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灯台

MY LIFE 22

  × × ×

 なかざわあい
 中沢愛という女性が住んでいるアパートまでやってきた時、・・僕等はコンビニで買ったパ

ンを食べていた。時刻は七時前。張り込みの探偵だか警察気取りである。

 近くに公園があったので、・・いまかいまかと、踏みこみを待ってる。

 もちろん、僕等に捜査令状なんていうものがあるわけもない。

 「――ワクワクするね、」

 ゆかりは、僕の不測の禍害のもたらさるべきであろうことを知らず、偶然の出来事から、

依頼されたつもりでいる。そんなのは建前で、こんなのは偵察なんだ。自分が傷つかないた

めの狡猾な行為なんだ。ゆかりは右手にくしゃくしゃになった紙切れを握っている。

 ・・僕は地図を持ち、きんちゃく袋をポケットにしまっている。

 そして、僕はゆかりに言った。

 「電車代以外は、遣おうな」

 というか、もう電車代すら残さずに遣ってしまおう。天罰だ。みだりに行為の原因を追求

しようする風な物の見方をするから、他人が迷惑する。そして夕方にやってきた山崎先生に

、電車代をさらにせがもう。・・僕は多分、心底を腹を立てていたのだと思う。

 ――もしかしたらそれは、ゆかりに無視された経験が尾を引いているのかも知れない。

 「やめとこうよ。・・そんな、目の敵にしてあげなくても――」

 たぶん山崎先生がいないせいだろう、ぽろっと、本音がこぼれ出た。

 「そりゃ、馬鹿なことをしているなっていうのはわかってるのよ。・・修学旅行に来て、ち

っとも、修学旅行らしくないことばっかりやってるもんね」

 「いやまあ、修める学問というなら――人生経験にはなるけどな」

 「皮肉ね」

 「もちろん」

 ゆかりは、首を振ってため息をついた。

 「・・・でも、人間の営みって不思議よね。昨日までは大阪にいたのに、大分県にいる。それ

どころか、まったく予定されていないルートを、正しい軌道として、それに即して動いてい

る。人生っていうものがまるで広がったような気がする」

 すごく好意的な見方だ・・その気持ち、わからないわけじゃない。ときには、百年後、客観

的な情熱の把握ができるようになるかも知れない。無言の優しさを認めることで、いま、こ

の状況を楽しもうとしているのだ。

 なんだか、むきになっている僕が馬鹿みたいだった。

 「・・・本当に、うまくいくといいよな」

 「皮肉じゃなくて?」

 「もちろん、心の底から遣る瀬無くてさ・・」と一度、言葉を区切った。「――先生はたぶ

んさ、そろそろ結婚したくなってるんだよ。恋人を探すことで、・・教師という仕事を全うす

ることで、色んなものを押しとどめてきたんだ。けど、山崎先生のJOKERは見つかった

。それで、いまでもやっぱり大学時代の混乱が続いていて、――」

 「そんなに、山崎先生を分析して、・・面白い?」

 その時、僕は説明の出来ない、ある感じがすることに気が付いた。

 「いや、多分違うんだよ。明確な認識が交ってる――極めて微妙な感覚で理解してる。殆

ど感触せられない、隠微・・魔法の利いたように」

 「つまり?」

 「つまり・・この状況がさ、ひどく苛立たしいのかも知れない。――山崎先生に腹を立てて

いる気持ちとかを別にして・・なんか、子供っぽい感傷だけど、聞くか?」

 「うん、・・言って?」

 「いや、もしかしたら運命の恋人を見付けるのってこういうことなのかなあって・・ガリレ

オや、ニュートンの名前を見つけるようには、――うまく、見つからない人がいるんだろう

なって。寿命が来れば、死ぬわけだけど、相変わらず、・・会えない人のことを思ったりする

んだろうなって。後悔があるってことを、――うまく言えないんだけど感じてるっていうか

、自分に課せられる仕事や、それとは別に生きてゆくための娯楽・・人それぞれ違うんだろう

けど、すごく感じるよ。山崎先生がこの状況に戸惑っていて、その戸惑いが、俺にある感情

