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金曜…国井咲也

2012.09.14
XML
カテゴリ:金曜…国井咲也

国井咲也の満巻全席  第314席

先週、バイクについて
「ピーキーすぎて、お前にゃ無理だよ」という
台詞を引用した。
いわゆる「元ネタ」はご存知なアニメ映画だ。

ただ、この『ご存知』というのは錯覚で、
全世代が共通できるものではないと思われる。

作品の知名度がどうの、という話ではない。

時間がたてば、
その間に次々と生まれてくる
新しいものの数(量)に比例して、
過去のものの印象は強くなるか、
薄くなってゆく。

「アレに比べるとぜんぜんつまんなかった」

というふうに感じる人は前者だろうし、

「そういえば、似たようなのがあったなぁ」

となっている人は後者だろう。
現在の「商品数」を考えると、
圧倒的に後者が多いかと思う。

ただ、似ているな、と感じても、
具体的に作品名が出てくることは少なく、
また、似ているからこそ「どこが違うのか」と
正確(無論、ユーザとしての心象だ。
厳密ではない)に説明されていることも稀だ。

とうぜん、仕事でもないかぎり、
そんなことの説明や具体的指摘など必要ない。
必要がないから、その商品(作品)の総合評価が
表層的な「感情」だけで埋め尽くされる傾向にある。

もちろん、
感情で語ることが悪いわけではない。
けれども感情だけというのは、
極端に言えば浅慮であり、
冷静に思考するというプロセスを通らないと、
そのときに都合の良いだけの方向に一気に
流れる危険性がある。

「あんなに若い世代が、
 あのような話題でもりあがるだろうか?」

最近、作品に登場してくるキャラクタに
感じる人も多いのではないだろうか。
これはなにも流行や言葉遣いだけの話ではなく、
「知識」「私見」という観点でも同じだ。

日本の『物語』を商品とする
エンターティメントでは、
どういうわけか、
14〜18歳前後での年齢設定にある
女性や男性が多い。
というか、ほとんどだ。
(もちろん、これに関する考察もあるが、
長くなるのでここではしない)

国井私見だけれども、
この世代はもちろん、
十歳前後の小学生が主人公と
なるようなものでも、
キャラクタ達は総じて
現実とはかけ離れた言動をしている。

皆、知的でウイットに富み、
冷静に物事を観察する視点を持っている。

簡単にいうと、
「子供ではない」になるのだろうか。

では「大人」かというと、そんなこともない。
それこそ、
周囲を見回してみればわかる。
そんな言質がある大人は、きわめて少数派だ。
大多数の大人達は、
むしろ「コドモ」なのかもしれない。

褒め言葉としての表現として
「少年(少女)の心を持ったひと」
などというのを見かけるけれど、
本物の少年少女というのは

「はやくおとなになりたい」

と思っているものではないだろうか。

大人になんかなりたくない、と思って
いるコドモたちとは本質的に異なる。
「社会にでたくない」
「そこで評価されるのは嫌だ」というのが
本心という所だから、
逆に、どんなことがあろうと、
広い場所に出て、
自分がどこまでやれるかやってみたいと
考えるのが「子供らしさ」とも思える。
目先の恐怖やリスクよりも、
やってみたい、見てみたい、
というような、『好奇心』が勝るのが
本物の子供だ。

この『好奇心』が
時として「おとなの世界」では厄介になる。

いってみれば
「おもしろそーだからやるんだ」
「先がみえねーからこそ、ワクワクすんだよ」
ということに価値を見い出して、
一歩踏み出してしまうのだから。
だからなのか、
群れの中に安寧を得ている人々には
「お前、怖いわ!」などと言われて
浮いてしまいがちになるのだろう。

単なる幼稚さとは違う、
「子供の心」のというのは、
本当の子供たちの社会よりも、
むしろ、成人した人々の社会や組織に、
より、その差異が出るものかもしれない。

  kaneda-no-bike.jpg

さて、「枕」はこのへんで終わって、
来週は本題。
『じょしらく』の登場人物達の
圧倒的な知識量の「不自然さ」と、

「しかし、不自然ではない」

という見事さについて。

どうでも良いことだけれど、
だんだん、
くくるちゃんが愛らしく思えてきて困っている。






最終更新日  2012.09.14 20:39:29
2012.09.07
カテゴリ:金曜…国井咲也
  met.jpg


数ヶ月、もしくは何年ごしかの夏休みの工作。
つまりは毎日の工作かもしれない(ええ?)

毎日が夏休みか、永遠に夏休みなし。
どちらが不幸だろう?
自営業の現実と悲哀である。

とにもかくにも、
ようやくそれらしくなってきた!

乗り物好き(萌え?)の国井には
かかすことができないアイテム、
それがヘルメットだ。

美女(少女?)とリッターマシンの
組み合わせというのは、現代だけでなく、
古くからある。
バイクにのる女性、というのは
現在でも希少性があるからと推察する。

バイクを好むような人は
「ひとりでやる」「ひとりで行く」という
指向性(嗜好、かな?)が強いように
感じているのだけれど、
オートバイそのものが、その価格と音と
顔を常にだしているという特性からなのか、
「群れることをこのむ大きいお兄さん達御用達」に
なっていた時期が長く、
この国ではあまり良い印象がなかった。
最近ではそのような
「困ったお兄さん達」が絶滅に瀕したため、
趣味性が強い乗り物、という
イメージに落ち着いた感じだ。

50CC以上のバイクが
利便性が高いイメージになりにくいのは、
「基本的に一人しか乗れない」
「荷物を運べない」
「運転者が天候に直接左右される」
といった理由からだろう。
車でいえば、
究極的なオープンカーだからだ。
運転に際して、
きわめて無防備な体勢になるために、
事故になると身体的被害が大きいし、
運転技術取得に熟練を要するという
ハードルの高さもあるだろう。

