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灯台

MY LIFE 14

  × × ×

 わたしはどうして、夢の中で顔が見えないのか、その時――
 はっきりと理由がわかった・・。

 「どんな人なの・・・?」と葛城さんがわたしに聞いている。
 眼を瞑りながら、竜也像をまとめてみる。

 カッコいい人です、優しくて、嘘が下手で――
 気持ちを伝えるのも隠すのも・・。
 惚れ症で、――でも、実は友達想いで、どっちが本物なのか・・、
 わからないくらい不思議で。

 真剣で・・でも、真剣だからすごく傷付いてしまうし――
 思ったこと、・・・誰にでも言える人なんです、
 でも時々、言えないところがあったり――

 「君だったんだね・・」

 違う、わたしは、自信がないのだ・・。
 わたしは、竜也を尊敬している。・・・何度も。何度も、傍にいて救われた。
 好きになるということが、――こんなに自然なものだと、
 教えてくれたのも、・・・この人。

 クラスメートから友達になって、・・・気がつくと、尊敬以上になって、
 竜也はどんどん、わたしの中で大きくなった――
 だから素直になれた。意識し始めると、好き、という感情に変わった。
 わたしは、この人の色んなところが好きになった・・。

 彼はいつのまにか、わたしのなかに、住み始めた・・。
 はじめて、心を開いたのだ。――誰もけして開くことのできなかった、
 あの、かたいドアを開けて、その、好きは・・
 眠れない夜を与えてくれた。

 「どんな人なの・・・?」と葛城さんがわたしに聞いている。
 
 じつは、おおくの翳りがあった。――でもそれと同じくらいの光が
 この人の中にあった。・・・長い間、甘えてきたと思う。
 そこはとても居心地がよかった。日溜まりのように――。

 彼がいるだけで、穏やかで優しい気持ちになれる。自分の拠り所だ。
 ・・・でも、それと同じくらい、彼がいるだけで、不安になった。
 混乱した。――彼が見つめる人はわたしではなかったし、
 そして、彼はけしてわたしを求めていない・・。

 でも、その時にはっきりと思った。
 わたしは、彼に認めてもらいたがっているのだ・・友達ではなく――。
 長い間、眠れぬ夜を過ごしながらわたしが考えていたこと・・。
 夏の間に見る夢の、――ほんとうの理由・・・。

 「君だったんだね・・」

 いつか向かい合わなくてはいけなかった、彼と・・。
 本当の彼と、そして、――本当のわたしと・・。
 きちんと、この気持ちに決着をつけなければいけなかった。
 竜也に好きだと・・たとえ、傍にいられなくなっても、きちんと、
 夢の中のその顔を、はっきりと、見つめるため―――。

  × × ×

 ――さっき、マリから秀一君にふられた、という電話がかかってきた。
 わたしは、なだめながら、うんうん、と聞き役に徹した。
 ・・・友達でなければ、きっと。ごめんなさい、今日忙しくて、また今度、と言っていたかも知れない。わたしはどこまでも真っ黒に煤けながら、・・・竜也をふった罰ね、と言いたいような、でもそれはわたしの台詞じゃない。キャラじゃない。
 竜也が言うように、人間なんて多面的な生き物なんだろう、と思う。
 電話の中で、竜也くんが関係を取り持ってくれると言ったとか、・・・そういえば、そんなことで詰ったな、あの時のわたし、すごく嫌な顔をしていたんだろうな、と逐一思い出しながら、――なんだか、今しがた、竜也にふられたような気がしてきた。

 どうしてずっと――
 宙ぶらりんの関係を続けてきてしまったんだろう、とわたしは思った。
 ・・・わたしは、溺れていたかった。
 彼の言葉や、仕草や、生き方に――
 いつも、もう少し溺れていたい、と思った。

 涙がひとしずく、頬をつたうと、数え切れないほどの涙が出た。
 こわかった。――それでいて、もうどうしようもないのだ、とも思った・・。

 マスターと葛城さんはいまも仲良く恋人であると言う。
 ・・・たまに、話で聞いたり――時々には、葛城さんと会ったりして。
 わたしは、そこに何かかたくなに、こだわった理想のようなものを、ずっと、投影し続けてきた。紙のように薄っぺらいものだと今更ながら思う。そしてなんて、きれいな通奏低音だったんだろうと思う。不安でじっとりと汗ばむような病原菌が身体全体に侵食していく。
 でも、ひとつだけ、・・・ひとつだけ、はっきりとわかったことがある。
 わたしはそんなにも、強く、深く、――彼のことを愛していたのだ。
 泣きたい時にいつも泣けなかった理由も・・、そこに自分がいないからなのだと、ようやくわかった。いま、どうしてこんなに取り乱しているのかも、――わかった。
 胸が引き裂けてしまいそうなこの痛みは、ただひとつ、現実だと教えてくれる。
 ・・・わたしはこれから先――どんな風に竜也と接していけばいいのだろうか、と思うと、何故だかもう、涙が止まらない。これまで何度も飽きること、空想してきたはずだ。シミュレーションもしてきた・・・でもたった一度の現実の前にすべては崩れ去った。
 わたしのいびつで曲がった魂が、また明るく、真っ直ぐになろうとしている・・。
 でも、何処まで行っても、わたしは、まだ、この夜の迷路を抜け出せずにいた。



 

 
  第三部






  第一章 彼がいて、そして彼女がいて

 
   1


 一週間の自宅謹慎の間に、五月はやって来ていて、秀一からのメールで修学旅行のことを

聞いたり、・・・自宅謹慎しているはずなのに、僕の手許には相変わらず“my life”の原稿を

求める声があったりして、時折には机に座りながら、自分の生活があまりにも変わらないの
    ほうほう
で、草が蓬蓬と延びておるなあ、などと言わせるのだった。

 我が家にも、おしめの襤褸っきれみたいな、紫のガクアジサイが咲いて、月に雲がかかる

ように抵抗なく雨をうけて、思わせぶりに夜明けの空の色になっていた。

 ホタルブクロ、 パンジー、ツユクサ、ムラサキツメクサなんかも咲いているのに、

 (月の光のように、青い生きものの、図書館の管理人さんは、写真でぱちり、と撮ってメ

ールの添付ファイルで送ってくるのだ。・・・これ、新聞にどうでしょう?)
                              うち
 ――そういう一週間の間、希美衣さんからはまた家に遊びにおいでよ、と誘われたり、秀

一からは、海へ行こう、雨を越えて・・・!

