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灯台

MY LIFE 20

  × × ×


 「で、――その時、生徒の中に、日本人の留学生がいて、・・・これが彼女だ。彼女には、い

ずれちゃんとするから、と約束して、日本へ戻った――でも、当時の俺はなんか、日本へ戻

れて浮かれてしまっていてな、手紙を書くのも嫌だったし、電話をするのもちょっと億劫だ

った。本当言うと、・・・当時、ちょっと違う女の子がいてな」

 でも、それを、若気の至り、と言うほかはないのだな、と僕は思った。

 「じゃあ、自然消滅すると思っていたんですね?」

 と、僕は冷たい声で言ってやった。

 僕は何しろ、浮気をする男というのが大嫌いだった。

 「――いや、でも、すぐに目が覚めたよ。・・ただ、二か月くらいかかったかな。たぶん、

日本へ戻ってきて浮かれていたし、嫌なことから目を逸らしたくもあったし――それでも、

彼女のことが大切だと気付くための時間だったと思う。電話したよ・・でもそうしたら、つな

がらないんだ。――大学の知り合いに連絡を入れて、尋ねてみたら、・・二三日後にメールで

、彼女は日本へ戻っている、と教えてくれた。親切な奴で、実家の電話番号もファイルから

、調べていて教えてくれた」

 ひじょうに、恥ずかしかったよ、と山崎先生は言った。

 「馬鹿みたいに彼女のことを忘れて、違う女のことを好きになって・・ふっと、取り戻した

くなって、我がままだって気付きながら、その話を聞いた」

 旅の切ないある気持ちは、出来心なんだろうか、と僕は思った。

 ――もちろん僕がその彼女であったら、彼・・山崎先生のことを許したりはしないだろう。

一生。それは道理として、裏切った人間を傍には置きたくないからだ。けれども、そう想い

ながら、次第に瞼の裏には、様々な美しい肉体の粋が現われる。ゆかりや、秀一、希美衣さ

ん、マスター。――彼等がもし、同じことをした時、僕はそれを責められるのだろうか?

 急に人間が飛躍してしまうこともある。

 「三日かかったよ、・・このまま、そっとしておく方がいいのか、あるいは、電話をかける

べきなのか、ってな。――それで、電話をかけた。そうしたら、・・住所が変わっていたんだ

。大学とか、色々ツテをあたって調べたんだけど――中々、見つからなかった。もう正直言

うと、あれから五年。もう、いいんじゃないか、と何度も思ったことがある。ただ、謝りた

かった。それで、・・・いや、それでなんて言えないかも知れない。ただ、謝りたかった。謝っ

て自分の気持ちにちゃんと、決着をつけたかった」

 「連絡は興信所からですか?」

 「・・・ああ、」

 と、山崎先生は肯いた。ぽろっ、とエキサイトしているせいか、涙が左眼からこぼれた。
  
恰度跼み込んだ女生徒のスカートを、ひらりと反した風のように、・・・その涙が、おそらく山

崎先生の気持ちだったのだろう。肉体的なものもある、と僕はぼんやりと想像した。でもそ

れと同時に、精神的なものの方が強い。ようやく、という気持ちが何をさせたか。

 「あの時、――俺は白人教師の二の舞を演じていたんだ。・・いつでも連絡してほしい、と

は言ったけど、まさか授業前にかかってくるとは思わなかった。住所がわかった。電話番号

もわかった・・でもかけられない、どう考えても、かけられる気がしない」

 ――その気持ちは、痛いほどよくわかった。

 「ロサンジェルスの大学の、・・知り合いが、あの時、見ていられなかったって、彼女のこ

とを表現してた。恋人を失って、――話によったら、実家の何かがあって、学校を辞めて、

日本に戻るってことを決意するまで、誰にも相談する相手がいなかっただろうな、と思う。

俺はその時、ちゃんと傍にいてあげることが出来なかった」

 ・・・多分、長い間、この人は自分を責めてきたのだろうな、とふっと思った。

 それから少し間を置いて、媚びるような態度で、僕に向かって言った。

 「それで、神崎お願いがあるんだ」

 その瞬間――

 ぐがおっ、と僕は熊になった。

 「待てや、あんた、どういう神経しとるん」

 ありがとう、ゆかり・・これ、大阪人の小説なんだよね、と著者がさりげなく褒めた。いい

からオマエ出てくるなよ、と竜也に蹴られた。やめて、作家をいじめないであげて、とゆか

りが言った。そうよ、いじめちゃ嫌よ、と作家ウルセエ、と竜也に石を投げられた。

 ――何の話だ、どんどん、変な話になってしまうじゃないか。・・

 「会いに行って欲しい、って言うんでしょ?」

 うんうん、という風に先生が肯いた。

 「そのお、・・無理ですって」

 「無理じゃない! ああ、いいわあ、わたしも手伝うから」

 「いや、おまえ、他人の恋の話に首を突っ込むなって。馬に蹴られるから」

 「――いや、神崎が俺を殴ってくれた時に、目が醒めたんだ」

 何の話をしているのだ、このひと達は、と僕は途方に暮れた。

 「それに、交通費も出すし、・・香山との広島でのデートも認めてやったじゃないか」

 あ、こいつ、と僕は思った。

 ――あれも全部複線だったのだ。・・

 「でもその代わり、“赤いルビー”の話をするって」

 「しなくていい! ――とまあ、するつもりだった・・」
 
 大人って、大人って、ウソツキダア!