を呼び起こさせる――恋・・なんだろうな」

 「そうね、――うん、人生の秘密を、もしそう呼ぶなら」

 ・・でもたぶん、ゆかり、僕は違うんだよ。さっき、僕はこれまで友達以上であったある人

物を、この手で抹殺してしまった。友達にも恋をする。――そういうのが、動物の眼と入れ

替るように不思議なスウィッチ・ボタンで起動する。ふうわりと甘い愛情ゆたかな、綺麗な

物語の奥底にひそんでいる、エゴや、どうしようもない種類の絶望を。・・

 「すごく投げやりになるけど、レンズは光を集めるんだ」

 ――ゆかりは、何も言わなかった。

 でも、ひそかに悲壮の感に打たれている。

 「・・・ずっと、迷ってたんだろうな――」

 なにか、取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、急に胸が苦しくなった

。動悸が激しくなる。あの晴れやかな顔と引き換えにして、僕は一つの恋とでも呼べるべき

ものを失ったのだ。つき合ったりする、どんな人より、一まわり、二まわりの大きさを感じ

させてくれる人を。・・泣きそうになった。すべてを忘れるように、あらゆるものを超越し、

身の苦悩すらものともしなかった男が苦笑を洩らしている・・・たとえば、在りし日の僕の写真

のようにうつっている。でもゆかりはそんなことは知らない。

 ただわけもなく、悲しくなっただけだから、・・涙が流れないまま、顔が蒼褪めるのも。

 急激に、どんどん変化している時代を過渡期というなら――いまこうやって息詰まること

を、その前触れというのだろうか。・・幸せになりたい。・・いや、どうしても幸せにしたい人

が目の前にいる。でもカメラが壊れたように、ぶれていく。――ぼかされてしまう・・

 よほどのあやまちも、気がつかずに見逃してしまう。

 でもそれはたぶん、僕があまりにも理性的な人間であるからだ。嫌なことを我慢する大人

だからだ。・・秀一や、秀一の声をつたっておりてくる、どうでもいい人達。その顔を見るた

びに撲りつけてやりたい連中。雨や雪と共に、人間の喜怒哀楽も歴史も、葬り去ってしまい

たくなる連中。――ねえ、どうして・・どうしてなの、僕はすごく混乱している。

 何かざわめいたと思うと、風が走った。

 ポツリ、ポツリ話し出す言葉のように――最後の最後で、僕は堪えた。

 自分の顔が変な顔をしていないように、やっぱり、これ以上傷付かないように・・。


  × × ×


 山崎先生の恋人の家は、電車通りにあった。【大分アパート】という分かりやすい名前で

、公園がすぐ傍にあり、近くには・・・と言いつつ、結構歩かなければならないかも知れないが

スーパーや、フィットネスクラブ、カラオケ、商店街らしきものもある。

 おおいたあぱあと、おおいたあぱあと・・。

 ――読み返しては花瓶が不愉快で堪らなくなって、叩き割りたくなるような気持ちだった

のだが、・・・メモの字体もくずれており、感情に迂路を取らぬ直截性を持っているかも知れな

い、――こと、今のこの状況では、壁に甲走ったとしか思えない、数条の深い頽廃した皺が

、有機的生命のアナロジーに依って考察すると・・地震どころではなく、欠陥住宅、さらには

【悪霊に憑かれたアパート】ということになり、僕は山村美紗が京都を血腥い町に変えたこ

とを、ロンドンを推理の匂いのする霧にかえてしまったコナン・ドイルのことを・・

 「(僕は多分、人生に疲れているのだ)」

 このアパートの止宿人の一人である中沢愛という女性に、僕とゆかりは会いにきたのだ。


  × × ×


 一度ぼんやりしたところを覗いてしまうと、いつまでもしぼむことなく、ながく開きつづ

けてゆくような、・・沼のメタンの花、という気がする・・。

 
  × × ×


 ○月○日六月――大分アパートの部屋の中で、何者かによって殺害されていたことが明ら

かになった。ついでに言っておくきわめて不安定な、どうなるかと危ぶまれるような時間を

僕等は過ごした。彼女を殺したのは俺ダアアアアアアア!