 (濡れるのが好きなんだ、と思う。)

 「・・・そして、ゆかりからは、メールも電話もない」

 あんなに感情的に、――それも僕等の、もちろん一方的な異性の友情であったかも知れな

いわけだけれど、そういう関係に終止符を打つ出来事があって、いまこそうんとフォロー合

戦で、いやおまえいい女だよ、とかいう僕が用意していた台詞もあったのに、それはまった

くいらないものになった。

 キャンディーの包装紙にくるまれた、あの女の子。

 いつも隣で、屋上から見るように僕を見ていた、あの子。

 ――折り紙細工の畳み目のように、僕の部屋に光は入った。糊づけするように、雨も、そ
               かや
して雲。そして、すっかり、蚊帳のように僕は“思い出”というもの守るために手枷、足か

せをつけた危険動物のように・・・部屋にある、制服でさえ、通学用の鞄でさえ、何かいつもと

少し違っていた。一枚一枚ていねいにその面を合わせていくと、色んな想いが雨の中に溶け

出していって、いつか、建て前や、本音とか、裏の言葉とかいうものをすべてなくして、気

がつくと、僕はゆかりのことばかり考えていた。

 孔雀が羽根をひろげるのを見たくて、いまさら、ベランダから抜け出して、庭の花の中を

頬杖をついて歩き回ることはできない。目に見えない糸で縛りつけられているように、いつ

の間にか、街の混雑も尾を振る犬のようになくなっているのに、ひとつの所で繰返さずには

いられない思考にやたらと気が滅入る。

 大きな油鍋の中から、狐色をした何かが揚がる。

 (どうせ、何もしないんだから、ご飯くらい作りなさい! これ、命令)

 泥亀のように、なまぬるい、ぎこちない生活の歩みの中で、僕は雨の音ばかり聞いていた

。湿っていた服も、生乾きの服もそうしていれば忘れられるみたいに。いつも、背中に何か

重いものを持たされ、――できるなら階段をのぼりたい、風に吹かれて散った花びらみたい

に。できるなら、がばと跳ね起きて、ゆかりにどうして連絡をくれないんだ、すごく心配す

るじゃないか、と言ってしまいそうな、そんな女々しくて、弱い自分もいた。この生活は、

一体誰によって作られたものなんだろう?

 ・・・僕だ、――僕が自分の生活のすべてを作った。

 でも、もつれた糸のように、鋏なら切ってしまえるのに、生活の中にある惰性はそう簡単

に切らせてはくれないし、切ったとしても、きっと他の方法では埋められないものが僕等の

人間関係というものの中にはあった。この眠ったような平穏の中で、・・・まるで汽車を待って

いる間に、何度も何度も襲う、身体の内を吹き抜ける蜃気楼のようなはかなさは何なのだろ

う。僕は日向のなかにいても、尋問前の、法廷前のひと時のように、手の出しようのない歯

がゆさを味わいながら、鰻の尻尾を、あるいは蛸のこりこりした食感を追い掛けていた。ち

ょうど水の中で浮遊するように僕は一面亀裂のはいった大きな過ちの中で、何度も切ない気

持ちを味わった。すべては幸福なのだろうか、それとも短い人生の中のほんのちょっと射し

た影のようなものなのだろうか。なのにどうして期待や、苦悩や、欲望や、哀切というもの

は僕等にありえない種類の空虚さを与えるのだろう。

 どうして僕等はひと所にとどまれず、いつまでも、別れたり、傷つけ合ったりしなければ

いけないのだろう。――ゆかりは、いつだって、僕の傍にいた。

 ・・・僕は多分、少し淋しかったのだと思う。

 演劇部のエースで、惚れっぽい僕を叱ってくれるよいお姉さんみたいな人で、時には、僕

が守らなければいけない妹のような存在で、友達で、――ふざけあったり、馬鹿馬鹿しいこ

とを平気で言ったり、・・・今となっては傷つけてしまった不用意な言葉も、ゆかりが傍にいる

、ただずっと近くにいることの意味をじっくり考えて、知るようになって、何と僕等は薄っ

ぺらい平面的な写真のような関係だったのだろう。

 声は額のように熱くなった。時は脂がしたり落ちるように、一皮剥いてしまいたい固い殻

を想像させた。そして僕はなにか、自分が薄気味の悪い存在のようにも思えて、寒さが、生

きていくという寒さがいまさらながら身体に沁み渡るのを感じた。

 やがて一週間は、すべての金縛りから解けたように、僕の所へと来た。

 
  × × ×


 ――教室を開けると、授業はもう始まっていて、おっ、と教室が少しざわめいた。教壇を

見ると、山崎先生がビクッと身を竦ませている。たぶんSTORYはこうだ、揉め事を起こ

した僕が横綱出社してきた、あろうことか山崎先生と授業で出くわした、これはきっと何か

あるだろう、というそれだろう。

 それにしても、一週間来ないだけで、この懐かしい教室のにおいはどうだろう。なんだか

、禅寺にでも行ってきたように、僕の心はひじょうに南無阿弥陀仏だった。沢庵ホウレン草

だった。・・・僕は教室のドアの前で、

 「網走の夜は寒くてノオ」と、一発かましておくことにした。

 ぷっ、と、山崎先生は蘇生したように吹き出し、大きく目を見開いて、ふいに表情を和ら

げると、「おはよう、竜也」と言った。

 おお、これはチャンスと思った僕は、一週間休んですみませんでした、という意で、もっ

ともらしく深々と頭を下げると、それこそ鳥のように空気が軽くなり、みんなもなんだか、

これ笑っていいんじゃない、あれじゃないという空気になって、笑い声が聞こえてきた。

 -これって、あれじゃない。

 -あれって何よ?

