1087730 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

灯台

MY LIFE 10

  4 


 ―――からんからん。
 と、木製の扉をあける。
 「おや、いらっしゃい」
 「さき、邪魔させてもらってるぞ」
 珈琲専門店“ダンスダンスダンス”のカウンターに一人の男が座っていた。遠目からだが、白いシャツに黒いズボンのラフな格好をしていた。
 無機質な灯。さっきまで、そこで、僕とマスターが飲んでいたとは信じられない。
 ・・・光は少ない。
 「竜也、紹介するよ、こいつは古い馴染みの山本健史だ」
 「よろしく・・・、竜也君――」
 まあ、なんだ、とマスターが咳払いした。
 「お前、いつか、ジャーナリストになりたいって言ってただろ。山本は、フリーのジャーナリストだ。一応、評論家という肩書きもついてる」
 「ついてるったって・・・、つけられただけ、が正しいけどな」
 僕は少し目を輝かせた。
 「何が専門なんですか?」
 「一応、大学が、芸術大学で、・・評論家だったら、狭義だが、現代アート専門の美術評論家ということになるか。しかしさすがにそれだけじゃ喰っていけないから、趣味が高じて書くようになった写真や、音楽と偉そうに言えるほどまだ情報量も足りていないが、音楽雑誌にも寄稿してる。まあそんなこんなで、映画や自動車や、挙げ句、服飾関係も・・・」
 「こいつの面白いところはさ、付き合ってる彼女で、職業変えちまうところなんだ」
 山本さんは、後頭部を掻いて照れ笑いした。
 「まあ、・・・そんなところだ」
 「傑作なのは、こいつこの前、アイロンのかけ方講座とか糞くだらねえものを書いてやがった。そしてその前は何だっけ・・・、ほら、あれだ」
 「たしか、クリーニングへの出し方。あなたはこれで都市生活者」
 僕は少し笑った。
 「まあ、世の中何がどうなるかわからないから、毎日いろいろメモして、書くようにしてるよ。朝刊も馬鹿に出来ない」
 「川柳も載ってるし、四コマ漫画も載ってる」
 「おいおい」
 なんだか、二人のノリが楽しい。
 ――くるりと、マスターが振り返って僕の顔をじっと見た。
 「いやまあ、老婆心だがな、・・・会社に入って、俺みたいに苦労することはないさ。これから、何するにしたって、自由に道を考えたらいい」
 もう・・・、何も考えられない。
 いや、考えたくないのかも知れなかった。
 ライターが点いた時、店前から前照燈が飛び込んでくる。
 その瞬間、細い煙が立ち昇り、複雑な模様が完成する。
 握るでも、開くでもない、十本の指が取り残されて・・。
 
  × × ×

 プールの青い水面に、3コースの泳ぎ手が美しく泳いでいた。
 ・・・カルキ臭い臭い。夏の落葉が溜まったプールの端。
 ゆらゆらと光が踊っている。
 ――車輪の音がする。
 いつのまにか、僕は車両の中にいる。
 エンジン音と。車輪とレールの擦過音。
 ああ、タールや鉄がこすれる音。
 やがて古びた煉瓦のトンネルへ・・・、あのトンネルへ。
 ぼんやりとした薄明かりだ。
 僕は窓硝子に額をあてている。
 首筋に冷たい汗がひとしずく滑り落ちる。
 ・・・鯉だ。あるいは、鮒かも知れない。
 そいつは、じとじとと濡れていた。
 したたかな生臭さ。・・初夏だ。
 ――ドビュッシーの「水の反映」
 銀色に染まった月を合図に、文庫本を開いたままシートに置く。
 バニラエッセンスのにおい。
 ・・・どこからともなくにおう、古い木。
 そして次の瞬間、それは発火する。
 ついで、風が吹く。
 やがて胸底の暗がりにまで灰を届ける。

  × × ×

 オーデコロンのにおいが鼻先をかすめた。
 落花生。芯がかたくて、口触りまでつっぱっている。しかし生臭くもなく、仙人なら、豊かなあじわいだ、こくである。粒が小さい。塩っぽい夜の空気がなつかしい。
 ――北風の奴、ビール買いに言ったな。
 僕は肯く。・・・気を利かせたのだ。
 ――竜也君は、中学生活を楽しんでいるかい?
 どうだろう。息が白く凍る・・。
 ――実を言うと、竜也君のことはそれとなく聞いていたんだ。頭がよくて、不器用で、素直で純粋。・・・でもたぶん、複雑な子なんだろうな、とは思ってた。
 奥歯で、スルメを噛む。こりこりとする。
 ・・・蜜のような甘さが一瞬よみがえる。麦酒。
 ――北風もな、昔は竜也君みたいなところがあったんだ。・・・当時を思い出すと、いまの竜也君にとても近いかも知れない。あぶらけのない容貌。研ぎ澄まされた瞳。人一倍、警戒心が強い。・・・だからきっと、心配してるんだと思う。あくまで、古いなじみの立場として、そんなことを思う。北風は、たぶん、竜也君を安全な場所へと誘いたいんじゃないかな。
 手の震えるような感触があった。
 落花生をつかもうとした左手に、男の手がかぶさった。
 ・・・奥歯に残った、落花生をとろうとする舌が、つるつると滑る。
 ざらざらした暗い地面。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』
 ――正直ね、・・・いや、北風にはそんなことは思わなかったけど、竜也君はすごいね。譬えは悪いけど、毎日でっかいクソして、もりもり喰って、・・・でも、太らない、ちくちくして、こわごわしてるって感じがする。なんというか、ものすごい燃焼力を感じる。北風が竜也君を傍に置いておきたい気持ち、少し、・・・わかる気がする。なんだろう、波みたいかな。やわらかい反動がきて、その球の表面を感じているのに、次の瞬間びーんと痺れるような、弦がビンって巻尺みたいにのびてちぎれるみたいに、もっと、大きな波がやってくる。さっきからもうそうだけど、耳がじんじんに痛い。情けないけど、小便が漏れそうになる。君だったら、・・・すごくまじめな話、何をしても、喰っていける気がする。
 脇腹に火のような疼痛が走る。
 腋窩から、あおい汗が流れ出す。
 ――君は本当に、才能ですごくギラギラしてる。そんなのを見ていたら、芸能プロダクションに売り飛ばしたくなる。・・・みんな、そういうのが欲しいんだ。でも、竜也君はきっと潰されてしまう。いや、そんな気がする。・・・竜也君、北風が言いたいことのおおよそは、俺なりに感じたつもりだ。ぬぐってもぬぐっても、汗がおちるし。すくってもすくっても、砂がおちる。・・・それはそういう種類のものなんだ。エイズみたいなもんさ。
 濡れた前髪が額に貼り付いている。
 ・・・ぞくぞくとした寒さ。
 ――壁にぶつかるってなんだろうな、悩んで、・・・こめかみが火のように熱い。人以上にやってきたつもりでも、きっと上を追い越す奴はいるよ。そして偽物が何と多いことか。だからいつのまにか、本当のことがわからなくなるんだ。型破りなのか、迫力や勢いだけなのかね。・・・でも、竜也君、俺はそれでいいと思う。・・・真実はきっと敵であり、君の味方だろう。これからの人生だって、これまでと同じようにね。でも鉛の心臓じゃ飛べない。泥を飲んでいたら走れない。でも、真っ直ぐ見つめるんだよ、イメージで。そうさ、イメージで。
 心臓の奥の方がきゅうっと痛くなる。
 ――きっと、自分は正しいと信じるんだ。

