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灯台

MY LIFE 19

  × × ×


 『Take It Easy』が脳内で流れている。Eaglesの曲だ。額から流れる汗が眼にしみこんで

きて、幅のせまい何枚ものガラスのブラインドが――愚かな、しかし凄まじい熱情を以て、

おたがいに平行な段になって、水平にかさなりあっている向こう側・・向こう側から、生まれ
         しと     すこ
つきの美しさ、優やかさ、艶やかさで陽射しが剥がれてゆく。

 Tシャツを脱ぎたくなるような曲だ。

 空気と温度と光線とに酔っている、咽喉のなかで睡っている咳――いや、水の音とポンプ
          ひうちいし
の音。・・・事実・・・火燧石のように硬く、鋭く――通りゆく、電気店のTVの画面、天井でゆ

っくりとまわっている扇風機。付け髭が剥がれているのに、落ちもせず、ブラブラしている

きまりの悪い探偵のように松木立や、ナノミ、樫、椿、桜・・。

 物語にとっての助走路のように、それらがやがて地位なり、財産となる。

 僕の踵に重く、くっついているゴム。香料がプンと鼻を突いて心を酔わせる「何を!」と

言った。真面目に考え深い顔をして、身の周りの化装品について考える。いつのまにか、癖

になってしまった。スタイルとは全然調和しない僕の肩の骨。雑踏。そしてまた、信号。


  × × ×


  「ブラックでよかった?」

  「ブラックがよかった」



  × × ×


 チンチン電車に乗った。――われわれはそれを、三時のおやつドーナツや、サンドウィッ

チのように思った。”足をひきずる者”・・傘のグリップを握ったままでいる。規則正しく定

まっているように思える交通。万事が予め、完全に整っている状態であることを条件に、予

定というものが生まれる。そしてそれは、品のいい動力だ。雲が動いている。――いま南に

むけて動いていく雲。その動作をくりかえしている、雲。触発された、思いつきで、くるっ

と席の位置をずらす。「直ちに停車せよ」または「停車する」・・走りはじめてすぐに、強い

陽射しを感じる。エンジンの熱はONでラジオのスイッチはOFFだ。

 
  × × ×


 冬の公衆トイレで腕時計を外して顔を洗うような、

 曰く奇妙な気持ちで、

 僕は言った。

 「・・・オーイ・・・・何だア・・・・・・」



  × × ×


 広島平和記念公園ムンムンと蒸れかえりガスのように違う景色を見せていた。蘊気。汗を

流した疲労感。「また公平な事でもないさ。」と僕の視線はそっとゆるやかな追憶から切離

す。朧ろなものを撫でまわし、その気配が、心臓の奥までも反響した。「神を捨てろ!」そ

れが、(もし、)剣よりも鋭い刃に貫かれるようでなかったら、肩が熱く疼く、背筋が冷た

くなる、ズボンの左右の内ポケットに手を突込んで――雷鳴のように、[洗面台と、壁にか

かったタオルと、ガラスの上にテントウ虫のようにとまった雫は、]・・今もその感じを意識

している。散乱した料理や皿、鉛筆や消しゴムや、筆箱――僕は知っていた、幻想こそが、

その頃の情景とそっくりであることを。もっと遙かな場所、そしてできるなら、人がみんな

惹きつけられてしまうような真白く酔い痴れた世界。どんどん蓄積され加算されてゆく、重

い鎖でも引き摺っているような音。街の大壊滅。小さな骨壷、経過する時間によってそれら

は濃縮される。「灰はダイヤモンドさ・・!」――僕はわからない。

 「でも折角だから、真面目に答えて・・・・・・」

 ちゃぷん、と水音がし、それは僕の視界を一瞬揺るがせる。波紋していく様子を、僕はあ

りありと目に刻んだ。それは反響する声のように、いつかは潰えてしまう。どんな壁にも当

たらずに、吸い込まれてしまう。頭の中に高く高く積み重なっていた、歴史画。教養・・ジャ
                             じれっ
ーナリズム。意気地なさを冷笑する――おいで、焦燥たそうな眼つきをして。・・

