1089595 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

灯台

MY LIFE 15

  × × ×


 「すぐにとは言わないよ」

 秀一は、頃合いを見計らったように、絶妙のタイミングでそう言った。

 「・・・考えてくれるだけでいい」

 ――おそらく、秀一は初めからそういう台詞を用意していたのだと思う。言い終わると、

すたすたと取り繕うように、階段の方へと歩き去っていった。テープレコーダーの声よろし

く、映画みたいに爽やかだった。・・・そしてそれも、緻密な計算なのだろう。でなければ、あ

の秀一が立ち去るとは思えない。というより、ここにきて、秀一はゆかりが僕のことを好き

なのを大分前から知っていたのだ、と気付かせてくれた。いつも当たり障りなく、“ゆかり

ちゃん”という秀一が、木に竹を接いだような話をかわしていたことにも。
 
 はたして、僕はどうするべきだったのだろう。・・

 「ねえ、竜也、あたし――どうしたらいいのかな」

 ゆかりは、大分後になって、僕にそう聞いてきた。けれど、残された者、あるいは残って

しまった者である僕に、秀一はやめておけ、と言うのは正しいことだろうか。もし、僕がゆ

かりにそういう言葉で、関係を繋ぎとめようとしたら、たとえ秀一が許すとしても、僕は僕

を許せなくなるに違いない。それに、そんな卑怯な真似をしたらそれこそ、たとえ、ゆかり

が許すとしても、僕は自己嫌悪に陥ってしまうだろう。

 「おまえ、・・・卑怯だよ」

 はたして、それは正しい言葉だったろうか?

 自信はない、――けれど、確かに僕はゆかりにそう言ったのだ。

 「決定権は俺にあるわけじゃない。お前がしたいようにしたらいい。・・・俺の口から、他に

何か言え、なんて思っているとしたら、お前は最低だよ」

 たぶん、その言葉に一番傷付いたのは、自分だったと思う。

 ・・中立を装いながら、ゆかりが僕に救いを求めていることを知っていたから。別にゆかり

は浮ついてそう言ったわけじゃない。たまたま秀一が僕の親友であるということを除けば、

ゆかりは僕に何か違うこと――あたしってモテるのよ、とでも笑って言ったかも知れない。

けれども、こうやって愛することは悲しいことだと気付くと、ただの行き過ぎた八つ当たり

のようにも思えてくる。秀一も、マスターも、希美衣さんも、僕に信頼してくれて、それで

もまだ深入り出来ない、無理矢理にでも手に入れたいものにもならない甘えが、こんな時に

。――僕は秀一のようには言えなかった。良くも悪くも、秀一はいつも僕に足りないものを

持っている。本当は言いたかった。自分もお前のことが好きだ、と。・・


  × × ×


 どうして、僕はそんなつまらないことを言い始めたのだろう。

 「でも、秀一ってすごいよな」

 ――ゆかりの顔は強張っている。まじめに、僕と秀一のことを考えている。それなのに、

それなのに、・・僕ときたら、意味もなく、意地や見栄から、つかみどころのない不安から、

自分で墓穴を掘ってしまう。張りつめた糸がぴんと張っているのが、恐かったからかも知れ

ない。滑るように過ぎていく時間に、はやく、針を落としたかったからかも知れない。

 でも、もしかしたら、心の何処かで、悪魔が囁いたのかも知れない。

 ・・・いまだけだぞ、いま、そう言わなければ、ゆかりをお前は縛るんだぞ、と。

 僕は知っていた。というか、知ってしまった。――たぶん、束縛心がすごく強いんだ。だ

から人の裏をみても平気なんだ。試すようなことを言っても、自分を守るためなら、相手を

傷つけても構いやしないんだ。

 「きっとさ、秀一なら一緒にいて楽しいだろうな」

 ――もし、自分がそう話している人のことを好きだったら、どんな気持ちになるだろう。

怒りに震えない、か? ・・・そんなの、秀一も、おそらく世界中の誰も求めてやしない。

 でも、幸せになるのが、僕には恐かったのだと思う。

 「ゆかりもさ、どうするのか悩まずに決めたらいいんじゃないか」

 その瞬間、ぱりん、と確かにガラスの割れるような音が聞こえた。

 言ってしまってから、すごく後悔した。でも、後悔はしない、と決めていた――だからそ

れは後悔じゃなくて、やっぱり何度も同じシチューエーションが巡ってきたら、同じ態度を

とってゆかりを、そして僕自身を深く深く抉ってしまうのだと思う。

 「どっちが最低なのよ

 小さな声だったけれど、ひとつの暗い悲しみのように耳朶を打った。

 「どっちが最低なの!」

 もはや、訂正のしようがなく、一秒の猶予もない。まるで暗い海底へと沈んでいくような

、一筋の放物線的軌道で、鎖が沈んでいく。鎖が、沈んでいく。・・

 泣きたいのを堪えているような、ゆかりの興奮が、首筋さえ透かしてみせていた。

 「・・・竜也には人の気持ちっていうものが、どうしてわからないの。どうして、あなたは、

ほんの少しでも、たとえば“My life”の読者みたいに、東京でマスターに“さびしいだろ

”って言った、あの砂浜みたいに、どうしてそんな風にあたしのことを想ってくれないの。

あたしは一体何なの。あたしはあなたにそんなことひとつ、望んではいけないの」

 ――ゆかりは、たぶん、怒ってはいなかったのだと思う。

 ゆかりの頬に、枯れかかった井戸の底の石が見えている。さまざまな色が、たった一色の

ブルーに染まろうとしている。・・・ゆかりは悲しくてしょうがなかったのだと思う。ゆかりは

、泣きながら走り去ってしまい、あとには、砂漠の夜のような寂寥だけが残って、僕は、ご

めん、を何回も繰り返した。

 「でも、他になんて言えばいい」

 言えるはずがない、言えるはずがない。・・

 ・・・そしてどうして、ゆかりをまだ傷つける。

 お前が最低だからだ!
 