  × × ×


 ピーンポーン、とインターフォンを僕は押した。

 「はい」

 あなたは高くのびやかなソプラノの声・・綺麗な、はなやかな――派手な模樣。断続的な圧

力変動・・。午前七時。(成る)(生ずる)ということか――。

 「山崎の代理の者なんですが・・」

 はァ、と一瞬相手がため息をする。受話器を両手で押し包むような呼吸が広がる・・ストー

カー的分析。そうかと思うと二三箇所はゆうに聞きとれない言葉。――方言か。それとも、

慌てているのか。

 ぱしゃッと水音がする――朝からシャワーか・・。

 横でゆかりが、インターフォンの前に出ようとしている。

 「ズルイよぉー、あたしが話をしたかったのに、

 ――話をしてどうする、と僕は思った。
         やまざきまさとし
 「もしかして、山崎正利さんの代理の方ですか?」

 途端、僕は実態のない声と話をしているような気分にさせられた。誰だそりゃ、と眉間に

当社比三十五パーセント。この意識のはたらきを純粋に記述する・・その瞬間、いわゆる閑話

休題、・・たわけめ! ――となった。そんな奴の名前知らない、そんな奴の名前知らない。

歌のようにするりと脱皮する。蜥蜴が蛇になってしまう。眼はいつもこういう時、細い花茎

の栄養がいかなくなったように停る。自分の口はそんな奴の名前知らないと喋りたい。でも

、隣から“合ってる”という魔法の声がする。

 ・・・美しい、ゆかりお嬢さん! ――犯すぞアマア! しゃしゃり出てんじゃねえ。

 今朝の僕はワイルドだった。

 「・・はい、――そうです」

 なるべく、ゆっくりと言った。

 数十秒後、何の前触れもなくドアの鍵が開く音がした――もしかしたら、呼吸を整えてい

たのかも知れない。それくらいそこには取り繕われた様子があった。年齢は二十九歳のはず

だ、それにしても、・・・何故だ! 何故、彼女はこんなにも美しい。

 
  × × ×


 ステンレスシャッター/コンドアの岩絵のように猫が。


  × × ×


 僕はうぬぼれが強い女なんて嫌いだ。――茨木のり子じゃないけど、・・僕等は、もちろん

芸能人、たとえば特定のアイドル、女優、そういうものを根本から勘違いしている社会の名

の下で成立する、集団幻想のように好きになっているにすぎない。フェロモン、シンクロ効

果、・・前世体験もあるかも知れない。――たとえば一目ぼれと言いながら自分自身の単純さ

に愛想をつかす女もいれば、いままで散々すごい扱いをしてきた女が本当に好きだったと気

付いてあたふたしてしまう例もあれば・・いつのまにか修学旅行で二度もキスしてしまう女な

んかもいる。――神崎竜也的恋愛の考察。

 しかし、自分はどこか変じゃない? など・・こちらから聞けない。

 眼の前にいるのは、おおよそ、突飛なくらい綺麗な女性だ。

 たとえば、眼の前に見える湖の下にあったものが、景もまさかと浮上してきて、アトラン

ティス城塞都市・・それが一大ソー プランドであったという驚きがそこにあった。
 
 ・・どういう喩えだ。

 「いや、わかるのは、・・ゆかりにキスしたいってこと」

 大胆ね、そうだよもちろん、ストーリー無視だからね。僕はもちろん、ゆかりの瞳を見て

最初に犯してしまった。男というのは瞳でレ イプするものだ、と東野圭吾の小説【放課後

】で勉強してしまった。

 「り・ゅ・う・や」

 その時、ゆかりの瞳はハートマーク型。・・恋愛ものでは基本的に妄想として処理される。

でも僕は欲望のようにストーカーした。僕はもちろん、読者サービスのために制服をカウン

ターパンチのように破った。ゆかり、緊張して言葉が出てこない。口をつけると噎せかえり

そうな日本酒のせいだった。口説こうとすれば、下品な問い掛けになる。でも仕方無いのだ

、読者サービスを望んでいると勘違いしている“あだち充”の漫画が好きだから。・・あんな

のはお約束で、きわどいシモネタを繰返すようなものだ。・・でも十代の僕等はその懐の広さ

に、そろそろ自分たちも、ってひと夏の甘い体温の誘惑に溺れた――妖艶な笑み、現代に現

われたクレオパトラや楊貴妃や小野小町にバナナになった自分たちの野卑を感じた。暴れん

坊将軍なドリル工事の必要性を論じた。只管に、リクエストに応えられるように夜な夜な放
                    オス
送禁止ビデオを観続けた! 我々は牡だ!

 ・・・童 貞判別法を果てしなく恐れた!

 (我々はまぎれもなく、純粋な“怯え”を知っていたことになる。)

 それはソクラテス先生のいうところの、――関係あるのか、それ! ・・黙らっしゃい、頭

の悪い男は死になさい。“単に生きるのではなく、善く生きる”という言葉に果てしなく賛

同した。僕等はもちろん思春期から女性の身体を舐めまわすところの透視能力者になる。

 ――ああ神崎先生! 神崎先生・・!

 ――おお、可愛い犯罪者な君たち、ストーカーをしてはいけないよ。警察を困らせてはい

けないよ。一番大切なことは、恋をしたければ整形手術をすることなんだ。そして、それで

女に絶望することだよ。・・君たち、純粋な男の子達は、バレンタインやクリスマスに興味も

ないのに、恋愛シミュレーションゲームに洗脳されてしまった。漫画や雑誌に踊るハラワタ

してしまった。

 ――神崎先生バンザァイ! バンザァーイ!

 ――まず、僕等は女に、てめえブスから始めなくてはいけない。平手打ちを喰らい、複雑

な恋愛的屈折心理を理解しなくてはいけない。犯罪に手を染める前に、外国逃亡をはからな

くてはいけない。世の中にはエイズなんていうこわいこともある。それがどうだ、僕等は、

世界中の女をいまだかつて相手にしたことがあっただろうか! ・・そうなのだ、君が幸せに

なれる場所は、もしかしたら、違う国にあるかも知れない。もしかしたら、異次元の世界に

あるかも知れない――そのために、まず、僕等は研究を始めなくてはいけない。欲望とは、

常に克服できるものである。人類とは常に闘うものである!

 ――神崎先生最高ダァ!

 ・・・いや、口から出まかせなんだけどさ(笑)


   × × ×


 ハイダ・グワイの魂が踊っている。

 ハイタ・クワナイ・カンベンシテクレいは踊らない。



   × × ×


 いま、中沢さんはお茶を淹れてくれている。

 「・・・なぁ、ゆかり、同姓同名の別人って可能性とか、ストーカーとか、俺ちょっと考えて

いるんだけどさ、――あるいは、外国であるのをいいことに、・・」

 こらこら、妬かないの、というようなシーンなのに、――ゆかりが、すごく真面目な顔を

していて、・・僕はゆかりがこれだけ美人じゃなかったら、きっと、石鹸の匂いが残っていた

とか、文学青年が見せる羞かみ・・いわゆる、年上の素敵な女性に、あんな男よくない、もっ

といい人がいるんだ、というような気持ちを感じたと思う。

 ――なんだか、本当に・・世界が揺らいでいた。 

 お盆に載せて運んでくる。・・その清楚な様子が、余計に僕をこんがらがらせる。――有り

得ない、あの時どうして山崎先生を右のストレートを決めておかなかったのか、とふと思う

くらいにいい女だった。イギリス人が見ても一目でわかるいい女だ。

 ・・・もちろん、オノヨーコとか、いうつもりで思ってみただけである。

 湯呑茶碗を、テーブルに差し出しながら、中沢さんは僕に訊ねた。

 「・・あの、正利さんは今何処にいらっしゃるんですか?」

 まさとしさん。

 ――うーん、これは脈ありだな、と僕は思った。

 アイツ死刑だ、と僕は、・・この時、本当にそう想った。

 (しかしそういう、心などまったく表面上には出さないで、)