 
  × × ×


 でもいつしか、僕にはそれがただの驚きであることを知り、そこには一切合切の

感情が掻き消えてしまっている。ゆかりは面食らっている。そう、現実はそんなに

甘くない。キスをした時に歯に当たって血を流すように、現実はいつも僕等の空想

に傷を作る。でも束の間でもいい、僕等がちゃんと恋をしていたと言えるように。そ

の首筋に、麒麟が夜眠る時にも立っている理由を語る。



  × × ×


 「竜也・・」

 と、ゆかりが言ったのは噴水でだった。その時まで、それが何を意味するものなのか、全

然わからなかった――こういう言い方は正しいのかはわからない。しかし、ゆかりの眼の前

まで這入り込んでいった時、僕はようやく事態を察して、・・顔色が変った。

 旺盛な肌の匂い。死のように冷たいうろんげな眼。

 長い赤信号や、長い長い踏み切りや、

 ――予想外の時間を待たされる時――

 ロボットが電池切れになった時のように、立っているのがむしろ不思議だった。

 「ゆかり、大丈夫か?」

 こくん、と肯こうとした拍子に、あやうかった足もとが、崩れた。正しく認識するまで

に、ほんの一瞬、時間が必要だった。それでもすぐに、右腕で受け止める。・・これは熱中症

かも知れない、と思うまでに、どれくらいの時間が必要だっただろう。

 身体を屈めて覗きこむと、眼を開けているのも辛いような痙攣した瞼で、ゆかりが僕を見

ていた。ほんのり赤味を帯びた頬。すぐに、ゆかりの額に触れ、・・焼けつくような熱さだ

と正しく認識するまでに、また、どれくらいの時間が必要だっただろう。

 かすかに泣いているやうな気がする。ぐったとした身体の奥に、やりきれない感覚が広が

った。――でもそれとは反対に、頭が動かない。鈍くなって、動かない。まったく予期して

いなかったことだから、その一瞬の手間が必要となった。

 不注意であった。・・・一体いつから、ゆかりはこんなに体調が悪くなっていたのだろう。ト

イレで着替えをしていた時か、それとも、一緒に歩いていた時か。あのベンチでか。それと

もその後か。重要な手がかりを探す手がかりは何処にもなかった。

 不意に、ゆかりが、笑顔になった。にっこりと、笑った。

 「ごめ・・んね・・・」

 「ごめんね、とかじゃなくてさ、ゆかり、――」

 何だか、頭を掻き毟りたい気持ちになって、ぼりぼり、金田一探偵のように盛大にやりま

くった。もちろん、事態は一向に進展しない。聞き役もいない。

 僕はゆかりを観察してみる。できるだけ、注意深く・・それは子供のような、不思議な姿に

思えた。先程まで、僕達は微笑しあっていた。

 ・・・思えばこれも不思議な心理作用・・・
                 うつろ
 そもそも、今や深い、鈍い、空洞な、陰鬱。――ゆかりは、苦しそうに肩で息をし、呼吸