 ――僕の内側に潜んでいる、過去は、また回復を拒み始める。そして内側に潜んでいた鋭

利な刃物は、僕の神経をズタズタにする。そして首の後ろ側に穴をあけて、砂を注ぎ込む。

僕は一個のサンドバックになる。それに向かって外部から、風が、あるいは鳥の声が、僕の

心を切り裂いていく。何処にも、痕はなかった。傷口は良心に似て、包帯で巻かれている間

に、オブラートに言っている間に、いつのまにか、僕の一部になっていた。

 
  × × ×


 ゆかりを傷つけた代償は、きっと同じ痛みをもって償わなければいけない。

 ・・・それが不条理な制裁である、と火をつけられた人のように、――あるいは、屋上から飛び

降り自殺をした人が生き残って、路上で歩いていた通行人が死ぬような算段とでもいうべきか。

かれこれもう、ゆかりと仲直りする糸口を見付けだせないまま、足早に三週間が経とうとしてい

る。確かにすべては僕の不用意な発言に非があった。

 けれど、ゆかりも意地を張っていた。・・・タイミングを見失っていたのは、おそらく、ゆか

りもそうだったのだと思う。確かに、避けている。話しかけようとすると、眼を逸らす。無

理して話しかけようとすると、席を立つ。肩をつかもうとすると、僕は酒の席で女性のお尻

にさわろうとしたかのような扱いで手を叩かれる。

 ――ゆかりに許しを請う手段さえない。

 こういう擦れ違いはこれまで一度もなかった。僕が心を閉ざしていた時期であっても、ゆ

かりはけして、僕のことを無視したりしたことはなかった。クラス中がそういう僕等の様子

をとても心配そうに見つめていた。・・・また、僕等が恋人だと思っていた男子には、これは好

機とばかりに話し掛ける者もいた。正直、ゆかりを見つめているのが辛かった。

 言葉を交わしたわけではないけれど、ゆかりも、辛かったと思う。・・

 ――ゆかりの声を聞くのは、ごく限られた時間になり、友達と喋っている時間や、教科書

の朗読の時間。もちろん、相変わらず僕は“My life”を続けていたし、さまざまな生徒から

たくさんの情報を得たり、新聞のためにニュースもチェックしていたし、僕だって誰かと

笑ったりふざけたりしないわけではない。クリスティーが大きくなっていると秀一に聞けば

山崎宅にお邪魔して、希美衣さんの常軌を逸した求愛と、・・また、男は食欲からとばかりに

頬っぺたが落ちそうな料理を振る舞ってくれた。珈琲専門店“ダンスダンスダンス”へと行

けば、相変わらず珈琲を飲んで煙草を喫い、マスターを兄貴や、遠いけれど、実は一番近い

友達みたいな会話をしたりした。家に帰れば真兄がいる。そういえば真兄はようやく初デー

トの切符を得ていて、真夜中にこんこんとノックして入ってくると、

 ――コンドームって必要かな?

