を見付けようということになった。子供達の時代を生きた僕等は偉かった、そして優しかった。その段ボールを抱えて近所の家を一軒一軒回り、交渉した。だがそんなやり方で上手くいくはずはなく、僕等はただ途方に暮れた。やがて僕等の一人が、この中の誰かが飼うのはどうだ、ということになった。よって、僕等はそれぞれの家庭へと赴き、交渉することになった。来るな来るなと思っていたのに、とうとう来てしまった。そう、白羽の矢がとうとう我が家の玄関に立った。とうとう僕にお鉢が回ってきた。他の家庭はことごとく、うちは駄目よの一点張り。お前に任せるよというわけで、世知辛い世の中を嘆きながら、仕方なく自宅まで持ち帰った。そして、こんな場合、母親の肩を揉みながら交渉することになる。
 ―――可愛がるのはいいけど、大きくなったらどうするの?
 恐竜ほどじゃないよ、とはもちろん言ってはいけない。僕はたいへんにかしこく、すばらしく頭がよかったので、こんな時に言ってはいけないことを熟知していた。
 ―――育てる。
 ―――いいえ、保健所行きよ。
 うちは駄目よ、の一点張り。
 ―――飼いたいんだよ、・・・お母アさん。ちゃんと育てるから?
 ―――うちは駄目よ。それが嫌なら何処か飼ってくれる家を探しなさい。
 挙げ句が、捨ててきなさい、と親父にどやしつけられ、兄もこの時ばかりは味方してくれず、渋々ながら敗北を容認し、とぼとぼと夕暮れの道を歩いた。いやな夢でも見ているみたいに空が赤かった。途方に暮れながら、段ボールの中の子犬を見晴らしのいい場所に置いた時、自分がどうしようもない人間だと思い、必ず地獄に堕ちるだろうと思った。
 もちろん、次の日には、あまりの後悔からすぐに色んな家をまた回って、ようやく飼い主を見つけた。が、やはり共犯者という罪から免れることはできない。誰かが捨て、僕が棄てたのだ。僕は大きな溜息をつきながら、あの日は雨が降っていたことを思い出す。霧のような雨の飛沫と、湿った土の匂い。もうもうと窓を開けた方向から流れてきていた。

 ・・・でも違ったんだ、その時の僕は教師の寛大な態度によろこんでいた。
 でもある日わかった、―――ああ、どうして気付いてしまったんだろう、―――彼等が自分たちの身を守るためにそうしたんだ、と。

 みんな、僕のことを被害者だといわず、加害者だといった。
 そして政治家さながら賄賂をわたすように、事件は闇に葬り去られた。さまざまな所にこんな忌まわしい過去がある。こんな不祥事を起こした以上はしょうがないのだろう。だけれど、その時の僕は本当に自主退学も視野にいれていた。マスターに雇ってもらうとか、年齢を誤魔化して社会に出るとか、でなければ、着のみ着のままで旅に出るとかわけのわからないことを考えていた。だけれど、僕は嫌だったのだ。事件が歪められ、六人がさも善良な人間で僕一人が悪魔のように思われるのが。事の発端である同級生の暴力事件も伏せられ、カツアゲも伏せられ、僕が六人にたったひとりで暴力事件を引き起こしたようにピックアップされるのが。でも、あとあと見つかった鉄パイプなどの凶器の発覚はありがたいニュースだった。もちろんそれが判明した時点で、変な因縁をつけられて、また同級生に被害が及ぶ可能性もじゅうぶんに考えられたから。起こり得ることだったのだ。しかし事件は名門校で起こったのだ。そう、進学校で起こった。六人は転校へと追いやられ、僕は道化師になり、校長や理事長は隠蔽工作をし、当事者はみなだんまりを決め込んだ。

 「捨て犬なんです!」
 ビクン、と僕は身体を硬直させる。
 「そうかい、捨て犬なのかね。でもこういう場合は、何も知らなかった、何も見なかったと、心を鬼にする方がいい場合もあるね。生徒が拾ってくれるかも知れないから。だって下手に優しくすると、かわいそうだからね・・・」
 死んだ犬を生き返らせることはできない、と僕は思った。