 「いま、大分県に来ています」と僕は告げた。


  × × ×


 その瞬間、この人は泣いた。

 ・・・ポエムのように泣いた。

 燃えるような真っ赤な顔をして――

 

  × × ×


 「もしよかったら、・・理由というのを話していただけませんか?」

 僕が驚いたのは、涙ではない。・・僕が驚いたのは、この澄んでいる水面から、深い水底を

見下すように、――中沢さんが、影のように思えたからだ。

 ・・月光なんだ。

 神秘の雪の中の夜。

 汚い溝のほとりが埋まっていることに驚いた。

 あの夕方――僕はゆかりを見た。

 ・・・どうしてか、十枚目から十一枚目の原稿用紙を書けないような気分になった。

 ありありと、目に沁みついている、――少女だ。

 「はい、」

 不思議な感覚だった。

 間の抜けたような涙声、・・鼻声なのに、それがまったく別人のものとして、別の場面を再

現するもののようにして、客観的に見つめることが出来た。背伸びしていたあの頃のことが

、闇夜の間に運ばれる。――やっぱり幾らか火照っているのだと思う。

 「わたしは、・・」

 ――神崎クン

 くすぐったい響きだ。

 柔らかな調子で、ふわりと包んでくれる・・。

 ゆかりだ・・どうしていま、そのことを思い出すのだろう。

 「――正利さんが帰ってから、・・失意の中で暮らしました。外国生活であることもそうだ

ったし、――華やかな夢に憧れて、暮らしてみたものの、・・」

 ぽつぽつとした調子だ。

 「正利さんから連絡はなく――そうかといって、連絡先もわたしにはわからず・・気がつく

と、あの日・・実家から連絡があって――」

 もっとも、何でもないような、ごく冷静な態度を強いて装って。

 ・・一体、僕は誰と話をしているのだろう?

 「――母親の他界の報せでした・・着のみ着のままで、実家へ駆けつけると――いままで、

我儘をしてきた自分がすごく恥ずかしくなって――ブロードウェイに出たい・・ダンサーにな

りたい――エンターテイナーになりたい・・そういう子供っぽい夢を、一番理解してくれた母

の死が胸にこたえまし――た・・」

 ゆかり。

 ――あの時、僕は気付いていたんだ。

 ・・あれは恋だ。

 「悲しみが深いせいだったのかも知れません――自殺を計ったり・・酒に溺れたり――気が

つくと、もう実家から離れて、・・こんな所にまで来てしまった」

 色々と慰めて、漸く安心させて――。

 眠りの深さのように、“雪”がはじめて頭に浮んで來る。

 気がつくと、影のように、・・心が凍っている、少女がそれのように思えて。

 屏風に映った不吉な影のように、――中々消えなかった。

 ・・僕は中沢さんの話を聞きながら、“アイツ”が掛けた呪いだと僕は気付いた。

 どうして、ゆかりに恋をしなかったのか、・・目のあいて来る、氷りつくような暗闇の中で

、いまはっきりとその気配を感じた。

 ・・・僕はその瞬間、ひどく混乱した。

 「――いまでも、正利さんがすごく好きです・・でも、とても、言えない――彼はきっと、

わたしのことを探していると・・気付いていたから――」

 身体中が緊張して息苦しくなって来る・・。

 僕は、一体何処までが仕組まれたものだったのかと思った。――天井を意識した。

 でもそこには、もう“光の少年の気配”はない・・。

 ひとつの新しい発生的方法を考えるように、骨の節々の挫けるような、疼き・・手が触った

り足が触ったりしている。――僕はその時、ゆかりにどうしても言えない、ある秘密を抱え

た。どうして、これまでそのことを考えなかったのだろう。

 ・・呪いが解けた。

 絶えずめぐり来る統一。

 ――そして。一瞬のためらい。
            、、、、
 「話すべきですよ、ちゃんと」

 ・・・それがすぐに、逃げ口上になる。

 「コーヒーいりませんか?」

 中沢さんは化粧をして、スーツを着て、・・どう控え目に見ても、仕事に行く格好のように

見えた。時刻は八時になろうとしている。

 「――あなたも、・・いい大人なんだから、話すべきですよ。――僕は夕方に彼をここに呼

びます。あなたは・・そしてもう逃げてはいけない」

 ・・・僕は一体誰だ?

 同じ言葉を、同じタイミングで・・僕自身に。

 「――彼は許してくれるでしょうか?」

 「・・・知りません。知っていたとしても、それはあなたの責任です。あなたの感傷にいちい

ち付き合っていられません。――だって、あなたは今でも彼が好きだと言った。なら、伝え

るべきだ。許す、許さないは知りません。・・あなたは引き摺っている。あなたは過去から逃

げたんです。いつまでも過去は追い掛けてくる。・・それはあなたのいうところの、母親でも

、彼でもない。夢でもないはずです――あなた自身が、作った幻想です・・」

 そうだ――僕はいつも、僕の中に“光の少年”がいるように思って過ごした。

 ・・歳月が教えてくれる。

 そしてその中で、違う答えが生まれてくる。

 ・・・僕は一体、誰だ?