 と、僕に真顔で聞いてきた。

 ・・・多分、この人、僕が童貞じゃないと信じているんだと思う。

 傍目には、何かが変わったわけではない。むしろ、毎日は順調すぎるくらいで、僕はテス

トをひさしぶりに真面目にうけて、学年一番をとったりもして、山崎先生からどういう心境

の変化だ、その調子でいこう、とがっちり握手を交わしたりもした。面倒臭いので断るつも

りだけれど、夏休みの合宿とか、学年でこれまで一番を取っていた生徒から、やっぱり神崎

君がいないと張り合いがないね、くくく、と眼鏡をかけた根暗な堂本君に言われた。

 また図書館の管理人さんによる、僕と秀一の三人で、僕の学年一位を祝う会というのが催

された。これは本当に変な会で、――管理人さんが「北酒場 細川たかし」とか、「君恋し

フランク永井」とかを歌いまくるという会で、僕はケーキに紅茶で、秀一はどこからかっぱ

らってきたのか、チアガールが応援するために使うポンポンだの、カラオケの必要楽器とも

いえるタンバリンを鳴らしまくってた。

 ――ゆかりちゃんの話はしない。

 と、どちらかが言ったわけではないのだけれど、僕等は本当に、ゆかりのことを話題にし

なかった。多分、僕とゆかりが上手くいっていないのを知って、秀一なりに思うものがあっ

たからでもあるだろうし、その実、僕は僕で、ゆかりが秀一のことを好きになってもしょう

がないと思うこともあって、・・・こんな時だけ、気が合うのも変だが、やっぱり僕等は親友な

のだ。何一つ話さなくても、動かない時は動かない。

 そして、ゆかりはまるで、僕からいなくなった、何かみたいに、こっそり姿を消してしま

った。そしてそれは、忘れてしまうと、もう二度と思い出せないものなのだ。

 ――けれど、覚えていた。やさしい声、ゆかりがぴんと背を伸ばして、演劇部らしく、よ

く通る声で授業中に朗読している時、・・・全身に冷や水を浴びせられたように、全身の血管が

いっぺんに凍ってしまったみたいに、はじめて、その楽譜の存在を知った。

 次第に、メロディーがとても大きなよろこびの中で、溶けた、雪解けの、早い心変わりの

二月みたいに。――僕のために、それがずっと紡がれてきたことを、やり場のない怒りや悲

しみとして理解した。そしてそれが、リフレインしてくる。・・

 僕は自分の部屋で、二泊三日の旅行の写真ばかり見ていた。そのなかで、ゆかりと、僕が

どんな仲なのかを改めて再確認したりもした。写真の中のゆかりの髪は、ショートヘアーで

、にこやかに僕の肩に腕を巻きつけ、顔をキスしてしまいそうなくらい近づけて、屈託なく

、男友達のように笑っていた。・・・おののくような喜ばしさに、胸を突かれながら、悲しみが

身体中に沁み込んでゆくような気がした。それが、ゆかりの気持ちだって知らなかった時は

、傷つけているだなんて思ったことはなかった。ねえ、いまだけは泣いてもいいかな、冗談

だと決めつけて笑いあえていた日々を。――

 フォトグラフに刻んだ思い出は、鏡のように映し出す、強張った顔の僕を。通り雨や、夕

立ちのように、心を狂わせ・・・もう、今この場所に、残されていないのが悲しい。ずっとこの

まま続くはずだったものが、呆気なく、瀬戸物のように壊れていた。

 ――最初は、ゆかりが許してくれるまで待つつもりだったのに、どうして貝が蓋をしたよ

うなことになってしまったんだろう。仮説がめまぐるしく僕の思考を覆った。二重奏、三重

奏のように、どこといって区切りもないままアクセルの音、ハンマーの音が聞こえた。混濁

一歩手前のように、しずかな、ひきこまれるようなやわらかい沈黙がゆかりを天使にした。

 「そうか、もう、ゆかりは僕の傍にいないんだな」

 真夜中、一人の部屋で、・・・ラジオの砂嵐を聴いているような僕のざらついた呟きは、どこ

かに零れ落ちていた。そしてそれが深淵と呼ばれる場所にまで、一粒一粒、石膏のようなお

誂え向きの顔をして、ひとつの塊のように思われるまで。――

 しばらく時間はかかるだろう、沈黙は僕に何も話し掛けてはくれない。それはもうよくわ

かっていた。それでも、堤を切ったように、空虚な気持ちが実感に変わるまで、心の中枢を

根腐らせるまで続くのだ。そして僕は真夜中・・

 それ以外のことを考えられない。ゆかりは何処かへと行ってしまったんだな、という響き

だけがリアルに響いた。その言葉の重みだけがリフレインされ、あの屋上での情景が覆い被

さって僕は力の入らぬままベッドに腰を下ろした。

 眠ることはできない、だって、――僕は彼女を傷つけてしまったから。

 座り込んでいると、ゆかりの幻影を見て、余計に辛くなって、何かをする気力も失ってし

まった。そして、左手で握り締めたまま、・・・握りつぶすことのできない思い出は、そしてそ

れに泣き出しそうなセンチメンタルで愚かな僕は、音のない芝居を繰り広げているのだ。

 そしてそういうものがうまく切り替わらないまま、無駄な労力と知りつつ、やはり明日も

、明後日もゆかりに話し掛けるのだろう。そしていつか僕は思い出ばかりにすがる自分に嫌
                                            ランプ
気がさして、違う誰かを、思いも掛けなかった人のことを奥深いトンネルに洋燈をともしな

がら運命へと続く出口へと、また岐路へと辿ることになるだろうか。青白い顔をして。

 ・・・いまの僕は抜け殻だった。通り雨の向こうに、夏を見ても、一縷の望みさえも断たれた

ように、期待するたびにぼくの消化器系は補うことのできない悲しみの弱い部分を、どうす

ることもできず、消化不良を起こしていた。――喪失感、・・魂をそれこそ、失ってしまった

ような気がした。恐慌状態にはまっている。筋道の立たないことを考えている。思いつめて

、渦巻きのように内側へ行くうちに外側へと出てしまう螺旋上の迷路にいるような気がした

。後で考えれば笑えることでも、その時はまったく笑えない。彼女を傷つけるだけじゃなく

、いまでもやっぱり余計に苦しませているような気がするから。そしてそう思うと、前にも

増して、しょんぼりとした気持ちになった。

 あの時も、今も、やっぱり駄目だったから――。


  × × ×


 朝は色に飽くまで黒く、まだいくらか腫れて血が潤んでいるように見えた。

 今日で、二十二日目。――窓から流れ込む斜光線はまだ弱く、力なく歪んだ微笑のように
 おどろ ふりかえ            てむか      つ
、愕いて振顧っても夢のように抵抗いもせず扈いてゆく。声にならない、嘲笑。・・
                                   いぶり
 ――まるで僕は青い洗浚しのシャツ、破れた古靴。ランプの燻。