そんな、一般的には
心証が良いとはいえない乗り物だが、
不思議とそれらにまたがる女性像となると
その逆のイメージで
描かれることが多いように思える。

バイクを駆る美女達は総じて、
好きなんだから関係なく、
自分はのっている、という
自由さを持つ「意思の強いキャラクタ」と
なっていることが多い。

言葉にすると『一匹狼』だろうか。

よくよく観察すると、
少数であれ、まず群体を形成するのは
女性に多い傾向に思えるから、
その反意としての
『ファンタジー』(幻想)なのだとも
いえるだろう。

どうでも良いことだけれど、
『Fate/zero』に続いて『アクセル・ワールド』でも
川澄さまキャラがバイクで街を疾駆していた。
バイクキャラ一人勝ち体勢かと、ひとり、
ドキドキしている。

赤い愛車をうらやましそうに眺める
国井の後ろから

「ピーキーすぎて、お前にゃムリだよ」

とかいってもらいたい、などと妄想すると、
年齢がバレてしまうので注意だ。
現実世界ならば
そんなことをいわれるようなマシンは
NRか…いやいや。
声はセイバーさんなんだから、
ここはやはりマムートだろう、
セイバーさんののってた変身後バイクが
なんか似てたし、とか書いてみても
わかる人が少ないので注意だ。(なんのこっちゃ)


これもどうでも良いことだけれど、
250以下のミニバイクで
「後ろに乗せたい」なら、なんといっても
『ぽてまよ』のみかんちゃん。
リアル寄りに現代の400前後のマシンなら
やっぱり『アウトロースター』のメルフィナだ。
日本が世界に誇る「はたらくばいく」の
スーパーカブなら、どう考えても
『ギャラリーフェイク』のサラですよ。

おお!
川澄綾子氏が演じたキャラだけでも、
「バイクを駆る」キャラと
「タンデムに乗りそう」というキャラクタに
分けられるみたいだ。
車の運転だと、これほど明確になるだろうか?
サラやメルフィナなら運転するでしょ。
けれど、「バイクに乗って現れる」ほどの
強い印象は感じられないのではないかと思うけど、
いかがか?

というわけでタミヤさん、
ホンダのVT250F、再販してください。
もちろん今度は白青で














最終更新日  2012.09.07 18:39:05
2012.08.31
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第312席

女子にネコミミ。
咲也の寝耳に水である。

国井が好む映画作品の
いつくかを手がけていた
米映画監督の訃報を聞いたからだ。

トニー・スコット監督だ。

ちょいちょい日本のアニメや
バラエティ(90年代までを指します。
最近のものは国井は一切知らない)でも
その作品の引用を見かける
リドリー・スコット監督の弟さんだ。

そう、リドリー監督のものは
第6席だったろうか、
『じょしらく』で咲也心酔の
きぐちゃんが寝言で日本人キャラの
有名な台詞をいっていた。
覚えている人も多いかと思う。

…きぐちゃん、かわいかったなー。

おっといけねぇ。
話がそれちまった。戻そう。

どうしてリドリー監督作品のもののほうが
「パロられる」確立が高いのかというと、
それは正直、
「信じられないくらいヒットした作品だからだ」
というビジネス的側面が強いのだろうが、
トニースコット監督も
あの『トップガン』を創っている。
もちろん、これは映画館でみた。

戦闘機燃えの部分も否定でいない国井だからだ。
(時期的にタレントとしては微妙な発言だ。
 最新鋭の航空機墜落の原因は
 パイロットの責だけとする傾向が強いが、
 「扱いがきわめて難しい」機体であるのかという
 視点での安全性が語られない。
 これが問題だろう)

この映画公開当時は
『レンタルビデオ』という
新しい視聴スタイルが定着化しつつあり、
映画界は新作公開に際して、
「この作品はレンタルでは出ない」
「何年後にレンタル開始」というような
広告をしていた。

客は安価で、移動することも少なく、
時間を映画に合わせる必要もない形で
見ることができるようになりはじめていて、
その影響の動員数減少を受けたものだった。

そのような状況で数年続いた中で
公開されたのが『トップガン』だった。

古いアニメマニアなら周知だけれど、
『トップガン』の製作経緯には、
日本で大ヒットしていた『マクロス』の
影響もあったとされている。

もちろん(?)、
国井はマクロスも見ていた
クチだったが、映画を観て、
感動したのはそんな所ではない。

大画面と音だ。

ビデオが台頭してきていたのである。
そこで「守る」だけでは駄目だという
判断もあったのだろう、
本作は小さい画面や
隣近所に気をつかう音量で見るのでは
まったく面白みがない映画になっているのだ。

音速で飛ぶF−14を
固定定点カメラで撮ってたりするのだ。
観客(すなわち客席の国井だ)に
機体などみえない。
けれど、大画面だから
おそろしく速く動く物体が横切るのは
「見える」のだ。
これが実にリアルなのである。
音も強烈。
これはさすがに家では体感できないと思った。
それゆえに映画館ならではの映画なのだ。

テレビで映画を見る人が増えたのなら、
会場に足を運ばせるには
「会場でしかわからないものを創るべきだ」という
発想に至ったこの「攻め」の姿勢こそすばらしい。

この作品の面白さでお兄ちゃんが手がけた
『ブレードランナー』から
リドリーファンであった
国井も「弟さんの作品も見逃せないな」と
思ったわけだ。


不思議と、トニースコット監督の作品は
いわゆる日本のアニメオタク諸氏に
語られることが少ないように思える。

国井の眼には弟さんの作品の方が
より『オタ向け』の要素がかっちり
組み込まれているように感じられる作品が多い。

戦闘機ときて、
そのあと主演俳優を同じくして
製作されたのは車。
レースを舞台とした映画だったし、
乗りもの大好きマニアとして
絶対に外せない(外れることがない)のが
潜水艦だ。だれがなんといおうと、
たぶん、オタクは潜水艦が好きなのだ。
だって国井がそうなのだ。
「深海探査艇」「DSRV」なんて、
言葉を聞いただけで
もうしびれまくりだ。(しびれない?)
だからなのか、当然のようにトニーは
潜水艦を舞台とした
『クリムゾンタイド』という作品も
撮っているのだ!
そうそう、
「幼女を悪いやつらから守る」という
『マイ・ボディガード』あるではないか。
おお!
ハリウッドというよりも、
東京神田近くにある電気街の匂いが
ぷんぷんしてくるっ!(しない?)