 「・・竜也、男なら肯きなさいよ」

 「――じゃあ、ゆかりがひとりで行ったらいいじゃないか」

 ぱちこん、と頭を叩かれた。

 言っとくけれど、ゆかり、と僕は微笑んだ――俺はモグラじゃない。

 「いや、それは困るよ。女性同士が一番話がこじれる」

 っていうか、そう思うならアンタが行きゃあいいだろう、と僕は思った。

 なんだか、漫才通り越してるスラップスティックみたいだった。

 「・・わかりました。行きますよ。それで――場所は?」

 「実はこれから向かう、大分なんだ」

 ――全部計算済みか、と僕は思った。

 大人なんて、大人なんて、ウソツキナノダア!

 けれど、そうそう喜ばせてやるものか、とふと思った僕は、

 「・・・でも、熱が下がらなかった時は、先生も男なんだから、覚悟を決めて行って下さいね

。――まあ確かに、先生の仕事もあるだろうけど、生徒を使うってのは・・」

 「教師の特権だから仕方ない! 竜也、ぐだぐだ言わない」

 たぶん、ゆかりの好きなノリなのだろう。・・お前等、絶対どこか変だよ、と僕は思った。

 「神崎、ひとつ頼むよ」

 そんな人困らせの議論なんかもう止して下さい、というつもりだったのに――すっかり、

深みにはまって、断るに断れなくなっている。でも多分、山崎先生に同情している僕が確か

にいることは間違いなかった。

 「じゃあ、朝に」と僕は言った。

 そう言うと、山崎先生は懐から財布を取り出して、すっと、諭吉を僕に握らせた。

 「交渉は成立だな」

 アンタ、本当に教師かと一瞬僕は思った。・・・そうだ、と言いながら――おそらくあらかじ

め用意しておいたきんちゃく袋を取り出した。小銭がじゃらじゃら入っている。

 「一応これで足りると思う。・・あと、余ったら少ないだろうけど着服してくれ。それで、

これが地図で、万が一迷った時に使って欲しい――それでこっちがメモ、電車の乗り方も書

いてある」

 「先生、」

 と、僕は言った。

 ――もしかしたら、この人、本当は自分で行きたいんじゃないかなあ、という気がした。

それでも、大人としての良識もあったし、長い冷却時間もあったりして、・・タバコを吸い

新聞を読みチューインガムをかみ談笑、というシナリオなのかな、とふと思った。

 「でも、会うだけですよ」

 「竜也!」

 違う、とゆかりに僕は首を振った。僕たちは確かにテレビドラマに感心する、小説や、漫

画に。羨みに堪えぬほどよい道筋を多く知って、青写真のようにそこを通ってみたいと思う

。けれど青い鳥のように、最後はいつでも、自分の傍に、すぐ近くにあるものだ。・・パンド

ラの箱にまだ希望が残っているなんていうのは信じないに限る。

 「――話をまとめるとか、俺には出来ません。これだけは、同じ男として言います。先生

も傷付いたんだろうけど、・・・彼女も傷付いた。そして先生が探して、ようやく見付けたとい

う喜びはわかります。恐れも――でもきっとそこには、先生が思う以上に、もしかしたら違

っていたりすることがありうる。日向の外に日向があるなんて、どんどん出来上った舞台だ

って難しいことです。覚悟はちゃんとして下さい」

 ひと際、低い声だった。

 「分かってる・・」

 先生はそう言うと、立ちあがって、ドアを開けて去っていった。

 ・・・ゆかりが、一分ほど後に言った。

 「ねえ、――言わなくてもよかったんじゃないかな」

 地雷踏みまくったお前に言われたくない、とそっくりそのまま返そうかと思ったが、僕は

首を振って、寝転がった。・・流汗はくいとめることができず、実は三十九度もさっきまで

あったのに、とふと言おうかと思ったが、ゆかりはすっかり話に夢中で、僕の体調のことな

んか綺麗さっぱり忘れてしまい、まるで仮病だと思っているとしか思えない節を見せる。

 でも、無理もない。――無理もない。気の毒は、気の毒である。

 すべての感覚を押しのけて、ハッキリと烙印される。

 「先生、幸せじゃなかったんだなあ・・」

 これから降りたり乗ったりして過密スケジュールだからね、とゆかりが言っているが、お

い、しおり作ったの俺だぞ、というのに、――いや、やっぱり、僕が病気だというのを忘れ

てはいないのだろう。船は曰くの目的地へと行く。・・考える人、片思いの人、修学旅行の人

、さまざまな想い、人間模様で限度を忘れた世界へと叩きこまれる。

 ねぇ、ゆかり――眼を瞑っていたら、海を思い出したよ・・。

 ――それは言わなかった。硝子張の天井を持ったコンクリート造りの地下室のような印象

の、この場所は次第に檻のように思えてくる。同じ位の距離でしゃべり続けていたら、急激

な眠気がやってきた。波の音が聞こえた。そして束の間の眠りに、僕は就いたのだ。


  × × ×


 先程から添乗員がバスの中で大分について語っている。こういう移動手段はビデオデッキ

にビデオいれておしまいなんだよ――多分、停泊した時に眠っていた僕が無理やり起こされ

たせいだろう。無茶苦茶なことをさっきから思ってる。
                       おおきたのこほり
 大分というのは古来国府が置かれていた大分郡に由来する。「おおいた」という読みは、