 そして僕はゴッホを屑箱の中へと入れるのだ。・・・多かれ少なかれ、化け物のような自分を

誰も彼もが持て余してる。そしていやな気持が、次の微笑の瞬間まで、滲んだように、長く

ぼんやりと糸目の乱れた電磁波の世界に。

 一日や二日話さなくなったくらいで、不安や、居たたまれない悲しみというのは出てこな
     あたり                 たに
い。すッと四辺が暗くなって深い深い谿へ落ちてゆくようには。みんな、それぞれ生意気や

、皮肉や、それでいて海のように静かな沈黙を持っていて、いつも曖昧な歪みの中で声にな

らない羞恥や卑猥を、太陽が消えてなくなったとしても寒さや、闇のように口もとに貼り付

けている。ごたくさと、山のように積み重ね、悪臭を放っている。

 ・・・もちろん、その慎ましい口元にだって権利はあるから、燃える松明の閃きを、平和のう

ちでさえ期限付きの執行猶予を!だ――

 喧嘩をしないでいたらきっと平面的な顔になるだろう。吹出物もない。不精髭も生えない

。眼に隈もできない。・・・僕とゆかりはもちろん幾度となく、喧嘩をした。掃除の行き届いた

ように見える朝だって、夕方の梁から闇がつり下がっている飛行機の大きな影の時間にだっ

て。四角い顔を凝視するようには、不思議なガスをなくせない。――引火。

 僕が他校生との揉め事に巻き込まれたり、校内での不祥事、教師たち、あるいは、生きて

いる間に多くあるつまらない出来事のせいで。・・・波のように揺れて、ゆかりと喋らずにいた

こともある。逆にどれくらい話し掛けても、返事が得られないことも。
                  はず     まなじり
 能動的に世界に面するところの機みで、目眦が下がる。面長になる。・・

 ――それって多分、二日や三日で、大きな動物の背のようになる。さっきまで僕は象の鼻

を見ていたり、あのエイのような扁平な耳を見ていたり。はたまた、柱のような脚を。

 けれど、いつのまにかうやむやになる。確かに動物園にはアンモニヤの臭いがするし、ネ

ジで床に止められた至極穏やかで危険を感じない無感覚な見学的意識はある。けれど、日常

というのは飼育員を求めているわけでも、象の脱出を期待しているわけでもない。ただ、そ

こに象がいるというニュースを求め、そこに個人のVALUEを求める。

 ・・・でも、多分僕は大きな嘘をつき、そして大きな過ちを犯そうとしている。どうしたって

いうんだ、二十二日。ゆかりがそれぐらい愛想をつかしたりするような、そんな断片的な影

を築き上げてきたっていうのか。違う、――けれど、もう素直に、単純に、ゆかりの声が聞

きたい。だから朝早く起きてしまうのか、だから、二度寝、三度寝をしないのか。

 フン、馬鹿馬鹿しい、禁断症状だっていうのか・・・どうかしてる――車の音だ、雨はどうや

ら降っていないらしい。片頭痛のようにきりきりと左側頭部が傷んだが、窓際まで歩き、カ

ーテンをシャッと開ける。網戸を開けて、外を見渡す。うんと身を乗り出しながら。

 まだ朝早いせいだろう、誰も歩いてない、歩いてないぜ・・おっと、誰に向かって独り言を
くっちゃ
喋べっているんだ。困った挽臼め、でなければ番台面の僕め。
     Here comes the sun
 ――ほら太陽がやって来たよ。

 さあティヴィーを点けよう、ボリュームを上げて東洋のイエロー。さあティヴィーアール

、・・何のことだ? リモコンのことだ。そしてYELLOWは日本の猿のことだ。起き抜け

はいつだって黄色みをおびたカラーコントロールそれでたぶん管制塔から指示。ティヴィー

はそれでもノイズ。yeah ホワイトノイズ混濁する超高速回転日本語。スピード(は)

人間の声してない。肉声とは思われないスピードはフルスロットルの前に起動ボタンではな

く軌道的展開を読めクラクション。目覚ましが何処かで鳴る、YELLOW。
                    サーモス
 ・・・次第に読めてくる、こなれてくる覚醒。それでどうした! サアァモン?

 一階から匂ってくる、ピーッピーッどこかでサイレンが鳴り響いてる。

 スタンダァァァップ、カンザキリュウヤ!
                       にんぎょびくに
 ――目覚めの妄想だ。エッフェル塔に儒艮比丘尼がやさしくウィンクする。
 する モオ               よおう
 巣留、牛、六時過ぎ、杉です陽。

 スタンガァァァァンでやられろ、カンザキリュウヤ!

 ・・・みんな、何処かの誰かになりたがっているような気がする。変身願望とでも、論じてく

れ。そうでなければ、縦横無尽(に)天衣無縫の切れっぱなしを追い掛けているみたいだか

ら。ロボットの声。機械仕掛けのマリオネェェエェット。

 スタンダァァ、ラア、ラア、ラア、カザキリュヤ!

 ――きっと、どうかしてるんだ。いまさっき、地球の反対側の国まで魂が飛んでいってし

まって、西へ! 東へ! ・・・大忙しさ。

 ** ふわ **

 ゆかり的禁断症状かも知れない・・てか、ゆかり的禁断少女って何だ?
                                     みみ わざわい
 ――うまく、聞きとれないティヴィーの音は筆舌に尽くしがたい耳の禍。・・何でこんなに

速いんだ。いつからティヴィーは早口言葉を始めたの、ソクチョウ・レッスンなんてやだ受

けたくない。疲れてるのかな、――疲れてるんだよねきっと! ああ、だから愚痴をこぼし

て排泄物垂れ流しができるのねあなたは。どうしてあなたの耳が素敵か知ってるわ、・・だっ

てあなたには大きな大きな水洗便所がジャァァァァァ!