 -学園ドラマよ。

 教室中からチラホラと拍手がわき起こり、僕等は和解した、あるいは大人になった番長と

いう構図なのだろうか、――僕は半笑いになり、山崎先生は少し苦笑いし、何か貴重なもの

を共有している友達のように目を合わせ、肯きあうと、次の瞬間にはわりとすんなり教師と

生徒の顔に戻った。

 「それでは教科書37ページ・・・田山読め」

 と、いつもの通り、山崎先生は続けた。

 ・・・そしていつもの通り、僕は仲のよいクラスメートに手をあげたり、よっ、と挨拶をした

りした。と、――僕はふっと自分の席を見て、隣の席にゆかりがいないことに気付いた。僕

は鞄を机の上に置くと、露骨にするつもりはまったくなかったのだが、すこし不貞寝してみ

るなどして、惰眠をすこし貪るなぞして。

 ・・・ゆかりは休みなのか。

 と、僕は授業時間はとりあえず席にいて、実はもう終わってしまっている授業の内容を、

耳の奥で聞いていた。教師の言うことに耳を傾けない、と面と向かって生徒指導に言われた

こともあるが、趣味ならともかく、授業態度としては不賛成だ。――傾けてもわからないの

が授業というもので、その愚かさにむしろ、愛嬌さえ覚える。僕等はテストによって学力を

計るのであって、そこにある点数を競うことで意味のない上下意識がうまれ、劣等性や優等

生がうまれる。僕はたぶんその中の、意味不明な存在なのだと思う。

 ――テストを白紙で出すのはやめなよ。

 と、ゆかりが言ったことがあるけれど、

 ――ゆ、ゆ、ゆ、指が攣って!

