1091625 ランダム
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灯台

カヴァティーナ

 ○ときをり私は鎖≪とざ≫された部屋のなかで、いたいたしいほど剥落してゆく壁にうつしだされた、あざやかにまどろんだ金鳳花≪きんぽうげ≫のすなおなひと幕をみている。とおくから来たものの証拠として切り刻まれた蛍光灯のちらばった幻想のように腐乱をおこしていた。


 ○ゆうぐうされたものの常として、さすらひ、また軽るくつまんだうちにいまにも消えてしまいそうだ。わりと気らくでいい、むりに背のびせず、かるい頬えみでも神経のいきとどいた、ひそやかで繊細な造型の仮象のうちに消えてゆく。


 ○フォルムのなまなましさが、ちぎれちぎれにただよっている。蜘蛛の網のように、簾≪すだれ≫のように、もと来た路≪みち≫にあった藪のように、あらたにかよい出して燦≪かがや≫きだした繊細いつきのうかぶ、おくゆかしくものうげな午後。


 ○わたしはやぶれかかった戸から、いひ知れず昔なつかしい気持ちで、そうして幾たびか手足のすくむ、また急にそら怖ろしい早鐘≪はやがね≫がうち、ほとんど眞赤≪まっか≫になりながら空洞≪うつろ≫なふしあわせな、むねがそれこそひと想いに裂けてしまうような、しなやかな自由≪フレキシブル≫。


 ○よう艶≪えん≫な女にみとれていた。ふしぎな布をまとひながら、いっぽいっぽゆくごとに靄がとれ、なにかぼやけていたもの、ただ無信仰的にあがめたてまつっていた、見えがたひ出発点からそれてゆく。


 ○わたしはあんなにあどけない瞳孔≪ひとみ≫、みえがたい鼻梁さえ妖せいじみていた高い鼻、すうてきのしずくをうけとめた皓歯≪こうし≫。すこし妙な気持ちで、私はおち葉のしめったにおひを、むしょうにさみしい部屋のうちで嗅ぎ、まちがったまま日が暮れるのをかんじた。


 ○かっしょくのほの赤い膚≪はだ≫に、ふせ眼がちの、すこし長くなりそうな思いつめた貝殻や、牡蠣や、それこそ、ばらなどを湛えた、あぶなっかしい足取りで、天女を彫り込むような壁画が手じなのように、なにか間の抜けた、しかし工ふうの凝らされた香橙≪おれんじ≫にとけた。


 ○おどろきのうちに儚く、さりげない神聖のいとなみは途絶えた。かすかに残るのは哀愁ばかりだ。ためつすがめつ瓔珞≪くびかざり≫のなか、だ。わたしはもうれつに爪を剥がしたくなってきた、花へと姿をかえ、形状≪かたち≫をもかえ、水中にこの身をひたすために。


 ○感傷的な、しかしそれでいて抒情的な風景のふっと浮かぶやさしいメロディーにのせて、ゆっくりと音が刻まれていく。意識のそこにすうっとおりてくるような、縄ばしごのような、あまく躍動する律動≪リズム≫。そぼくで、おだやかで、生命力にあふれている。


 ○ねぇつらい時にね、ときどき誰かに傍にいて欲しいって、そう思うことあるの。帳≪とばり≫の近づいた澱≪おり≫の部屋の壁に寄り添って、まるで木蔭の根のところで寄り添う蝉みたいに、じいっとしている彼女は手を組み合わせながらいう。胸がちくりと痛むのがわかった。


 ○あかるいようでくらく、繊細で、感受性がつよくて、あじわい深いメロディーがしずかに胸のうちにひろがっていく。水の都の舟の音楽だ。つきの光をみていたら、それが清流のようにみえてくる。魔法にかけてくれる歌ごえ。


 ○誰かに抱かれてもいい、ほんとうはあの人じゃなくてもいいと思うの。話すごとに痛々しくなってゆく彼女は、なみだ声にならないのが不思議なくらいだった。たぶんこんな時 に、ずるい男なら俺にしておけよと言うのかも知れない。


 ○そんな奴のことなんて忘れちまえよ、と。そうやって、やさしい言葉をかけてあげたら、たとえそれがどんな結果になるとしても、いまこの瞬間は凌げる。メロディ部も伴奏部も、途切れなく歌わせながら弾く、まるでひらめいたリズムで。


 ○でも同じ痛みをずっと感じてきたから、僕に言えることは何もない。君がえらぶのは君だけだ。甘えてるんじゃないよ、愛されたいなんていう言葉で、ほんとうの気持ちから逃げるんじゃないよ、と言った。びくっ、と彼女は起き上がる。


 ○よほど吃驚≪びっくり≫したのだろう。なんで、なんで、なんで、と心が掻き乱れていく。じわじわとうかんでくる涙。わたしだって恋くらいしたいのに、どうしてあの人のことがうまく忘れられないの。すてきな人じゃないっておもうのに、どうしてうまく忘れらないの!


 ○ゆう陽がうつくしくて、鳥たちはほんとうに自由で、学生たちはのうてんきに笑いころげていた。まるで子供の頃に聞いた童謡のようなイメージで、ねいろが清純で、甘酸っぱく、ずっと聴いているとほろ苦くなる。見ないで! ・・・わたしを ・・・わたしを見ないで!




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