 らりる、My Sweet Darlin'・・あなたいつでも唐突な希美衣。ああ君へ。・・

 『どうしたんですか?』

 おい女、子作りに励んでおるか? ――ヘイユウ! 

 『何もないわ、ダーリン』

 ・・・わかってる、もうなにも言わなくていい! ・・・ヘイブス! ベイブルースを知ってる

か、もはやめちゃくちゃな彼女の言葉に僕の言語回路が破綻するスタンプ。

 『いまは塾の時間ですよ』

 じゅくじゅくな無果木にローリングソバット! 

 それでいったいあなたはどうするの?


  × × ×


 夜の七時頃だっただろうか、希美衣さんが僕の家へやって来た。

 希美衣さんはああみえて、すごく気を遣う人で、僕の家で決して山崎家のような猛獣の振

舞いをせず、これよかったら、とジュースの差し入れなんかをして。・・・魔法にかけられたみ

たいに、希美衣さんは本当に何処にでもいる年上の女性だ。

 カメラに重たい三脚をつけた状態で、ゆっくりと被写体を覗き込んでみるカメラマンだっ

たら、こんな時、薄い膜を思うのかも知れない。無暗に顔中を引っかき回したいような、構

図に緊張感が出ていなくて、まるでどんよりと底濁りした、――どこにでもいるような、煤

をとる、腕まくりして、マスクして、そして・・・疲れてしまった女がいるような気がして。

 ――狡猾いから、けして口にはしないけれど、時々はこの人が、盲目的に自分を愛してい

るということを、素直に喜ぶことがあった。とてつもなく不気味で、徐々に変色していく放

射能みたいなのに、・・・自信ありげな顔や、いつも笑顔を絶やさない心になんかに触れると、

一体どういう因果でこんな馬鹿みたいな男を好きになるんだろうと思った。

 それは多分、遊園地で見る愚かな恋人たちを見て、――病気だ、折角のことまで台無しだ

、というのに似てる。別に多分その人じゃなくていい。・・それは悪いけれど、僕にはすぐ見

抜けた。結婚をしても、どれくらい恋人としての歴史があろうと、僕はすぐ型を見抜き、た

だ不細工なデコレーションをして、――相手のことを心底から信用せず、本当の所は流れで

、その実、誰でもよく、空っぽだった。そして相手も、自分さえも、・・不幸にする。

 でも、希美衣さんは違った。

 この人は、度胸のある人だ。――僕は知ってた、希美衣さんが僕に冷たくあしらったり、

時にひどい態度をとる時でも、すべて納得づくで、自分の人生をよければ、と囁いていた。

その証拠にどんな激情を持っているとしても、どんな煽情的な言葉の数々をくれるとしても

、――この人は、心の奥底からこの瞬間のことを楽しんでいた。誰でも出来ることじゃない

。そしてどんなに近寄りがたい時でも、いつでも、希美衣さんの顔は輝いていた。

 ・・・口にしないことは沢山ある。でも現実には、姿が映る部分だけが正しいように扱われ、

その内側の柔和な神経、たとえば高雅な美、人間なら誰しもその善良な光と影になりたいと

憶う透明な、昼の月の光のような、希美衣さんの見えない部分。

 みんなたぶん、この人が、とても厳しい人だと言っても信じない。


  × × ×


 「あがっていって下さいよ」

 「・・・遠慮しとくわ、なんだか――詮索してしまいそうだから」

 そうかな、と思いながら、肯いた・・たぶん、照れているのだと思う。

 しかし希美衣さんは、すぐに表情を硬くすると、一度ため息をついてから言った。

 「単刀直入に聞くんだけど、わたしに言ってないことはない?」

 低位を感じさせる口ぶりだったらいいのだけれど、――それはいつもの希美衣さんだ。で

も現実には、どうして自分はこんなにお節介なのだろうか、と呆れているようにも見えて、

それは多分、希美衣さんの隠せない真実なのだろうと思う。

 「・・・回りくどいのはいけないね

 「ゆかりのことですね?」

 「――電話があったわ」

 下唇を噛み、僕は肯いた。 

 「そうですか」

 ・・・たぶん、ゆかりはすごく困惑しているのだろうと思う。そこまで、僕がゆかりのことを

追い詰めてしまったのだとも思った。仲直りしようにも、見極めがつかない。消しゴムみた

いにノートをこするだけで、過去の嫌な記憶は消せない。

 「・・・もしよかったらだけど、わたしから、ゆかりちゃんに口を利いても構わない。わたし

は第三者だからすごくよくわかるのだけれど、――今度のことは、ゆかりちゃんが悪い」

 「どうして、・・・そう思うんですか?」

 間抜けにも、僕は聞き返していた。

 「ゆかりちゃんの我が儘よ。――欠点が誰にでもあるなんて、そんなの誰でも知ってる。

まして、ダーリンのよい面だけで全体の諧調ということなら、それはまぎれもなく、錯覚だ

と思う。いわば、ゆかりちゃんが言ったことなんて、全部寝言よね。自分勝手に、過去の印

