どこにでもあるような普通のマンションの一室
通勤に三十分以上かかるということもあって、会社の近くに引っ越しをしたくて近場のマンションを借りた。不動産屋とのやりとりも滞りなく済んだ。少し値段は高めだったが、給料がよかったのでそれを差し引いても、というのがある。 風呂に『追炊き機能』や『呼び出し』のボタンがあるのを第一条件として、オートロック、温水洗浄便座、人感照明センサーなんかもある。 TVインターホンもありがたい。どこかに、学生時代はずっと貧乏暮しだった、という気持ちもあったかも知れない。 ちなみにマンションというのは階層が高くなるほど値段が上がる。階数が上がるほど日当りや眺望がよく、通気性に優れ、騒音も軽減されるため、だ。『階数』『位置』『方角』『特殊事情』の四つのPOINTがある。 しかし、どういうところであれ、結局は飯食って風呂入ってトイレして眠るの繰り返しだ。それがどうしてこんなことになったのだろう―――。 * 少しずつおかしくなっていく―――。 ある日、仕事から帰宅して冷蔵庫を開けてビールを飲もうとしたら、冷蔵庫の電源が落ちていた。コンセントを抜き差しすると冷気が戻って来たのでよかったが、それは、最初の前兆というよりは、むしろ、どうなってんだこれは、という気持ちの方が強かった。 国産ではない、海外からのスタイリッシュな印象の冷蔵庫で、返品がきかない、修理ができない、そのうえ高い買い物だったというような話があるが、基本は十年、また故障した時の対応の問題だ。一人暮らしだから高い冷蔵庫ではないものの、冷蔵庫が壊れるって、かなり地味に嫌な想いをする。 まあ、壊れてはいなかったわけだけれど。 でも、こういう変なことが、日を変えて少しずつ起こってきた。 急にやって来ない。 たとえば、ある日は風呂に入ると、お湯が出ない。幸か不幸か、いままでお湯が出にくくなることはあっても、お湯がまったく出ないという事態に直面したことがないから軽いパニックになった。禊をするかというつもりにもなれないから、とりあえず服を着て、ネット検索をしてこういう場合の対応について調べる。水道局に電話をかけず、水道やガスや、給湯器の点検をした。しかし、異常はまったく見られない。どうなってるんだろうと思いながらも、最後にもう一度、お湯を出してみると普通に出た。さああああっ―――と、お湯に変わるのを見ながら、何か嫌な気持ちがしたのは言うまでもない。しかし、仕事をして学んだのはクヨクヨ考えないことだ。明日に支えるようなことは避ける。 すぐに、風呂入ってオナソして寝た。 またある日は、―――といって、これはもしかしたら関係ないかも知れないが、ビールを飲み過ぎたのか夜中に眼を醒ましてトイレへ行こうとしたらリビングで、何か喋り声が聞こえる。ちょっとビックリしたが、勝手にテレビが点いているのだ。一瞬、貞子かと思った。でもこれには肝をやられたものの、人感センサーの誤作動というところで一応は決着した。世の中には色んな論理が幾十条となく、もつれあい、挑み合い、喰いかかっている。本当はそうじゃなくても、そうであるかも知れないという理屈は強い。どう考えるかはその人次第だが、前述したように僕はあまり余計なことを考えない。まあ、エアコンを消したつもりで点けっぱなしだとかいう予防線があったから、人感センサーの誤作動という着地点で呑み込めたみたいなところもあるかも知れない。 * それとは別にだが、部屋のリビングにある変な黒い染みがあることに、ある日、気付いた。テレビを点けながら何気なく壁を見てみると、何か、ちょっと異様な黒い染みのようなものがあるのだ。想像して欲しいのだが、それが、僕の背より少し上のところにある。結構な大きさで、てのひらサイズだ。見ようによっては、絆創膏に血がついたような乾いた色に見えるかも知れない。気付いてみると、日増しに、じわじわ、大きくなっているような気がするから変なものだ。 バスに毎日待たされていると、運転手がわざと遅れてやって来るというような妄想と大差ない。しかし、てのひらサイズの黒いしみだからと、好きなアーティストのポスターで隠した。そうすると、すぐに気にならなくなった。村上春樹だったらスエズ運河を貼るところだろうし、三島由紀夫だったら日の丸の旗、そしてもしアルチュール・ランボーだったら母音について語るように原色だとかにするのだろう。それは違うか。でも、やっぱり、黒いしみというのはいけないと思う、絶対。