 「――離れたくない・・ずっとそう思っていました・・離したくない――こわかったんです、

わたしは・・彼がこわかった。いつのまにか、彼も、母親も――この世界も自分にはうまく認

められなくなって、・・心をほっぽり出してしまった」

 「中沢さん、会う資格とか、・・許すとか許される資格とか――誰にもありません。僕等は

初めから色んなことをある程度決定して、その中で自由意思を持ち、・・本当の自分を探して

旅をする。言いようのない畏しさがそこにある。――認めることです。自己嫌悪の悪習は断

ちきることです。・・あなたは人と人とのつながりを軽んじている。だからあなたは逃げなけ

ればいけなかった。――いやそれは、山崎さんも同じことだ。あなたを探しながら、あなた

ではないあなたを見続けた。・・もう一度、会うことを勧めます。僕はあなたではないし、残

念ながら、山崎さんの味方でもない。ひどく中立の立場で喋っている。あなたは、もう一度

、彼と会うべきだ――」

 話は途切れている。そこに、中沢さんの泣き声が聞こえてくる。

 僕は何故、中沢さんを責めるのか・・何故、過去の一場面を思い出すのか。

 再生――過去は何度でも僕等のもとへやって来る。

 でもひとつだけ確かなことは、僕等は少しだけ、大人になる。居心地の悪い空間の中でさ

え、大人になって、違う見方が出来るようになる。 

 ――ゆかりは、僕の肩を叩く。

 たぶん、僕が中沢さんの抱えていた、心の悩みから救い出したように見えたからだろう。

いや、違うんだよ。ゆかり、・・彼女はキッカケを求めていたにすぎない。

 でも、言えなかった――何を思っているのだ。

 けれど、・・いつかは話さなければいけないことかも知れない。

 ――秘密が出来る。嘘が出来る。

 話さないために起こる、過ちが起きるかも知れない。

 それでも、窓からは子供たちの笑い声が聞こえてくる。通学だ。・・たまに、こんなことを

考える。もし、僕等が純粋なままだったら、もしこの世界に、“考える”という能力がなか

ったら――人はもしかしたら、争うことも、傷つけ合うこともなかったのかも知れない、と

。そしてその度に、僕の胸は深く痛む。
          、、、、、、、、
 ・・・それはもう、始まっているから。


  × × ×


 アパートの鍵をじゃらっと携ちながら、中沢さんはバッグを胸の所で抱える。

 粗大ゴミが似合いそうな大根足の・・近所の人達が彼等を見る――ドア前で。五十代くらい

の割烹着姿の女がじろじろと見ながら、おはようさん、と言いながら通り過ぎていく。どこ

からどうみても給食のおばさんだ。

 中沢さんの玄関脇にある、・・おそらくキッチンの小窓には少し亀裂がはいっている。その

片隅で、わずかに水の滴りが流れている。

 中沢さんの瞳を覗き込む。竜也の目が、中沢さんの心の中を読もうとしているのが分か

る。草花が目に入った。キンセンカに、キンレンカに、ベゴニア。

 施錠する音が聞こえる。・・歩き出した。・・揺れている、鍵とキーホルダーの音。

 胸に浮んで来たように、下り坂になった。・・階段、降りながら、――ギチギチ、という鳥

の声がする。棚や箱がある、・・地階に駐車場がある。片隅にバイクや自転車のスペースがあ
  クレセンドオ
る。漸次昇音・・違う、自転車のアップハンドルから――。

 「とりあえず、ここで」

 竜也はぺこりと頭を下げる、隣のゆかりも、それに習って会釈する。・・

 顔立はやつれていて、羊のようなやさしい顔をした、中沢さんもゆっくりと頭を下げる。

 ・・知的な手くだと理論的な幼稚性とがたがいに絡み合っている、挨拶。

 「それでは、夕方に・・」

 駐車場の方へと向かった。・・脚下に遙か遠く、駅を想像する――そこから北へと向かって

竜也とゆかりは歩き始める。木立ち。夏落葉。・・少しも分からない、囁く声の優しい響き。

靴音。――風鈴が鳴っている。二三枚の夕刊が散らばっている。子供か、それとも動物か、

蜜柑の表面がえぐれて落ちている。

 カーテンを開けている学校が見える。一階、・・鉛筆の音が微かに響いてきたらいいのに、

と竜也は思う。何故か、右手で左手の人さし指に、ハンカチの端を巻いたり解いたりしてい

る女の子のことを想像した。

 「一応言っとくんだけどさ、・・俺、中沢さんに好感を抱いたよ」

 「知ってる」

 靴を脱いで、裸足で草の上を歩いている小さな女の子の姿が見えた。

 後ろに、母親らしき姿があった。二人は下がる。・・少し距離を取る。

 「・・だって、竜也は初対面で説教口調になったりしないでしょ?」

 象が退屈そうに大きな鼻をぶらぶら振るように、手を前後に振る。

 「でも、中沢さんってカッコいいよなあ、」

 ――竜也の立っているのは、半ば朽ちかけた、家の物干し場の前の道路だ。こちらをのぞ

きこんでる巨大な顔・・喉の奥で息をするような、まぶしい光線――。

 「最初は美人だなと思って面喰ったけど、・・口ではああは言ったけど、根性が据わってる
             
よ。きっと、いろんな人生の場面を経験してきたんだろうな」

 「いまはバリバリのキャリアウーマンって感じだったね・・」

 感覚よりも他の力が、――たとえば、ゆかりにとっての、“女優”というキーワードで、