 「―――そういう自分を、小林さんは冷たいと自分で思いますか?」
 「思わないね、・・・いや、こんなことを思春期の感受性ある神崎くんや、山崎くんに言っていいのかわからないけれど、別に宗教の話ではなくてね、そうなるのにはちゃんとした理由があると思うんだね。縁があるのなら、絶対にその子を離したりしないはずだから」
 でも僕が小林さんを咎めているとでも思ったのか、眉間に皺を寄せて怒りを露わにした。僕がもしそういう言い方をされたら、やはり小林さんと同じ態度を取っただろうと思う。
 「すみません、・・・別に責めるつもりはないんです」
 「いやいや、こちらも、怒るつもりなんてないんだよ」
 小林さんは、ふうっとガスを抜くように溜息をついた。
 「でもね、神崎くん。優しいだけじゃ生きていけないよ、愛だ夢だなんていつまでも言ってはいられないんだ。それは多分、神崎くんが一番感じていることだろうと思うけど」
 そうですね、という風に僕は頷いた。
 「・・・でも、こいつ、可哀想だなんて思ってないでしょ」
 ふたりは、僕の顔をしげしげと眺めてくる。
 「・・・僕ね、昔、犬を捨てたことがある。その時の経験から、ちょっと、ね、」
 ああ、なるほど、という風に小林さんは肯いた。秀一は、そんなことあったっけ、という風に目配せしてくる。子犬ははッはッ、と発情している。
 「・・・それから次の日すごく後悔して飼い主を見つけたんだけど、どうなってたっておかしくなかった。ほら、弱いものを虐めるのが好きな人間もいるから。・・・憂さ晴らしとかで、ね。でも考える、じゃあ、因果ってなんなんだろうって。そいつを捨てたのは飼い主だったやつ、最低の奴。でもじゃあ虐める奴も最低だ。だけど、捨てた奴がいなかったら、そんなことする奴もうまれない。じゃあ、この最低っていう連鎖はどこまで続くんだろうって。むしろ、こうやって自己弁護している自分がそんなに好きじゃない。・・・捨てた奴は最低だ。虐める奴も最低だ。そして僕も助けようとしたけれど、・・・最低だった。でも最低だっていえるほど、立派な人間なんてひとりもいない。牛喰って豚喰って、犬捨てたら最低だっていう理屈が成り立たない。でも胸が傷む、だって、こいつ、生きてるから」
 小林さんはほおうッと梟のような声をあげる。目をこすっている。
 「なんだか、まるで、輪廻転生みたいだね・・・、でも、でもね神崎くん、例えそれが許されないことであったとしても、それがとても冷たい人間のする行為であったとしても、その人達を責めてはいけない。だから自分も責めちゃいけない。神崎くんは先程そういうつもりじゃないと言ったけれど、ううん、本当にそうだったのかも知れないけれど、一番やっちゃいけないことは、中途半端じゃないかな?」
 うん、という風に僕は頷く。秀一も何か思うものがあったらしく、うんうん肯いてる。
 「育てられる自信もないのに、拾っちゃいけないよなー!」
 捨ててきなさい、と親父が僕にそういった意味が、今ならよくわかる。血の通っていない冷血漢ではない、やはり心を鬼にしていたのだろうと思う。そしてそれが母親ではなく、どうして父親がいったのかも・・・。役割分担、母親はおそらくきつく言ってあげて、と親父にそう進言したのだろう。
 自分では効果がない、とそう見込んで・・・。
 そう、綺麗事など一つもない。僕がもっている理想なんていくらの値打ちもない。僕等という誰かはいつも平気で見過ごす。そんな血も涙もないようなことをしておいて、自分がたかだか辛かった、苦しかったというだけで平気で人を傷つけるようなことをする。誰もが加害者になりうるのに、そして誰もが正しい選択をしているかなんてわからないのに。僕はついおどけたような、掠れた声になってしまう。繕っている自分が、あまりにも見窄らしい。
 しかしそういうポーズを取ることで僕は平静を保つ。