それは僕に怪談を聞かされたあとの夜の天井の木目だったりを想像させる。 * はたしてこれも怪異と呼べるのかはわからないが、風呂に入っているとゴソッと、髪の毛が落ちていることに気付いた。咄嗟に、なまなましい女性の幽霊を想像する人もいるかも知れない。確かに、風呂場というおおよそ無防備な場所で髪の毛を手に取るとかいうシーンには何か生々しい怨念を感じる。ただまあ、僕の美しくない身体を見ているとすれば、某掲示板風に、汚い、だとか、でもあのお尻が可愛いだとか、そういうこともあるだろう。 高校時代アルバイトしていた折に、四十代のおばさんから、大きなお尻をしていて可愛いというインパクトは一生忘れない。 などと、過去を回想している場合ではない。 ゾクッ、と毛穴が開いたような戦慄を感じなかったといえば嘘になる。でも、冷静に考えてみると、幽霊なのにどうして髪の毛が落ちているんだというツッコミをした。こういうのって、退役軍人が心的外傷をかかえて社会復帰できないというような嘘に似ている。 絶対にいないというわけではないが、特殊なケースであるのは言うまでもない。 というか、お前等、退役軍人にどんな人間らしさを期待しているんだ。 ああ、僕の辛辣な意見はともかく、科学万能物質主義時代とやらでどうこうやるつもりもないが、あれは、ちょっと違うんじゃないかと思う。怪談とか恐怖語りかと思ったジャケットのジャパニーズホラーで、血しぶきドバドバ出したり、あろうことが人がバタバタ死んだりするのはホラーである。いやそんなのお前の感覚だろ、その通りですが、この場合、ちょっと抜け毛増えていないか、というのが正解。自動販売機であたってもう一本おまけのジュースが出てくる。 男性女性問わず、三十路へ入ると、いろいろな悩みを感じるようになってくる。責任感のある仕事を任される年齢になってきて、四十になると、色んなことに後戻りできなくなっていく。そういう中で、今までとは違う身体の変化のサインがある。もっぱらは、急にメタボリックシンドロームという宇宙人みたいなその響きに眼を背けるようになってくる。 妊娠した? いっとくけど、俺はゲイだぜ、みたいなね。 ただまあ、前後に母親が泊まりに来たり、彼女が泊まりに来たりしたので、まあ気付かないけれど、実はこんなに髪の毛が抜けていたということもあるのかもしれないと思った。いやちょっと無理があるかな。 まあ、薬局に育毛剤を買いに走ったことは言うまでもない。 でも夜中の二時にトランクスを買いに行ったことだってある。コンビニの店員だって変だとは思うだろう、でも、そういうことってあるってことさ。 まあ、いつも通り、オナソして寝たけどね。 ある日は、真夜中にドンドンとドアを叩かれた。寝ていたら、本当に叩き起こされた。近所迷惑だ。何事だ。でも、こんな時、TVインターホンが役に立つ。だが、そこにはいない。隣だったかな、防音なんだけどなあ、と思ってベッドへ入ろうとしたら、またドンドンとけたたましくドアを叩かれた。間違いない、僕のドアだ。なんて、粘着質な奴だろう。しかし刃物を持っている不審者だったら困るから、警察を嫌々だが呼んだ。ああそれも道路交通法で逆走と呼ばれる行為をしてあんな見えにくいところに看板があるのがいけないとぼやきながら違反切符を受け取って以来のことだが、やむをえない。 背に腹はかえられない。 しかし、思いのほか、好感触なことに事情を話すと警察はすぐに来てくれた。断られたら、マスコミに投書しようかと思うぐらい、切羽詰まっていたので神対応と思った。まあ、真夜中なので、悪戯電話の可能性は少なかったのかも知れないが。十分後やって来たのは信頼できそうな、まだ若い正義に燃えているような、二十代ぐらいの青年警察官と、腹出たおっさんの二人だった。片方だけだったらジグソーパズルが一片足りないようなことになっていたかも知れないが、 一応、話を聞いてくれた。でも、肝心の不審者は見つからなかった。また、マンションの設備から見て外部とは考えにくい、嫌がらせとかの類ではないかとも言われた。それには首肯できる。防犯設備上、不審者が入り込むとはちょっと考えにくい。でもそれなら監視カメラがある。だが、もしそれを見て、マンションの中の人だった場合おそろしく嫌な気持ちになる。 こんなの何年もつっこめるような犯罪ではない。 その場合、僕は引っ越しをするしかないかもしれない。 僕が話を大きくするか、ここでうまく収めてしまうかの二つの選択肢があった。 いや、真夜中にドアをドンドンと二度も叩かれた。