そこに他人が期待してることや、また自分みずからが期待してることを顧みている。なんだ

かひじょうに遠いところででもあるように思われてくる。アメリカ・・カリフォルニアの、ロ

サンジェルス――劇場にでも入るように、もっと深刻な、もっと真剣な・・。

 その切なさが伝わって、竜也は言葉を出せないでいる。

 「・・恋も仕事も夢もうまくいったらいいのにね、」

 四肢をだらりと投げ出してライオンが正体なく眠っている――ベンチで、浮浪者が。何か

忘れ物でも取りにゆくような、はっきりした目的意識を持たず、それを二人はチラリと見る

。そして。目配せ。そっと起こさないように、気付かれないように背中を向けて四五歩引返

し、・・・彼女の沈んだ瞳の底で、彼はこの神秘な力に遭遇する。

 皺のふかい顔――静かになるのに反比例して遠くの物音がだんだんはっきり聞こえてくる
                       、、
。電車の音。時どき力のない咳の音。すりのように、こんな風に・・さやさや――自然

の呼吸として吹き込んでいる。遠くの方で、犬を探し求める声のように、と竜也は思った。

 ライトグリィーンの印象のある、モネの鬱くさくて明るい世界・・。

 「・・・あんなに綺麗な人でも、望み通りの人生を生きられないなんて不公平よね」

 蚯蚓が土を出て炎天の砂の上をのさばるように、混凝土に出て死骸となっている。

 「・・ヒューマニスティックな感情は、いつもそうだよ」

 「批評家みたいなことを言うじゃない――国民感情を無視して?」

 「センチメンタリズムは、よそうじゃないか。・・と、言ってる。――人生がもし、望み通

りだったら、それもひとつの不幸じゃないか。俺達はきっと反対のことを言ってる。綺麗な

人は好んでみじめになりたがるはずだし、頭のよい人は好んでヤンキーになりたがる」
   、、、、
 ・・・もちろん、と竜也は区切った。

 「欲求としては」
                、、、
 と、僕は言った。そうだ、僕等は・・何事にも欺かれることがないと、自分に正直でいると

、泣かないでとある目的のために嘘をついた。けれど、不気味なジャズ。真っ直ぐに暗礁を

目掛けて進んでゆく船のようだ・・嵐、物事は勝手に放任され、自分の意志に反することが続

く。手にとれば手を染めそうな色――黄色・・あるいはゴールド・・そういうものに向かって僕

等の世界はどんどん歪んでいく。けれど、維持力はいわば加速度的に増して来る。その時、

僕等は血迷っているとも、真に返ったとも思う。――けれど、いま欲しいのは自動車のブレ

ーキ。人間をその制度に適したように作りかえる・・。

 「ねぇ、今ここ何処?」

 ・・・僕は辺りを見回した。――来た道を戻ることは出来る。あるいは、知ったふりをして進

むことも出来る。いまは花のごときえみをたたえて、平気なふりをすることもできる。

 「おまえ、才能あるよ」

 と、僕は言った。

 沈靜の色、何の物音一つ聞えて来ない・・blue――人家が並んでいる、そしておそら

くその中に何人も住んでいる人がいるのに、・・眩暈がしている。

 身体は火照り出し、やたらと眼が冴える。それから涯しのない快楽を僕は抽き出す。

 「誰にでも言うわけじゃない。・・お前は中沢さんじゃないし、中沢さんを人生のモデルに

する必要もない。中沢さんは夢に破れて恋も失ったかも知れない。デキる女の人に見えて、

けれど、弱い所を沢山抱えてる。でもそれは、ちゃんと生きているからだ。ゆかりもちゃん

と生きてる。焦ることはないよ――夢に破れても、納得できる生き方が出来たら敗北じゃな

い。人生のステレオタイプな成功例になれなくたって・・それで敗北じゃない。本当の人生を

見つけることだ。――」

 ・・他人にはいつも客観的に物が言える。こと自分へのだらしなさ、不甲斐なさ――そうい

うのを思うと、非常に参る。ライオンに頭をくわえられたまま、無抵抗に噛まれている小動

物。・・苦しみは限りない。――苦しみは自分の胸の中に棲み続けている。

 「うん・・」

 二つの眼を大きくあけて、宙を見つめながら、・・急にゆかりへの愛しさ、切なさが込み上

げてきて、後頭部を撫でてみる。凝り固まった微笑みを浮べて、ゆかりの様子を眺めている

。・・片想いは辛いな、仕事が生き甲斐だったら淋しいな、夢を叶えても自分の力じゃなかっ

たら悔しいだろうな――。

 「うん――」

 蛋白質の塊に、獣の吠える声のような、・・ノートルダムの鐘の音が聞こえてくる。心臓は

熱い。・・疼く。まっ黒に這っているそれらの影。貝殻。閃光。象嵌――豊かな乳が流れ込む

ように、僕等は透明な想いでそれを吸う。忘れないよ、・・忘れないよ、がいかにどうでもい

い種類の勘違いだと知りながら、どきりとして、何かに向かって展開してゆく。

 ――人を好きになりたい気持ち。・・

 彼女も、いつか思い出が反響している気持ちの中で、――弱点ないし欠陥が含まれていた

ということすらも愛おしく思えるようになるだろう。・・立っているということ――立ちつく

しているということ・・空を見上げ、眼をつむって陶酔の中に、イメージの世界に入ってしま
          、、、、
うということ――あるから、それが僕には人生の悲しみのように思えるから。