は過呼吸気味だ。じッと見入っていると、・・・不意に、花田のことを思い出した。夢の中に出

てきた兵士のことも。何か、大いなる暗示を掛けられていたことに気付く。

 「竜也・・」

 しかし、いまは、頭のネジが弛むようなことを考えてはいけない。落ち着かなければ、と

僕は思った。僕は木蔭の下へと、肩に腕を回して連れてゆく。バッグにシートを入れていた

のでそれを取りだし、バッグから服を取り出し、枕代わりにとあてがう。・・水筒が入ってい

たことを思い出し、ゆかりを抱き起こして、飲ませる。――反応はあるものの、呼吸がやは

りおかしい。何種類ものハーブが複雑に微妙に混合されていたハーブ・ティーで頭がくらく

らするように、ミント味のアイスクリームを食べた時のように、僕は・・

 「――ゆかり、すまん」

 僕はそう言って、ゆかりの服を脱がせた。・・・自分でも何をしているのかわからなかったけ

れど、とりあえず上のジャージを脱がせ、制服に着替えさせた。白いブラジャーが見えた。

いつもなら、ゆかりがからかうような場面なのに、どちらもその気がなかった。そこには、

官能がまったく欠落していたし、むしろ泣きたいような熱いものが、ある種の抵抗を示して

いるにすぎなかった。じっとりと汗で、ジャージは濡れていて、少し重たかった。喘ぐよう

な息遣いで、ゆかりは寝転がっている。

 ――考えろ、いいから、考えろ――

 僕は、バッグからタオルを取り出して、噴水の水にぴちゃぴちゃ浸け、戻ってきて、ゆか

りの額に載せる。本当に何を考えているのか自分でもよくわからなかったが、ぎゅうっと絞

って顔に注ぐ。多分冷やしたかったのだと思うが、・・何処か、不気味な光景だった。

 片頭痛がしてきた。――どうして僕は、ゆかりを誘ってしまったんだろう、と今になって

、すごく後悔した。そして今更のように広島平和記念公園の広さに呆れさせられた。

 「気持ちいい、・・ありがと」

 「いや、ありがと、とか言わなくていいからさ――」

 ごつん、と自分で自分の後頭部を二三発撲ってみる。少し、くらっとした。・・しかし現実

だ。その顔には皺もなく、皮膚は瑞々しく、・・けれど、よく見れば少し蒼ざめていた。

 僕は自動販売機のあった所まで行き、清涼飲料水を買い、戻ってくる。何故か、アクエリ

アスという名前が出なかった。失語症。――そうかも知れない。緊張していた。僕は棒だっ

た。名札だった。しかしそれをわかってくれる者は、いま、何処にいるのかわからない。

 日常的な世界は、ふとした拍子に、非日常的な世界へと、ほんの一瞬の手続きで、転換さ

れる。汗よりも血のような汗を流しながら、ゆかりが貝になっている。

 ――彼女の肉体の中に、彼女の名を繰り返し呼んでいる。

 そしてそれは、落葉や綿毛のようにさっと舞い降り、やがてまた、どことも知れず飛び去

ってゆく。音符だ。『Take It Easy』はもう消えている――。

 すこし遠くから見ると、肌色の球体のように見える、ゆかり。ふらふらの軽い、・・人間の

いきれ。ずっと触れてでもいるように、へんてこに低かった。

 「・・ゆかり、ごめんな」

 缶ジュースを――ゆかりの額に押しあてながら、僕は言った。・・僕はまだ大人ではなく、

十五歳の少年にすぎなかった。誰かに助けを求めようとする、情けない一人の男の子に過ぎ

なかった。空の底がぬけでもしたように、一としお身にしみる寒さが僕を襲っていた。僕は

どうしようもないくらい孤独だった。孤独であるあまりに、自虐症気味に、自分の甘さを、

いつも勝手なことをする自分が憎らしかった。

 ――短絡的すぎる――

 それもよくわかっていた。しかし拡がり、溢れようとする水嵩が増すたびに、僕は僕に心

底腹を立てていた。怒りで身が震えた。自分の不甲斐なさが力なく仄暗い風のように思えた

。そして現実の僕は・・、僕は殆ど乞食のように見窄らしく、汚れて、醜かった。

 「・・・ン・・ン」

 ゆかりは何も言わなかった。というより、何も聞こえていないようだった。――いっそ、

自分だったらよかったのに。そうだったら、ゆかりに一言おまえは何の心配もするな、と言

ってやれるのに。自業自得だよな、・・たったそれだけ、たった、わずか二語ですむ冗談にし

てしまえるのに――腕時計を見た。時刻は九時を回ったくらいで、・・僕のしおりでは、後三

十分くらいは、僕等がいる、集合場所に戻ってこない。

 段々腹が立ってきて、地面を何度も何度もごつんごつんとやっていたら、見事に指がぐち

ゃぐちゃになっていた。痛かった。――すごく痛い。血が出ているし、すり剥けているし、

小指の方は少し腫れていた。でもそれよりも心が痛かった。誰もいないとわかっているドア

を叩き続けていなければ、目隠しをされてしまう。

 僕はゆかりの手を握った。・・小さくて、針仕事や水仕事が不似合いな、とても綺麗でやわ

らかい手だ。ハンドクリームを塗っている手だ。――そしてそれは、汗で少し、ふやけてい

た。そしてそれは、身に覚えのない、何かに射ぬかれるような、悪い感触だった。

 「竜也、ごめんね・・」 

 その瞬間、腹が据わった。激しい自己嫌悪も消えた――このままじゃいけない、とようや

く僕にもわかった。「山崎先生を、俺、呼んでくる」

 その前に、これ飲め、と缶ジュースを開けて、ごくごく無理やり飲ませる。

 げほげほと噎せて、少し吐き出した。背中をさすってから、・・また同じようにする。

 「ゆかり、ちょっと待ってろよ・・すぐ、戻って来るからな」

 僕は、次の瞬間、走った。いま、原爆ドームを見学しているだろう山崎先生の所へ。走っ

ている間、ゆかりの無防備な顔が何度も浮かんだ。好きだと思った。だから情けなかった。

好きでいる資格もないんだ、と自分自身の影に笑われているような気がした。

 
  × × ×


 人々は最後の疑問を提出し得るかのように想像する。

 スライドや16ミリ・フィルムの映写室で・・

 そして、最後にたった一度、別れの握手があるだけで、

 空間が分析されていく。――まあ。お前は今までどこに隠れていたの。

 田中貢太郎の『レンズに現われた女の姿』というのがあって、

 写真屋に行く度、故障に見舞われる男の話だ。

 さんざん頭にきていた彼は、・・「何故そんなに、機械に故障が起るのだ」と聞く。

 その後ろに、――困難を見出したと想像するならば、それは完全な誤りである。

 「あなたは、こうしてみると一人だが、黒い布を被ってみると、後へ女の顔が出て来る」

 ――それは先妻だというオチなのだが、ぼんやりと考える。

 図々しくて呑気な闖入者だ。・・結局、筋だけで――

 結末としての不幸のようなことは、何一つ書かれていない。

 しかし、分析する。

 動機に忠実で、理解の性格に相当する、この話のネタはともかく、

 そこにあらわれた女が先妻であるという必要はない。

 何故なら、種々の感情や欲望も、極端に詮じつめれば、たった一つである。

 そうならなくては据わりが悪い、という先入観だ。

 しかし、僕等は知っている。それは多分、先妻ではない。

 それは、写真師と、先妻を亡くして後妻をとった夫が垣間見せた・・

 一度限りの手品である。

 そしてそれを疑う者は、おそらく、常識を信じ過ぎている。

 ――ミステリーサークルにはトリックがあった――

 もちろんこれもトリックだ。

 実は、キャトルミューティレーションについて何も正確に語られていない。

 しかしこれが別々だとすると、悪戲と、猟奇、それだけかも知れない。

 そしてそこに、秘密組織がやってくる。

 論理を飛躍するために・・ただ、据わりをよくするために、誇大妄想が生まれる。

 でも僕等はけして批評家ではないし、イエスでもノーでもない。

 そう、多くの人達は、ただ手品を見たいだけだ、と僕は言う。

 ――僕はそれを知っている――

 何故ならもうあなたは、先妻のことを、何とも思っていない。

 ここで、僕とあなたが握手をしている。

 あなたは快感だ! 

 実に論理的に、あなたが罪を犯す瞬間・・・


  × × ×


 原爆ドームに学生服姿たちはいなかった。

 そこで、僕は更に探し求めるために走り回らなければいけなかった。

 (はあ、はあ、、)