一度ならまだしも、あれはやりすぎだ。はっきりさせるべきだとも思ったが、その時になって冷静になっている自分もいた。もしかしたら、マンションの住民が酔っ払って間違ってドアを叩いたのかも知れない。それだったら見えるだろ。いや、その時には違うところへ行って、また数分して戻ってきて叩いた、というのは、かなり苦しい言い訳だったが。しかし、今回は眼をつぶろうと思った。もし次こういうことがあったら、警備会社に電話して、監視カメラの映像を見ようとも思った。警察にも立ち会ってもらおう。裁判沙汰にしてやろうとも思った。 でも物騒な世の中ですから、気を付けてくださいと言って警察は帰っていった。 結論から言うと、警察が来るということが抑止力になったのか、ドアを叩かれたのはそれ一回のみだった。 * ある日は、マンションの通路で走る音が聞こえた。気のせいかと思った。だって、走っている人間が見えなかったからだ。でも、確かに聞こえるのだ。マンションの部屋から聞こえてくるのが聞こえたといえばそうかも知れない。でもその空耳は、いまでもハッキリと耳元に残る。 それが、なまめかしく撫でるように聞こえてくる―――。 * ―――ねえ、本当に君は幽霊を見たの? ―――聞いていると、全部どっちかわからないようだけど。 ―――僕もそう思う。 ―――いや、僕だってそう思う。 ―――心霊現象って、積み重ねじゃないかな。 ―――思い込みの作用じゃないか。 ―――とね。 * そう、どれもこれも、僕の中では何か悪い偶然が重なってという風にも思えた。だって僕は、幽霊を見ていない。まあ、ここらへんになると、夜には鏡は覗かないでおこうとか、ビデオはホラーはちょっと遠慮しておきたいかな、という固定天井カメラ俯瞰アングル状態になっている。 そろそろジェイソンが出てくるかも、何処から、という状態。 これはもしかしたら幽霊じゃないかという一番の決定打は、その後。ある日、電話をしていると雑音が入り女の声が聞こえたのだ。実家に電話をしようと思って通話ボタンを押した瞬間、ザーザーとか、ギュルギュルとかいう変な雑音が入った。その時、「・・・い、る、ん、でしょ?」という女性の低い押し殺したような声が聞こえた。混線かと思い、切った。でも、ゾッとした。しかし、また電話をかけると、普通に―――つながった。しかしそういうことが、二度三度起きるようになってくると、僕もちょっと自分がまずい状況にいるんじゃないかと思えてくる。暮らし始めて二か月経っていたが、あまりにも変なことが起きすぎる。 その少し後だろうか、変な夢を一度見た。ナイフを持っている男にわけもわからないまま襲いかかられ、追いかけ回される夢だ。その銀色の刃に、システムキッチンの蛍光灯の光が反射してゆらゆらと揺れている。 一歩、二歩と後ずさりする、何だろう、これは・・・・・・。 西欧の洞窟にいる豹と日本の都会の光景さながらの組合せの構図。 夢―――夢・・・といっても、変に臨場感があって、逃げ惑う。心臓がバクバクいっている。体重を腕に移動させるような、蛇の動き。鋭利的な、ナイフ。底へ引きこまれるにつれて、しだいに水が薄暗くなっていくみたいに、どんどん余裕がなくなっていく。「何だよ、お前」と言いながら部屋の隅から隅へ。壁に刺さる、ナイフ。襲い掛かるのをかわして、もみ合って、「やめろ」と叫んで、僕はヴェランダへと逃げ―――。 そして、ハッと眼を醒ました。血の気が引いた。そこがどこかっていわずもがなさ、洗濯物がぱたぱたと揺れる、ヴェランダ・・・・・・。 夢遊病とかいうのを、僕は一切考えなかった。これが、完璧な発火点になり、それ以来、睡眠時間が二時間とか三時間とかいう寝不足気味になり、体重も一気に八キロぐらい一週間でごそっと落ちた。ダイエットに最適だという冗談は口が裂けても言えない。仕事場でも何か嫌なことが続くようになり、リフレッシュできない、失敗するの悪循環みたいになった。肉体と精神のバランスが崩れていたと思う。実際、飲んで誤魔化したいから、酒の量も増えたし、家に帰りたくないという帰宅恐怖症にもなった。立て続けにこういうことが起こって、ようやく、不動産屋に真偽を確かめるべく電話をかけた。あの部屋が曰くつきということはありませんか、前の住人に何かあったとか、と。でもそんな話はありません、と言われた。 まあ、教えてくれるわけもないが。 僕には選択肢が二つあった。マンションの隣の人に事情を話して、聞いてみる。