 「・・・拾ったら、最後まで育てる、面倒を見るのが飼い主の義務だもんな。人に育てられた動物は、野生には帰れない。どっちみち保健所かも知れない、・・・偽善者ぶるのはよくない、この一匹の子犬を育てるお金だって捻出しなくちゃいけない。扶養家族だ、」
 でもそう言ってから矢継ぎ早に、
 「でも、そんなに桁外れのお金がかかるわけじゃない。・・・たかだか、犬の一匹も育てられないのかっていう話だよな。そうだ! 貰ってくれる人でも・・・・・・」
 そうだね、と小林さんは笑った。
 「みんな、子供みたいになれたらいいね。・・・昔、じぶんの子供を泣かせたことがある、こう言ってね。探すのなら責任を取りなさい、と。あの子は本来死ぬはずだった、・・・生きる権利を与えたのは君だ、もう二度と殺すような真似はやめなさい。見付からなかった場合はどうするんだ、と詰ったことがある。いやはや、大人げなかったね」
 「でも、小林さはきちんと考えてる」と僕は評価した。
 しかしそんな僕等の会話を余所に、秀一は、おまえの名前はクリスティーにちまちょうね、いいでちゅね、とかお子ちゃま言葉で勝手に話を進捗させている。あろうことか、抱っこして、「こいつ、ついていないぞおォッ!」などと恥ずかしげもなく大声でいうと、僕等に確認させようと子犬を突きだしてくる。やはりメスだったかと納得しながらも、思春期の多感な僕としては、どつくだけの権利はあると思う。
 「ああ、こいつ、自分でこう言っているんだ、クリスティーって!」
 「勝手に名付けてんじゃねぇ!」
 飼えない犬の名前つけんじゃねぇ!
 しかし秀一は次の瞬間、しおしおと抱っこしていた子犬を段ボールの中に戻そうと、とぼとぼ歩きだす。不意によぎる少年時代の記憶。
 「ああ、ごめんよ、クリスティー、俺はおまえを飼えない。・・・姉さんだったら、おまえのことを愛してくれるかもしれないが、姉さんは竜也のことしか聞かないんだ。両親はばかだから、アナコンダだって飼うだろう。でも姉さんや、俺は、お金だってそんなにないし、自分のことだけで精一杯で何にも出来ないんだ。しかも、あの竜也ってやつは鬼だからおまえを殺せと教えしや。・・・与謝野晶子、ね。ああ、犬を殺せとおしえしや」
 「じゃかましいわ、ジャマイカ少年じゃがいも茹でたろかい」
 はやい話が、僕から希美衣≪きみえ≫さんに頼んでほしい、ということらしい。だが、それはつまり、じゃっかん嘘があって、希美衣≪きみえ≫さんから両親に頼むということでもある。秀一はこんな時とても巧い方法を考える。
 「・・・だからああ、やめてくれ、うるうるするような愛眼はやめてくれ、決心が鈍ってしまう。おまえの首を絞めなきゃならん。ああ、わかったぞ、わかった、」
 しかしいったい、誰が下手な三文芝居をやれと言ったのだろう。
 「いま、いっそ俺がおまえの息の根を!」
 覆い被さるようにしているものだから、首を絞めている可能性もないとは言えない。しかし敵もさるもの、がさがさと段ボールを揺する音をさせ、腕をわなわな震えさせ、背中が強張り、太股にいような緊張がただよっている。迫真のアカデミー賞ものだ。
 「・・・ちょっと待て!」
 「ああ、クリスティーの顔色が、・・・ああ、うつろな眼、・・・」
 「わかったって言ってるだろうが! ・・・男に二言はない」
 くるり、と秀一は振り返ると、ガッツポーズを決めている。やられた、と思ったのは秀一の感情が素直だったせいかも知れないが、でも、そうでなくとも僕はその子犬を、その子犬の命を拾っていただろうと思う。けちな自分のプライドなんかで、はかれない重さだ。
 「やったぞァ、ぱおーン、ぱおーン」
 「やめろよ、尻っ尾は鼻じゃないんだから」