 転々と他人の部屋に割込んでいるみたいだ。ダラダラと額から汗が流れてくる。たまに意

味ありげに時計の文字盤が脳裏に浮かぶ。足は宙に浮いている。――両腕や、両足が重くな

ってきている。山崎先生、山崎先生、と僕は恥も外聞もなく彼の名を呼んだ。

 すると、遠くの方で、どうした、という声が聞こえる・・まぎれもなく、山崎先生だ。

 見付けた、と独り言を言いながら、――それが波の香りや音のように、胸いっぱいに広が

っていくような錯覚を、僕は覚えた。空間が殆ど絶え間なく波のように揺れ迫っている。

 ――いた、と僕は思った――

 クラスメートは見当たらなかった。もしかしたら、山崎先生も僕とゆかりのように、別行

動をしていたのかも知れない。そうだとしたら、幸運だった。

 「・・・どうしたんだ、そんな息を切らして、」

 勘が鈍いな、と思ったが、すぐに機転を利かして、

 「香山はどうしたんだ?」

 何かあったと気付いたのか、・・こっちです、と言って走ると、山崎先生も小走りになった

。これは不思議な現象だが、折りまげていた膝をのばす動作、さらには、両足の裏から全身

を突き抜けていく衝撃。――速度。光景の動きをとおして、同じ立場になる。

 これはたとえば、火事があった、と叫ぶだけで、窓を開ける心理のようなものだ。

 電波を受信し、スピーカーで流す。

 併走しながら、ざっと事情を説明する。

 「ゆかり、ちょっと平和公園に戻ってきて、倒れたんです」

 「・・・本当か、」

 「熱中症だと思います」

 そう言うだけで、もう大体の話はついた。

 ――しかしその時、何故か、僕は――

 眩暈のような感覚に襲われた。極度に残忍な拷問か何かのように、嫌な汗が浮かんできた

。ずん、と重力が二倍か三倍にでもなったような気分だ。鉛を呑んだ蛙はこんな気分なのか

も知れない。生汗がニジミ出て来る。すう、と何かに呑み込まれるような気配。・・

 「おいどうした神崎、」

 「いえ、――ほら、あそこです!」

 指差した拍子に、香山おい、大丈夫か、と山崎先生が駆け寄る。・・聞こえた、そして、ゆ

かりは起き上がっている。その眼が、僕の姿を認めると、眼だけが少女らしくパッと輝いた

。しかし僕はと言えば、我慢も限界にきていて、ズルッ、と滑って大の字に寝転がる。

 (ンはあ・・ッハア・・・)