  × × ×

 マスターが荷物をかかえて戻ってくる。――SL機罐車みたいに。

  × × ×

 冬、たとえば、十二月二十四日に、
 「・・・アポロ8号が史上初の月周回飛行を開始しました!」
 と、イヴに呟くくらい、すてきなこんちきしょうはない。
 でも、たとえば数年前の朝、・・・小学六年生の僕が、天気予報のきれいなお姉さん、スレンダー化粧品マネキン。・・明日は雪が積もるでしょう、と言っていたのに、毛布かぶってオバQしながら窓をあけると、青天の霹靂。・・・困ります、きれいなお姉さん――。
 それは。まだらな影模様、霜降りの牛肉状、湖というスキャナーが写し取った雲。
 そして。ぼくはシベリウスだあ! 空寂とかいう空も地も人の心も・・・!
 それで。ズームです・・・、シャープです。
 僕は冬になると、ハンドクリームをせっせこ塗るので、潔癖症になる。
 さわらないで・・・! ぼくはいまでも、シースルー昇降機。
 
 冬は青い空の下の交響曲・・。
 もちろん、少年たちは砂場でお城をつくります。大人を埋めるくらいの穴を掘り上げます。・・・ねえ、そこの坊や達、何をしとるんじゃあーね。
 お婆ちゃんには優しくして、あとでジュースをおごってもらう。
 ――僕等、世界中に愛と平和をプレゼントできるかも知れない。
 
 小学六年生の僕等はとてつもなくいい子だったので、小学校から帰ると、空地へとロケットダッシュして、嫌いなPTA糞ババアの家をピンポンダッシュして、
 ・・・やあ、いまにも死にそうな、ジジイ!
 ああ、音もなく崩れ散りゆく、恍惚かな!
 そんなわけで、(どういうわけだ、)うーん、わかんないな、わからないから、ドラム缶だのを、どこからかパクってきて、――ごろごろ、丸太を運ぶ要領で。あるいは、球ころがしに、山の道を与えてあげるような感じで――僕等は、焚き火した。
 「うひょー、俺たちのMTBが火をふくぜ」
 どことなく、世紀末的なイカレ具合で、お爺ちゃんは拍手のしっぱなしである。
 ・・・でも、秀一。火をふいたら、車輪なくなって、走れないって。
 
 僕等は焚き火のすえたにおいが好きだった。
 鋭い爪した鷹みたいな、ふしぎな火のたくらみが好きだった。
 静電気――それも、壮大な労力がゆっくりと消滅していくような、平穏というのが、実は輪郭のものだけで、内部では脳味噌を刺すようなという感じで!
 僕等はもちろん、本格的なファイヤー使いだった。
 メラ、メラミ、メラゾーマという変化があるとしたら、僕はメラ原子爆弾というような、火災をのぞまず、あくまで火傷しない程度の、ほんの小さなものでいいよライターメラという感じだった。僕等はフケまくっていた。でも、若かった。若かったので、お爺さんが薩摩芋をもってきてくれた時、アルミホイル派に唾をはきながら、新聞紙にくるんで、土の中に埋めた。
 「うひょー、いま、薩摩芋埋めてやったぜ」
 僕も何故かこのテンションで、なんだか、どこかおかしい。
 もしかしたら、お爺さんがいるので、演出してたのかもしれない。
 ・・・でも何故だろう、その日に限って、本格的なファイヤー使いはライターメラが使えなかった。オイルがなくなっていたのだ。――しかし僕等は違った。というか、神様仏様に誓った。見ていろ、俺たち六十億の火の玉。
 ・・・そんなにいなかったけれど。
 
 でも、点かないものは点かないに決まっているので、お爺さんが、家に帰って調理してくるという。・・・でも、一応四個ほど残して、お爺さんは去って行った。
 さよなら、ジジイ、――また会う日まで!
 僕等は今生の別れよさらばしたあと、・・・でもどうする竜也、マジで点かないんだけど、と子供なりに気を遣った会話が始まった。僕等はお爺さんのことが好きだったので、お爺さんが残していった薩摩芋四個の意味をそれなりに汲み取っていた。
 それになんだかんだ、・・・保護者役をしてくれているお爺さんの厚意とかいうやつを無駄にしたくはないのだった。それに、今日は、クリスマス・イヴ・・・!
 「あちょーの合図で、かちょーがカンフーする」
 ・・・そんなことするわけもない。
 でも僕は続ける。僕だ! 僕だ!
 「あちょーの合図で、かちょーが、かんちょーする」
 あとにはあとには、寒さばかり・・。