象を引きずって、まだそこから自分と他者との境界線がきちんと理解できていない。そんな

のが許されるのは馬鹿だけよ。・・・ゆかりちゃんは馬鹿じゃないし、ダーリンだって馬鹿じゃ

ない。お互いそりゃあ色々あるわよ。血も出りゃ鎌も飛び出す生首だってポロリよ。――ふ

たり共、まじめだから、ご丁寧に傷付いてる」

 ちょっと言い過ぎかも知れないけど、と希美衣さんは素面で言った。

 でも多分、今回のことに一番ムカついてるのは、第三者の希美衣さんなんだと思う。

 ・・・そしてその資格は、有り余るほどあった。

 「本当言うとね、てめえふざけんな、って言ってあげなさいとアドバイスしようかとも思

ってたのよ。そんなの、わたし、我が儘だと思う。ひどいこと言われたら、そりゃあ傷付く

わよ。でも、めらめら燃えてる火を顔面に押し付けられて、一生消えない傷を残されたって

いうわけじゃない。・・・もし、“飛躍”だと言うのだとしても、何故それが別個のものだ、別

の案件だなんて言えるの。想像力がなさすぎ。そりゃあ、一生恨むでしょう。・・・けれど、今

回はゆかりちゃんが勝手に自分の殻の中に閉じこもってる。ただ、――気持ちがね、わたし

には痛いほどわかるから、お節介だなあと思うけれど、特別サービスで、こら、ゆかりちゃ

ん、と叱って、次の日にはいままで通りのクラスメート

 クラスメートを強調しているけれど、歯痒そうな台詞だ。

 「ちなみに、希美衣さんはゆかりの心境をどんな風に思ってるんですか?」

 「心境? ――ちがうちがう、あれは心境じゃなくて、階段の途中に偶然いた自分を思い

出してるだけ。本当は階段を昇らなくちゃいけないのに・・でもそうでしょ、みんな嫌だけれ

ど、毎日あてどもなく毎日を過ごして、何とか、階段を見つけて自分を高めようと足掻いて

る。それが見えているのに、留まっていることを、もし“心境”というなら、すごく贅沢な

悩みよね。マルクス経済学を聞きながら、落語で笑いたいと言っているような」

 ・・・非常に鋭い。希美衣さんは、でも、と強調した。

 「――でも、でもね、ゆかりちゃんは別に一時の感情に振り回されているわけじゃないと

、わたしは思ってるの。・・・傷付いているとも違うし、多分、受け入れられないっていうこと

でもない。純粋に、――色んなことを考えたかったんだと思うの。はっきり言って、それは

“愛嬌”。別に、それ以外の意味もないとわたしは思ってる。ただ、わたしはそこからもう

一歩すすんで、・・ダーリンをよい方向に変えたがっているんじゃないか、と思うの。そりゃ

あ、他の子は馬鹿だから知らないけど、ゆかりちゃんは違う。いままでのゆかりちゃんを知

っていたらそういう考え方って自然と出てくると思う。じゃあ何を変えたがっているのかだ

けれど、――それってもしかしたら、いまのわたしの心理にすごく近いかも知れない」

 「なるほど、・・・確かにそうかも知れない」

 ゆかりは、僕の救いがたいもの・・本当に欲しいものから離れていこうとする心理のような

ものを、気付かせたがっているのかも知れない。ゆかり以外ならともかく、・・・確かに、ゆか

りならそれぐらいのことをやってくるだろう、とも思えた。

 ――長い時間悩んでいたものが、氷解した。

 ただ、と希美衣さんはふたたび、強調した。

 「――ただ、そうかも知れないけど、下らないのは言わせてほしい。人を変えられるなん

ていうロマンチシズムは嘘。・・・変えられるのは本人だけで、あとは支配だと思う。それがど

んな大義名分であろうと、・・さっきも言ったけれど、自分と他者との境界線がきちんと理解

できていない。わたしだったら、別にそれでもいい。――キャラは大切だし、仮にどんな嫌

なものをもっているとしても、嫌なら離れるしかない。それが“気づき”だと思う。相手に

とっても、自分にとっても。気づかないなら一生また馬鹿やればいい。そして寄り添うなら

、それを受け入れればいい。・・わたしは人生ってそんなに単純なものじゃないし、ダーリン

ならご存知のように、人ってそんなに足し算引き算できるものじゃない」

 はは、と僕は笑った。なんだか、あんまりにも潔くて、戦国時代の姫君みたいだった。

 「・・・希美衣さんはすごい」

 「いや、すごいって言われると、それはそれで突き放されるみたいで淋しい。・・・わたしに

はわたしの人生経験がある。その中で、もちろん、ゆかりちゃんと同じような態度をとった

こともある。いまでもわたしは子供だし、相変らず少女のままだし、――それでも、理性的

な態度を求められることがわたしには多い。わたしはわたしで悩んでいることもあるし、そ

れを言われたら、きっとわたしだって、ゆかりちゃんのようになる。・・・それに、わたしだっ

て困るのよ、ダーリン。――秀ちゃんに遠慮をしたりすることはないし、まして、それでゆ