道具としての「好き者が多い」ものを
扱うという点では、
兄のリドリー監督よりも、
日本アニメや漫画からの影響も公言している
ジェームズ・キャメロン監督の作品に近いと
いえないだろうか?

しかし、トニースコット監督作品が
アニメや漫画で「パロられる」ことがない。
(国井はみたことがない、の意。
『トータル・イクリプス』では
主人公の愛称として作品名が
引用されているが、これはいわゆる
「パロる」とは
ニュアンスが異なる気がするが、いかがか?)

なぜだろうか。

リドリー監督やキャメロン作品と
決定的に違って、
「ないもの」がある気がする。
(ここでは教えない。
 映画をみて、自分で考えてみよう!)

また、だからこそ
「こういうのも好きだなぁ」というのもある。

彼の手による、
『潜水艦祭り』なアクション映画を
見たかったけれど、
それはもう叶わない夢になった。

冥福を祈りたい。


    F2.jpg
 写真は本文と関係ありません。F2だし。
 問題になってるのは例のヘリ







最終更新日  2012.08.31 21:09:39
2012.08.24
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第311席
  singou.jpg


さて、話を戻す。

最初から「記号」として設計されるように
なっているエキストラ。
「その他大勢」について考えよう。

この傾向はいつごろ現れたものだろうか。

厳密さなどないけれど、
国井が最初に衝撃を感じたのは
『あずまんが大王』(アニメ版。
テレビシリーズのほうね)だったと記憶している。
日常の「たわいない会話」で魅せる作品だ。

舞台が現代日本の共学高校のため、
どうしても「背景」として他の
クラスメイトが映り込む。

それらがごく稀だけれど、
メインの登場人物である少女達の言動や
行動のリアクション(スルーも意味する)を
する際に、ぽん、と
幼稚園児の書きなぐりのような
絵になるのだ。

これには驚いた。

しかし、
原作は「4コマギャグパワー炸裂」
(連載開始当初)などという
惹句が付けられたように、
基本は「笑って読ませる作品」だったから
こういった手法も不自然ではない(国井私見)。

原作においてもメインのヒロイン達が
呆然とするようなコマでは、
「呆然とする美少女」という
描き方をするのではなく、
先にも描いた
子供のいたずら書きのような絵で
「真っ白になった」という
イメージを出していたから、
原作に準じたのだと言えるけれど、
やはり、テレビのシリーズで
落書きような絵がそのまま放送で
流れてくるのにはおどろいた。

原作(漫画)は4コマ漫画なため、
1コマに落とし込める情報量は
通常の漫画作品に比べると
圧倒的に少ない。

4コマ漫画というのは、
そもそもコマの画面が小さいから、
「喋る人間と台詞のフキダシ」だけで
限界量に近くなってしまうからだ。

同じ漫画でも4コマ漫画では
背景が省略されるようになりがちなのは
この為だ。
メディア(容れ物)が違うのだから
必然的にこの傾向が現れる。

しかし、これがアニメーションや、
ドラマ(実写映画)となると
そうはいかない。
やり方だと思うけれど、まず根本からして、
画面(視線の範囲)が大きくなるからだ。

台詞用のフキダシも必要がなくなるので、
「『文字』でみえなかったその後ろ」も
映像として存在しなければ不自然になるのだ。

動画化に際して、
どうしても原作に描かれる以上の
「絵」が必要になってくる。

もちろん、まずは、
原作ファンを納得させなければいけない、と
徹底的に原作(レイアウト)に準じて、
原作に描かれていないものは基本的に
「描かない」という判断が
なされている作品もある。

描かないから楽ではないか、などと
思い違いしてはいけない。
この判断はつまり、
画面を意図的に
使わないということでもあるのだが、
これにはある種の危険がつきまとう。

「わざわざ画面の周りを黒くつぶして
 絵を小さくすんなよ!」

あるんだからつかわないともったいない、
ぎりぎりまで使い切らないのは怠惰だ、と短絡的に
考える人はけっこう多い。
多くの人は「余白が生むバランス」というものには
気づかないのだろうし、まして「余白の美」には
興味など持っていないからだ。

だからだろう、
「メインの登場人物以外に
 光を当てる必要はない」というニーズが
具体的な演出(設計?)手法として形になる。

『あずまんが大王』(アニメシリーズ)は
作品設定として、エキストラは記号で良いという
設計にはなっていないとおもうけれど、
これをみて、

「ああ、こういうのもアリだな」

と感じたのだ。

演出、手法として生み出されたものが
観客(国井だけの話。一般化で
語っているわけではない。注意されたい)に
すんなりと受け入れられるものだったといえる。

しかしその逆もある。

作品名は出さないけれど(タレント対応だ。うむ)
「絵が間にあわないから簡略化せざるを得ない」
という製作上の逆境から
生まれたものも確実に存在する。

いち視聴者としてみていて、
単純に『目が辛くなる』と感じるほどの
「絵がない」状態の作品だった。

「動かさない」のではない
「絵がない」のである。

物語がどうとか、
キャラがどうとかではない。
むしろ、それらは音声と稀に現れる
「普通の画面」から感じるにとても
面白そうなのだ。
けれど、絵がないことを前提とした
メディアでの脚本ではない上に
映像表現/構成としての
カット割りがそのまま使われているから、
言葉のつながりでは
「なにが、どこにいる」というのが
まったくもってわからないのだ。