 でも秀一、俺はもうおまえの馬鹿さ加減に飽きてしまったのだ。
 えいやっ、えいやっ、と火をつけるために、かしゅっ、かしゅ、という虚しい音をくりかえしている男は、いつのまにか、ぜいぜい、と肩で息をしている。額に汗の玉。
 がんばれ日本一代馬鹿一直線! お前なら越えられるドンキーホーテを!
 ・・・僕は薩摩芋を手に取ると、がぶっ、と齧った。
 その時の、言いようのない感動は忘れられない。僕はかしゅっ、かしゅの音にあわせて、がぶっ、がぶがぶっ、という音を付け加えていった。妙な取り合わせだった。
 ――秀一が、ふっと僕を見る。興味をそそられたのか、単純に疲れ過ぎたのか、僕のように薩摩芋を齧り始める。・・・歩いている人がもし僕等を見たら、乞食や、モンゴルとか南アフリカとかから輸入してきた野生児に見えたかも知れない。
 僕等は次第に、ぷよぷよをしているような気分になってきた。
 「なんつー、旨さ」
 「これはイケる」
 僕等はとうとう、口に出して、確認し合った! 
 ああ、走れメロス!
 「旨い旨い」
 ・・・僕等はほとんど、あっという間に、計四個、各分担二個をぺろりと平らげた。当社比たぶん180パーセントオレンジジュースでうまかった。あ、と秀一が言った。
 「・・・爺ちゃんの分、残さなかったな」
 「いやまあ、歯が悪いから」
 というか、食べないと思うよ、アマゾンライダー!

 しかしそんな、猿たちの冬を余所に、ジジイがスーパーの袋を携って帰って来た。
 僕等は手を振った。おおきく、おおきく手を振った。敬礼した。そして、MTBに乗り込み、つうか、搭乗し、ぶうんぶうんと自分でいいながらジジイを出迎えた。
 「・・・ふぉっふぉっふぉっ、若いなあ」
 そういうあなたは、バルタン星人みたいな笑い方で、
 ――年齢はウルトラマン制作会社からきかなきゃいけないけど。
 しかし、僕等はそれよりも、何故かお爺さんの手に持たれた、シャンパンに尽きた。初恋とかいう、甘ったるいその飲み物を飲むと、僕等はえらく白けた。・・・当時の話である。僕等が飲みたかったのはビールであり、ワインであり、ウォッカであった。
 ・・・最後はちょっとなにか、本格的に違う気がするけど。
 「ほれ、焼き芋だぞお。食べろ食べろ」
 お爺さんは、なんだか本当に孫にでも接するように、僕等の嫌いなアルミホイルから出した。・・・でも目くばせすると、僕等は急に、ギンギラギンにさりげなく、を歌うのだった。
 ――アイドル歌手のそれは、ぜんぜん、さりげないやないけえ、に尽きた。
 ともあれ、待ちに待った、待たされた、焼き芋と感動のご対面である。でも、口に入れると、僕等はある種の微妙さ――たとえば、メロンが想像していたより、水っぽかったというような苦い思い出で――首をひねった。というか。不味くはないけど、これはちょっと違う、と思った。けれど、僕等はやはりギンギラギンにさりげないを詠唱していたので、
 「やっぱり焼き芋にかぎる。うむ」
 秀一が僕に続いて言う。
 「やっぱり、イモムシは食べられないと思う。うむ」
 ・・・そこへ、ポーン、とお爺さんがシャンパンの栓を飛ばした。そして、スーパーの袋から紙コップを取り出して、とくとくと小気味のいい泡の音と共に注いでくれた。
 「メリークリスマス!」
 僕も秀一も、ハロウィンでお菓子をねだったお礼とばかり言う。
 「メリークリスマス!」

  × × × 

 メリークリスマス! マスターと会った日・・。

  × × ×

 そんなクリスマスの行事を終えた後、家に戻ると、僕は母親にお使いを頼まれていた。ローストチキンという凝ったものをしたい、――どうせなら、七面鳥にしろや――とかいう悪い口をおさえつつ、お小遣い五百円でタレントゴキブリころりしたあと、
 「いってきまーす」
 ・・・夕方の町には、粉雪が降り始めていた。

 いつからなんだろう、サンタクロースが煙突からやってこなくなったのは。
 枕もとに、靴下を下げなくなってしまったのは。
 きよしこの夜や、近所の教会で――ハレルヤしなくなったのは。それはもしかしたら通過儀礼みたいなもので、宗教都合的なというより、土着的な日本人誕生のシナリオかも知れない。いやいや、子供の頃には、たくさんの馬鹿なことがあったものである。
 ・・・ある年、アンケートをして、一体いつまでサンタクロースを信じていましたか、と聞くと、四歳から五歳、という答えが返ってきた。
 しかし大ぼら吹きの秀一だけは、いまでも、と答えた。
 希美衣さんに聞くと、生涯果てなく、と答えられた。
 ・・・子供産まないんですか、と素面で聞き返したかった。

 ともあれ、お使いをしたあと、また秀一と遊びたくなった僕は門限ギリギリまで、日没はもうきてるけど、・・・MTBで走っていった。闇夜に、オープン準備の札が見えた。
 明日オープンの店。・・・店名もわからなかったが、よそ者だということはわかっていた。
 「どうやら喫茶店らしいよオ、・・・で、またそこのご主人、二枚目なの」
 と、井戸端会議情報ではそうなってる。
 そこでは、そうザマス、なまずサマス、やだわ、などを使う。
 たまに、――奥さんの気持ちわかるよ、と魚屋風マグロあげるよで言う。
 僕は同年代より、年上に好かれる子供だったので、・・・いつも、奥さん連中からあめ玉を巻き上げていた。秀一は、同年代からチョコレートを巻き上げていた。
 そしてその頃、ゴジラはモスラがちょっと可愛いな、と思っていた。
 ・・・プテラノドンは、始祖鳥のことを知らなかった。
 
 ちなみに母親談によれば、高倉健じゃない、三船敏郎とか、鶴田浩二、とかいう話で、若いながらに、東映ヤクザ映画、任侠なるものを知っていた僕としては非常にポイントが高かった。ちなみに、身長はバスケット選手並みに二メートルはあり、服の下には隠しきれない無数の銃創が稲妻のように走っていた。・・・開店前に、駅前でビラを配っているのを目撃したらしい。
 が、もちろんそれは母親のついた、どうでもいい種類の嘘だった。
 なぜ、大人は子供に嘘をつくかって? ・・・心の中に歯軋りがあるからである。