かりちゃんとのことに責任を感じたりすることもない。そうしていたら、いつまでも、ダー

リンは淋しそうな顔をしているわ。わたしはあなたのことを本当によく見ている」

 「そうですね・・うーん、ただ、――」

 と、続けようとした僕に、希美衣さんが諭すように言った。

 「ダーリン、けれど、・・・わたしに相談するのだけはやめて。本当言うと、わたしだって、

ゆかりちゃんのように、ダーリンを虐めようかと思う時だってあるんだから――優しい人は

付け込まれるわ。わたしはただ、そうしないだけ。ゆかりちゃんもね。・・でも世の中には、

風邪ひいたとかいうだけで男を引っかき回す女もいる。デートをしたらしたで、些細なこと

ばっかり気にする女もいる。――これもわたしのエゴかも知れないけど、ダーリンはそうい

う馬鹿な女に振り回されて欲しくないわ。・・・時間の無駄だと思う。相手に合わせることなん

かない。――そしてダーリンは別にわたしのことを好きじゃない」

 「希美衣さん・・」

 「一緒よ。わたしは、――それでも、時間の無駄をするような男に想いを寄せたりしない

。無様でも、どんな醜態をさらすとしても、わたしにはあなたがいいわ。だからこれまでだ

って、ずっと馬鹿な女のふりをしてあげたでしょ? ・・・ダーリンは、人と違うのが恐い人な

のよ。そんなことを気にして、誰かをちゃんと愛せない人なの。――わたしにはわかってる

。ゆかりちゃんはいい子よ。・・・でも、あなたを心の底から安心させてくれる人は誰? どん

な暗闇の中でも気長に待っていてくれる人は誰?」

 ・・・希美衣さんの眼が、いつのまにか潤んでいた。

 打ちのめされたような顔を、僕は浮かべたのかも知れない。
                             ほんと
 「わたし、すごくいい人を見つけたと思ってるの。本当よ、百年くそつまらない人生を生

きるより、いまこうして、あなたに恋をしている方がいいと思うの。――そしてそういう気

持ちは最初からずっとあるの。わたしは、人より大人になるのがずっと早かったから、もち

ろん、色んなことわかった上で、あなたと付き合ってるのよ。・・・わたしが、あなたを振り向

かせるためには、あなたの理性に問い掛けるしかないっていうことも知ってるの。あなたは

絶対にわたしに恋をしない。――知ってるのよ、あなたがわたしに気付かぬように装いなが

ら、すごく困っていることも。でも一度だって、あなたが望んでいないことをしたことはな

いと、最低、あなたが本当に嫌がることだけはしたことがない、と思ってるの」

 「希美衣さん、俺・・・」

 「ダーリン、音楽の時間よ。・・生気のない、魂まで抜けてしまったような顔をしてはいけ

ない。もっと夢中になるべきよ、人生に。――そうでなかったら、あなたはあなたを傷つけ

るでしょう。・・・そんな時、必要な人って誰? ゆかりちゃんは気づいてくれないわよ、他の

女の子も、どんな文句を言ったってわたしにはわかってる。そんなの、我が儘なだけよ。き

っとウンザリする。そして女を愛せない、といつか絶対に気付く。――あなたは、きっとわ

たしのことに気付く。何をしなくても、きっと、あなたはわたしの所に帰ってくる、とそう

信じているの。なんて情けない女だと思うでしょ、――知ってるのよ、知っていて、それで

もまだあなたのことを愛せることがわたしには嬉しいの。どんな女だって口先で言うわ。映

画と同じ。その場限りよ。そしてすぐ忘れるの、自分の言葉に責任を持てずに。誰が正しい

とは言わない。ただ、わたし、本当にあなたのことが好きなの」


  3


 希美衣さんは多分色んなことをすごく勘違いしているのだろう、と僕は思う。

 たとえば床屋の猫がネズミを捕るようなものだ。――そして猫は、いつのまにか真っ黒な

イカスミ・ペンギンになってしまうのだ。林、川原、湖岸、草むら、都会の鼠だってそんな

猫を相手にしたくない。だってそんな猫を相手にした日には、香水をふりかけながらいただ

かれてしまうからだ。咽喉を鳴らし、“や、美女”とでも言うかも知れない。・・

 しかし僕は一体何の話をしているのだ! ・・・しているのだろう(か、)

 ――けれど、いつだって希美衣さんは僕のことを、よくよく知り抜いていると見え、心に

宿った多くのことを明白にのべるだけで、そこには小さくて黒い糸屑状のものが残った。罠

のようにも見える、何かのもつれを暗示しているようにも思える。もしかしたら長い時間を

経て、それは毛糸の玉になるのかも知れない。

 そしてそんな風に、猫はまるくなって、眼をつむり眠るのだ。
                                                  しおき
 数え切れないほど、希美衣さんは、(爪のない猫)というポーズをとって・・昨日のお処刑