「おおきた」が転訛したものである。

 もちろん、そんなことに、誰も興味はなかった。

 ・・・そういうのに興味を示すのは、折口信夫くらいである。いや、釈迢空という僕にとって

は馴染み深い歌人の名前を出すべきか。あれは優れた歌だった。・・
 
 その時、神崎竜也は――思った。どうして、もっと観光案内っぽくしおりを作らなかった

のか、と。日本一長い水中洞窟である稲積水中鍾乳洞で信仰とお喋り。いや待て信仰なら、

国宝 宇佐神宮に。・・一生のうちに行くかどうかわからないのに惜しいことをした。一生のう

ちにと言えば、『日本百名山』にかぞえられる深田久弥の最も著名な山岳随筆にランクイン

している九重山。――僕は何しろ剣岳フリークであり、大阪人たるもの富士山より金剛山と

いいながら二上山を愛してやまない男であるが。・・愛してやまないと言えば九州自然動物公

園アフリカンサファリ。・・この“アフリカン”というのが“アフガニスタン”だったらどう

しようかと思う危機的な様子が実に素晴らしい。熱のせいだ、無茶苦茶なことを言ってる。

 そもそも添乗員だって、かわい子ぶりっ子と相場は決まっているのだ。バスガイドを雇う

よりも安く済ませたい風潮で、添乗員が兼ねているせいで、頭の中はアフター5のことばっ

かりなのだ。よくはわからないけれど、きっとそうなのだ。

 ――誰も、彼に向って、どんな相場だとは言わなかった。

 「俺達が行くのは、大分県マリンカルチャーセンター」

 恋人の聖地なんて言われているらしい。しかし聖地というなら、福澤諭吉が幼少年期を過

ごした大分県中津市にある旧居の方ではないか。金の力は違う。ドルやマルクならもっと違

う。ああ、湯けむりが上がる別府温泉へと何故『伊豆の踊子』風に僕は青春しなかったか。

なんといっても、あちらには、血の池地獄はない。

 ――しかし、待てよ、そう言われてみればここには恐山はない。

 ああ、しかしそれなら社会見学とか称して、別府競輪場へと行くべきであったか。マスコ

ットキャラクターの「ゆー坊」でも見てやりたい気持ちが僕にはした。

 「ねえ竜也・・声、大きいよ」

 いつのまにか添乗員が僕の目の前にいて、マイクを翳している。ゆかりは、眼を伏せた。

 「・・・昔ここに住んでいたことがあるんですか?」

 二十代そこそこの、パッチリした感じの二重瞼で、うなじのあたりが、汗で湿っているの

を僕は見た。何と言うか、人生の無常さをふと感じた。

 「いえ、」

 というか、そんなことしか言えない。・・

 窓を見ると、耳には入らない。まばゆいばかりの大分。


  × × ×


 中学一、二年生の頃は・・・理事長問題、理事旅のことをそれなりに悪く思っていた。しおり

作成時にわざと理事長と関わり合いのないものを用意して、――担当の先生に、ここをこう

して欲しいんだが、と指示を受けたものだ。

 でも、いまは問わないとしても、大分県マリンカルチャーセンターから見る海が、いい景

色であることは確かだ。そしてそれを見ながら、今回も理事長がどこからともなく顔を出し

て、船を利用することになった、と僕は思った。けれど、団体の中では、修学旅行の渦中で

は、理事長の影など微塵もない。

 その程度のことだったのかも知れない、とふと思うものがあった。

 「降りるよ、竜也・・」

 カヌー、カッター、グラウンド、体育館、プール、登山。プラネタリウム。ふれあい水槽

。海洋科学館。――本当に三年生はのんびりして、受験を迎えられるのだろうか。・・

 僕等は思い出を作りにやって来ている。冷蔵庫のなかに入っているさまざまな材料につい

て、思いめぐらすように、・・・僕等はどんな料理を作るのだろうか?