 と、喫茶店を通り過ぎ、さあ秀一の家へと行こうかという時、見知らぬ男が僕の前を歩いていたのだ。ゆうに四袋はあろうかという、地球アトラスは担ぎますの状態で、さしづめ、そんなことをするのは、ウェイトリフティング病の人たちだけだった。女の子は砲丸投げを拒否し、やり投げを得意とし、もっと必要なのはキューピッドの矢といってはばからない。
 何の話だ? ・・・それがマスターだった。
 僕はMTBから飛び降りると、路駐して、持ちましょうか、と言う。
 「いや、いいよ。・・・すぐそこだから」
 先程まで、阿修羅の顔をしていたとは思えない口ぶりだった。
 ・・・顔が威ついな、と僕は思う。――でも声はそれほどおっかなくはない、優しい声だ。
 「いや、手伝いますよ」
 僕は強引にひったくると、――う、何だこの重さ、とちょっとビックリする。どうやらお米らしい。ふっと見たところ、これは5キロとか10キロのそれではなく、ほとんど伝説と言ってもいい30キロのそれであった。なんとこの男、120キロもっていたのである。
 僕は、こめかみが引き攣るのを感じながら、筋力を増強させるイメージ。
 感心するのを通り越して、――ちょっと呆れた。むちゃくちゃである。
 というか、何故車で運んでもらわなかったのか、と思う。
 「・・・悪いね。お礼はするよ、ほらそこの店」
 想像した通り、この店の主人である。
 でも、一瞬ムッときた。お節介で咎められることはあるとしても、好意で物品を手に入れるようなのは好きじゃない。たとえば、公園でおばあちゃんから缶コーヒーをおごって貰うにしたって、それはそれまでの歴史がある。たとえば、お茶が飲みたいのだけど、ちょっと行ってくれんかね、という一言までの信頼関係が築かれている。
 「いや、それはいりません。どうぞ、お気になさらず」
 「そう、子供が遠慮するなよ」
 と、マスターはくすくす笑い始めたのだ。
 ――これにはさすがに、カチンときた。瞬間湯沸かし器の本領発揮である。
 「何が、おかしいんですか」
 「あ、いや、誤解だよ。馬鹿にしたわけじゃない」
 ゆっくりと言い聞かせるように言われたので、僕もすぐ納得した。
 「・・・この町に来てから、そういう善意に触れたのが初めてだからね、――やっぱり、何処に行っても、嬉しいことはあるもんなんだな、と感慨深くて・・・、思わずね」
 そう言われてみれば、そうかも知れなかった。
 僕は初対面ということで、少し過敏になりすぎているのかも知れない。
 「それに、どうしてもって言うんなら、強制はしないけど、・・・折角だから、コーヒーでも飲んで行ってくれよ。イヴだっていうのに、何にもないんだ」
 それは取ってつけた台詞かも知れなかったが、妙に実感が籠っていて変だった。
 身体中にこみあげる、羽毛のような、くすぐったさ・・。
 
  × × ×

午後十時――何が驚いたって、大学時代の北風が・・・、女子更衣室から出てきた時!

午後十時ニ分 あ、おれ、中退したけどな・・。たしか、肝試しだったっけ?

 メッセージ 女殺しのマスターは、

  男にもモテたってホントか?

午後十時十七分 そのおしゃれな口髭は、マダームをたぶらかすため!

午後十時十八分 何故北風は、あの日、女子更衣室にいたのか。

午後十時十九分 ・・・騙されたのさ。むしろ、俺が貞操の危機だった。

 メッセージ テレビの前のよい子は、

  こんな話――信じないで下さい!


  SE:バイオリン

   ( エリーゼのために・・希美衣さんが弾き終わる
 
希美衣「いつも聴いてくれて、ありがとう」

  拍手。拍手。拍手。
  喝采はなりやまない。
  心のどこかに、希美衣さんのしんと澄んだ声。
  ・・・ダーリン、あれから楽になれたわ。
  フィルムは廻る。
  階段を降りる。
  タイトルが画面いっぱいに迫ってくる――
  くらげのようにゆれる、文字。フィルムの音・・。
  言葉が、油の中におちて揚げられる

 MYLIFE
 

  第三章 あたらしい朝


  1


 ベッドから身を乗り出すと、屋上へと続く梯子が見えている、と秀一は思った。
 いや、意識がはっきりとする以前から、夢とうつつとの境がもうろうとしながらも、その収納庫のような、あるいは、・・・長い間、地底の底にあったシェルターのような――。
 酔っ払っているせいか、ずしずしと脳内まで軋むが、その横揺れに踏み堪えながらのぼる。肘や、太股に木材の固い感触がある。
 冷え冷えとして、身体がそこだけ真夜中に取り残されるようだ。
 無量庵、と竜也が命名したこぢんまりとした部屋。
 ・・・もっぱら生活上の便宜と離れて、気分転換する、あるいは、――誰とも会いたくない、引き籠りたい時に使う部屋だ。昔は引き手に指をかけてみても開かず、押しても、叩いても開かなかった。――こわごわとだが、電気を点ける。
 しかし変われば変わるものだ。リバティ・プリントのカーテンを壁に飾り、レイン・ブーツをフックに引っかけ、両親の学生時代の思い出のテニス・ラケットを飾り。竜也くんがうつり住んできたら、床暖房付きフローリングにしよう、と両親が話していた。
 泣けるような友情の賜物・・。竜也の笑い声がまだ、耳に残っている。
 ごろんと寝転がり、天窓を見上げる。・・・雲に隠れた月が見えた。
 分厚い光沢で、垂れ布みたいに見える。そこから金の延べ棒みたいな光線・・。
 ふっと息遣いを感じて、梯子の方を見ると、・・・稲妻のような木を引き裂く音。爪の鈍い響き。・・・野生の獣のようにギラギラと光る、眼。
 ――希美衣だった。
 身じろぎもせずに、梯子出入り口のところに腰かけていた。
 少しとんがったような所、・・・竜也の知らない姉の姿――。
 「ねえ、・・・ダーリンからもう聞いたの?」
 「何をだよ」
 ぶっきらぼうに答える。が、次の瞬間。
 ――これまで感じたことがないほど、心臓が激しく鼓動した。
 「ゆかりちゃんのこと」
 