これを見て、
『エヴァンゲリオン』ブーム以降、
うはうはだと思い込んでいたアニメの世界も
「仕事/雇用」として考えると、
どうもこれは大きな思い違いだぞ、
すなわち、
この日本という国家の先に待つものは
決してバラ色で明るくなんかないぞ、と
心のネクタイを締め直したのだ。

ただ、そこで終わらずに、
その経緯で生まれた手法を洗練してゆき、
演出家(監督)の個性としての
『演出』として広く定着させるところまでの
もっていった、としか思えないようなことを
やった監督さんもいる。(と国井は思っている)

異形から生まれた偉業。

これは本当に凄いことだ。
思わず心のネクタイをほどいたくらいだ。
逆境を自らの血肉する力。
これが向上心といえる。

作品の物語に浸かるだけなのも楽で
良いし、たのしいのだけれど、
こういう部分こそ見落としたくはないな、と
思うのだけれども、いかがか?


さーて、
来週は。

「きぐちゃんの可愛さに
 咲也の田無タワーがたちました」
「がんちゃんの猛牛と水平ボクサーに
 咲也の殿方茶柱が立っちゃった」
「てとちゃんのパジャマ姿に
 咲也のガンダム地上に立つ」

の3本です…おっと。
こういう話はよそう。

夢になるといけねぇ。






最終更新日  2012.08.24 22:11:49
2012.08.17
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第310席

で、今週はロンドンオリンピックを振り返る。

「おい、アニメだけの話をしろよ」という
熱狂的(熱湯? ネットぅ?)な
諸氏も多いかと思うが、
まぁ、今回はひぐらしが泣く頃ではなく、
4年に一度の葛飾のひぐらしが
起きたころだと思って
笑って読み飛ばしていただきたい。

国井の見方では
面白いようにアニメと符合する。
怒られることを覚悟で書くが、
どんなスポーツ(試合)であっても、
「見せ物」としての機能が持たされている以上、
それは『エンターティメント』(商品)としての
側面を持つと考える(みえる)からだ。

こう考えれば、
二次元だろうが三次元だろうが
そこに境界はない。

もちろんこれは、観客にとっての話。
『創る側』(選手)にとっては
遊びにはならない。
スポーツ自体はレジャーとなる
「遊び」にちがいないから、
軽んじられる部分もあるだろうけれど、
少なくとも、あの舞台に立つ、
「立てる」人は
人生を賭けてやっているのは明白だ。

逆に言えば、「人生をかけるほどの
時間(労力)をつぎ込まないと、
その場所には立つことすらできない」と言える。
当然だろう。
世界規模で行う
「いちばんは、誰だ?」という
大会なのだから。

だからなのか、インタビューなどを聞くと、
皆、同じことを言っていると思えて仕方ない。

これは競技に参加していた
選手だけの話ではなく、
自分が、
凄いことができるのだな、
すばらしいな、と感じた物を創った人たちの
発言に共通して感じることができるものだ。

言葉やリズムといった話ではない。
本質的なものだ。


『あまりに圧倒的な力量の差が存在する』
という状態になると、
それを持たない側には、
それらは酷く簡単にみえてしまう。
それはもちろん、
技術的な不安定さがゼロに近い為に
そう見えるというだけの話で、
実際に簡単か、といわれれば
そんなことはない。
気が遠くなるほどの
反復(練習)を積んでいるから、
安定しているのだ。

この「ひたすら練習する」というのが、
表舞台に立ってくる
「すごい人たち」に共通している。

日曜日に集まって、
野球やサッカーの試合をして、
そのあとにみんな笑顔で
お酒を飲むのではない。
試合、と書いたが、
こういうのは試合ではない。
これがレジャ−だ。運動だ。
だから楽しい。
(本当に、これはこれですこぶる楽しい)

上を目指す人たちが黙々と行うのは、
やはり『トレーニング』なのだ。
なんの面白みもなく、誰の目にも触れず、
ただ、ひたすら辛い作業を日々繰り返す。
このトレーニングができる、できない、が
大きな舞台に立ってくる人たちを支えている
『才能』ともいえる。
ほとんどの人はそこまで
「楽しくないこと」は継続できないからだ。

ダイエットの商品告知は途切れることがなく、
しかも次々に新しい商品や手法が
開発されている所をみてもこれがわかる。
『鍛えた身体』が欲しいなら、
鍛えないといけないのだ。
これには近道がない。

どんな商品をつかっても、
おそらくそれらは、
単なるサポート役でしかなく、
本人に鍛えているあいだの辛さを
「継続する」という強い意思がなければ
結果が現れることはないと推測する。

現状(失敗)を冷静に
分析することがないので
「やる為に気持ち良いことはやめる」
というような決断を下すことはない。

このような「決断」が
インタビューなどからも
見えてくる要素で興味深い。

目先の「楽しいこと」を
切り捨てることができる、
もしくは切り離している人たちだと感じる。

その先にある「より凄いこと」
「より完璧なもの」の為に辛い時間を
長い期間にわたってこなすのだ。

もちろん、
それをすれば成功するとは限らない。
確約できるようなものではないから、
大舞台に上がる前に
『その他大勢』が集まることはない。
評価されることがないから、
「自分で」ハードルを設定し、
そこに合わせて、
自分で自分を高めてゆく。

ここが凄い。
(凄い、と感じてる時点で国井も普通だなぁ)