  × × ×


 数時間前に山崎先生に連絡を入れた。

 ――予定通りお願いします。

 夕方、ゆかりを駅まで送り、・・僕はアパートの方へと戻る。けれど、僕はゆかりに、先に

帰れ、と言った。“抜け駆け?”という素の反応もあったけれど、違う、もちろん、僕も中

沢さんを発見次第すぐに帰ってしまうつもりだった。

 ――そこまで野暮じゃないってこと。・・

 (山あいの木のたくさん繁ったところ)に、夕ぐれの光があたると、山が三角に見え始め

るのは気のせいだろうか。――傾斜が少しずつ大きくなる。そこに遮蔽物があってはいけな

い。障害物レースではないのだから。

 「でも、上手くいくといいよね」

 「ああ・・」

 駅でこんなに誰かの幸せを願う二人がいるのに、・・世界ときたら、自分の顔を忘れてしま

ったように歩き続けている。――僕等は大分市美術館へと行き、アートプラザでネオダダし
        、、、、
、・・最終的に若草公園で、ゆかりがベスし、ぼく何故か足長おじさんの役という変な混ぜも
           、、、、、、
の遊びをしながらモスドナルドへ行き、ペプシコカコラージュ・・。

 ――どうしてもはっきり頭に浮かんで来ない、旅の記憶。

 今頃、本当なら大分県マリンカルチャーセンターで、・・何かをしていたに違いないのに、

別れて別の道を行った人のことばかりを考えている。

 ・・アパートに山崎先生が来た。

 ゆかりも、一緒だった。――色々、質問攻めを喰らったのか、・・あるいは話すことで、逆

に色々と考えたのか、少し疲れているようだった。ゆかりは、じゃあ、わたしはこれで、と

駅の方に向かって歩いていった。ちなみに、JR佐伯駅から大分県マリンカルチャーセンタ

ーまでは、職員をタクシー代わりにすることになった。僕は・・ヒッチハイクをするつもりだ

った。ともあれそのようにして、僕と山崎先生は取り残された。

 そして僕は朝のように、山崎先生と公園で時間を潰していた。

 「・・・なあ神崎、」

 と、山崎先生がふっと、真顔で僕に言った。

 ちなみに僕はブランコを中学生にもなって、十五歳にもなって、全力の立ち漕ぎをして、

近くに住んでいるらしい小学生と靴飛ばし遊びに熱中していた。・・僕はお兄さんなので、も

ちろん、全力で負かした。手加減しない。お兄さんすごい、と言われた。キャッチボールを

した。勿論、お兄さんなので全力でぶん投げて、子供をビビらせた。でも最後には、ジュー

スをおごって、また今度、と言ってさよならした。

 「ついてきてくれないか?」
   、、
 ・・・おい、とついドスの利いた声で言いそうになった。

 キィーキィーと軋んでいる、ブランコから僕は降りた。

 「先生、俺腹が痛いんです・・盲腸なんです。イテ・・こりゃあ、多分ふぐの毒だ。イテテ、

駄目だ、全身引き攣りの症状がどこからともなく湧いて出てきている。病気だ」

 一瞬、僕と山崎先生の間に、ほっと和らぐような気配が広がった。

 「・・・そんなに心配することはないですよ」

 「いやな、――頭じゃわかっているんだ。神崎が生徒だっていうことも、・・でも、」

 「不安だ、ですよね?――本当に、ゆかりに抜け駆けだって言われる・・」

 そう、僕は折れた。――いっそ、中沢さんが来るまで、見届けてやろうじゃないか、とす

ら思っていた。・・でも、肝心の中沢さんは中々姿を見せなかった。

 そのせいで、僕はその都度、心配する山崎先生にフォローを入れなければならなかった。

残業かも知れません。急な用事が入ったんでしょう。車だと思うんですけど、・・それなら渋

滞に巻き込まれたのかも。――

 その挙げ句、山崎先生は、もしかしたらアパートに戻っているかも知れない、と言い始め

、僕を楯のようにして、インターフォンを何度か押させた。

 ・・多分、逃げたいんだろうな、と僕は思った。

 もちろん、室内から返答はない・・頃合いを見計らって、

 「中沢さんはちゃんと来ますよ・・ジュースおごりますよ」と僕は言った

 僕も、少し動揺がうつったのか、――いや、なにしろ、そのまま放っておいたら、山崎先

生はドアの前に座り込んで、うじうじするかも知れないと思ったからだ。でもそれを根性が

ない、大人やったらええ加減覚悟決めェや、とかいうことは言えないのだ。何故なら、人は

誰でも弱い。むしろそういうことがない人は、人並みはずれて悪いことをした覚えはない、

という無恥な輩だろう。・・山崎先生のそれは状況的にも、心理的にも、そういう態度になる

のを僕は否定できなかった。

 そもそも、理事長の貸し切りの船の中で・・山崎先生が僕に話したのも、おそらく前々から

頼むしかないと選んだのも、――僕が同僚の教師よりも、おそらく口が堅いと思い、また、

見る目があると思ったからなのだろう。