 僕と小林さんは苦笑いをしながら、顔を見合わせる。だが、秀一はじっさい、とてもうれしそうだ。さすがに十五歳になってもサンタクロースを信じている男という肩書は伊達じゃない。サイダーの瓶からビー玉を抜くために、瓶割をすればいいだろう、という方法を思いつかないうすらトンチキの男だ。そして秀一はぼそぼそと子犬に語り掛けている。おそらく僕の名前だとか、小林さんだとか、秀一の家族の名前だとかを教えているのだろう。
 しかしその時、子犬は顔にじょおおおおおッ、とやっちゃいけないことをやった。僕と小林さんは笑う。ぺっぺっ、と秀一は顔をそむけながら、きさま、きさま、と言っている。
 テメエ、ヤリヤガッタナ、と何故だか片仮名イメージでその凄まじさを思い描く。
 「てめえ、オカしたろか、このアマッ、・・・ぺっ、ぺっ、・・・なんや従順そうな顔をしとるのお、ええッ、かわいいってことをいわれつづけた純情そうな女子≪おなご≫やのお」
 やめーい、やめい、と僕はチャックをはずし、犬相手にわけのわからない冗談をやろうとする秀一に言う。しかしどこまでも凄い男だな、と視聴者はみんなそう思うだろう。
 たしかに、すごいのだ、この男は。しかも、秀一はまだやめずに、
 「・・・ワタシ、アソコ、イッタコトアルヨ、」
 とシモネタを悪びれもせず、やり始める。おまえは腹話術師か。
 「なんだとお、このアマ、」
 ぺろぺろ、と犬が顔を舐めてくる。えんがちょ、だ。 
 「テクニシャンだな、見かけによらず」
 サンドペーパーのように、ざらざらした、少し粗い舌の感触を僕は想像する。
 くすくす、と小林さんが笑っている。まあ、よしとしようと思う。しかし何故、秀一は顔を洗いに行かないのだろうと思うが、また、シャツを洗いに行かないのかと思うが、それから十数分におよんで、秀一ワールドが開催され、僕と小林さんはなんとなくそれを笑いながら見ている。秀一はこれから子犬にそうするであろうことを、いま、やっているのだ。秀一とクリスティーの親愛ぶり、蜜のような時を眺めながら、ああ、僕もあの時に、こんな風にしてやれたらよかったな、と思う。
 こんな風にしてやれたら、あいつも、傷付かずに済んだのにな、と・・・・・・。


 第六章 だからもっと心臓で感じて・・・・・・


 1


 三時限目の終わりを告げるチャイムが時間を不意に告げた。このチャイムで僕は教室に戻ることに決めた。丁度、区切りもよかったからだ。さきほど、小林さんが犬を一時的に預かってくれることになり、あとで、秀一が家にまで連れて帰るという。そして夜にはうちにきてくれよ、ということになって、いまから、地獄のディナーが想像された。
 「秀一も早く帰れよ・・・」とそう言って背を向ける。
 だが、その時、秀一が何気なく口走ったのだ。
 「なあ竜也、・・・知ってるか?」
 「うん、・・・ああ、・・・それで?」
 「なんか、香山ゆかり、担任の山崎に平手打ちを食らってたみたいだぜ」
 おいおい、と僕はたしなめるように言った。
 「山崎先生はちょっと癖のある奴だけど、生徒を叩いたりしないよ」
 「いや、本当だって」
 秀一の真剣な眼差しがいやに心をかき乱す。
 「・・・・・・そ、そうか」
 僕は平静を装いながら、
 「まっ、教えてくれてありがと。サンキュ、・・・」
 といって歩き始めたものの、途中から早足になったり、立ち止まったりしなたら僕は柄にもなくあわてて教室へと向かう。何かが起こっていると思った。
 
 教室へ戻る頃には、僕はもういろんな感情から肩で息をしていた。 教室へ入ると、いつもとは違う空気に気付いた。ギスギスしている、というべきなのだろうか、クラスメート達の動きがなにかぎこちなかった。そして僕を見る目が、なにか余所余所しく、遠巻きにしているように思える。何かあったな、ということはこの空気だけですぐにわかった。
 ゆかりだ・・・ゆかりが、机に伏せている・・・。
 僕はこの立ちくらみを起こしそうな、視線のフラッシュライトを浴びながら、なにかの間違いであるように思い、そのじつ不安の種を抱え、ゆかりの席へと近付く。