 「なあ、ゆかり、・・修学旅行はホットケーキに似てる」

 「どうしてそう思うの?」

 「ふくよかな幸福感なんだ」

 ・・ゆかりは眉間に皺を寄せ、一体この人は何を言っているのかという風に目を細めた。

 「そ、そうね――ところで、降りるから肩かしてくれる?」

 腕を首にかけて、少し凭れかかる。・・・どっちが、男の子かわからない。

 「ありがとう」

 わざと、耳元で低く、しわがれた声で囁いてみた。

 ――少しセクシーな響きがあった。

 ゆかりは、ちょっと照れたように、髪の毛をふわりとさせて、僕の顔にぶつけてくる。尖

端がつつン、とあたってこそばゆい。気持ちのいい親切というのは、ある程度、こういう種

類の悪戲じみたものなのかも知れない。クラスメートにはわからないけれど、僕とゆかりに

は別の意味になっている。一方から一方へと巻いて光や、色。・・

 帽子もあればステッキのようなものもある。

 「病気をした竜也って好きだな、・・・馬鹿だから」

 ゆかりはちょっと顔を赤くしている。

 ――波の穏やかな日が好きだ。

 制服に残るわずかな残り香に仄かな想いを寄せる。

 ・・僕はシャッター・ボタンを押せたらいいのに、と思ってる。

 表現に跪拝し、最も魅力ある偶像は影のように、二千年も、三千年も気まぐれな表現が続

くように思ってる。バベルの塔は証明した。それでも表現者にとって、本能的な生の衝動

とは極めて微弱なシグナルなのではないか。とどのつまり永遠に墮ちてゆく、無類な蠱惑の

快味、安慰と、生温かさの上に自意識の弛緩した、無爲の陷穽――。

 それでも、ゆかりと触れ合って離れると、波のメカニズムのように、途端、不実になる。

 でもピアノ・ソロが始まったばかりだ。

 白い部屋がある。・・聴覚をうしなった僕がいる。

 時と共に磨かれ、輝きを増す、――白紫陽花を見ていると、しろい小さな花の、うっすら

と色づいているのが妖精を僕に想像させる。美しいちちくびのような形をして、深淵に向

かって張り出された、ただ一本の細糸を降りてゆく。

 「竜也」

 ――さっきから、僕の名を呼んでいる。

 天使が慰めるたび、風は羽搏きのように僕を空へ誘った。

 ・・・神は信仰だった。そしてそれは託宣だった。毎年繰り返される。――神の行事。神のあ

りがたい言葉。・・時間が経って、色んなもののトリックが暴かれた。と、同時に神そのもの

が僕等からいなくなった。古来、神は人の声を借りた。

 ――ねぇ、ゆかり、無韻の韻を奏でているんだよ。天体に於ける星座のように一つの軌道

を護ってる。・・でも、神の名は知らないから、神を下ろすための人がいたんだ。それが神の

名ということだ。――それが忘我だとすると、嘘を撒き散らしてもよかった状態、いわば、

酔っ払いだったんだと思う。・・じゃあ、ただの酔っ払いだったのかっていうとそうじゃない

、香水のような表情をしているんだ。

 「竜也・・」

 そうだ、さっきから、僕は僕の名を探してる。

 ――時計では、僕の時間を測れない。

 豊富な言葉の波動と幻想量は比例するか。たけ高く、枝しげり、清く碧なる一帯の水の姿

をしているか。・・僕は。眼も疲れ、心も疲れている。

 ・・ゆかり、穢らわしいと思ったものほどむしろ強く顫えている。

 波が巻き始める、“無垢”という名をして。


  × × ×


 集合場所へ僕とゆかりが行くと、人数点呼がもう終わっていて――教頭先生が、しつこ

く、・・・蛇みたいに・・・当たり前のことを話していた。しかしそれを作成したのも、残念なが

ら僕だった。持ち物をきちんとまとめ、部屋の中はきれいにしましょう。靴やスリッパはき

ちんと並べましょう。部屋の中ではあまり騒がないようにしましょう。一般のお客さんや、

従業員に迷惑をかけないようにしましょう。外へは勝手に出ないようにしましょう。
                               すさのおのみこと
 ――どうして僕はキーボードを叩きながら、日本人が、素戔鳴尊を祀るか、アメリカは、

新大陸に神話を創り出そうとしたか。・・

 暗流横溢。ヘイ、全国の少年少女たち、朝のラジオのニュースと天気予報を聴き、珈琲を

飲もう。外へは勝手に出よう。集団行動というものに騙されないでいよう。

 「(それにしても、部屋割だな)」

 僕が一番頭を痛めたのは、人数に対する部屋の数である。

 8人部屋は50室あって400名宿泊可能で、三年生で300人以上いるが楽に収まる計算だった

のだが――もちろん、僕が作るしおりのことだから、それでは面白くない。4人部屋や、2

人部屋、さらには1人部屋なんていうのも僕は用意した。

 作ろうとおもえば作ることができる・・かたまりをきれいにくり抜いてしまうこと。

 ・・・何故そうしたか――冥界のなやみとこしへなる、ということである。簡単に言えば、僕

は太陽を地上にひきずり下ろしたい、と思ったのだ。たとえば、重苦しい悩みや、情熱にひ

そんでいる取り返しのつかない悔恨・・できるなら学校生活では味わえないようなことを、旗

迷惑と知りつつ作った。籤引きをさせ、ゲーム感覚を取り入れ。

 「――竜也、行くよ」

 ボーッとしながら、そんなことを考えていた僕は、眼が眩んでいたのだろうか、あやうく

地べたで眠りこけてしまうところだった。
                               いっとき
 彼女は、・・瞬きをしない。五分や十分でさえ、ほんの一時のように、僕は考えていた。廊

下に、彼女の足音が聞こえた。高山エリナ、の足音かも知れない。・・

 
  × × ×


 僕は幸か不幸か、一人部屋で、・・大抵、いつも、そういう風になる――少し淋しいような

気もしたが、団体旅行と言っても僕はいつも単独で旅行をしているようなものだ。

 あらゆる点において進歩しつつある大概の事柄も、世間から押しよせて来る知識のほんの

一つかみ程度にすぎない。どんな水準であろうとも、情報は常に発信者しか知らないものだ

。思い切った演出法のように僕がした、ある思惑も、・・・それまで秘密裏に、僕が暴いてもや

はり秘密裏に暗躍している理事長の思惑も、膚を蔽うほどの体毛というわけではない。

 「神崎くん、君はいつもすごいことをやってのけるよね、ひひ」

 廊下で、小学生かとわざ見間違えたくなる堂本くんに、そんなことを言われた。科学部に

入ると、大抵そんな風になる。ネクラでオタクで、UFO研究の第一人者であり、落研並に

お笑いに詳しい。――僕は多分、こういう人が一番、修学旅行を楽しむのだと信じて疑わな

い。馬鹿騒ぎしている奴は駄目だ。・・何でもそうだけれど、その場限りの興味のもので、後

で筋を考えてはつまらないことしか残っていない。でも、裏を見ている奴や、裏に染まって

いる奴というのは違う。端役でもエトランジェでも違う。

 そこでしか見られないものや、何かを、ちゃんとひとりで体験して帰っていく。

 ――人生ってみんなと同じじゃつまらない!