 攣る、吊る、蔓、釣るの順番で、僕はリールを回す。

 ・・・でもみんな、本当にえらかった。山崎先生はえらかった。――僕は教師に、睡眠障害だ

のを疑われたこともあるが、あれなぞは差別のもっともな形で、授業が糞つまらないのだか

らしょうがない。僕はトラックを転がしてみたかったし、ダンプカーや、ショベルカーを操

縦してみたい。その方がずっと、勉強という気がします、と言ってやった。

 でも教室というのは眠くて、実際、どうでもよくて、いつも、僕は何処にもいないような

気がした。内申点なんか気にしてどうする。義務教育じゃないか。それよりも僕等が学ばな

ければいけないことは、もっと他の所にあって、――でもそういう理想を口に出すほど、陳

列棚の宝石ではなかったし、地階のカウンター的ポジションでもなかった。

 朝から晩まで勉強して、やくざな言葉で頭一杯だ。・・・“my life”って何なんだろうと思

う。新聞部としての枠をこえて、毎日にわたってろくでもないことをやり続けて、好奇心の

ままに三年間さまざまな取り組みを行ってきた。

 なんだか、無言で山をのぼるような、そんな三年だった気がする。

 教師を味方につけ、生徒達の圧倒的支持を得て、――この機械的な学校も、糸のないにわ

か凧たちも、変わっていったのだろうか。違う、と僕は思った。違う、それはきっと個人の

問題なんだ。僕等は右手と右足を一緒に動かせと言われて、その通りにし、左手と左足を一

緒に動かすことを檻の中で覚えた。きっと僕等は不器用で、間抜けな、家鴨なんだ。

 山襞の屈曲だってことも知らず、くるくる、納屋の中を歩き回っている家鴨なんだ。

 なんだか、砂漠の中で犬みたいに四つん這いになっている自分が、“my life”の中にいる

ような、そんな錯覚を覚えた。兄弟たちはまだ見えていない。姉妹たちはまだわかっていな

い。・・・でも、僕はその正義を口にしてはいけなかった。どんなルールも蹴飛ばされるような

時代に、自分の顔にぺたりと貼り付いた仮面の正体に、澄み切った水も、ふいに眼鏡をかけ

て曇るようなそういう瞬間があることも僕は知っていたから――

 いつかは口をポカンと開けたまま、僕も、そういう一人になるのかも知れない。それを恐

れることが、満員の体育館で、あるいは全校朝礼で、たった一人の肖像を描くということな

んだ。誰も教えてはくれない。どんな道も、どんな先も、すべて自分たちで切り開いていか

なくてはいけない瞬間がある。出来レースもないし、仮にどんなに特別な人生があるとした

って僕はまず僕のことを、そして君がいて、君のこと。

 彼がいて、そして彼女がいて――

 まるで耳を澄ませるように、あの一週間が通奏低音になって、そこにごく自然にいままで

の僕がいて、それがいくつかの貝たちに響くだろう。それなら、櫂だとわかるだろう。

 まるで時計のように、どれも反発することを知らないで、まるで過ぎていく時に魅入られ

たまま、自動販売機やコンビニのように、それで普通だと、それで流されるのだと何も知ら

ずに、生き甲斐や、生きる意味も考えずに死んでしまうようだ。

 僕はもしかしたら、戦争とそっくり同じ貌をしているのかも知れない。

 僕は囚人のように一日何かに操られ、それで、死んでいくほどやわじゃない。たとえ、困

難が壁のように立ちはだかったって、耳を澄ませれば、その向こう側でまだ回転している歯

車の音が聞こえるはずだ。僕はそれを、言いようのない淋しさや、悲しさだと思った。魂ま

で氷りつかせるような、頭の上から石の蓋で覆うような、泣きたい気持ちだと思った。

 小鳥たちは知らない、――僕が得体の知れない、そしてもはや果ての知れない怒りを覚え

ていること。身の皮を剥がれなければ、自分の胸がぽっかりと空洞だと気づかなければ、こ

れからも肉体は、精神は、そして魂はどんどん錆びついていってしまうというのに。・・

 でも僕は何も言えなかった。・・・ただ、咽喉を締め付けられる恐怖を、いたずらに人を傷つ

けようとする、いくつもの浅墓さを、――これから何度も何度も味わわねばならぬ、おまえ

の人生のことを心底同情した。誰も救ってはくれない。宗教も、愛も、・・・そしておまえ自身

でさえも。かつん、と釘打たれたような胸だけが、心の底から果てしないのない砂漠へと誘

われたことを知っている。深淵に降り立った、不幸。

 どうして、明日を真っ直ぐに見つめようとしないのだろう。

 どうして、この人間というものの悲しさを、受け入れようとしないのだろう。

 ――チャイムが鳴る。起立と言う。礼と言う。

 でも、僕は立たない。名ばかりだとしても、頭を下げない。

 一瞬血が逆流して、津波のようにあふれかえって、びちょびちょの体内に、幽鬼の息遣い

が聞こえたっていい。飛び込むんだ、人生に!

 飛び込むんだ、まずは心の底から滔々とわきあがる自分の声に!

 
  × × ×


 チャイムが鳴ってから、さてそろそろ“ダンス・ダンス・ダンス”にでも行こうか、と腰をあ

げた僕に川本絵里が寄ってきた。ちんまりした鼻に、ほとんど意気地がないような鯉の小さな口

。眼はなにか半開きで、という小さな艶を帯びた眼が初めの勢いをなくし、むやみに足幅を大き
                     なま          まな
くして進む。そしていまとなっては、媚めかしげな鳩の眸ざし。・・

 「ゆかりなら、保健室にいるよ」

 その黒い柔軟な輝きを見ていると、僕は、豆をあげたくなった。

 それともハンバーガーがいいのかい、都会派の鳩よ。・・

 「保健室――あいつ、何か悪いものでも食ったのか? まさか――!」

 「まさか、って?」

 ソラ来たツ! ――男として恥だ。恥ばかりでなく、僕の眼はうっすらと瞼毛を濡らし、

情けないほど女々しく、何か切羽詰まった僕は、

 「拾い食いだけはやめろって言ったのに・・おお、ゆかり!」

 「・・・たぶん、フランダースの犬を観過ぎたせいだと思うけど」

 「そうかな! ああ! ・・ゆかり、どうして土を――」

 「土?」

 「・・・川本君、君はちょっと世の中を知らなさすぎるのだよ」と僕は、ジャーナリスト調で

あたたかく見守るような眼つきをした。「女というのは、――保健室に入るたびに、死の間

際まで口にはできない秘密をそこで語るんだ」

 ぱちくりとした川本に僕は叫んだ。

 「ああ! 女の子の日!」

 男子たちが僕を取り囲み、パイを投げた。

 (投げろよ、牌! ていうか、犀!)