冷静に自分の弱点を見つけ出し、
その対処策を考案して修正しながら、
練習を重ねる。

この「修正する」という能力の高さも
見逃してはいけない。
この能力の根本は、
修正すべき点、つまり「自分の駄目な所」を
きちんと受け入れるところにあるからだ。

努力型の天才などと
言われるタイプの人のほとんどは
この才能ではないだろうかとさえ思う。
「わからなくても良いもの」というような
芸術家とはちがい、ある意味において
『万人受け』する機能を持たせた上で、
圧倒的な所を見せつけなければ
他の同業者(選手)には
勝てない、というフィールドで
戦う必要性があるからだろう。

こういった人たちが
後進の育成に向いているのは
この「修正能力」があるといえる。

試しにそのままでやってみたら
「自分を負かせる人間がいない」という
状況になるような
天才と呼ばれるようなタイプとは違い、
対象を客観して、
分析するというプロセスを経ている。
これは自分以外にも当てはめることが
できるのだから、効果的な指導ができる。
天才にはこの経験がないから、
若手の育成には向かない。
当然だろう。
そういうものが必要なかったから
『天才』と呼ばれるのだ。

ハードルを自分で設定、と書いたが、
これがまた難しい。
自分で考え、
実行するのも自分だけなのだから、
こんな簡単なものはないはずなのだが、
えてして、
自己評価というのは甘くなりがちだ。
ハタから見ると
楽しいことをやっているだけだが、
それすら「時間を使った」
「気を回していた」などと
辛いことだって(捜せば)
あるのだと強調し、
「だから自分は良くやった」となってしまう。
だから難しい。

…いててて。手で書いているのに、
なんだか耳が痛くなってきた。
やめようか。いやいや。続けよう。

これら偉業を成した人々を
「選ばれた人」だとか表現する人もいるけれど、
むしろ「選んだ人」だと感じている。
自分で選んだ人たちだからこそ、
そこに「その他大勢」にはない、
敬服に値する強さがあるのだろう。

    flower of hope.jpg

今回のロンドンオリンピック。
どうでもいいことだけれど、
開会式と閉会式以外
(国井の主食はどうしてもこっち)での
ヒットポイントは新体操団体。

まったく予備知識なく、
予選をみていたら日本選手の中に

「ニナ サイード ヨコタ」

という名前。(敬称は略します)
この名前には、ちょっとしびれた。

外国籍の血が入っている方かとは
思ったけれど、驚いたのは
日本語としての表記が出たときだ。

「サイード横田仁奈」

なのだ。サイードというのは
ミドルネームではないらしい。
ならば「横田さんとこの仁奈さん」で
良いではないかとも思ったが、
日本名前の前に『サイード』。
これがいい!
もう響きがかっこいい。

自分が中学の新入生で入部したての
部活の後輩なら、
「サイード先輩っ! 
 ハチミツレモンつくってきました!
 食べてください!」
といいたいではないか!
だって、そのときの俺は、
女子高生になったら、新宿湘南ラインで
大宮から渋谷に飛び出したいと思っている
女子中学生だからだ!(言語明瞭意味不明瞭!)

そんなことなので
国井咲也の『名前五輪』で
陸上の『ヨハン・ブレイク』と共に
堂々の金メダル。

ヨハン・ブレイクなんかは、
名前からして
「凄腕の狙撃手」っぽいではないか!

…今回は残念だったな。ヨハン・ブレイク。
まだお前の時代ではなかったということだ。

ほら、
試合の結果を言っているだけなのに、
その名を口にだしただけで、
オリンピックというより、
気分はすっかり『ヨルムンガンド』。






最終更新日  2012.08.24 19:56:28
2012.08.10
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第309席

柔らかい雨の中、
坂道をのぼった先にある
古刹の庭には花が咲いていて、
そこから振り返ると、
山のまにまに凪いだ海がみえる。

こんな感じか(なにが?)

ただ、こういった『観光地』を
より美しくみせる(みえる)為に、
とても重要なファクタがひとつ、
生まれてくる。

「人がいない」

これは重要だと思う。
人が集まる要素が揃う場所ほど、
群衆(モブ)が存在しては
「絵にならない」のだ。
そんな気がする。

怒られることを覚悟で書くが、
これはひとえに
「背景に人物が負けている」と
いえるかもしれない。
背景のもつ力に人物の魅力が負けるのだ。

雑誌や映画などで主役や表紙を飾るのが
気軽に街を歩いている人たちではなく、
モデルや俳優などが起用されるのは
この為ではないだろうか。
背景が美しいのならば、
見目麗しさを「他人がそう感じる」
プロフェッショナルも
必要不可欠になるのだろう。

撮影者の力量も大きいけれど、
登場人物としてのプロが
起用できないのであれば、
「いない方が美しい」という
道理にもなる。
 
観光地を紹介するような雑誌でも
ブログでも、
その多くは「人はいない」という
写真になっているのはこの為だと考える。

この逆に
「じぶん撮り」というような写真も
数多く散見できるけれど、
この形式のほとんどは風景や場所といった、
「目的」ではなく「そこに行った自分」を
他者に見せたいという意識が観察できる。

一時期流行した
プリントクラブなるものがあったけれど、
それに近いだろう。
あれらは「自分がみる」写真であって、
「他人に見せる」写真になってはいない。
『演出』が欠けているからだ。

無数の画像で溢れても
本人が楽しむ記念写真ばかりなのだから
他者に価値が生まれるのが
きわめて少ないというのは、
この為だろう。

もちろん、これは良い悪いという
話をしているわけではないので
注意されたい。

「だって、自分以外いらないでしょ?」

かなり極端な言い方だけれど、
これも大きく外れてはいない。

物語で考えれば『キャラ萌え』という
観点のみで観客がみているのならば、
メインのキャストだけ置けば良いのだ。
事実、この傾向がことさら強い。

だからなのか
学園ものであっても、そのほとんどが
『密室劇』の構造に近い。

では、
現代の都市が舞台となる設定で
「メイン以外の登場人物がいない」という
形で観客が納得しているかというと、
どうもそうでもないらしい。
やはり背景となる人物たちも
描かれてはいる。