 「・・・なあ、ゆかり、叩かれたって本当か?」
 僕はじぶんの席を引きながら、ちいさな声でやさしく問い掛ける。こんな時にはいつもの憎まれ口や、漫才の調子もない。でもゆかりは中々顔をあげてくれない。ちらり、と見ると机にちいさな水溜まりができていて、それが涙だということはすぐにはわからなかった。涎とか、汗とか、そんな都合のいいことを考える。でも心の中は決定権をうしなった宙ぶらりんの状態だ。
 僕はゆかりの肩に手をかけ、・・・なあ、ゆかり、・・・なあ、ゆかり、と揺さぶる。すると、見ないで、という涙の滲んだような声がきこえる。パチッ、と電気がショートするような感じで、ブレーカーが落ちる。僕はゆかりの身体を机から引き離すように持ち上げると、もうすでに、痛々しい赤い手の跡がくっきりと左頬に残っていた。それが秀一の話をすべて裏付けていた。僕はあまりにも腹が立ったので、ふざけんな、と机を思い切り蹴り上げてしまう。
 机はくるくると宙を飛び、ゆうに二メートルは飛んだ。その自分のあまりのキック力にちょっと引いたが、おそらくクラス中そうだろうと思うが、それでも、僕の怒りはおさまらなかった。
 なにしろ、ゆかりは友達の僕に本当のことを話してくれない。なにが見るな、だと思う。山崎先生を庇っているのはすぐに察しがつく。何故なら、僕がそんなことを知ったらすぐに揉め事を起こすに決まっているからだ。でもゆかりの疲れたような光景を目にしていたら、腹立ちをおさえられない。あのぱっちりとしたあかるい瞳にはいつもの溌剌としたかがやきはなくて、充血して、なにが不吉な沼のようにどろんと濁っている。まるで死んだ魚の眼。そしてその目は遠くを見つめているようでもあったし、近くのものをうつろに見ているようにも思えた。僕はゆかりの髪を撫でながら、ごめん、と言う。
 なにか、ゆかりの見られたくないところを見てしまったような気がしたからだ。
 「おい、川本・・・、」
 「は、はい」
 川本絵里はゆかりの親友だった。
 いつもなら僕ともおしゃべりをしたりする丸っこい大福みたいな、ちょっとふくよかで、それでも地蔵様とか、お婆ちゃんのような雰囲気がある癒し系の女の子。声が裏返っているのは、僕が物に当たったせいなのだろう。意外と気が弱い女の子なのだ。
 しかし僕は川本に詰め寄るように、「ゆかり、どうしたんだよ・・・、」と訊く。
 もちろん秀一から事の真相は聞いている。でも、なにかの間違いということもありうる。だから僕は喧嘩腰で川本に聞く。だが、川本は、ちょっとね、とか、うん、だけどね、という風にぼかして僕の質問に答えてくれない。
 「川本、・・・ハッキリ言えよ!」
 すうっ、と息を吸い込んだかと思うと電光石火の早業で、
 「ゆかりとあたしが喧嘩したの。強く叩き過ぎちゃったのよ、・・・ごめんなさい」
 なんだか、ものすごくわざとらしいと思うのだけれど、剣幕にすこし押されて、そ、そっか、とつい唸ってしまう。ほんとうか、と訊くのに数十秒かかったのはそのせいだ。
 「でも俺、山崎先生が叩いたって聞いたぜ」
 一瞬、びくっとしたが、すぐに、
 「デマよ、デマ」と言ってくる。
 「でも、おまえ・・・・・・」
 川本の手が小刻みにぶるぶる、と震えている。それを見ていると、川本の苦労、・・・苦労だと思うんだけど、僕は何も言えなくなってしまった。もしかしたら、ゆかりからこんな風に言って欲しいと頼まれたのかも知れない。でも川本とゆかりが喧嘩したのなら、おそらくこんな風なシチュエーションにはならないだろうし、ましてや、ゆかりも川本も、相手の顔を叩いたりするような子じゃない。でもこの場で、おまえ嘘をつくなよ、と押し切ってしまうのには気を引けた。なんだか、みんながしょうがないんだよ、という空気をもっていて、まるで信憑性をもちながら、それは現実じゃない、といっているみたいだった。