 ・・・俺は月の光が嫌だった、ビニールラップを何枚もかぶせたような月の光が。
 「姉ちゃんは、・・・何だって知ってるんだ」
 俺は、せつない片想いを振り返る。
 姉ちゃんの表情は・・・、すこしずつ、ゆかりちゃんのように見えてくる。――どうして、竜也に、ゆかりちゃんが殴られたと進言したのか、だ。
 ――いや、俺自身が、開襟シャツのボタンを全部ひきちぎって、・・・山崎先生に殴りかかりたかったのだ。俺は、自分の狡さや、せこさを、姉ちゃんに見透かされたみたいで、居心地が悪かった。もちろん、姉ちゃんはそのことは知らない。
 ただ、いわれるまでもなく、憶測はまわしている。竜也とゆかりちゃんが、学校からエスケープしたこと。・・・ゆかりちゃんが、俺の知っている限り、中学一年生の夏休みから、竜也に恋心を寄せていたことを。そしてその気持ちは、とても強いものだということも知っている。俺はたまに、ゆかりちゃんが行き遅れる気配濃厚だな、と思うことがあった。
 「・・・で、どうすんのよ」
 「どうするって、――」
 「マリちゃんを呼んで、ゆかりちゃんから気持ちを引き離そうとしたり。・・・いままでやってきた、こすい真似はもう駄目よ。・・・言っとくけど」
 全部、バレているような気がした。
 「ダーリンは、親友を疑わない、正々堂々とした人よ。・・・弟ながら、ひじょうに器が小さい。そんなだから、アソコも小さい」
 「見たのかよ!」
 「そんな、けがらわしいもの、見たくないわよ!」
 「・・・さっき、酔っ払った竜也にボディタッチしてただろ!」
 「あれは介抱よ。うん・・・介抱のはずよ――たしかに、あなた、と呼んでも返事がなかったら、ちょっと頬っぺたにキスしたわよ。いけない! ・・・うん、介抱だもの、介抱よね」
 やっぱり、俺たちは姉弟かもしれない、とふと思った。
 そしていうまでもなく、それは介抱ではなく、逆狼、といって差し支えない。
 「でも姉ちゃんこそ、どうすんだよ。俺まだ聞いてないけど・・・」
 「ううん、ゆかりちゃん、ダーリンに告白したみたい」
 意識がふわああっ、と遠のくのを感じた。
 「ゆかりちゃんが?」
 「・・・学校で何があったのかはわからないけど、あの、臆病なゆかりちゃんがよ、・・・そこまでするんだもの、きっと、何かすごい場面に遭遇して、好感度アップして、女のレベルアップしちゃったのよ。・・・ゆかりちゃんも、硝子の階段を上がり始めたのね♪」
 「そんな無理やり、乙女チックなコメントいらないよ」
 でも、同じ男として、・・・竜也は確かにちょっと他の奴と違っていた。
 目鼻立ちが整ってる奴もいる。性格がいい奴もいる。竜也くらい腕っ節が立つ奴は知らないが、もしかしたらいるかも知れない。頭のいい奴だってそれはいるだろう。でも、竜也は俺よりもずっと確かな男だった。あるいは、オスだった。
 ・・・マスターに憧れる心理に少し近いものがあるかも知れない。
 それはもちろん、チョコレートの数だとか、ファンクラブの人数だとかは問題ではない。とっかえひっかえで毎日デートをするのとはもちろん違う。
 「まあ、告白するよ。絶対無理だってわかってるけどさ・・」
 「ほほほ、・・・プレイボーイの敗北」
 俺は姉ちゃんの能天気さが羨ましかった。
 「でも、・・・姉ちゃんこそ、どうすんだよ。言っとくけど、――竜也とゆかりちゃんは、元々いつデキちゃってもおかしくないんだ。むしろ、ずっと不思議だったよ」
 「・・・そうね――まあ、ゆかりちゃんだったら、許すわー」
 心にもないことを言っている。
 「でも、・・・何だってそうだけど、諦めて勝負はしないわ。ダーリンがゆかりちゃんを、拒絶することだってありえるもの。わたしは、そんな単純なものじゃないと思ってる」
 「・・・俺も、戦術の一つか」
 月が豁然と照らしだすと、不気味に濁った壁がいつのまにか、鉛色や鋼鉄色に見え、いまや、いちばん高くなった空の青みを帯びている。それは霧のようにむつみあっては、銀色と白の間を、木々に隠されたひっそりとした夜の通路を、たとえば、手と手の間を、指と指との間をわたるのだ。墨を消すように、闇が一瞬散る。
 
 気鬱なトラブル、不意打ちのゴシップ、でっちあげの人物像・・。
 ガスや水道の請求書みたいに、シュレッダーに放り込む。今夜は鱗のように、おびただしい生活の生臭さが見えている。ネオンサイン・・。
 ――不意に、俺は思い出す・・。
 コケティッシュな、バニーガール姿とか・・。
 なんだかポスターや絵ハガキの方がもっと実在感があるような、・・・プリンス塔とか、宇宙塔とかになっていたかもしれない――東京タワーの薔薇いろのかがやき・・。
 大展望台1階のガラス張りの床を見て、さすが骨っぽい建造物だと思ったこととか・・。
 お土産の『東京ばな奈』のあのまずまずの無難さ・・。
 やっぱりお菓子は京都だな、マスターだな、とか思った記憶とか・・。
 ――でも数年経ってみると、いまやあれのことしか考えていないヨット部とか、ヒマラヤ山脈に住むイエティを追え! ・・・ブック型のマッチの内側に電話番号と店の名前が書かれていたことを思い出す。新宿歌舞伎町。
 岡村靖幸も知らないのに、カルアミルクを知った海沿いのHOTEL。
 ・・・そしてどれだけ思いめぐらせても、一センチも前に進むことのできないようなもどかしさ。――ああそして、すっかり俺はやさしいMOON・LIGHTに包まれていた。
  そして俺はエレベーターでの密会とか、Eメールのシモネタ会話とか、メモをちぎって、今晩どう? というような、様々なシチュエーションを思い描いていたことを思い出す。でも、トランプのカードで作った家みたいに、ふっと、眼を凝らすと、テディー・ペンダーグラスのライブ後のパンティー散乱みたいに、――俺は、眺めている風景の意味を考えている。顎を突き出すと・・・、テイクアウトのみのケーキ屋さん。
 目新しいことが沢山あった、そういう時間よりも、今この瞬間の方がずっと濃密であるという不可思議さに俺は打たれる。ベイブルース・レッドとでも洒落こむか。
 くだらないことさ、誰かが誰かを裏切ったとか。あの日のあの時の俺がひとりぼっちだったとか。・・・一瞬、月は明るさを増したように見えたが、吸い込まれるように雲の中だ。
 「・・・俺は何の為に、生きているんだ」と竜也が俺に話し掛けている。
 ――マスターに聞けよ、と言いたいのに、竜也はいつもそうだ。・・・誰にでも、同じように何かを尋ねようとする。たとえそこから、正しい答えが得られなくても、だ。答えはいつも傍にある。オッカムのカミソリ。――単純なものほど正しい。
 しんぷる・いず・ざ・べすと。・・・でも、なんとなくだ――何となく、生きてる。
 俺だってそうだ、何となく生きてる。でも、竜也、俺はお前が何でも知ってると思ってたんだぜ。マスターだってそうさ。何だって次を知っちゃえる、と思ってたんだ。
 でも、暑い夏の日の夜・・・、竜也は、――やっぱり何かを探していた。