  × × ×


 保健室に入ると、ゆかりは背もたれのない椅子に座って、ちょうど、美術の時間に突如あ

らわれたモデルのように、――僕はフェルメールの『青いターバンの娘』を思い出してしま

う。卵のような顔立ちをして、エンゼルに羽根が乳歯のように生えてきたみたいに、・・・太陽

がうっすらと射し、影がつくられ、背後では断え間なく鳥が囀り。・・

 「お、おはよう」

 ゆかりは何処か余所余所しそうに、挨拶。

 あわよくば、目を伏せて、僕の横を素通りしてしまいそうに見えた。分解的・醗酵的雰囲

気。酒粕のにおいでもしてきそうだ。

 一週間どころか、一年くらい学校へ来なかったような気持ちになった。

 「・・・ところで、ゆかり、日の丸は好きか?」

 唐突だ――ゆかり、石のように動かない。・・

 「梅干しのこと?」

 「ちがう、――女の子の日!」

 うおりゃあ、と僕はゆかりにハリセンでどつかれるシチュエーションなのだけれど、

 「やだ、何よそれ」

 と軽く、かわされてしまった。というか、僕が言いたい。何よそれ。

 ――僕はなにか拍子ぬけしてしまい、すたすたとベッドまで歩き、ぺたん、と腰を落ち着

けた。感覚が鈍い、砕けた会話だとすぐに察しがつきそうなのに、考えが冴えてない。いや

、もしかしたら僕も、気がつかない内にこのぎこちない会話を認めているのかも知れない。

 「あのさ、――改まって変だけど、元気・・・だった?」

 咽喉が渇いていて、少し変な声になっているかも知れない。

 ごほごほ、とゆかりが咳こんだ。

 「うん、わたしは別に。りゅ、――竜也は?」

 「げ、げ、元気だよ」

 「そ、そ、そう」

 僕等は、その内に、上ずり日本語の上級者になれるかも知れない。濁音の響きが相乗効果

をなして、通勤電車に遅れてプラットフォームで後頭部を掻いて、ふっと横を見ると同じ仕

草をした人がいて、おや、あなたもですか、と笑っているような、おめでたい二人。

 気がつくと、お互いに何を気遣っているのか、遠慮しているのと思って笑えてきた。ゆか

りも薄く赤らんだ林檎のように笑ってる。

 「・・・話せよ。クラスで何があったとかさ」

 「・・・うん」

 なんだか、未熟の果物のように、甘酸っぱいのか苦いのか、それを考えているみたいだっ

た。・・・わだかまりが消えて、気がつくと、心が昂ぶっている。蜂が飛んでくるよりも鋭い心

の反応で、殻から出たばかりの僕は雨があがったことを蓮の蛙のように知った。

 ――飛び込もうとしている。渦捲く濃銀色の池の中へ、と。


  × × ×


 中学三年生って半分まだ液体で、半分まだ固体のような気がする。――僕等は、屋上へと

向かって歩いていた。とび翔つ雛が成長して空へと日なたにむれた藁や枯れ草のにおいを放

つように、・・・僕等はまだ、神の名前を知らない、神の子だ。――ゆかりは、伏し目がちの濃

い瞼毛をして、その奥に派手さや可愛さのない、ただ母親の眼のような慈悲深い何かを隠し

持っていた。十三、四歳になると、どうして少女たちの瞳はあんなに物欲しそうに見えるの

だろう。僕は嫌いだった。・・・とうに死んでいる、花田のことがよぎった。なんだか、すれ違

った老人の焦点の合わない空虚な、何の光もうつさない、その生気のなさに女性に対する臆

病さ、たぶん、曖昧なまま奥にただよっているウィスキーの酔いで、――何にも女のことを

知らずに死んでしまった友達。熱でもあるように、芯から身体の奥底で投げ捨てたい感情の

ゆらぎ、熱帯魚のようにただ美しいだけの世界に染められて・・・ねえ、ゆかり、「ない――」

ほんとうに欲しかったものが意志や感情を持たない。・・・みんな、花田のことを訝しそうに見

てた。あの遺影を、たっぷり眺めながら誰一人あいつが死んでるんだなんてわからないって

目をしてた。あらぬ方を見て、真剣みがないって俺や秀一だけが怒ってた。遠いところを見

ていると夢現だよ。磨き終わった電球をセッティングして、隈取りのあったその顔を、充血

してふくれあがった涙みたいな埃のそれを取り払うんだ。――「ねえ・・さっき教室で何かあ

った?」・・いや――いや、と言いながらややもすれば沈んで、眼を細くして、階段をのぼっ

てる。その内に、音楽室や美術室。・・・特別教室――そして非常階段のGREEN・・・逃げる

男・・本当は、ただ、理想を追い求め過ぎているのかも知れない。「手紙が送られてきたんだ

、いつもの如くさ、開ける。それで、死にたい、って書いてある」――病んでる、それで精

神病院や療養所のことを思った。みんな狂ってる。でも、一番狂ってるのは自分が狂ってい

ないと認めることなんだ。・・・平静でいられる、永遠にそういう言葉が生まれてくるってこと

も知ってる。一緒さ、コンビニに入るのと。スーパーへ入るのと。一緒さ! うるみをおび

た眼でいるのも、狂っているのも。みんな、ただ、濁りのないもの、澄んだものを欲しがっ

てるんだ。「そんなもんあるか!」――多岐多様の複雑した命題は、氷の上を歩いているの

に等しい。至るところで相互矛盾、得体の知れぬほど不気味な深遠な含蓄。「心の中を覗き

こめばそうさ、何だって正しい! 意識の鮮明な瞬間も、澱みのなかで、より一層明瞭な無

造作に罪深い鮮明な心を明らかにする時も・・」――みんな、死んでるだけなんだ。雲がその

上に影を落とすようなものさ。意匠の世界にただとどまっている、おさない子供たちの群れ

さ。暗い洞窟の中から、不幸だってことをよく映る言葉で言いたいだけなんだと知ってる。

でも慰める。・・時には、訳知り顔で説得するんだぜ。動かないよ、誰も。――肉体を縛って
                                        あわれみ
も永遠に誰の心も、そう、自分の心でさえ手に入れることはできない。憐恤だよ。ふとまた