 僕はまた席に戻り、ひたすらに熱気が冷えるのを待った。しかしそうはいっても、机に伏せたままのゆかりを見ているのは忍びなくて、大丈夫か、とつい聞いてしまう。ゆかりはこちらに顔を向けて、なにかを喋ろうとする。でも言葉が詰まってしまったのか、瞼が痙攣している。しかしそれは無理をして、その腫れぼったい顔で僕に微笑もうとしているからだ。
 僕はなにかいたたまれない気持ちになって、がたん、と席を立ちあがる。シフトチェンジこそしていなかったが、だいぶ、頭にきていた。僕は教室をゆっくりと出ていく。休み時間の終わりを告げるチャイムをききながら僕は職員室へと歩いてゆこうとする。
 「・・・竜也」
 その時、ゆかりが僕の背中に切ない声で、まるでほんとうの心の張り裂けたような声で僕の名前を呼んでくる。振り返ると、同級生たちが清濁併せのんだような表情をしている。みんなは僕を止めようとしている。それはたぶんクラスの連帯感のようなものだったのだろう。僕がここで出ていくよりも、ゆかりや、川本の意見を尊重する方が正しい、と。
 でもそれは違うだろう、と思った。なんか違うとは思わないか、と誰彼かまわずクラスメートの胸倉をつかみながら問い掛けたい気持ちに駆られた。

 僕は二階にある職員室の扉の前にいた。
 ドアを開けようと手を伸ばすと、・・・ドアががらり、と横開きにひらいた。それは疑惑の当人である山崎先生だ。こんな短時間ではち合わせをするとは思わなかったから、おそらくこれは運命なのだろうと僕は解釈した。僕は作り笑いをしながら、
 「山崎先生、・・・ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか」と言う。
 「ああ、いいぞ。ちょっと、授業があるが、まあいい、ちょっと職員室に入れ。神崎にはちょっと進路とかで話したいこともあるしな―――」
 ほんとうにいい先生なのだ、と僕は思う。最低、いきなりぶん殴ってから話をスムーズに移行させるような荒っぽい方法や、理論づくめで相手を打ち負かすような相手ではない。
 がらり、とまたドアを開ける。職員室にはドアが二つある。ひとつは新任教師が生徒たちにはやく慣れるようにという意図で設けられ。もう片方のドアを開けると、学校でも人気のない教師の席が設けられており、しいては、教師たちにはウケのよい人間というツートップで構成されている。職員会議の末、おそらくおなじ業者に受注した教師たちの机と椅子。デスクワーク。プリント作り。花瓶は窓際に置かれ、おそらく一月からつけられている新しいカレンダーがすこし乱暴に破られている。職員室にはいると、ぺちゃくちゃと三つのグループに分かれて先生たちが何かを話し合っていた。おそらく、先ほどの騒ぎのことだろう。
 「・・・ほら、神崎、すわれ」
 山崎先生は僕にじぶんの席にすわらせ、自分は隣の椅子を拝借する。なんだか悩み事相談人のような顔をしている。
 「じつは、・・・香山ゆかりのことなんですけど」
 しかしそういうや否や、見る見る内に笑みが消え、厳めしい顔つきになった。まるでジキル氏とハイド博士だ。そしてまるで突き放すように、
 「そのことを神崎が知る必要はない」と言う。
 まったくもってその通りだと思った。だが、それでも、職員室へ来ずにはいられなかったのだ。だが、山崎先生は僕の神経を逆なでるように、そういえばもう授業だな、と眼を泳がせながら、わざとらしく席を立ちあがろうとする。待て、と思った。そんな態度をするくらいなら何故、はっきりと殴った、それが何だと言うんだといえないのか、と思った。気が付くと、僕のなかの言葉はすでに弾けていて、