  × × ×

 ザッ、・・・ザザアッ、と木の割れるようなざらついた音。
 ――砂嵐。
 デジタル表示式アナログ・・。見切るのがコツだ。
 そしてラジオから、クリストファー・クロスの『ニューヨーク・シティ・セレナーデ』『セイリング』『ライド・ライク・ザ・ウィンド』
 ・・・天使のようなハイトーンボイス。
 ホットチョコレートの入ったカップを両手でつつむように、わたしは、学習机にすわって、卓上ミラーを見る。どんより夢見るように、ささやく、・・・なんという無邪気さだろう。さあ、ゆかり――お風呂上がりのハンドクリームを塗らなきゃ・・。
 それが終わると、手袋をして、目を半分閉じて、ホットチョコレートを啜る。
 ――わたしは綺麗だ、きっと美人だ、まんべんなくバラ色に輝いてる・・。
 こんな時だけ、かけられるわけもない暗示を、かけようとする自分が恐ろしい。
 次の瞬間には、トランプ占いをしようとし、――その次は、一度もしたことはないけれど、希美衣さんからいただいた口紅、化粧でもしようか、と考える。
 ・・・桜の花びらは、庭にも散り敷いているだろうか。
 夕方のように、――あるいは、竜也に告白した時みたいに・・。
 「ふう・・・」
 そのまま息を引き取ってしまいたかったので、机から便箋を取り出して、遺書を書こうかと思う。血の滴る如く、情念的な文字で。あ、まだ、駄目だ、とわたしは思った。わたしは、冠婚葬祭のマナー本を持っていなかったので、こんな時、何をどんな風に書いていけばいいのかうまく想像出来ないのだ。あ、待てよ、システム手帳で・・。
 えにゅっ、とわたしの本音が出てくる。チガウデショ! チガウガナ・・。
 「ねえ、随分と遅かったじゃない」
 と、わたしは鏡の中の自分に語り掛ける。
 ・・・もう一人のわたしはきっと、兎のような赤い眼だ。
 夕方頃の海みたいに・・・。
 そのあとの、潰れて黒ずんだ、ブルーベリーみたいに。
 「そうね、・・・でもこれから登山だって出来る」
 「だからわたしは、ホットチョコレートを飲む」
 「・・・その前に、乾いた洗濯物、クローゼットにしまったら」
 ――いつもなら、塾に通っている友だちから貰ったプリントをやったり、学校の復習をしたりする。・・・でも、学校を抜け出す――そして、両親に初めて叱られた。
 たぶん、・・・魔がさしたと思うんだけど、とお母さんは言う。
 お父さん、――義理のお父さんは、ゆかりちゃんは・・・ゆかり、と呼び捨てにしたことがない。――多感な時期だから、自分にも身に覚えの一つや二つあります。
 ・・・今後気をつけて下さいね。自分の人生を台無しにしないように。
 「それ、いい匂いね」ともう一人のわたしが言う。
 ・・・照れ隠し半分、痛さ半分で後頭部をさすりながら、
 「でも太るかも知れない」
 「・・・竜也くんは太った女の子が好きかしら?」
 たぶん、どちらでもないと思う。
 人一倍、デリカシーがあるから・・。
 さて、わたしも、読者サービスをせねばならない。
 うっふ~ん。よし、こんなところでよいか・・。

 ――さっき、マリから秀一君にふられた、という電話がかかってきた。
 わたしは、なだめながら、うんうん、と聞き役に徹した。
 ・・・友達でなければ、きっと。ごめんなさい、今日忙しくて、また今度、と言っていたかも知れない。わたしはどこまでも真っ黒に煤けながら、・・・竜也をふった罰ね、と言いたいような、でもそれはわたしの台詞じゃない。キャラじゃない。
 竜也が言うように、人間なんて多面的な生き物なんだろう、と思う。
 電話の中で、竜也くんが関係を取り持ってくれると言ったとか、・・・そういえば、そんなことで詰ったな、あの時のわたし、すごく嫌な顔をしていたんだろうな、と逐一思い出しながら、――なんだか、今しがた、竜也にふられたような気がしてきた。

 ラジオを切って、柔軟体操をして、電燈を消すと、数条の波のようにゆるやかな闇が襲ってきた。その中に蛍烏賊がいる。くらんだ眼の網膜に、きらきらと淡く光っている。
 そう流れ星みたいに・・・、東京の、夜景みたいに――。
 ウルトラマリンを貫く、深い闇の中で、羽虫のようにゆれているわたしの腕が見えた。・・・蛍光塗料みたいだ。――緑色に光る、あの、細い針みたいだ。
 「長い夜になるかも知れない・・・」
 そしてその言葉は、正しかった。