哀願的な眼でフラッシュ! ・・・又、眼を抉るようなことがあるたびに、誰かに追いすがる。

助けてさ、それで救いを求めるように泣くのさ。「My lifeは、きっと、色んな生徒たちの心

に残るわ。・・・わたしはそう想ってる。たとえそれが自然にできあがる感じの宗教だとしても

。判がついていれば有効だっていう、そのじつ、竜也がまったく別のことを考えていること

も含めて色んな人に伝わる。」――そうかな、俺はまた否定しがたい事実の前で、医者にも

なれず、患者にもなれず、という気持ちを味わってるよ。・・・ずっと考えてるよ、この蒸発し

そうな生命を波にあそばれた、くしくも底知れぬ闇の奥深くで脈打ち続けてるマグマのよう

に。利害もないさ。まして毀誉褒貶もない・・・「あるのは、良心」――でもそれすら、くるお

しい気持ちだ。くすぐるような、好奇の眼だ。吸いつくような、嵐だ。轟きだ。・・・別に深い

溝をつくりたいわけじゃない。自殺したいっていうのを止めたって止められるとしたらその

人自身の心なんだ。誰にもどうすることもできない時、いったい俺はどうやってそれに応え

てやればいいんだろう。・・屋上でゆかりは、僕の顔から何かを読み取るように、じっと、僕

の顔を見ている。秘密を知っている。深い悲しみや嫌疑、さらに絶望に奇妙な返事を繰返す

ことをよく知っている人の眼をゆかりは見てる。羞恥と。困惑と。それでもまだ大人になり

きれない高慢と。でも、出入りするたびに僕はどんどん変わっていってしまう。「誰にもど

うすることもできないなら、悩みぬくしかない」・・・僕はぽかんと口を開けて、そこに微かな

不安を見た。「みんな、自分の思考の中で生きてる。・・・愛されたいと思ってる。でも、きっ

とある夜には、誰かの胸に縋り付きたい。そうなりたくないから、わたしは色んな人達の顔

を見比べてる。だからわかる、それは進退じゃない。また、それはあなたの思いすごしに過

ぎない。あなたは最初からあなたの永遠の中にいる」――そうだと思う、拒否もなく、すん

なりと肯ける。「かすかにまぶしいものがある。・・・生きてるのを救ってくれそうに思う。だ

から、名前を呼ばれる。気が進まないこともある。それはもちろん、神経だってぴりぴりす

る。いつもより言葉を選んで、相手のことを蛙のように思ってる。あなた自分が蛇だとわか

ってる。蛇だけれど、時々はそのことで一人の自分を客観的に眺め過ぎて、人間であること

を忘れてる。みんな、心の中まですべて明かすわけじゃない。それを、あなたは我が儘とわ

かっていて、ただその想いに入っていこうとする。考える能力をなくした人には、人の、長

い夜がある。でもそれはそもそも、あなたの夜ではない」――底から光るように、ゆかりの

言葉は的確だ。「あなたはあなたの時間を生きるべきよ。」・・・いつも、僕は過去のことを考

えてる。なつかしい憤懣と、これから猛け猛けしくも起こる愛嬌深い瞬間の極北。――もう

、忘れてしまいたい。嫌な夢の中の記憶を・・「―――了解した」と言う。あの兵士のこと

を。・・・あれは一体誰なんだろう、僕なのか、それとも、手紙の主なのか。それとも、輪廻や

、あるいは僕の記憶のなかに潜んでる悪意のようなものなのか。色んなものが、僕の胸にあ

った。でもゆかりは言う。「あなたは、少し――傷付き過ぎたのよ、色んなことに。マスタ

ーも、秀一君も、希美衣お姉さんも心配してる。・・・というか、もう、あなたは彼等を心配さ

せるべきじゃない。だってあなたは、彼等のことを、もしかしたら自分よりも深く愛してい

るかも知れないのだから」――耳の奥では、ラジオ体操が流れていて、もっと奥を辿ると、

潮騒だ。そしてさらに辿れば、血の音。・・・雨の気配、花びらがちぎれてゆく。「あなたは深

い理由を欲しがってる。」――無慈悲なほどに、幻想的な音楽は鳴りひびいている。耳の穴

は、しろい産毛だけでは隠しきれない。膿のような、油のようなものが垂れてくる。いや、

蒼白い蟻のようなものが、蛆のようなものがいる。・・耳が濡れてくる。「そしてその理由は

、もう、わかっているのよ。わかっているのに、まだ何一つわかっていないふりをしてるだ

けなの。帰れない時がある。・・・その内に、きっと帰れなくなる」――中学三年生って半分ま

だ液体で、半分まだ固体のような気がする。それが、卵みたいに思える。細長い腸詰のよう

なものが潜んでるって思ったこともある。植物の種のようなものがあるとも。そしてそのど

こかに罅欠をうむ括約筋、・・自在に締めたり緩めたりするものがあると信じていた。真ん中

に芯はあるんだと思ってた。僕は内心恐れきっていながら、本当に色んなものに怯えながら

、盲目的な衝動を堪え切れずに呟いてる。「魂を欲しがってる、」――



  × × ×


 「少し恥ずかしいこと言ってもいい」

 ゆかりが、耳うらあたりを撫でながら言った。制服が砂丘の起伏のように、・・・その絶壁に

吸い込まれ、少女は絵の具のチューブに似てる。

 「・・・うん」

 ゆかりは錆びた手摺りに力をいれて、平行棒のように身を浮かせながら、

 「ねぇ竜也、キレイ」

 「・・う、うん」と僕は素直に応じた。

 ――近頃の女の子は自信をなくしているのであります、と思った。

 「って、なんであたしを見てるのよ」

 「いや、牢屋格子の間から、鳥を見る」

 「アホリズムを作れって?」――ゆかりは笑って、生え際を掻き揚げて、「・・・街よ」と言
                             ベンチ  すわ
った。僕はまた緑いろの塗料の剥がれかけた共同椅子に椅りながら、ぱっと照明装置のよう

に明るくなる人の心の不思議な硝子絵、・・・模様のようなものを追っていた。

 ――さっきまでの会話なんてお構いなしに、・・でも多分そうじゃなくて、強情そうな僕を

やわらかい世界に、半ば透きとおったこの内側から連れ出し――確かに、小じわのようにあ

る、おくれ毛の乱れた耳元の向こう側に僕の暗い箱があった。

 「単純な人は複雑であるべきだし、複雑な人は単純であるべきなの」

 ・・・いつだって、そうなの、とゆかりは肯きながら言った。

 「世間体とかしがらみはある。でも、眼を背けたくなるようなことばかりじゃない」

 ゆかりは、鉄棒のように宙ぶらりんのまま、僕の方に顔を向けている。

 「みんな、小さいわ。そしてあたしも小さい。」

 ゆかりは、消え入りそうな声で言った。

 「――信じられる、同じクラスで三年間も一緒に過ごしたクラスメートに、いま、初めて

、キレイだって言って、肯かれた・・・もっと、ある。初めて、そのクラスメートに、屋上へ誘

われた。いつも、わたしが羨ましがっていたクラスメートが・・」

 すたん、と下りた。――着地する。

 「みんなは、そのクラスメートのことがよくわかってない。・・時々、あたしには彼の足下

に金貨が落ちていると思って、拾って歩いているのに――」

 ゆかりは、顎を上げて、弓で射るみたいに、・・僕のことを凝っと見る。

 「・・・臆病だった」

 「俺が?」

 「や、違う――」と、リスみたいに頬っぺたを膨らまして。「・・あたしが、臆病だった。

いったい演劇部のあのむやみやたらな苦労や――これまであたしが生きてきた時間は、なん
 うそぶ
て嘯きに充ちているんだろう。・・・あたしは――そのクラスメートのことが好きだ」