 でも、そう言いながら、僕はいつも誰とも違う孤独に染められていた。生徒の真ん中に

立っていても、子供らしい、無邪気な事を言っても、また親愛なる友達に親切なことを言っ

てのけても、また、さらに改まって晴れがましいことを言っても。・・

 「きっと、発明した道具に、殺されるような運命なのかも知れないな」

 ミーンミンミンミン。

 僕は精神的に滅んでも物質的に生きたという主眼が存在することを知っている。覚えてい

るし、何もかも知っている。

 ジジジ。――「あとで、お土産買いに行こうね」・・

 部屋には淋しさが残っている。抜け穴知らずの明るさを尊ぶこの国では、内省、というも

のや、胸に燃えてこその昏い情熱などというものが無視されてしまう。笑い飛ばせればいい

。それで。少し気楽になれればいい。こういう風潮に対する遊戯の中で将棋というものの、

まだ詰めることのできないあきたらなさが、僕の心を重くし続けている。

 ・・・感傷、だということはよくわかっていた。

 クラス中が修学旅行で沸いていて、おどけながら馬鹿をする気持ちもあるし――それは学

校生活そのものが、僕にとっての“演技”だったからだ。内的表情にリズミカルな身ぶりを

とり、目もくらみ耳も鈍くなっていきそうな生活と折り合う。

 僕は僕のことを、世界で一番正しいと思っていた。生身を抉ることでしか、躊躇いは生ま

れない。安全は認識であり、すなわち常識とは醜い賎民根性である。

 「もしさ、・・」

 僕等がほんの少しでも違う肌の色をして、髪の色をしていたら。――血液が青や、緑や、

黄色だったら。差別があって。そこから逃れるための宗教や思想があって。運命を切り開く

ための性格というものがあって。そしてそれが宿命的な人生から唯一逃れる手段だとして。

 僕は所詮、人類というものも・・この文化と呼ばわれているものも、――悲観論者や、厭世

論者にしか語れぬだろうと決めつけていた。すべてが因果応報で、・・蓋然率であり、それぞ

れ異なった時計を体内に抱え、それとは別のところでさらに大きな時計が回っている。

 そこでは犯罪が起こっている。それが本能や、――環境による暗示、もしかしたら自分自

身の弱さではない、ある何かに添って、・・添わされるということが、本人の意思を越えるも

のなら、――僕等は本当にただの傀儡人形になってしまうよ・・。

 パラドックスは遍在し、なお、狂念欲火を煽りたてる。

 ・・・空が薄暗くて、泣きそうになる。

 「傷つけること、奪うことなしに、人は生きてゆくことができないから・・」

 再三再四の押し問答。・・おぼえもあらぬ残り香の、さらに湧き立つ幻想曲。エゴ、それが

僕の神の名かも知れない。社会が間違っているわけじゃない。常にそこに心理学がある。で

も、僕はそれに納得しない。心理学がシステムを生んでも、領域を究めた結果、甘えという

のが始まる。本質的に、人が変わるために、・・よい大人になる為に、人生を暗くして、神の

領分を見なくてはいけない。あらゆる法を拒絶する勇気を持たなくてはいけない。

 ――怯懦と安慰が僕の内側に、蔓延ってゆく。社会に交ろうとする手段が、次第に、僕か

ら消えてゆく。気がつくと、僕は誰も愛せなくなっている。誰も嫌いではないのに、誰一人

として傍に人を置くことができないようになっている。

 もし僕の才能が世紀のカリスマであるとして、・・そんな滑稽なことはないだろう。ジャズ

に魅力を感じるように、空気や、雰囲気を僕はただ頽廃的なその感覚の中で愛しているにす

ぎない。でも才能というものは、――残念ながら、僕から、僕自身というのを常に奪ってい

く。潔癖なまでの生存意欲がそうさせるのか、無意識以上の孤独な明皙を発見できないから

なのか。・・


  × × ×


 色んなことを考えていると、自分がそれ以上になれる可能性と、常にそれ以下で社会が満

足することを僕は知っていた。何心もない、・・木々を揺らす音、刺す音、繰り返す営み。

 キリキリと、・・僕の手許に蜘蛛が幻の綾で、橋を架けた。代わる代わるの風、鮮烈な! 