  × × ×


 長い夢を見ていたのかも知れない。
 ものうく、こころよい寝返り・・。
 僕は久しぶりに、ぐっすりと心おきなく眠ることが出来た。たとえば、僕は光のない真昼の蝋燭の火。・・・あるいは、黄昏の中に姿を消した煙。僕はひし形にうらうらと漂っている凧みたいに、空想の往来へと出る。石段に同化した蜥蜴。樹々に同化した蝉・・。
 僕はMTBに跨って、肩から虫取り籠を提げ、右手に虫取り網を槍のように携えて。
 ジィー・・・、ジリジリ――シャンシャン・・。
 先程から、蝉の鳴き声が・・・、雨が降るように僕の閾へと滑り下りてくる。
 木立のさざめきに包まれて、悠揚として空に向かっている向日葵。むぎわら帽子の火照る気配。夏蜜柑やバナナ。そして。記憶というのがもうまるでない――。
 浅い眠りが幾つも繰り返され、醒め際はいつも、脱力感と倦怠感と厭世観のようなものがゴチャゴチャになって襲いかかってくる。小さい舟がするすると島かげから辷り出て襲いかかってくるみたいに。僕等は望んだ――海賊になることを・・。
 店先のラムネ瓶・・・、夏の間――僕にとっての大人はごく限られた人達だけになる。そこでは、露骨な醜いあらそいというのがなく、・・・人もおらず、ラジオ体操やプール以外は、山に出かけたり、野原へと出かけたりした。川で素っ裸になったり・・。
 そしていまでは、より深い、細かい陰影を手にしている。
 楽しい夢から醒めまいとして、また寝入ろうとする苛立たしい努力はない。また、あと何分という束の間の安堵もない。近所のお婆さんは言う。憎たらしい夢を楽しい夢に置き換えたいという、無力な抵抗の焦燥感が、かえって夢を呼び返すことを不可能にしてしまう、と。いつからか、それはそれと割り切って重い身体にむち打ち起きるようになった。白々しく切り込んでくる覚醒の不安。醒め際の夢の虚しい悦楽、時々はまるで身体を蝕んでいるように思う、と。
 だから安眠枕を買ってしまう。だから、――羽毛布団を買ってしまう。
 なににしても子供時代は、色彩の氾濫、大洪水も大洪水!
 一生かかっても、忘れられないような見世物をくりひろげる。
 何故だろう、その時代には、オートバイの爆音など覚えていないのだ。高級車のドライヴ、ゴルフ紳士、登山者、競馬狂いに、テニス狂い、河川敷のグラウンドの野球少年たち。
 みな、なぜか、――僕の視界から追い出されていた・・。
 たとえ、どのみち腐るキャベツの葉を虫にあげるだけだとしても・・。
 額の汗を手の甲でグイッと拭う。・・・朝だ。

 いきなりドアを開くと、マスターが顔を出した。
 「お、もう起きてるのか」
 「おはようございます・・・、それにしても、朝早いですね」
 「まあ、喫茶店だからな。いつもだったら、目覚ましかけてもっと早いよ」
 マスターは、こころなしか、からからと笑い、なんだか、髯づらも相まって、だんだん熊みたいに思えてくる。おい、竜也、とツキノワグマが言う。
 これから、ちょっと鮭でも取りに行かないか・・・?
 きっと、僕等はつねに自分自身に問わなければならないのだ。誰かが覆さない限り、天下にとっても、一人にとっても他の連中と比較しないでいただきたい、というもののはずだから。ジィー・・・、ジリジリ――シャンシャン・・。
 あちこち遊び回りながら、僕は何度か思った。
 禁断の知恵の実を喰わした奴は本当に蛇か・・・?
 自分の言ったことを取り消さない人間こそ、蛇・・。
 「ところで、山本さんは?」
 「あ、店の方にいるよ。飯作って、食わせてる。ほんのさっきまで、一緒に散歩してたんだ。何にもない町だけど、感覚以上に必要な情報はあるかってことだな」
 「神もそれを望んでいるのかも・・」
 マスターは豆腐に醤油をかけるか、みたいな礼儀作法で聞いた。
 「ところで、カレーとスパゲティーどっち食べる?」
 「スパゲティー・・・」
 僕は咄嗟に村上春樹病を憶う。
 ・・・でも途端、マスターは何を勘違いしたのか饒舌になる。
 「いや、今度メニューに加えようと思ってな。もちろん、金なんてとらないよ」
 そうあるべきことは、やがてそうなっていくだろう。
 「じゃあ、飛行機の曲乗り」
 びゅうん、と古い効果音をいれながら、僕は喫茶店“ダンスダンスダンス”へ突撃する。もちろん、飯を食うためではなく、トイレへと駆け込むため――。

 「一夜にしてモナリザに化けてしまった、ひまわり」
 「浮世絵に現れた裸体の美しさ、・・・蓮」
 僕等は、コーヒーとアイスクリームだ。そして――店内には、ビーチボーイズが流れている。すこし通俗的な感じと、平板――あるいは、古いポスターみたいな曲だけれど、『サーフィンUSA』は素敵だ。『キャロライン・ノー』は胸をなんだか鷲掴みにされる。
 ・・・古めかしく青い電灯がうようよと夏の虫を集め――巨大なダイヤが二つ。前照燈。・・・僕はスパゲティーを食べている。スパゲティをゆで、火が燃えさかり・・・オリーブオイル、玉ねぎ・ピーマン・青菜・ベーコン・・・。量はさほどないが、それにトーストピザと、スープがついてくる。サラダはいらないよなあと思うんだが、とマスターが言う。
 「でも、これ、マジで出すんですか?」
 「不味いか」
 「いや、これすぐにリピーターつきますよ」
 いつもながら、何で、こんなに美味しいんだろう、とは思う。これで、ワンコインというから、ありがたい。しかも、珈琲もつけよう、とか言う。
 「いや、ただ、もう、――これ、別の店ですよね」
 マスターは僕の言葉にどれくらい真面目に考えたかわからないが、数十秒後、
 「そうか。・・・朝のメニューに加えるよ」
 