 目を離さず・・・彼女は、表情の角度を変えた。下から食い込むように、僕を見る。

 「・・・一週間、ぼんやりと考えたわ。一体それは正しかったのか、間違っていたのかって。

最初は――本当のところ、すごく泣いたの。どうしてそんなことをしてしまったんだろう、

どうして自分から大切なものを壊してしまうんだろうって・・自分でも驚くくらい、萎縮して

、混乱して、――翌日はばかみたいに、・・熱が出た」

 そんな話、――誰からも聞いていない。

 「風邪薬のみながら、これが毒薬であればいいと本当に思ったの。・・もういいじゃない、

あたしは馬鹿だった。でも、勇気を出した。・・・もうこれ以上、ぶざまになることなんてない

。生きる望みは果たせた。夢もちゃんと見れた。――」

 ゆかりの顔が小さく見える・・・視座が、壊れ、遠近感覚がつかめない。

 「あたしは夢の中で何度も、そのクラスメートの夢を見たわ。・・・本当のところ、ちょっと

あんまりだと思ったの。もしそれがマイケル・ジャクソンだったら、あるいはシーザーだっ

たら、あるいは絵ほどではないと謙遜できない誇張型のナポレオンみたいに。・・できるだけ

、のっぺりとしていればいい、でなかったら、ぶくぶく太ったらいい。そうしたら、こうい

う気持ちも終るんじゃないかと思ったの」

 でも情が深いのね、とゆかりは言った。

 ――さすがに、自分のことをよくわかっていた。

 「・・・思い出はあんまりにも重くて、荷を捨てないと、船は沈んでしまう。その時、心って

いうものが、あたしには、終始重量を変えるもの、感覚的に判断できるものの意にすぎない

と思った。絶えず、――絶えず、香山ゆかりっていう、自分のことを覗きこんでみた。どう

して、その嫌味なクラスメートじゃなければいけないんだろう。あのおどけ症で、じつは、

内向的で、誰にも素顔を見せない人でなければいけないんだろうって」

 ゆかりの眼は細くなり、・・気がつくと、それは老婆の顔の特徴をとらえた演技のようにも

見えた。――ばさあっ、と長い髪を掻きあげた。
                う ぼ
 鼻梁も、額も、豊麗線も彫き刻りのようにくっきりと。
 
 「・・・閉店売り尽くしセールみたいだな、とちょっと思った。なんてあのクラスメートは我

が儘なんだろうとも思った。これまで散々黙ってろという風に、あたしにも距離をとってた

。――それで、あたしは、風邪薬を四錠もぺろりとやってしまった」

 一瞬、あのお、と言おうかと思ったが、茶化せる雰囲気ではない。

 「もしかしたらあたしが不幸なのは、あのクラスメートのせいかもしれない。そうだ、責

任転嫁だ。でも、あたしは大変な目に遭ってる。それなのに、そのクラスメートはあたしの

ことを同情した眼で見やがった。友達だとか言いながら、友達をそんな眼で見たら、はっ倒

される合図だ。困ってるとかいうポーズまでしやがった。友人だったら着信拒否だ。そんな

のは許されるわけがない!」

 あのお、胃が痛いんですが・・。

 しくしくいたむ、というけれど、ぐあらごきにいたむ、と言いたかった。

 「そもそも、あのクラスメートは見る目がないんだ。あたしは、みんな、ブスだとめちゃ

くちゃ言ってやろうかと思った。あの女は家鴨に似ていて、ボートもって来なくちゃいけな

い。・・めちゃくちゃだった――心がすごく乱れた。いままで、自分が何を考えて生きてきた

のかわからないくらい、・・・突然すごく気持ち悪いもののように、真実を知らされた」

 ゆかりは、それでも、微笑んでいた。

 「でも、いいんじゃないかなって、・・朝目が覚めて、悟った」

 ――口ぶりが、また、少し緩やかになる。

 「学校へ行くとみんな、・・あたしのことなんて考えてない。薄っぺらだ。青ぐろくむくん

だシールをぺろっとはずして、どうだ、歯のように腫れてくるだろうって露悪的な趣味さえ

覚えた。――でもそういう感情って、全部、ひとりで知りえたわけじゃない。その瞬間、あ

たしは入り組んだ関係性の意味を解いたの」

 「何て?」

 僕は真になって、聞きかえしていた。

 「しょうがないんだって。・・・」

 ゆかりは、正直に答えているように見えた。

 「・・・しょうがない、だからもうそんなにむきになることはない。――そしたら、その日、

あたしのお母さんから、妊娠している、妹か弟が出来るって打ち明けられた」

 「おお!」

 人間って驚くと、変な生き物だと思う。軟体動物のような声。

 「・・・色んなことを、――それはすごく時間がかかることがあるかもしれないけど、肯定的

に生きようと思って。いままで、しなかったことを、少しでもやってみようと思って。・・・マ

スターにその話をしたら――」

 「したら?」

 「笑われて、・・・トロピカルジュースつくってもらった」

 「おお!」

 美味しかったのか、不味かったのかではなく、――マスターがそうすることが、純粋に、

驚きだ。マスターはよっぽどのことがないと、そんなことをしない。

 「そして、あたしは何故か、屋上にいる。・・そしてその結果として、この街のことを考え

てる。この街の中で、誰かが恋をしていて、あたしみたいにこの瞬間、誰かが姉になってる

。あるいは、お母さんになってる――この街の中で、色んなドラマがある」

 「心はうつし鏡だから。・・・そして、連鎖してる」

 「うん、そんな風に、そのクラスメートのことを逆に、とても客観的に捉えている自分に
                                   こころ  おんな
気付いたの。眠ればお腹が空くし、走れば咽喉が渇く。・・精神だって同じ、無理をすればド