 ――どうやら、自覚症状がなかったが、僕にも熱があるのかも知れなかった。あるいは、

睡眠不足のせいかも知れない。なんだかもう、立ち上がれないくらいの虚脱感を味わった。

 ・・・男の眼を波間から、女の手を見ている。

 振り返ると、男の手を見ている。

 周囲の声がすうっと遠ざかるのを感じた。その時、おい大丈夫か、というクラスメートの

声が聞こえた。ガヤガヤして、巨人のように、僕を見下ろしていた。遠近感覚がおかしい。

僕は小人になったように萎縮していた。逆光のせいで、・・太陽が蔽かぶさっているせいで、

顔が見えない。ノッペラボウだ。――たっぷり陽射しが降り灑いでいる広場。噴水の音は聞

こえない。やがて無音になる。意識が朦朧とする中、ズルリ、と僕の身体が何者かに持ち上

げられるような感覚があったが、その次の瞬間、途絶えた。

 ものの数秒とたたないうちに、青空が、僕の視界から消えた。


  5


 「ゆかり・・もう大丈夫なのかア?」

 正座していたゆかりは、ゆっくりと肯き、すり足で近づいて僕の額のタオルを替えてくれ

た。ゆかりは、いつかしぼんだ風船のように力なく、――怒り出すと好いのだが、生憎怒ら

ない。それ所か、しおらしく、自分を恥じているようだった。前後にゆさぶるような肩の運

動を繰り返して、溜息を衝いてる。なんだか、銃弾が足下に散乱しているのに、いつまで

たっても銃に装填しない、という感じだった。

 もちろん、誰かがゆかりを責めたわけではない。

 それでも、こういう慈悲心のようなものがあるから、値打ちがある。

 ・・・いま、僕等は理事長の貸し切りの船の中だった。広島から大分へと向かっている。みん

なは上甲板や、船室にいるのだろうと思う。いちおう、自由時間ということだから、みんな

、はしゃぎ回っているのかも知れない。

 僕は医療ルームという薬品臭い、ベッドならぬ敷布団の上にいる。

 また、ゆかりの病状は本当に一時的なものであったらしく、山崎先生が発見した時には、

奇跡的な復活を遂げており、むしろ、僕が倒れたのを心配して、・・僕は見ていないけれど、

広島では取り乱して、泣きだすような始末だったらしい。そして僕はと言えば、ここで目覚

めるまで、ずっと気を失ってスヤスヤと眠っていたらしい。

 いつものゆかりなら、貞操の危機、とふざけているような場面だが、ひたすら汚泥の中に

食い、飲み、又溺れるように、ゆかりと二人だけの時間を過ごしている。ラッキーと言えれ

ばそれで少しは気分がよくなりそうなのに、心の迷いの前で、僕もゆかりに対する申し訳な

さがあって、天井から、ぱっぱっと埃が出るように、二人で息苦しくうな垂れていた。

 理想的なかたちをしていたはずのデートも、キスも、――いまはスローモーションで長く

思い出すのみで、自分の腹にかかえこんだシナリオの、いちばん深い部分が夜中の庭のよう

に、雪のような淡い星屑を積もらせている。

 半睡半醒の境にさまよっていたというのに、目覚めてすぐ、ゆかりがいることに、とても

ホッとしたのを覚えている。何事にも手を出して倦むことを知らない、ゆかりのスキンシッ

プ。・・俺専属の看護婦にならないか、なに、愛人契約というやつであるよ、というシモネタ

をこんな時でも元気に想像できる僕は逞しかった。

 もちろん、妻帯者でもなく、恋人もいない僕が、愛人といえば、既にそれだけでシモネタ

である。次第にはっきり意識に上って来る、消火器・・。

 「大丈夫?」

 ぼうっとした眼をしていたらしい僕を、ゆかりは心配する。

 「そうだ! お前のせいだ」

 僕は途端に声を張り上げた。ゆかりは、ビクッと身を竦めた。

 「お前のせいで、僕はこんなことになってしまったのだア! 返せ、僕の修学旅行。さあ

、差し出せ、おまえの身体!」

 ・・・一発、ボケてみたのだが、どうも不調らしく、しいん、としてしまった。

 「いや、あの、――ゆかり、冗談だよ」

 干しブドウのように干からびている、・・いささか影の強い印象のある、ゆかりは、かくて

時間の経過と共に、精彩を取り戻し、――しかしそれでも、青い幌を張った馬車。

 「うん・・・」

 なんだか、子猫のような気がしてきたので、ゆかりの頭を撫でてやった。いつもなら、や

めてよ、と言いそうシチュエーションなのに、嫌がりもせず、じいっと座っているゆかりは

、ショーケースの中の市松人形みたいだった。漆黒の髪。・・ガラスのような気配――

 まるでエデンみたいに、二人の間には、踏みしだかれたような形跡は何処にもなかった。

自分の顔が複雑な微笑に崩れていくのを、他人事のように、やわらかく感じた。髪が、朝露

どきの葉のように複雑な色に染まっていた。

 医療ルームには窓はなく、薬品棚とデスクと、おおよそ不自然な敷布団があるだけで、取

ってつけた感が滲みでていた。おそらく敷布団は、別の部屋から持ってきたのだろうと思う

。本来ならここに、粗末なベッドが二つや三つと、カレンダーと、花瓶があればおおよそ、
                     
それらしくなる。忍耐が大切な所以である。

 「俺の台詞じゃなかったんだけど、・・お前のせいじゃないからな」

 「うん・・」

 そして数秒間の間、僕は、少し混乱しながらゆかりの顔を見つめた。そしてゆかりも見つ

め、見つめたがさて、僕が画家なら、きっとこの絵に目をとめる。その人の顔や名前はいま

だに記憶に残っている。でも、絵の中には時間というものがなくて、髪だけ、ユラリユラリ

と燃えるように揺れ、生命の始まりが複雑な色に染まっている。

 本当に君・・・? ――時が経つにつれて、(画家は、最初の一行はたぶんこういう文章だっ

た、と思うと、色を想像した)・・魂の貌にふかく、因果の理法が現れるとも知らずに。


  × × ×


 のそりと起き上がろうとすると、――ゆかりが気づかせてくれる。

 まるで、RPGの村人みたいに、だ。

 深い沈黙の中に眠っている、・・小さな人の姿が、どうでもいい、と――恥しめられた者の

持つ後味の悪さを持って甦ってくる。僕等の人生はボードゲームではないけれど、RPGに