それでいて怪奇さに相通ずる様々な連想に脈打つ。――顔を撫でる汗、菫のようにためらい

がちなうぶ毛のそよぎ。知らない町で嗅ぐ風に混じった雨は、いつでも、ハーヴのにおいの

するリラだ。表情の音色、綿が湿ったようなふくみ声だ。

 ・・・僕はまた眠る。布団をかむり、――広島のことを思い出している。水たまりを作る雨と

、いや・・法律・裁判・政治・習慣の上に、僕の野放図な、果てを知らない、万波の起伏。何

処へゆくのだろう、僕は――心が冷静になれば、掻き乱されない。心が冷静になってしまえ

ば、そんな妄想はお払い箱だ!と・・跡を絶ってしまう。でも雨は降り続ける――

 「・・悲しいことが、あると、」

 僕は、思い出した。世界は本当に美しくて、泣きそうなくらい言いたいことがあるんだっ

ていうことを。――どしゃ降りじゃない、風の強い音・・

 ああ、――海のさざなみの表情がリフレインしてくる。・・

 尊い儀式をする時のように、ある種のだるさ、面倒くささが、感動を――呼・・ぶ。

 鈍な、はずみの無い、心に詭計がみなぎっている、デイ・ドリーム・・。

 部屋に訪れたのは、シルエットを見いだすimageさ。・・


  × × ×


 目覚めは悪くない方だったけれど、・・声を揃えてゲラゲラ笑いこけるこたあない。時と場

合と、場所というものの前では、超低気圧前線みたいになる。

 ・・・僕は二つの段階を経て発展したと思う。アダム・スミスとしての、ニコリ。――次に、

マルクスとしての、ムキ。このまま突き進んで新しい階段を昇ると、ハイデッガーの、ヘン

。いやしかし、不可思議な示唆力というほかない、笑い声というのは、その時の僕があたか

も猫であるかのように耳につく。・・どころでなく、耳を澄ます。希美衣さんになりそうだ。

 「おい、おい、竜也・・」

 かくの如くにして消えてしまった、闇・・暗転――ダンボール箱、キャア猫踏んじゃった。

と馬鹿なことを考え続けていると、いきなり首根っこをつかまれた。

 諸君はきっとこの点に大きな疑問のまなざしを指し向けられることだろう。正しいと考え

る諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその

重要な帰結を明らかならしめるなら。・・

 「ちょっと待て、俺は猫じゃない」

 あの時、時計が止まって――

 そうだ、薬品壜が落ちて・・

 「それ、時を駆ける少女?」

 「違う、――トキと掛けているショウロンポウ」

 僕は、巧いこと言った、ああ巧いこと言い過ぎてしまった・・じゃあ、おやすみ、と寝る。

それはもう寝る。布団引っぺがされても寝る。頭が痛いから寝る。やる気が出ないから寝る

。女の子が傍にいたって寝る。

 「・・・女の子よ」

 「というか、竜也――説明しすぎなんだよ」

 秀一の声だ。・・しかし俺は寝る。

 「さっき、お土産買いに行こうって言ったでしょう」

 pi-ku
                つね
 なんのことだ。・・・頬っぺたを抓られ・・・

 ルぅだと! 浮び出るやと見む。・・

 ――ごく稀にしか悲鳴を発しない、オレは猫様。

 「竜也、・・・あなた、実は猫だったのね」

 「そうニャのだ、――不思議の国へ連れてしまうニャのだよ」

 「・・な、わけねえだろ、竜也!」

 ――鋭い突っ込みありがとう、秀一君。

 ふふ、と不敵な笑いをする僕。・・やだ、この人いつもと違うわ。それはそうだ、いつもと

違うのだから。/そのままね。/そのままだよ、ゆかり君。・・

 「・・・とりあえず、起きなよ」

 布団をひっぺがすと、僕はもちろん、パンツ一丁だった。みんなが竜也のヌードが見た

い、そろそろ脱いでおくべきだよ、と囁いたのだ。

 何の話だ、マネージャーから説得された話であり、雑誌から金一封に目が眩んだ話である

。――おい、竜也・・これは芸能界の話なのか?

 「やだ!」

 新鮮な反応だった。

 「僕はもちろん! ゆかりを襲った!」

 「俺はもちろん、竜也に襲いかかった」

 「もっとヤダ!」

 ボーイズラブでは常識だぜ、と言おうと思ったのに、ゆかりが自分の素の反応に笑い声を

あげると、僕と秀一も笑った。

 ・・・僕等は、腹を抱えて笑った。

 「寝ぼけてるんだ、」

 「・・・だからその陰険極まりない眼をしてるの」

 「違う、情に脆く人なつッこい性質とその半面の孤独のネコ様なのだニャー」

 ――まだやるのか、と秀一。

 そうよ、はじめからね。・・と。ボ・ク・ハ・ワ・ラ・ウ――

 「キャアー、なんてけがらわしい人なの!」

 「毛皮じゃないよ、猫ナノダニャー」

 「キャアー、オーソレミーヨの半分は恐れというよりはにかみである」

 「イエスアイアムという度に、ネコ化が進む病気である」

 ――時は2035年、DNAがいじくれる街。

 僕等は曠野の中で、一匹の猫に出会った。

 ハートアンドラブ、きっとあなたのしあわせがみつかります。絶賛ゴミバコ上映中。

 「映画の宣伝かよ!」

 「チガウヨ、ネコなのだニャー」

 「カールルイスより速い展開」

 「いっとくぜ、俺がカールルイスよりパンナコッタが好きなのだニャー」

 支離滅裂。揣摩臆測。展開不能。自由滑脱。

 扨て、その心は?

 「ネコニャのだよ、ふふ」

 ・・その瞬間、ゆかりと秀一の心がくだけてしまい、僕等は常識界を突破した。破裂寸前の

風船の向こう側に入口があった。さあ、おいで、気球に乗って上昇気流をつかむのだ!

 「おまえ、すげえよ、・・天使がいるぜ」

 「そうね、あなたは、天使だわ」

 もう読者のみんなもわかっているね・・?

 イエス、イェース、イェェェス!

 「そうだよぼくはネコなのだニャー」


  × × ×


 一体、きちんとした話にこぎつけるまでに、どれくらいの時間がかかったのだろうか。言

い終えて、ケロリとしている僕は、ふつうのキャラクター設定に戻った。

 ・・・秀一は髪をセットし、ゆかりは読者サービスのために胸をちょっと揉んでみた。

 「どういう話なんだ!」

 しょうがないのだ、――それぐらいお土産を買いに行きたくないのだから。

 「・・でも、連れてくわよ」

 友情を力にして!

 うるせえ黙れ、こっちは眠たいんだ。あれ、ところで秀一おまえ何しに来た。

 「いィッ! まごぉろ?」 

 「言葉を分けるな、今頃と言え。イマゴロ、イマゴロ、イイキンタマコロガシ」

 「フンコロガシみたいに言うな!」

 ・・・しょうがないのだ、お土産は大阪でポテトチップスを買って大分特産品と書くだけだか

ら。真兄なんかそれでいいのだ。その程度でいいのだ。――本当は別に、お土産なんていう

のはァ、キモチィダトオモウノデスヨ、キティみたいなァッ?