人がいない、というのでは
不自然とうつるのだろう。
また、「存在しない」ということに
物語としての意味を
観客が持ってしまうこともある。

観ている人々の多くが
都市で生活しているから、
その不自然さが
「物語の設定として通用するもの」に
なってしまう可能性が出てきてしまうのだ。

昨今の映画のテーマに
「大都市の人々が消えた」というような
設定が観られるようになっているのは
この、大都市に人がいないという不自然さ、
つまりは「ありえない」という
インパクトの映像化を
目指したものだとも感じられる。
人がいなくなるという恐怖も
あるかとは思う。

   hiroshima.jpg


あくまで
『平凡な日々(現代先進国社会)』を
根底にする物語に場合に観客が
「このお話は誰もいなくなったという
 サスペンスなの?」と思い込ませるのは
あまり得策ではない。
(もちろん、そのように
 仕向けているものもある)

そこで背景としての
登場キャラクタ(エキストラ)達は
どうなるかというと、
人物としてのディテールを一切排され、
『記号化』されるようになる。
さきほど「描かれてはいる」と書いたのは
この為。

描かれているのは人であるが
人ではない。
「人をイメージさせる記号」だからだ。

簡単にいうと、
公共施設のトイレ案内表示の
男性や女性の記号。あれが
「エキストラ」として
主人公たちの後ろや街を
闊歩するようになっている。

これは、
髪の毛をなびかせて歩く少女や、
汗を拭きながら、
次のクライアント先へ向かう
スーツ姿のサラリーマン二人組の
動く絵より、よほど単純だ。
絵として持つ情報量が
圧倒的に少ないからだ。

ただの記号だから、
人間が振り返るというような動作も
記号の板が180度回転する、
という動きで十分になる。

もちろん、
記号を使うことによって、
無関心というような感覚を
視覚的にみせるための
ギミックとしても使えるはずだから
記号化された群衆を見て、
「動かないから手抜きだ」などと
早合点してはいけない。

この、
省略された『その他大勢』というのは、
いつごろから現れたものだろうか。

ああ、くどいようだが、
再度言っておきましょう。
なにもこれらのデザイン(作品設計)が悪い、と
言っているわけではないので注意されたい。

ちょっと、
次回(再来週)は具体例を出して
考えてみよう。

来週は特別編成の予定。
なんといってもロンドンオリンピック
総括(?)でしょう。

『黒子のバスケ』の影響できちんと試合を
観戦したことがなかった、
バスケットボール(アメリカ×フランス)を見た。
アメリカはこの試合では
精彩がなく、フランスが絶好調らしいのだが、
素人の国井には
「でもアメリカがリードしてますけど?」
という言葉しかでない。

つまり、本来の力が出ていれば、
「こんなもんじゃねだろう」という
チームなのだろう。
相当に凄いチームなのだそうだ。アメリカ。

なんのデータない国井には
実況や解説者の表現から、これがわかる。
実際、最初から最後までみてみると、
ところどころで
「うぉう!」というプレイが出る。

派手なダンクもすごいけれど、
なんといってもびっくりしたのが
パス。
基本中の基本のパスまわしなのよ。

ドリブルよりもパスの方が
速いに決まっているんだからパスが基本だ、とは
紫っちこと、
サンキュータツオ氏がいっていたけれど、
それが本当なのよ。
素人の国井にもアメリカチームのものは
『別次元』のそれとわかった。

あんなもの、カットなんかできねーよ!
チーム全員が
黒子っちの「掌底づきパス」の
スピードでてるだろう、アレはっ!!
速い速い!

『黒子のバスケ』の奇跡の世代って、
この『圧倒的』さなのだと、
気づかされたものだよ。
これだけでも
「感動をありがとう」なのだよ。

来週は、そう。
オリンピック報道(?)で
国井がいちばん興味深かった、
この「感動をありがとう」という表現。
この言葉から、
『その他大勢』を考えます。(ええ?)






最終更新日  2012.08.10 21:08:47
2012.08.03
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第308席
   chiba.jpg

「地の利」という言葉がある。

現在では、
その場所を知っている、というような意味で
使われている場合が多いけれど、辞書を引くと、
「土地の位置や地形がある物事をするのに
 有利なこと」(広辞苑)とある。

つまり、地の利とは、
戦術的優位性のことなのだ。

こう書くと「またミリタリィオタク発言だ」と
眉をひそめる方が多いかとは思うが
(そうでもない?)
実際に『古都』と呼ばれるような都市には
その「戦術的」な優位性が発見できる。
もちろん、「呪術」もこれにあたる。
風水などはプラセボに近い
眉唾なものだとしても、
当時最先端の『科学』であったはずからだ。

馬鹿にしてはいけない。
「龍が飲むための泉がある土地」も
当時の科学では
「繁栄が続く必須のシステム」であるからだ。

現代において、利便性の高い都市では
「どこでも一緒」な町並みになる。
建物がのきなみ
鉄筋コンクリートで作られるようになるのは
地震国では特に必要な進化だといえるし、
人口が増え(減る速度が遅い)てゆくのに、
広大な土地を持たないのであれば
高層化してゆくのも当然だ。

妙なもので、
その変遷の渦中にあると、うっかり
「不便さ」に価値が生まれたりする。

ただ、実際に不便を求めているわけではない。
大勢で外に出向いて食事をすることを
アウトドアなどといって久しいけれど、
水道が完備された炊事場もあるし、トイレもある。
シャワー完備の事務所もあるなんてところが
『アウトドア/キャンプのスポット』
などと紹介されている。
それのどこがアウトドアなのだろう、と常々思う。
しかもそういう場所ほど人気が高い。
やはりインフラが整備された
利便性が高い場所に人は集まる、ということが
こういう所でも確認できる。

屋根がないから、予定が天候に左右される
確率が若干あがる、という程度だろう。
自室の快適さをそのまま外に持ち出せる、という
利便性の高い不便さだ。
これらは「不都合」があるだけで
「不便」ではない。
不便さの疑似体験といえる。

話がそれてきたようだが、
そうでもない(でもない?)