は近い。何故なら無駄な動きが多く、・・・なおかつ、リアクションを得るために行動しなくて

はいけない。そういうのを曼荼羅とか、――いっそ、リプレイと洒落て言うなら、その通り

だろうと思う。

 「ともかく、竜也は寝ていてね・・」

 挫けるような、疼きを覚えた。――そうして尚、じっと、・・・じっとしている。すんなりと

、手を伸べたまま、はじめて頭に浮んで来る。長い眠り――。

 短い連想が自分の耳を疑うような顔をしている。・・・どろり、ともう半分融け出した顔を鏡

で見ているように――。

 ・・・緊張の糸が。
                 からごえ
 切れた。――ほんとうに、乾声が。

 「あんまり無理するなよ、別に・・・」

 ずうっと昔にそんな絵を見た――見覚えのあるように感じたのは、そこに母性を見出した

からだろうか。或いは、言いようない畏しさ・・たとえば、神さびた職を寂しく守って居る者

の言葉のような。――ざらついた熱い舌先。血の味のする唾液。・・そしてそういう暗闇が次

第に濃く、あたたかく、しめっぽくなってくる。

 違う、と――。

 でも、何か・・、まだ何か違うことが・・・。

 言えた。――すべてが隈を持ったように、朧ろに・・。

 「別にさ、ゆかりに希美衣さんのようになれ、とは言ってないぜ」

 ・・・ビクッとする。
                  くらくら
 軽い混乱のせいか、眼の前が夢夢した。

 ほんの暫し、心を掠めた――。

 でも、かえってほのかな、こみあげ笑いを誘う。
   ヒント
 この暗示で。

 ・・彼女は益々透きとおり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見える。轆轤だ。物の音に譬え

ようもなく。――水車が如何にも空想の愉しさに溺れて。

 「ちゃんと、わかってるからな」
                           くる
 入り日の光りをまともに受けたように、俄かに転めき出した。

 その速さ。・・・炎になった。

 唯一流れの美しい色。
           したた
 しとしとと――音が滴垂る。

 あたりは俄かに、薄暗くなって・・ありありと浮き出た。

 「ええ・・」

 彼女は微笑んでいる。

 そわそわと興奮したり、むやみに塞ぎこんだりしている、彼女・・。

 ――香気を含んで、流れていた。

 竜也・・。

 と呼ばれた。

 ――ありがとう。

 飛び抜けてうつくしく思われた、すずやかな声も、

 何事もなかったのかと・・。

 でも、彼女は違った。

 彼女は、顔をおしつけるようにして、新しい耳を聞かした。二人の声が、おなじ感情から

迸り出た。――気に入らなかった。恩を仇でかえされた方がずっとましだった。しかし、よ

いとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、磨きたてた黄金の

球のようにきらきら輝いていた。

 神でさえ、舌を捲きはじめていた。

 ・・・手練手管の教師なら、もう教えることはない。

 彼女が覆いかぶさってくる。重い、掛け布団が横に引っ張られる。おい・・しかしすぐに気

が緩んだのだろう。暫らく胸打たれたように、顔を見合せている。

 僕は目を閉じることもできず、

 ――やめろよ、気でも狂ったのか、とも言えず。

 「キスしたでしょ?」

 ――したかも知れない。

 ――いや、した、と思う。・・

 まったく量り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。

 ふわりと、からだは宙に浮き上った。・・

 消えなかった。

 頭の中も、胸の中も、空だ。

 天使があまりにも多い。

 ・・・キスだ。 


  × × ×


 もし今のシーンをプレイバックするなら、おそろしく変な場面だろう。確かに中学生同士

がキスをするなんてことは別に珍しいことじゃない。テレビドラマではそうだ。・・それでも

十代の全身に熱を感じたように、山崎先生は、「か、」

 (蚊――そうだ、おまえはお邪魔虫だ。・・)

 半ば押し倒される格好で、キスをされている場面で、――山崎先生はドアをがちゃりと開

けて、まったくそれがそういうドアなんだと最初から潜んでいたように想われるほど、間抜

けに口をあけ、足を引き止められている。
 ボッカ・デラ・ベリタ
 真実の口。

 そうだ! ・・ゆかりはそれに気づかずに、全く一つのものに化して、おそらく根も葉もな

い幻想の翫弄物になって腐り果てている自分を――希美衣さん、さらには、それに対する自

分の弱気。・・呑み込むような不安から、退屈から人を救ってくれるのは行動だとでもいうよ

うに、ゆかりは勇ましかった。

 ただ、――あまりにもタイミングが悪かった。

 「これこれ、ゆかりさん、おふざけをするのはよしなさい」

 僕は水戸黄門風に事態を収拾しようとした。
            
 そして耳元に小声で囁く、山崎先生がいる、と僕は言った。

 カッ、と耳が紅くなるあたりが、やっぱり女の子だな、と思う。

 「よろしい! ・・今日はこのへんにしておいてさしあげましょう」

 「えーと、シーン36、シーン36、・・次は」

 と、わざとらしく言ってから、

 「あれっ、山崎先生!」

 ――ごほん、と山崎先生が咳ばらいした。

 「いやあ、熱心だな。・・次の演劇部の発表会の準備かな」

 「え、山崎先生ッ――あちゃー、先生いまの見て勘違いしたでしょう。別にぜんぜん、そ

ういうことじゃないんですよ」

 あのー、じゃー、どういうことなんですかー、

 ――と、僕は思った。

 「いま、キスしてたな」

 「演技ですから、・・ハイレベルな演劇部の彼女の相手役を務めるとなれば、キスの一つや

二つ欠かせません」

 よく口が回る。・・
                           しんりょく
 しかし、おかしな場面のせいか、さわさわと深緑の感覚を呼ぶ。無限の表情が流露して尽