 「粘着質よせよ、キモい」

 「ふ、秀一! かかったな、俺はお前から・・キモの言葉を引き出すために言ったのだ。は

はは、子供の喧嘩を知らないのか、常識だぜ、鉄則だぞ! ――お前がキモいのだ」

 座が、ようやく、しーんとしてくれた。

 僕は、咳払いして言った。

 「秀一さ、アルマジロって美味しいと思うか・・」
           、、、、、、、、
 途端に、会話はすろおもおしょんになる。

 「ジロってあたりが、不味そうだよな」

 鋭い意見である。――俺も応じた。

 「あるまあに、と語感が似ているしな」

 回収できないボケを、僕等は持て余していた・・ある日、粗大ゴミの日に捨てた。棄てると

、河童が僕の家へとやって来た。ツヅク!

 「つづかないわよ!」

 「じゃあ、To Be Continued」

 「じゃあ、って何よ、じゃあって」

 ちっ、と舌打ちした。

 「ゆかり、貴様いったい何年大阪人をやっとるんジャー」

 「そんなのもちろん炊飯ジャーよ」

 ゆかり、それはいけない。

 ぷるる・・う、ブルルウ、う、寒い。なんて、寒いんだ、おい秀一火にあたるがよいぞ。お

お、かわいそうなペンギンよ。

 「うるさいわね!」

 ・・・はいはい、とりあえずアンタ来なさいよ/いやちょっと待って、ゆかりおかあたま、児

童虐待の問題がのこたれておりまする/りゅうや、はやく服を着な/ゆかりおかあたま、こわ

いデスノ・・ですの、ですの、ふははあ、デスノオォォォト!

 「もちろん、コマーシャルのあと!」



  × × ×


 ――僕は乾ききった、渇ききった、咽喉で言った。

 「なぁ、秀一、俺達何をしてるんだろうな」

 「タバコ。」

 灰が、僕の膝に落ちたのだ。ぱたんぱたん、とはたく。

 「・・・でも、いいんじゃねえの、ゆかりちゃんがお土産を買うって言ってるんだし」

 「ゆかりさん、だろ――ザマはねえよ」

 よっ、プレイボーイ!

 「そういう竜也も、ゆかりちゃんをちっとも怒れないみたいじゃない。目が合うだけで瞬

殺。トランクスの似合う、竜也」

 よっ、不良番長!

 ・・わかりにくいけれど、僕等は慰め合っているのだ。ふつうだったら、隠れてコソコソ煙

草を吸ったりしない。秀一はともかく、――僕がどうして隠れなければいけないのだ。

 ・・けれど、ゆかりの修学旅行をぶち壊したくないな、という気持ちが少なからずあった。

多分、その程度の理由なのだ。スーヴェニーア・ショップなんて。

 「狂想的な旋律だよな」

 「あ。竜也。散文的な表現。」

 「いや、本当にさ、女の声ってすごいよなア。・・なんかこう、男ってカッコつけるわけじ

ゃないけど、言葉がこもるだろ。いわば、陰旋律なんだよ。でも、女は見て見てって感じで

、開放弦なんだよな。――いやもちろん、すべての女がそうだってわけじゃないぜ」

 「もちろん、・・・わかるよ」

 僕はビールのタブをカシュッと開けた。ごくごく、と飲む。

 何処から出した、とか言ってはいけない。僕の鞄の中に、偶然、紛れ込んでいたのだ。

 「まあ、お前も飲め」

 「うん、」

 マスターがいたら、あるいは僕等の街だったらこういうことはあり得ないけれど、・・こと

、見知らぬ町へ来ると、上下関係というのがハッキリ出る。僕が兄貴分で、秀一が弟分なの

だ。もちろん、親友であることに変わりはない。

 そのせいか、いつもはしない会話がスルッと咽喉から出てくる。

 「なんか、・・うまく言えないんだけどな、女の会話って、全速力で飛び出せば無理にのれ

ないこともない、って感じがするんだよな。ほら古典的なラブストーリーみたいにさ。待た

される男から、走る男へって言うか」

 「確かに・・テンポは」

 「それで、ほんの数秒くらい躊躇してる間に、発車しまーす、プシュウッ、パシャン、で

扉が閉まる。プラットフォームに取り残される。でもその時になって、待ってくれ、という

気持ちになる。ァァァア、電車が!」

 「タイミングなのかな、」

 「多分な、――遠ざかって行く電車に併走する。これはもう北の国からだ。さだまさしだ

。そういうシーンがあるかは知らないが、・・未練がいっぱいだ」

 「未練歌ァ!」

 「やめろよ、」

 ・・・僕は煙草の先端を地面に押し付けた。そして、吸殻を揉む。

 「深夜のビデオショップみたいな悲しい気持ちになるじゃないか」

 
  × × ×


 ――ところでさ。

 ――うん?

 ――お前、どうして、ゆかりが好きなんだ。

 ――(十秒ほど、沈黙。)・・いい女だからだよ。

 ――だよな。

 ――竜也は、どうして姉ちゃんにしないの?

 ――それ、真面目に聞いてるんだよな。

 ――うん。

 ――(下唇を噛む。)正直、よくわからん・・

 ――うん。

 ――希美衣さんは好きだ。・・たぶん、俺がそう想ってることは、希美衣さんも知ってる。

    恋愛感情じゃない。でも、本当に好きだ。

 ――(少し笑う。)アダルトな会話だ。

 ――本当言うと、ドキドキすることもある。この人だったらいいんじゃないかな、と思っ

    たことも正直に言うとある。・・でも、そういうのは、口にしない。口にしても希美

    衣さんは軽蔑しない。でも、俺は嫌だ。きっと、・・・いつか、“利用”するようにな

    る。

 ――うん。・・でも姉ちゃんは、

 ――うん、わかってる。だから、こわい、・・俺もこの頃、本当に気付いた。希美衣さん、

    絶対に本気だ。

 ――というか、竜が気づかないのがむしろ不思議だよ。

 ――(首を傾げ、一分ほど沈黙する。)そんな単純なもんじゃないだろ、昨日今日の付き

    合いじゃないし、好きだ、ふられた、付き合って、なんていうわけにはいかないよ

    。それが希美衣さんは、全部イエスだ。・・

 ――破滅的な恋に惹かれる人間もいる。

 ――確かに、惹かれる。・・

 ――竜はさ、真面目すぎるんだよ。・・みんな、軽い。頭クルクルパアなんだ。一度お試し

    で付き合ってさ、品定めしてみたらいいんだよ。

 ――(じいっと、秀一を見る。)で、・・その間にお前はゆかりを口説くのか?