あるいは、霊感のある友達を呼んで反応を試してみる、の二つだ。 僕は―――後者を選んだ。 前者の場合、隣の人に迷惑をかけることになるし、場合によっては嫌な気持ちになる。また、面倒なことが起きるのを恐れた。それに、隣の人は四十前後のサラリーマン風の人だが、二か月やそこら生活していて帰宅時間がかみ合うこともあり一度か二度すれちがったが、僕が隣に住んでいるのを知っているのだろうが、何か眼つきが変なのだ。気のせいかとも思うが、こういうことがあって、そういう意味なのだと解釈すると、厄介ごとに巻き込まれまいとして、変なことを言ってくるかもしれないと察する。人間の冷たさは否が応でも社会で生きていれば誰でも気付くのだ。人間が動物を好きになったり、自然に救いを求めるのは、ゴミゴミした都会なら当たり前のことだ。地獄である。他人とは蛇以下そういうものだ。利害関係が一致しているから口裏を合わせている人もいる。僕は結構鋭いところがあるから、人間のそういう低俗な根性をよくよく観察する。 しかしそういう僕の癖はさておいても、それに比べれば、事情を話して、霊感のある友達に聞いてみる方がまだましだと思ったのだ。他人と友達では、比ぶべくもない。ただこの時は、仮に幽霊がいるとしても、お祓いとかをしてもらえれば済むだろうみたいに思っていた。この時は、である。ヴェランダで眼を醒ますとかアウトだろ、と今なら思う。だってそこは五階である。十九メートルとか、二十メートルはあると思う。目覚めているなら足の骨折ぐらいで済むかも知れない、即死という高さではないかも知れない、でも、見下ろした時の高さにブルッときたのは別に僕が高所恐怖症だからというわけでもないだろう。 * 友達に事情を話すと快く応じてくれた。電話だったら断られる恐れもあるから、酒に飲みに行って直談判した。こういう時はまあ、誠意だろうと思った。 ところで、霊感がある人って二種類いると思う。たとえば積極的にそういう世界を覗こうとする人と、そういう世界を覗きたくないと思っている人だ。たとえば前者なら、霊感を自分の才能のように思う人もいる。見えることが何かすごいという変な価値観に結びついてもいる。マイノリティ・リポート。よっぽど自尊心が強いのだろう。似非霊能者とあまり変わらない言動も見られる。大抵はほらだし、この手の人は心霊スポットへ行く。 実のところ、高校の時のクラスメートの女子にこういう奴がいた。こいつは狐に似ていたので、狐に憑かれてるんじゃないかとずっと思っていた。関係ないが、こいつが卒業間近に失踪したことがあって、理由は不明なのだが、ああやっぱりと思ったのは多分僕だけじゃないだろう。ある種のお祭り的なノリで廃墟だとか、廃病院だとかを行く心理が正直あまりよく理解できない。 ただ、洞窟だとか、ピラミッドとかいうものに惹かれる僕がミーハーだとかいうなら、本当にその通りかも知れないが。 なお、話によると、動物霊には犬とか狐とか狸とか蛇とか龍とかいるらしいが、これはもうファンタジーのスキルだとか、ジョジョのスタンドである。問題はあまりよろしくない場合が多いことだろうか。 友達は、その点、太鼓判を押せる。まず、心霊スポットをめぐるというわけでもない。どこをどう間違ってもそういうところにクロスしない種類の人間ってのがいるとしたら、彼みたいな人だ。そもそも、霊感があるのだって、何も知らずその手のスポットを通った時に体調をくずした折りに、ぼそっと教えられたぐらいだ。本当に見える人って自分から言いたがらないものだというのを、その時に知った。まあ、色んなパターンはあるけれど、幽霊が見えてしまうということに何らの価値も見出せない、どちらかといえば可哀想なタイプの人かも知れない。 そういう友達なものだから、僕の暮らしているマンションのその一室に対する恐怖というのは、相当あっただろう。僕が激やせしていたり、眼の下に隈があったりする時点から、欠陥住宅の床にビー玉を置くと転がっていくようなものだったと思うから。でも、顔色も変えず、部屋にちゃんと入ってくれた。が、部屋に入って一時間もしない内に「ごめん、もう駄目だ」「帰る」と言ってきた。 ちなみに僕等はコメディー映画を観ていた。恐怖に対抗するにはそれしかないと思ったのだ。ともあれ、慌てた。それじゃあ困る、と。 「じゃあ、どうしてか教えてくれるか?」 言いにくそうだったので、はっきり言ってくれて構わないと言った。 「霊が何十体もいる。