アがすなおに開かなくなる」

 ・・・ゆかりは、くるりと背を向けて、やっぱり、鉄棒を始めた。――サーカスなんだ。心の

動きって、火の輪をくぐるより、綱渡りをするよりも、曲芸なんだ。

 「その内に、クラスメートは、あたしに土下座するの」

 ――しないよ、と言おうかと思ったけれど、あんまりにも清々しいので、言うタイミング

がなかった。でも、そうだ、土下座だってするかも知れない。・・

 彼女の言うとおり、・・・ぼくもまた、ミステリーの初歩的なミスを暴いている。これは、こ

の上なく、むずかしい暗号が隠されている。そしてそれを作った者は、天才なんだ。

 ――もしかしたら、一生、解けないかも知れない。

 ひどく間の抜けた顔をした僕がいるとしたら、そうかも知れない。

 多分、僕はゆかりのことが、ずっと好きだったんだと思う。


  2

 
 啄つつきのように、穴をあけると、そこに失われた女の影があった。

 花器を指差して。
                       
 小説のなかの少年が、淡い初恋をしている。
 けやき
 欅や雑木の芽を誘いながら。息も聞こえないような少女。
          おわり
 よしな。その話は終。

 もうこれ以上、何も聞きたくはない。

 ――墓を運ぶんだ、手伝ってくれ。

 水車小屋の方へ。

 鼻の尖った眼を皺めて、ぜいぜい息を切らして。

 過去は罰し続ける、肌にひんやりと水が刺さってくる。

 白眼が青味をおび、月の光をおびた、あたかも遠い雲の上へ。

 ・・・震える下唇を噛んで、頷く。

 容色に溺れた。

 朝、窓硝子を透して暑いまぶしい日光が額と前髪にあたる。

 ほんのりと赤い色がさす。

 早く帰らなければ! 

 段々明るくなって来る。生命を取り返したように色艶がよくなる。

 頬の肉が微動する。屈託もない、えくぼをうかべて。
  パ・ドゥヴァン
 人前では止めるんだ。
    くらげ
 ――水母のように軟化してくる。

 懇願する調子。哀願する調子。

 すべての神秘を示すように、黙って雨の音を聞きたい。

 そのように、別れたい。


  * * *

       ベンチ   すわ
 ・・・僕は共同椅子に椅って、ぼんやりと、そんな詩のことを考えた。どうして人は恋をする
                    なま
と、乏しいはずの語彙がそれゆえに艶めいて見え始めるのだろう。『車輪の下』を読むと相

変わらず嫌な気持ちになったし、『若きウェルテルの悩み』を読むと、どうして死ぬほどロ

ッテを愛するのかわからない。まるで心中したという格好の『ロミオとジュリエット』を読

むと、暗澹とし、それこそ悄然とした。・・
                     アドレッセンス
 目に見えず、心にしか聞こえない“永遠の音楽”

 ――身体には酸素吸入のポンプがあって、心電図さながらの電気がいつも体中をめぐって

いる。そして鉄鋲のように、蜘蛛の巣のように、・・・種々様々なロープがこの体内という、一

見、しろい画用紙に複雑な模様をおとした木の影のように、それが僕等をパラシュートさせ

てる。そう、あのしわしわの、風でふくらむもののように。

 そして遠い日、青く高く輝いている空を茫然と見上げながら、燃えるような緋縮緬を見た

。汗のにじむような熱さとまぐあいながら、きれいな絹を何処かに落っことしてしまったよ

うな喪失感を味わった。でも気軽な心はふいに、長い長い髪の少女をおもわせぶりに登場さ

せ、・・・いまとなっては、守ってやるとか、幸せに暮らすだろうというあの楽観的な、しかし

善良な思い込みは陽射しの中で擦り切れてしまった。何度も洗われた服のように、剥げ、時

にそれは縮み、いつのまにか、やわらかいというより、くたくたになってしまった。

 ・・・屋上に、不規則なボールが跳ねている。

 そして、いい匂いのする花のたもとまで――

 少年のボールは転がっていく。


  * * *


 ・・・屋上に秀一が姿を見せたのは、三十分後くらいだったのかも知れない。僕は煙草を喫っ

てゆかりに背中を叩かれているところだった。セブンスターを地面に擦りつけて消すと、階

段を足早にのぼってくる音が聞こえ、・・・足音が止むと、

 「こんな所で、竜也何してんの?」と秀一が、とぼけた感じで言ったのだ。

 屋上に来ていれば、十中八九、――煙草を喫っているに決まっているからだ。

 「あれ、ゆかりちゃん?」

 「おはよう」

 その時、秀一の眼が、普段あまり見せない真面目なものになった。おそらく、サッカーの

試合の眼だろう。・・・「香山ゆかりさん」と、確かに秀一はそう言った。

 何だよ、改まって、と僕等が言う前に、・・秀一は顔を高揚させると、

 「香山ゆかりさん、ずっと好きでした」

 と秀一は、ぺこりと頭を下げた。

 ――な、と僕は言葉をなくした。ゆかりは、慣れ親しんだ異性の友人に、開いた口が塞が

らないようだった。と、秀一は顔を上げ、まるで壊れやすい器にでも触れるみたいに、

 「・・・ずっと、ゆかりちゃんに言おうと思ってたんだ。――オレ、マリのことは、ちゃんと

断った。竜也にこの前言われたけれど、身持ちは固くする。ていうか、本当のオレを知って

欲しいと思う。軽い気持ちじゃないから」

 しらーっ、と空気が流れた。なにか、空前絶後の大偉業を見たような気さえした。日頃の

プレイボーイ三昧の所業も手伝って、それは魅惑の告白劇場と化し、・・・たとえるならば、そ

れだけで、自分にとってあなたが必要なんです、ということを説明していた。

 ――僕はもちろん、秀一がそんな風にゆかりのことを好いているとはつゆとも知らず、と

いうか、自分が秀一の邪魔をしているような嫌な気持ちになった。馬に蹴られる、だ。

 僕等三人は互いにさまざまな思考をし、それでもそれが確実にこの屋上の中で交錯し、僕

等を無口にさせ、何か心の激しい勢いの中へと押し出そうとしていた。沈黙は重たくなって

いき、誰も喋れない冬の夜みたいだった。時が止まっていた。・・

 感傷的な言葉も、燃えるような毒舌も、――たった一人、たった一人の男、・・秀一が爆弾

発言をしたというだけで、灰燼に帰した。出会い頭に気絶するような格好で。僕は長い時の

中をいまかいまかと消化されるのを待っている。始まりがあって終わりがあるというのに、

僕は自分の知らないことがあるという世界で、自分の心がとけてゆくのを感じた。ぽろり、

と古いかさぶたのように、夏の落ち葉が一足はやく僕等の世界に舞い落ちたみたいに。




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