 ――何にもしないよ。

 ――いやだってお前・・遠慮すんなよ、俺に。しかも・・・

 ――いや、じゃなくて、・・俺、さっき、実はゆかりちゃんにふられちゃったんだよね。

 ――は?

 ――いやあ、・・笑った、笑った、エキサイティングした。本当に参るよ、ゆかりちゃん、

    次から次に、俺に駄目だしするからさ。

 ――(ちょっと、想像してみる。)ウーン、・・まあ、失恋おめでとう。

 ――ほっとした?

 ――(首に腕を巻き付ける。)俺達は友達だ。

 ――正直、ぜんぜん悲しくないんだ。面白くないだろ、真面目に告白したのなんか初めて

    だし、・・でも、まあそんなもんだよなあ。

 ――(目を、大きく広げる。)どうして、俺の顔を見るんだよ。

 ――竜、ゆかりちゃん・・好きだろ?

 ――おいおい、・・俺にカマをかけるなよ。

 ――違うって。・・目つきが全然違う。

 ――(目を閉じる。)見えるか?

 ――(ため息をつきながら、)でも、・・姉ちゃんのことは、ひとつ頼むよ。親友として

    じゃなく、弟として。・・あの人はさ、夢を見たいんだよ。・・・ゆかりちゃんはさ、そ

    ういうことも知ってるけど、あの人の場合、それで人生傾いちゃうから。脅しとか

    じゃなくて、あれは本当にすごい迷惑な女だと思う。・・姉ちゃんだし、いいところ

    もいっぱい知ってるし、こと、竜との相性も知ってる。でも、本質は、それがな

    かったらどうにかなってしまう、・・弱い人間なんだ。

 ――(煙草に火を点ける。)知ってる。

 ――ゆかりちゃんよりも、姉ちゃんがいいと思う時だってあるだろ? ・・それはさ、待っ

    てるからなんだよ。雨の日のバス停で傘を差してずっと待ってる。竜がいま、いの

    一番で駆けつけてくれる。

 ――なんだか、おまえ、俺を説得してるみたいだな・・。

 ――柄じゃないよな。

 ――いや、あんな素敵な姉さんがいて羨ましいよ。

 ――ジョークじゃなくて?

 ――ジョークじゃなく。・・世の中ってうすっぺらけりゃあいいのになあ・・買い物して、長

    電話して、ばかみたいなおしゃべりをして、・・別に誰も好きにならなくてそれでよ

    くて、別に誰かを嫌いにもならなかったら、楽だよなあ。

 ――竜也的苦悩。

 ――何だよ、それ。

 ――でも、俺もそう思うよ・・やっぱりふられて、気が楽だっていうのは、竜にずっと引け

    目を感じてたからなんだろうな。・・アア、クソウ、真剣だったんだ。

 ――うん。

 ――でも、確かに張り合う相手が違う、とは思ってた。

 ――ゆかりが?

 ――うん、・・だ、だからって愚痴とかじゃないぜ、別に全然気にしてない。・・むしろ、そ

    の通りだとは思ってた。たぶん、俺は竜が羨ましかったんだよ。

 ――うん。・・

 ――ゆかりちゃんはさ、天使なんだよな・・すごい優しいオーラを振りまいてる。姉ちゃん

    も、竜の前ではするけど、ゆかりちゃんは、みんなに振りまいてる。竜がいつかは

    好きになるだろうな、とは思ってた。・・東京旅行の時だって、もうこの二人なんで

    付き合わないのか、とは思ってた。

 ――火と水だからかな、・・うん、・・・きっと、そうだよ。

 ――(軽口を叩くように、)でも、卒業前までには、ちゃんとね。

 ――離れ離れになるからな。

 ――でも、・・まだ先の話だよ。

 ――秀一は特待生で行くんだろ?

 ――強豪校に行くか・・それとも、ふられたのをバネに、単身、海外へ留学!

 ――す、するのか?

 ――(少し淋しそうな顔を浮かべ、)わかんないよ、・・人生が紙の上だったら、スタート

    まで戻れるから気楽だけど・・・一度、選んだら、引き返せなくなるようなこともある

    し・・、もちろん、降りられないこともある。

 ――でもさ、お前はあんまり賢くないよな。

 ――知ってるって! 

 ――いや、そうじゃなくて・・俺に憧れるなんてお前、本当にどうかしてるよ。俺がお前に

    憧れないわけないじゃないか。毎日楽しく生きていて、・・もちろんそれほど気楽じ

    ゃないのも知ってるけど、・・本当にそう思うよ。

 ――なんだよ、急に、褒め殺し?

 ――ばかたれ、フォローを入れてんだよ。・・俺なんか、自分を好きにならない女ばっかり

    好きになる境遇の男だぞ。

 ――竜は嘘つきだなあ、むしろ、好きにならないのを楽しんでたくせに・・。

 ――(ゆっくりと、ため息をついた。)いい夜だよな。

 ――うん、やっぱり夜はいいもんだよ。



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