 「答えろ、山崎! どうして殴った!」とぽんと本音が飛び出していた。声のトーンも二倍、三倍に跳ね上がっている。喧嘩の極意はやはり気合だから、こんな時、しぜんと大声が出る。そして職員室は一瞬の出来事にざわざわとした声が止まった。まるで野次馬連合軍みたいだった、興味本位のワイドショーみたいだった。
 しかし誰も山崎先生に加担しようとはしない。こいつらも他人なのだろう。山崎先生は竦んだように肩をちぢめながら、しぶしぶと僕に語り始める。
 「・・・・・・香山のやつ、今朝怒ったというのに、まだ懲りていなかった。うしろの奴と、こそこそと手紙をまわしていた。今年は受験のシーズンだ。ただでさえ気が緩む。だから先生は教育の一環として、しめしをつけるために、平手打ちをした」
 山崎先生は姑息にも僕にいけしゃあしゃあとそんなことを言う。たしかに、正義は我にあり、かも知れない。朝と同じシチュエーションだ。でも受験のシーズンとか、教育の一環とかそんなの誰も聞いちゃいない。そんなのは話のわかる奴だけだ。
 でもそんなことを僕に言っている山崎先生がとても悲しかった。それがいかにズルい語法かも知っていて、また正当化できる立場にいることも知っていて、こんなことを言う。だったら僕もPTAとか、マスコミに、と言えばいいのかも知れない。おまえ、この学校に一秒だっていられると思うなよ、スキャンダルを恐れているのは全学校なんだぞ、そして全教師のたった一人によっていつだって信頼は崩れるんだぞ、と脅し文句をしたいような気持ちに駆られる。でも僕はそんな大人にはなりたくなかった、・・・子供なんだから。僕は拳をぎゅっと握りしめると、左手で力任せに殴りつける。もちろん左手で殴ったのは手加減をするためだ。そして同時に、ゆかりや川本のこと、クラスメートのことをまだ少し考えていたからだ。そしてそれでいて、この山崎という教師に優越感や昂揚感ではない、もっと別のことを考えてほしかったからだ。あとで絶対に心が痛む。どんなに力を誇示してもそうだ、権力に寄り添っていても、ほんとうの自分というのは見えてこない。
 僕の拳は山崎先生の鼻にがつンと命中し、首ががくんと上向いたかと思うと、その途端に、どばっと鼻血があふれでてくる。あわてて鼻を両手でおさえてはいるが、脳震盪をおこしたのか、膝ががくっときて床にふせた時に、鼻から手をはずしている。いかにもみじめで、みっともない大人の姿だった。しかしそれを見ている内に、僕はほんとうに悲しくなってしまう。
 こんなことをしたかったわけじゃない、と思う。
 しかしそう思いながら、じゃあ他にどうすればよかったのかと思う。
 「・・・痛いだろ」と僕は言った。
 山崎先生はうん、とか、うっ、といいながら、僕の顔を弱々しい目で見てくる。職員室の教師たちも呆気にとられていて、ふたりのやりとりに口出しできない。
 「・・・でも先生は大人だろ、だから、おまえ、狡猾≪ずる≫いよ。子供なんか、お前等の意見ですぐに服従しなきゃいけなくなる。ましてや、暴力なんて、どうなんだよ」
 お前はどうなんだよ、と自分に問い掛ける。それが正しいのか、と思う。
 「・・・ゆかり、・・・香山はさ、おまえのこと、ほんとうに庇おうとしてたよ。おまえみたいな婉曲語法も使わなかったし、正当化もしなかった。・・・だって香山は、・・・ゆかりは、こどもだから、俺がこんなことをするのも、自分のことで山崎先生と揉め事を起こすのも嫌った。そんな、香山の・・・、ゆかりの気持ちを思うと、おまえの発言は許せない」
 なんだか僕の胸の内に込み上げてくるものがある。崩れ去ると知っている情熱だ。理想のともし火だ。いまさら、そんな時代じゃないよ、と思う僕もいた。
 「なあ、アイツのことわかってやってくれよ。大目に見ろって言ってんじゃない、殴るなって言ってんじゃない。対等の関係で接してやってくれよ、そしてそこから見えてくるさ、いつものちょっと上にいるアンタでいてくれよ」