 山本さんはついでだから、電車に乗って、ふらり旅。
 「ひさしぶりに、羽根を伸ばしてみるよ」
 「・・・どれくらい、だ?」
 「そうだな、二週間くらい、色々違うことを考えてみるのもいいか、と思うな。どうも、俺は仕事仕事で、・・・趣味がない。遊びの中に発見あり、だもんな」
 「一週間後くらいなら、大阪に戻ってくると思うから、寄れたら来いよ」
 「ああ、――急に来て、すまなかったな」
 「なあに、・・・竜也に、俺の大学時代をぺらぺら喋った罪は万死に値するが・・・」
 「おいおい」
 「・・・わざわざ来た奴に、悪い顔はしないさ」
 と、急に山本さんはカウンターの上に散らばった食器を見ながら、
 「みんな、お前に会いたがってると思うぜ」
 ・・・マスターは一瞬、蒸し暑い日にじっとして、影になるように、時を止めて、・・・ふっと眼を瞑る。午前とは言え、灼熱した鐘の内部のように蝉の声がわだかまっている。
 「いずれ、――メンバーを集めて、同窓会でもやろうや」
 青空。しんと澄んだ・・・、平穏な夏の日だ。
 「ああ」
 ――それからもう、言葉はなく、通り魔の如く冷たい風が訪れる。冷房だ。なのに、この重たい汗はなんだろう。油に落ちた水のような不穏な気配はなんだろう・・。
 自分自身の道を迷っている子供は、窓を恐れている、ということだろうか・・。
 いつのまにか、気がつかない内に、山本さんという人のことを好きになっている。
 紅毛氈のような、午後の日差しが、ひと足早く、窓から降ってきている。

  × × ×

 自宅へと戻ると、即刻、旅行についての同意を母親に求める。
 「いいわよ、別に・・、北風さんなら、安心ね」
 但し、と母親が人差し指を眼前にちらつかせた。
 「お土産忘れないでね」

  × × ×

 喫茶店“ダンスダンス”へと戻ると、何故か、ゆかりと秀一がやって来ていた。
 マスターを見ると、ウィンクしたので、どうやら電話をかけたらしい。
 「おう、おはよう」
 「・・・東京へ行くっていうんなら、電話かけてくれよ、竜也。俺なんか、バッグに服がんがんに詰めまくったぜ。歯ブラシに、お菓子は300円までですか、マスター?」
 なんだか、急に遠足みたいだな、と僕はげんなりした。
 僕も一通りの着替えをもってきたが、歯ブラシや、お菓子は持って来ていない。
 マスターは窘めるように言う。
 「俺がポテトチップスや、ケーキをこれからつくるよ」
 どうやら、ゆかりが旅行の準備をするための時間があるらしい。
 その、ゆかりはと言えば、
 「どうしよう、どうしよう、ねえ、竜也、――どうしよう」
 僕は困っているゆかりを見ていると、つい、嘲弄ってしまう。
 「いいんだよ、ゆかり――さあ、そのまま、迷い続けて、一緒にトンネルの中へ入ろうね。ふはは、幽霊トンネル! 俺は逃げるぞ、いいか、逃げるぞお!」
 「竜也、・・・テンション高いなあ」
 さっきまでの、アンタもね、と応じた。
 「で、・・・両親からの許可はとれたのか?」
 「うん、――ただ、何を着て行こうかって!」
 ははは、と僕は笑った。
 「馬子にも衣装」
 「ひどい!」
 ・・・秀一とマスターが、僕等のやりとりを見ている。平和だなあ、と思っているのかも知れない。あるいは、今になってだけれど、どうしてこの二人付き合っていないのかなあ、と思っていたのかも知れない。いつのまにか、気がつかない内に、色んなことがわかるようになる。――たとえば、その時、ゆかりが困っていたのはポーズで、実は、両親との苦い思い出のあった東京へと帰るのを、すこし、躊躇っていたこと・・。
 そのあと、新幹線の指定席で、マスターから教えられた。
 新大阪から東京駅まで。京都・名古屋・静岡と少しずつ、目的地へと近付く度に、小学校の修学旅行のフェリーでの記憶や、特急電車などの思い出がすこし甦ったりした。
 ばく然とだけれど、その時、僕は将来東京に住むかも知れないな、あるいは、何度かこうやって出掛けたりするんだろうな、と考えていた。
 ・・・ねえ、ゆかり――俺はいま、ぼんやりと思うんだ。
 <それは、十五歳の僕から見てだけれど・・>
 途方もなく、そこには明るい未来があって・・、山本さんというジャーナリスト、フリーライター像があって――そんな風に、僕は大人になっていくんだろうな、と思っていた。薄ぼんやりとだけれど、厚くて重い灰色の壁のようにしか思えない街で、圧迫感のあるビルディングに囲まれて。排気ガスのにおいに噎せるくらい空気も悪くて。・・・でも、胸の中ではますますエスカレートしていくのだ。際限のない欲望。舌を切っても生えてくる舌。
 ・・・これから、泣いたり、悩んだりするのだろう、と僕は思った。
 もちろん、頭の中は白い靄のままだったし、目的地までの距離表示があるわけでもない。標識もない。でも確かにそこに道は広がっていて・・・、これまで歩いてきた僕が、筋違いなこと、あるいは縁遠いと思っていたものが、急激に、引き寄せられ、僕はそこに存在している自分を見出したのかも知れない。僕はそこで大人への芽生えを得たのだ・・。
 
 もちろん、人生の場面には、明るい所も暗い所もある。
 ――でも、稀に暗くても輝く日もあれば、明るいのに曇ってしまう日もある。・・・何が起きたんだと思う! マスター、・・・あなたは本当に色んな秘密を持っている。
 もし、東京旅行が、僕にとって秀一やゆかりと決定的にすれ違うものだとするのなら、それは、僕が不意に寒気のようなものを感じたからだろう。そして同時にそれはひそかな快感を伴ったからだろう。それまでの無感覚だった神経が、電流と共に、あたらしい回路をつなぎはじめる。そしてそれは、たしかに突然発生的なもので、僕の意識の奥深くにひそんでいる鋳型、――もっと的確に言えば、化石に、まほうの水をかけると、古代の生物がよみがえるように、僕は何か大きなものに巻き込まれ始めたのだ。
 ・・・もっと的確に言おう、それは通過儀礼だ。
 そしてマスター、それは、暑い暑い夏の日の夢だ・・。



Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.