くるところがなく、何物にも冒しがたい芸術的な匂いが沈潜しており、それが溢れずに緊張

感をただよわせているところに、思い深い、奥床しい俳優たちがいた。

 「・・なんだか、本当にキスしているように見えたよ」

 ――していたのだ、と打ち明けてもいいはずなのに、・・僕等は十代であり、最低教師には

、そういう場面を見られたくなかったのだ。精神的な結びつきのようなものが、別の世界へ

と僕等をいざなっていく。果たしてあるのだろうか、――大人に隠さなければいけない、秘

密の理由は。でもよかった、・・丁度、自然と火が消えたところだった。

 「じゃあ、また来るよ――練習続けていてくれ」

 と、山崎先生はドアノブに手を伸ばした。

 「――邪魔して悪かったな」

 なんだか、その時・・無性に、この人は別の理由で来たのではないか、という気がした。今

まで感じたことのないような感じ方で強く感じた。

 「先生、もしかして何か違う用事でもあったんじゃないですか?」

 不思議な心の誘惑だった。

 「・・・もしよかったら、話していただけませんか?」

 「なあ神崎、おまえ本当に十代なのか――」

 その発言が、“my life”の読者のものであることを僕はすぐに理解した。彼は患者だ、そ

れでも僕は医者じゃない。ただ報酬たるべき自由の中に、展望が段々狹まってゆくのを眺め

ている。もう何年か前から、救いを求めている人とそうではない人の区別がつくようになっ

ていた。人は固執する。しかしそれは悲しんでいる、ということだ。段々と失って来ている

素朴さ、純粋さ、童心へと回復してゆくために。

 「・・・でもいいのか、本当に?」

 ちらり、とゆかりを見た。

 ――でも、ゆかりはそんなことを気にするような奴じゃない。・・確かに、ドアを閉めて、

もう一度、くちびるの味わいに溺れるというのは、素晴らしい。濡れてくる。とうとう、雨

が落ちてきて、扉、鉄門、庇、・・遠い所から、木の葉をゆする風につれて、ひそやかな雨脚

が近づいてくる。濡れてしまう、夏の雷に一撃を加えられたような凄まじさで顎をすくめて

もう一度あたりを見まわしてみる。やがて水溜まりが、――小さな川がちょろちょろと流れ

だし始める。急激な進歩の忘れ形見。暗い大きな蜂の巣・・見る間に、詛の念から成っていた

壁が崩れる。化石だ。化石が見える頃には、おのれの巣の中で騒いでるのが雨の残響である

ことに気づく。濡れて、濡れて! ――そう僕は傘を棄てて、濡れている自分がいることを

知っている。茶もあれば花もあることを知っている。それでも、濡れ襤褸のようになって、

襟元をつかまれて引き込まれた瞬間、雨はガラスのついた窓の扉の幻想に過ぎなかった。

 はにかんでいるんだ・・濡れてしまう、幾重にも大切にこれを包んできたから、そのことが

よくわかる。欲望は歌ってくれ! あの曲を・・。と! 叫んでいる――

 教室でひとりきりの朝、・・ひとりの部屋でゆかりの写真を眺めていたこと――

 濡れてしまう。・・怒濤は、下層の群集だ。乱雑に上へ下への堆積だ。雨が――それを、ど

ろどろにとかすってことを知っているかい、鏡のように光りを吐いている、雨上がり。僕は

それに濡れている。けれども、沈澱した砂のようにぎっしりとあることがいまの僕には必要

だった。断崖のごとく横たわっていた、その洞窟で、つつましやかな雨の音を非常に可愛い

く思った。暫らくは眼の前をちらちら離れなかった彼女も、やがて雨のように消えた。

 「・・・いいよな、ゆかり?」

 ゆかりは、――何か、もうしたいことをやったんだもの、という感じで、微笑んでいる。

しかしそうされると、それはそれで首を傾げたくなるのだが、

 「わたしは構いません――」

 と言った。

 ・・山崎先生はこれでもう逃げられなくなった。

 一度大きなため息をつく(何かに誘われて、ここまで来ているのだ、)という風に。偶然

であり、気紛れであり、焦燥であり、筋違いであり、しかし運命だった。大きな波にゆられ

ながら、この微妙な羅針盤を見つめる。

 「じゃあ、・・話そうか」

 先生は、重い口の扉を開いた。

 
  6


 先生は胡坐を掻いて、座っている。

 ゆかりは僕の隣に座り、――僕は上半身だけ、起こしている。

 「なあ、神崎、香山・・・恋をしたことがあるか?」

 その詠嘆的な心細い口調は、胸の先がわくわくとして、――いや早まったという後悔の念
        いんこ  おうむ
に襲わせた。秦吉了や鸚鵡が心の連れのように乗りかかってくる。