理由はわからないけど―――これ以上ここにいるのは、耐えられない」 尋常じゃない怯えぶりから見て、嘘ではないのだろう。 次のひとことまで大分時間を要したが、はっきり言うと、と言った。 もしかしたら、やけくそだったのかも知れない。 完全に思考が停止した。 「部屋に入る前から嫌な気配がして本当は入りたくなかった。多分、君には霊感がまったくないから、済んでるんだと思う。霊感がある人だったら、一日でもいられないレベルの場所だと思う。ここにいたら遠からず、君は死ぬと思う」 * 結論から言うと、次の日には引っ越し先を決めた。そこまで言われたら、こんな場所に一秒もいたくない。自分でもヤバイんじゃないかと思っていたから、というのもある。その日は友達と外で飯を食って、そのまま友達の家に泊めてもらった。心のつかえがとれたというのだろうか、嘘みたいにぐっすり眠れた。考えてみると、どうしてそんな場所にうだうだとどまろうとしていたのか、その時まで、一度も疑問にしたことがなかった。お金というのもあるし、生活を急に変えたくないと思う保守の心理もあったかもしれないが、けしてそれだけではない。 彼風に言うなら、巻き込まれていたんだろう―――。 その夜、「嫌なことを言う奴だって思ったら、すまない」というのが印象深い。 まあ、実際、友達をたまたま呼んでずけずけそういうことを言われたら、間違いなく喧嘩だし、絶交だろう。でも、何も言わなかったら言わなかったで、結局のところ、僕はすごく困っていただろう。人間関係のむずかしさ、発言のむずかしさ、というのは、こういうところにあるかも知れない。 時と場所と場合という三点が揃う瞬間って、奇跡だろう。 まあ、自分が呼んで、こういうことがあるというから、何かのめぐり合わせもあったのだろうと思う。しかし最悪の物件ではあったけれど、二か月やそこらもいたらそれなりに思い出というのがある。怖い想いもたくさんさせられたが。 また、どうせ最後だからと隣の人に勇気を持って、インターフォンを押して、すみませんと事情を聞いてみたら、「そこ、ヤクザが住んでたんだ」と言われた。それ以上つっこんで聞けなかったが、その時になって、あの黒い染みってやっぱりそういうものだったのか、とも思った。しかし、やはり、かかわりあいたくないというのが本音なのだろう。申し訳ないけど、それ以上はと言われた。しかしそれはまた、僕もそうである。他人でなければ生きていけない社会というのがある。だってそこには、何の救いもない地獄の蓋が開きかかっているかも知れないからだ。誰が好き好んで、棺桶に足を突っ込む。僕等は忘れる。他人に同情するより、笑い飛ばす。それがいいのかどうかは僕にはわからない。色んなケースがあって、その時はそうだったと思う。 * 後日談になるが、友達に引っ越しをしたあと、呼んで、お礼がてら寿司を御馳走しながらビールを飲んだ。こういうのって不思議なもので、命のやりとりをしたという気持ちがあるから、一番高そうなのを選んでいたりする。 まあ、実のところ、今度の物件は大丈夫かな、みたいな伏線というか含みもあったのだが、友達が何も言わないのでまあ、大丈夫なのだろう。 友達を幽霊発見器みたいにしているのはどうかと思うけど。 でも、優秀な幽霊発券器である。 言ったら本気でキレられるかも知れないが。 ところで、あの時どんなものを見たんだと聞いてみた。そうしたら、部屋の床からズボンを着た逆さの下半身がマグロのように突き出てジタバタと足をヒレのようにうごかしていたとか、眼球がなくて、眼から血を流す男がトイレの天井からこちらを見ていたりとか、カーテンの隙間から気持ち悪く笑う女性の舌がなかったとか、言う。声が少し震えるというのが、思い出の中の光景に対する嫌な気持ちのあらわれなのだろうか。そう言われてみて、気配というか、視線というか、そういうものを感じていた一瞬がいくつもいくつも思い起こされ、これは認めちゃいけない、認めるものかと思って、そんなものかと茶化して言ったら、ムッとしたのか、ずっと変な声が聞こえてたよ、と言う。それに生臭い臭いもしていたしと言う。コメディー映画を観ていた君をずっと、メンチ切っていたコワモテの人もいたし、とか無茶苦茶なことを言ってくる。 酒のせいか、こころなしか、口が軽い友達の発言。 スミマセンッシタ、が正しい。 「でも君って、本当に霊感がないんだと思ってうらやましくさえあったよ」 しかし、いまではもう、笑い話の類である。 でも、―――もう心霊物件は懲り懲りだな、と思う。