では、
不便さを感じる要素とはなんだろう。
逆説的に考えれば、
都市化が進むにあたって、
消去されていったものだと考えられる。

海を削って平地を作った。
山を削って住宅地を作った。
昔の建物が取り壊されてマンションが建つ。
この30年くらいのあいだはこんなサイクル
だったのではないだろうか。

観光地も例外ではないはずだ。
生活をするのであれば、都市は便利で
安全な方が良いに決まっている。
『住民』がいるから観光客にも
利便性が高い観光地として成立する。

海。山。旧世代の建築物。

あら不思議。

これらは『観光地』に
なくてはならない(と思われている)
ファクタではないだろうか。

さて。鎌倉である。

物語の舞台設定として
重複している率がとても高い。
ただ、いちいち例えを出さないが、
これはごく最近に限ったことでもない。

やはりフィーリングとして
「絵になる」場所、とそれだけのこと
なのだろうか?

海があって、
海のすぐそばには切り立つような
山間部が見えて、
そんな海岸線ぞいには
ややレトロな車体の電車が走る。

うーん。
たしかに国井が好きそうな要素ばっかりだ。
(どうでもいいけど、国井のお気に入りは
「釈迦堂切り通し」だ。歩いてゆけ!)

さらには「四季おりおりのお花で有名」な寺が
いくつもある。
これまた国井心をくすぐるではないか。
しかもそのお寺のひとつは現在の
『観光』スポットでは書かれることが無い
当時の「死」の哲学をひもとける
場所だというのも味わい深いじゃなイカ。

ここまでそろっていると、
そうか、「絵として強い」とも考えられる。
フィーリングではない。
『好む風景だ、と感じる人の割合が多い』と
いうこと。

もとから『強い』のだから、
無理に動かす必要はない。
そこにあるだけで「絵になってしまう」のだから。

ここで思い違いをしてはいけないのは、
絵になるからといって、
手がくわえられていないわけではない。

「見る角度」によっても、
美しさというのは変わるのだ。
もっというなら、
「その角度以外では美しくない」というのもある。
けれど、
その角度というのが具体的な数値化が難しい。
ただ、『1.618』というものもあるのだから、
そういったものが存在しないわけではない。
わけではないが、やはりこれも
和音/不協和音と同じで、
「美しさ」というそのものが曖昧なものなので
受ける印象は一様に異なる…異なるはずなんだが、

美しいよねー、『TARITARI』。

国井私見だが、
「えぢから」でぐいぐい押しまくる(魅せる)、
『氷菓』とはまったく違う印象だ。

この違いは、なぜだ? 
どこから派生している?
どちらも「美しい絵」なのに。

これが「地の利」なのか?


このお話は次週へ
評価されなくてもつづいたり。つづかなかったり?






最終更新日  2012.08.03 10:23:52
2012.07.27
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第307席
    asagao.jpg


先週は、「動いているということ」を
際立たせる手法(演出)として、
「止まる」ということを書いた。
「とめることができる」技術ってすげぇ、という
話だった。

『残心』も厳密には
「止まる/止める」という行為ではない。
むしろ「私には継続の意思が有るぞ」ということを
相手に示す為のものなのだけれど、
国井のイメージでは
「止まらない事で止まる」という事を
見せる手法のように感じているからああ書いた。
逆説的に「止まることで
動いていた事をより印象づける」事も
可能だ、ということだろうと感じている。
真剣に武道などをたしなむ人には
怒られるのを覚悟で書いたが、
「見ている(観客)」としての視点は、
そのような手法が使われた方が
圧倒的に「かっこいい」と映る、ということも
含まれているのではないかと推察する。
国井には「格好良く見えちゃう」のだから
これはもう、仕方ない。

その要素がさらに
観客に対して「わかりやすくする」という
プロセスを経ると、
味付けが濃くなる形になってゆく。

悪いとはいわない。
これが『様式美』とも
言われるものだからだ。

歌舞伎の
『見得(みえ)を切る』がいちばん近いだろう。
興味のない人からすると
「なんだあれは。ヘンなの」となりがちだが、
様式とは、
文化圏が異なると理解されないものだ。

本コラムの読者には『中2病』と
言った方がわかりやすいのかもしれないが、
その実、この疾患もよくわからないので、
はっきりとは断言ができない。(そうかな?)

さて、「物体の移動。その見せ方」について
少し考えてみたけれども、
次は「動かないもの」を考えてゆこう。

つい最近、知り合いが
こんな会話をしているのを耳にした。

「今な、鎌倉があついらしいぜ」

神奈川県にある観光地の鎌倉だ。
ヒートアイランド現象が海沿いの
土地で起こっているのか、と思ったが、
どうもそういう話ではない。
さりとて、
『傀儡政権』としての鎌倉幕府というような
方向の話でもないらしい。
(そっちの方も面白いのに)

どうやら片方はアニメや
アイドルグループの好き者らしく、もう片方が
「僕はアニメなど卒業しました」と
いっているらしい。好き者のほうは
「そんな事を言っているけど、
声優ファンとかいってる時点で
脱オタできてないって」と笑っている。
どちらも20代になりたてだ。
(男性か女性かまでは教えません)

つまり、ドラマの設定として
現代日本の『学校生活』が好まれているために、
「背景」に実存する地域が登場している頻度が
高くなっていて、
モデルとなる土地/都市が
重複しているという事だ。