 僕はゆかりと顔を見合わせる・・・一週間も十日も会話を交わしていないように、はにかむ。

あ、これだったのかしら、とゆかりは果実を見つける。久しく恋しているものに、初めて手

で触れ、息で触れたように、心がふくらむ。

 「まあ、それなりには」

 「そうだよな、今は思春期だからな」

 そこへ取り逆せたような調子で、僕が言った。

 「ひい、ふう、みい!」

 ごつん、とゆかりに頭を叩かれた。

 「・・痛えな」

 「竜也は少し黙ってなよ」

 でも、ゆかり、・・と、僕は思った。そうでも言わないと、益々照れ臭くなつて、途方に暮

れてしまいそうだったのだ。でも自然と僕だけは別物扱いされ、却って滑稽視される傾き。
 デヴイユ
 御目見得。

 ――でも、声が耳には聞えても、自分で自分の耳を疑った。・・本当のところ、水際だった

美しさに、突然ぶつかった感じで、――口の前に布団をあてて、ゆかりを覗いていた。多分

本当にそうなのだ。僕はゆかりに恋をしているのだ。

 「いまは色んなことに情熱を傾けることができる・・クラブ活動や、恋、あるいは受験」

 「なんだか、先生も恋をしているような口ぶりだな」

 と、僕は言った。図星だったのか、すうとぬくさのようなものが、ひろがってきて、身に

沁みて来る。物音一つしない部屋に酸素ボンベのような息遣いが響いた。

 「・・・付き合っていたんだ」

 しんみりした気持ちが部屋中に広がっている。

 「――いつ頃のことですか?」

 「大学生の頃だな・・・」

 「遠い大学だったんですか?」

 「そりゃ遠いよ、」

 と、ウンザリしたように、山崎先生が言った。

 「何たってアメリカだからな」

 アメリカ、という単語が、僕等の脳に刷り込まれ、・・そのインパクトのある単語は僕等を

黙らせるのに、十分の破壊力を持っていた。弾丸の洗礼、とでもいうべきか。

 「一年、休学してな――親にわがままを言って、アルバイトした金もそれにあてて、・・い

ちおう日本の大学の研修生という形で、こまごまと教授の手伝いをしたら、少ないけれど給

料も出た。休みになったら、色んな所に出掛けたよ」

 「何処の大学だったんですか?」

 「カリフォルニアの、ロサンジェルスだよ。当時は楽しかったなあ、・・・先生の青春だった

と思う。いまでも大学の同級生だった奴と交流があるし――たまに本を送ってもらったり、

国際電話をしたりする。あ、・・もちろん、男だよ。念のため」

 なんだか、そうやって話している山崎先生は、養分の摂り方次第で、別の花を咲かせてい

たのかも知れない、と僕に思わせた。

 たとえば外資系のサラリーマンとか、講師とか、・・あるいは英語の教師とか。

 「――日本へ来た時には、一緒に酒を飲んだりもするよ」

 長くなりそうだったので、話を折ることにした。

 「それで、その彼女というのは?」

 うん、とジッと僕の顔を眺めてため息をついた。
                       タブー
 気をまわしたように、ゆかりが言った。禁句を。

 「そういえば、先生・・・どうして英語の教師にならなかったんですか?」

 それはまずいだろう、と僕でも思うくらいだから、――山崎先生が一瞬、蒼白になった時

、ゆかりはやっちゃったという顔をしていた。悪意のない言葉に傷付くのは、その人が弱い

からだ。事情を打ち明けて話すしかない。

 「そうだな、・・先生は本当は、社会なんかよりもずっと英語の方が好きだった。子供の頃

から習っていたし、――ただ、英語が嫌いになってしまってな」

 「・・どういうことですか?」

 僕はあえて、ゆかりが踏んでしまった地雷原を、匍匐前進することにした。

 しかし怪物は、――決して追求の手をゆるめたわけではない。

 ゆかりにしては珍しく、

 「もしかして、殴られたとか?」

 と、言った――。

 何故、今日に限って、ゆかりがこんなにチョコレートプリーズしているのかわからない。

生還の二文字が綺麗さっぱり消え失せている。だが、気まぐれと言えば言えるような気分に

入り易い話ではあった。

 何しろ、現実感というものが希薄である。

 「どうして、・・香山はそう思うんだ?」

 しかし、山崎先生は怒りをあらわにはしなかった。

 ――もしかしたら、と思った。

 もしかしたら、あのゆかりが平手打ちをされた一件も、この話と何処かで噛んでいるので

はないか、とふと勘づいてしまうみたいに。

 穴をあけるだけとしか思えない、ゆかりの会話も、この場合では正確だった。

 「いや・・・非常に正しい、」

 「実は、わたし、――竜也が、・・神崎くんが山崎先生を殴って、わたしに謝りに来てくれ

た時に、――なんかこれ、違うな、と思ってて」

 いはれなき謂われを求めようとする理づめの世間。

 ・・・もう頭の中まで、すっかり冷たい鉛になってしまった。

 それでもボウリングの玉は何んでもない会話からさえ、浮かび出して来る

 「そうか、先生、いつもと少し違っていたか?」

 「・・・なんだか、朝もわたしは変だな、と思ってました」

 そう言われてみると、どうして“仏の山崎”は香山ゆかりを叩くことになったのだろう。

 なんだか、その反動として、白い滑らかな、朝霧を含んだ絹のような、カーテンが見え始

めた。・・煙のように、淡く飛び去った幼ない思い出の中に、桜の木が見えた。まだ、四月だ

った。此の上ない張りつめたものもいまでは、みじめながら、感傷と言える。――

 「実はあの日な・・先生失格かも知れないけど、――彼女の住所を知ったんだ」

 もしここで僕が間に分け入って、荒々しく息を吐いて叱りとばしたらどうだろう。・・それ

でも大違いだった。僕はいまとなっては、あの瞬間の山崎先生こそが、ゆかりの告白までの

助走となったことを知っている。ゆかりも、それに気づいているのだろうと思う。

 あんなに嫌だった思い出が、明るい花園の中のたったた一本の日蔭の蔓に過ぎなかった。

 「でも、先生・・順を追って話してくれませんか。まず、英語が嫌いになった理由から」

 「それはアメリカの大学でのことだ。――実はこうみえてテニスが得意で、学校の昼休み

にちょっと教えたりしていたんだ。・・別にそんなに巧くはなかったんだけど、日本人という

ことの物珍しさもあったんだろうけど、妙にウマがあってな、一か月後にはコーチに就任し

ていて、昼と夕方には教えたりしていたんだ」

 「それで?」

 「それでな、これが妬みの話なんだ。僻みというか・・それまで監督役だった、白人の先生

がいたんだけど、これがひどい奴でな。気性も荒いし、ブルドックみたいな顔をしているし

、まあ、人気もなかった。それでも教えられる人もいなかったし、監督は一人だからな。そ

れがどうだ俺が行くと、コーチに就任する。生徒達も活気を取り戻す」

 「なるほど、」

 何処にでもある話だ。Aはあれだけど、Bならいける。・・

 「そして、――とうとうその日は来た。生徒達が、あいつ、・・その白人の先生を監督から

降ろしてしまおうって。それで、俺に引き続きコーチングしてほしい、監督になって欲しい

、というわけだ。それも全員の推薦だ。署名捺印もある。――でも、自分たちが言うのはあ

れだから先生に是非とも話を通して欲しい、と・・」

 「それで、・・」

 やっぱり、自信満々だった、と山崎先生は振り返った。

 「あっという間だったよ、あっちは190くらいの体格もある。・・でも一応こっちも、ア

メフトの先生を連れて、穏便な話し合いをと持って行くつもりだった。そこでは、猫のよう

に奴も大人しかった。首輪がある。なのに、さて帰ろうかという時に、駐車場で待ち伏せさ

れていてな、――あっ、という間に、さっきはどうも、という前に、ぼこぼこだ。リンチみ

たいな感じさえあった」

 「それは・・ひどい――」

 と、ゆかりは言ったけれど、僕はあやうく笑いそうだった。というか、あまりにも突飛過

ぎるのだ。しかしよくよく考えると、テニス場に初めて姿を現した山崎先生を見た時から気

に食わなかったのだろうと思う。馬が合う、合わない、というのはある。

 「魚雷みたいなパンチを浴びて、――もう次の日、大学へ行く気がしなかったよ。でも、

さすがに日米交流ということもあるし、テニスのこともある」

 より深い沈黙のみが僕等を支配していた。言葉も表情もなかった。

 「一応、その白人の先生には、学校を去ってもらうよう取り計らってもらった。・・ただ、

そうすると、その先生と仲のよかった人達が、俺を嫌な眼で見てくる。なんだかもう耐えき

れなくなってな、二週間かそこらで、日本へと戻ることを決意したよ」

 「そうだったんですか・・」

 と、ゆかりが言った。


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