を忘れた――堪忍袋の緒が切れた、という場面でさえ、その持前の愛嬌ある甲高い声で事態

をあっという間に収束へと向かわせる。そしてキョトンとした猫は、相変わらず僕の前にあ

らわれて、温かい心を教え、それが永遠に続くスープであることを教えてくれるのだ。

 もちろん僕は、希美衣さんが、たとえばパニック便乗強盗さながらに、あわよくば、僕の

心を惹きつけるつもりだったことはわかってる。

 ・・・そして猫は知ってる、――どんなにお尻をヒッパタいたって、人の心はひょいと吹き飛

ぶ。永遠などこの地上の何処にもなく、あるとすれば、一時の気の迷いに過ぎないことを。

 『ゆかりのことは、俺が何とかしますよ』

 そして、僕は静かに女の顔を見た。

 冷たい面のような顔をしている、希美衣さん。

 『やっぱり、ゆかりちゃんが大切か――』 
 
 希美衣さんはぼそっと呟くと、何を考えているのかさっぱりわからない表情をして、

 『ダーリン、また家に遊びに来てね』

 と、急にバネ人形のように、涙のようなものを拭い、つんとして何か蔭のあった表情にも

明るさが広がり、ひとつ微笑むと、手を蝶のようにひらひらさせてくるりと背を向け、じゃ

、と帰っていった。本当に、じゃ、と言って帰っていった。

 ――もし、道ゆく人が、僕の顔をのっぺりとしていると言っても、そうですね、と返すく

らいに、本当に僕はのっぺりとし、白っちゃけていた。・・・心理に挫折し、屈折したものでな

ければこの気持ちはわからない。注射箱に入っているものがすべてラムネの壜というくらい

、何かに突っかかっていこうとしていた僕は完璧に手ごたえのないものとぶつかって、やわ

らかい綿に、“固くなれ、固くなれ”と呟いている。

 そして朝が来て、僕は気合いを入れるために「押忍!」と極真空手のそれをやる羽目にな

り、――そして隣の部屋からTVの音がうるさくて目覚めたらしい真兄が、グッドタイミン

グで部屋に入ってきて、

 「どーもどーも、空手家さん。感謝・尊敬・忍耐ですか。それとも、そこにはロッケンロ
                             オォス
ールとか、ラブ&ピースという意味もあるのですか押忍!」

 「うるさいな、入ってくるなよ」

 たとえるなら、――盆踊りが下手くそだと言われ、なに言ってんだ盆踊りに上手いも下手

もあるかと強がりながら、その夜、気になってしまい、・・・こうかな、それともこうかな、と

練習しているところを目撃されてしまい、バツが悪いな、チェキラ・・!

 しかしすぐに真兄はドアを閉め、また開けて、「俺はお前のことを誇りと思う!」とまた

閉めて、「お母ァァさん、竜也がちょっと変だけど許してあげてねー」とかやってる。

 そして、階下からは、手で口をおさえている忍び笑いが聞こえてきて、おそらく僕はラジ

オ体操でつい間違えて、カンフーをやったり、太極拳をやったりする男という風に誇張され

ているのだ。――言っとくけれど、そんな奴、日本中探したっていない。

 それに、またそれは忍び笑いではない。二階まで聞こえたら、口をおさえるというところ

の遠回しの理解、・・みんな誰でも変なんだ、じっさい自分だって変なんだぜ――でも悪いけ

れど笑ってしまうな、という一連のそれが機能しないからだ。

 おそらく今日はそれをネタにされて笑われるのだろう。・・


  × × ×


 秀一のことをふと思い出したのは、こんな変な朝のせいなのだろうか、それとも昨日、希

美衣さんが訪問してきたせいなのだろうか。あるいは、今の僕とゆかりがそれに近い状態に

あるのを、ぼんやりと巌の確乎として想像したからなのだろうか。・・

 それとも、朝のニュース番組に入る十二星座占いの“今日の運勢”なるものを見ていて、

条件反射的に、――普段あれほど他力本願、・・・でなけりゃ霊感商法を助長させる、はいはい

、バーナム効果、コールド・リーディング、ホット・リーディング。なるほど複雑怪奇で、

そもそも人生の流れを“運=運命論者”で説明するところのシンクロニシティなわけですか

。はあはあおっしゃる通り。神託で御座い。またまた! ・・・このお詐欺師!

 ・・・というのに、この世の中に完全な情報(システムは常に、選択を促し、曖昧を手に入れ

る。)――ために、みんなその順位や、占いの内容、はたまたラッキーアイテムなんかを気

にするのだ。悪いことが書かれても救いがある、というのも変な話だが、よい所が一つもな

いものを誰も見向きもしない、という真理がある。そしてその真理はこうだ。あらゆるもの

には汚点はない。見方を変えれば、人生はあなたのために耳を傾けてくれる。・・

 ぼんやりとしながら、――映写機が回る。夜汽車の音でも聞こえてきそうな、影絵がふた

つある。一人は男の子。もう一人は女の子だ。答えはないまま、影絵は重なってゆこうとし

ている。まるで魂が近づきすぎて、お互いを愛し合うことが一番自然であるみたいに。

 傍にいて欲しいと思うのは、友達という規格では収まらないからか。それはもう恋人同士

のそれだからか――無限に広がり続ける宇宙で、1/6000000000

 ゆっくりと時を重ねて行った。そしていつのまにか、孤独な星で、不毛な土地で、他には

誰一人として傍にはいないのだと達観して、旅人は、身体が冷たくなるほどの孤独、信じら

れるのは自分だけだと言い聞かせ、それでも傍にいて欲しい、と思い始めるようになる。友

人や知り合いから友達になって、親友ではなく、・・・お互いが異性であるという思春期特有の

気づきや、TVや雑誌の情報もあって、ふたりは初めての恋人になる。

 愛していると訴える心の情感・・・、ふたりはまだ不器用で、翼を得たばかりの天使だったか

ら、寄り添うことでどういうことが起こるのかを知らない。しかしそれは恥ずかしいことだ

った。またそれは遠い日に起こることであり、――原始からの・・




Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.