 年齢というのはあまり関係ない・・刑務所に年功序列などない。

 僕はいやいやを繰返す山崎先生の腕を引っ張り、アパートにいる、居留守をしているとい

う妄想から引きはがし、目と鼻の先にある自動販売機へと連れ出す。

 「本当に、今日来るのかな・・」

 髯を夕陽に濡らして、絶えず湧き起こり絶えず揺れ動く一つのまぼろしの伝播・・山崎先生

は少し幼ない言葉遣いをした。もしかしたら大学でのことや、中沢さんとのことを思い出し

ているのかも知れない。

 「しょうがないですよ、会社じゃないんですから」

 そう言うと、山崎先生は叱られた犬のように、肩を落とした。

 僕は、何か言おうと思ったが、さすがにもう止めた。かしゃかしゃっ、と十円玉ばかり入

れていく。・・いい時間つぶしになると思ったのだ。そんな風に僕は缶コーヒーを一本買って

、山崎先生に渡した。・・もちろん、そこに中沢さんの姿はなかった。

 僕は仕方なく、もう一度、十円玉購入方式でわざとゆっくりと缶コーヒーを買う。

 もう一度、辺りを見回す。――バイクを押してくる人の姿が見えた・・駅方面から。

 「中沢さんだ!

 ・・僕は叫んでいた。


  × × ×


 僕は缶コーヒーを握り締めながら、バイクスタンドを停めて、とことこ、歩み寄ってくる

中沢さんを見た。・・眼を凝らした。茶色と金色のように、あたたかく混ざり合った混沌が透

いていく髪の色を見た。こんな時刻に、この往来で、自分は今何をしているのか、と僕は思

った。――山崎先生は、立ち上がっていた。それどころか、走っていた! 駆け寄っていた

。・・次の瞬間には、間抜けすぎる僕をしり目に、ガバッと抱き寄せていた。

 してやったり、・・してやったぜ、という感じで、中沢さんは全身の力が抜けたような状態

になっている。棒が杭に変わる。・・いきなり映画のクライマックスのシーンのように、血液

が沸騰した。リアルタイムの感触が広がっていた先程前とはもう世界が違う。

 ――世界は一つに重なりあった影。・・杳い?い影。
   
 「・・なぁ愛、絶対に離れないって言っただろう――約束しただろう。謝れないじゃないか

、急にいなくなったら・・・何も――何も言えなくなってしまうじゃないか」

 「正利さん・・」

 いつのまにか、二人は泣いてしまっている。

 山崎先生の背中が揺れていて、・・声が掠れていることから、僕はそんな風に思った。逆光

だけれど、それゆえに、中沢さんの涙が真珠やダイヤモンドのように光って見えた。気がつ

くと、山崎先生は中沢さんの頬に両手をあてて、・・・中沢さんは目を閉じる。引き寄せられる

、でも彼女は拒まない。受け容れている。――カットなどない、演出家もいない。それでも

、見学者一名の中、その長い、長い、キスは続いた。

 見ている僕が照れくさくなるような、――何故ここに大観衆がいないのだ、何故拍手が響

き渡らないのだ、という隔靴掻痒の感に駆られるほど、・・バカヤローと理由もなく言いたく

なった。果てしなく美しかった。・・二人だけのスポットライトがあった。揺籃の底に夢みる

遅鈍な存在の生命・・揺らめく影、奇怪な形、夢の断片、――それらがふっと思い浮かぶほど

、美しかった。一つの花だと思った。

 僕は――首を振り、二人に背を向ける。駅の方へとぐるりと回って、その場から離れてゆ

く。なんだか無性に人恋しくなった。その光景を思い出すたびに、もう片想いはしたくない

な、辛い恋なんかしたくないな、と本気でそう思った。人肌が恋しかった・・。

 切符を買って改札を抜けて、プラットフォームに立ち・・いま、電車の座席。がたごとと揺

られながら、夕陽が落ちていくのを眺めていた。いつもと少し違う夕暮れ――。

 「あの二人結婚するのかな・・結婚か――」

 ぷっ、と気がつくと、腹の底から笑いがこみあげてきて・・それは長い間、止まらなかった

。たぶん、幸せだったからだ。乗客からは白い目をされた。――ゆかりといたら、突然笑わ

ないでよ、と言われるかも知れない。いや、もし一緒にいたら、笑っていただろう。

 「都会は動物園・・いろいろな動物の啼き声が聞こえてくる

 でも、動物でも淋しいのだ・・人間の感情をなくしつつある僕等には、それが懐かしいのだ

。――ウェディングドレス姿のペンギンを想像した。ブーケを受け取るアライグマを想像し

た。・・結婚式の引き出物に文句をつけるキツネを想像した。

 可笑しかった・・可笑しくて、淋しくて、――少しだけ、嬉しかった。

 そして・・僕は孤独じゃなかった。――少しだけ頑張れば、もう少し大人になれば、そうい

う動物になれる、幸せを求めることができる人間になれる。・・

 眼の端に涙が滲んでいたのは、何でなんだろう――。


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