 山崎先生は僕の発言になにか思うものがあったらしく、うん、そうだな、ととてもやさしい声で応じてくれた。物わかりのいい先生、仏の山崎、そういう教師でよかったと僕は思う。ひとの気持ちがよくわかる人間だから、誰にでも優しくなれる。優しくなれるから、こんな不良の僕にも、進路のことを話そうとしてくれたんだろう。
 しかし高見の見物をしていた教師たちは、先生の手当をしなければ、なんて奴だ、ああいう奴がいるからこの中学校の評判がおちる、とほざいていた。いつもそうだ、心なんてちっともない。問題児というレッテルを貼るだけで、僕の心とか、考え方とか、ひとりの人間だという風にまったく見ちゃくれない。こいつらにとってみれば、モルモットや蟻同然なんだろうと僕は思った。だから僕はこんな奴等に一度だって心を見せるものかと思った。そして皆小声でぼそぼそ囁きやがる。頭が悪い、物事の表面上しか見ない。だからこいつらの生徒たちが自殺をしても、イジメに遭っていてもわからないだろうと思った。むしろゲームセンターで補導された生徒とかをうんだり、家庭の不和で不安定なやつをよけいに傷つけたりする。いい大人がなんてザマだ、と僕は思った。

 声は次第に激しさを増していき、内容自体も僕の誹謗・中傷へと移っていった。
 殴られてもしょうがない教師をうんだ奴等は誰なんだと思う。国か、それともお前等自身の世代か、コミュニケーションか、マスメディアか。ちがう、本当に中間管理職になって、ひとりひとりが情熱を持たなくなったからだ。身体チェックをして規制を敷いても、規範をいくら声にしても、そんなお上品なことば、誰の耳に届くっていうんだ。
 僕は背を向け、肩をわざとらしく怒らせて、自分は力自慢のアホだという風に振る舞う。こいつらに僕の気持ちなんかわからない。そしてこんな奴等に、一言だって語りかけることばも、時間も、僕にはない。僕はそんな見え透いた正義なんかに従ったりはしない。
 でも・・・、でも、その時・・・、 
 「神崎、すまん」と山崎先生の声がぼそりと聞こえた。僕は一瞬だけ、振り返る。とても切ない声だった。山崎先生の目からはぼろぼろと何粒も何粒もダイアモンドのようなきらめきの結晶がこぼれた。おもわず、おどろいて目を見開く。そして、目で合図を送る。これで、なんだか、僕も救われるような気持ちがして、妙にしんみりとしてしまう。
 「山崎先生、・・・俺、一週間ほど自宅謹慎しますね」
 ちらりと、僕は山崎先生の傍に寄り添って、僕を珍獣扱いするをひと達を見る。まあ、こいつらはすぐに揉み消したがるだろう、いつも通りに振る舞え、というかもしれない。
 でもそんな奴等の声なんか誰がきくものか。僕は僕を罰する。ケツの拭き方もしらないで、すてきな大人になれるなんて僕には言えないから。
 「・・・神崎、いいんだぞ、気にしなくても」
 ほかの教師たちがいるというのに、山崎先生は堂々と胸を張って言った。
 「おまえは間違ってない・・・絶対に間違ってない・・・」
 でも僕にはそのことばの荷が重たかった。そういう全幅の信頼をおかれても、心のどこかで自分はまだひどい人間だと思いこみたかったから。そうでなければ、生きていけないような気がしたから。僕は首を振って、許容範囲を超えていると思います、と簡潔に言った。
 「そうか、神崎はすごいな・・・」
 僕はそれにも首を振った。あなたの方が、ずっと、すごい。しかしそれは僕は口には出さずに、肩の力を抜いて、いつも通りの歩調で職員室をゆうがに抜け出す。そして僕は屋上へと行く。なんだか、無性に独りになって、もう一度このことを自分に問い掛けてみたい気持ちに駆られた。そしてその間、山崎先生はゆかりに申し訳なかった、と頭を下げていたと川本の口から聞いた。おそらくみんなの前で、おおきくおおきく、頭を下げたのだと思う。




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