放送時期が重なるのは偶然なのだろうけれど、
物語(背景)のモデルとなる地域の選定には、
土地がどこであれ、
必ず一致した要素を見いだせる。

だから偶然などではないし、
多くの作品の背景が自然発生的に
『いざ、鎌倉』に
なっているわけではないと考えている。

都市は常に変化している。
変化しているけれど、「外様」の人間には
時間が止まったかのような
場所(建築)が現存する。
古くから観光地としての印象が強い土地には
必ずといっていいほど、この要素がある。

都市は物理的に
動いているわけではないが、
『変化』がないわけではない。
むしろ、この国においては
まったく変化していないような
地域を捜す方が困難だ。
もちろん、過疎化も「変化」だ。
ここから先の日本のパラダイムは
「発展」という理想ではない。
「先細る」という事実だろう。
(特定した作品の話をしているわけではない。
 注意されたい)


         このお話は次週へ続く


「発展」を否定的に読める表現をすると、
悲観だとか暗い未来だとかを
感じる人がいまだに多い。
政治家のコメントなどを
見ているとそれはよくわかる。
コンビニで「読み捨て」と呼ばれるような
雑誌の表紙からでも
(むしろ読み捨てだからだろうか?)
十分に見て取れる。
コンビニのあの一画だけ80年代で
時間が止まってるようだ、と
感じるときがあったりなかったり。









最終更新日  2012.07.27 15:35:25
2012.07.20
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第306席
   akiba.jpg

動かない、ということは
どういうことだろうか?
もちろんこれは、
状況判断による個人や組織の
「アクション」の話ではない。
だって、「最近見たアニメの事で
なにか話してください」という依頼の
コラムだ(コラぁ無駄の略かも?)からだ。

で、プロスポーツの『中継』を描くような場合の
「絵」の動きについて考えていたわけだ。
ああ、ちなみに『黒子のバスケ』は
高校生のロウキュウ部の話です。

プロの世界の話ではない。
ないけれど、「上を目指す」という構造、
つまり『ものの道理』は
現実に即した設定になっているので
物語の中といえど、
彼ら彼女らの発言や行動には
現実の社会となんら変わらぬ
普遍性が見いだせる。
国井が見いだす
『黒子のバスケ』の不動の面白さとは、
やはりここだ。

「競技」を描く作品には、
ゆるーい部活ものとは明らかに違う層を
「惹きつけている」力が強いようにみえるのは、
この普遍性だとも思われる。
これは分野に限らない。
バスケやかるた取り。
また、雑誌編集であれ、
芸能界であれ、自転車レースであれ、
極端なものでは自らの命の
売り買いをする傭兵であろうとも、
社会という大きな枠組みの中で
要求されてくるものは
さして変わりはないということだ。

…ああ、サンキュー君が今年も
「ツール・ド・フランス」の話をし始めたな。

ロードバイク(レース自転車)部を描いた
『オーバードライブ』の
ボックスセットもでた事だし、
『茄子~アンダルシアの夏~』や
『かみちゅ!』も合わせて
アニメでの自転車についての話もしようか。
タツオ氏のライブではやったけど、
国井の説明不足で観客の頭の上に
『?』も多かったからだ。
いつかリベンジしたい。

ちなみに国井は「乗る人」なので、
あまりプロ選手やレースは知らない。
欲しいのはデタチャイのテメラリオ。
色で考えるとなんといっても、
トレック2008年のマドン5.2だ(なんのこっちゃ)。
だから、コンタドールの
ファンかもしれない(なんのこっちゃ)。
自民党の谷垣さんは
総裁に就任してからは
自転車の話を聞かないな。(なんのこっちゃ?)

おっと、
話がそれた。戻そう。

スポーツという、
肉体が高速で移動するという
シチュエーションを
「絵で描く」(第三者に見せる)という
ことについて考えていたけれど、
せっかくだから、今回はその逆。
「動かない」「動かさない」という効果に
ついて考えてみよう。


まず、
スポーツやそれに近い「運動」という
観点で静止を考えると、
止める、ということは非常に難しい。
高速で動けば、
難しくなるのは挙動制御よりも、
「確実に止める」技術だ。

車をイメージしてもらえば
わかりやすいかもしれない。

直線だけで構成されたレーンを
高速で走るだけなら、
エンジンを強くすれば良い。
ロケットエンジンを積めば、どんな車でも
速く走る事はできるのだ。
(浮かない、エンジン熱、
 車体の耐久性はさておく)

しかし、
そこに「それを止める」力、
つまり『ブレーキの技術』がともなっていないと
道具としてはなんの使い道がない。
銀河を飛び出す人工衛星や
ミサイルではないからだ。

では次に舞台演劇でイメージしてみよう。
体操やダンスでも良い。

派手にハネたり廻ったりしているのは
それだけで感嘆の息があがるが、
さらに「格好良い!」と感じるのは
それらの動きをしている演者が
「ぴたり」ととまるときではなないだろうか?
すくなくとも国井はそう。

舞台や武道で言う所の
『残心』(ざんしん)だ。

動いていた身体を瞬間的に静止させるのは、
動かす以上の筋力が必要なのだ。

    このお話は次週へ続く。

(今月中に
 『TARITARI』までたどりつけるか?)






最終更新日  2012.07.25 20:16:15
2012.07.13
カテゴリ:金曜…国井咲也
国井咲也の満巻全席  第305席

さて、
先週は「競技会場の全体を見たい」という
嗜好に触れ、考えた。(そうかな?)

試合中にも、ベンチやピット(整備班)に
視線を落としたら、天衣無縫の天才プレイヤと
努力型の秀才プレイヤが激突している以外の
「動き」に気づくかもしれない。
つまり「次に何が起こるか」という期待感と、
予測を立てることによって、
選手やチームの自己評価に反映させるという
面白みを見いだす人も多い。そういうことだ。

では、アニメーションではどうだろうか。

アニメは「絵」である以上、すべて『作り事』だ。
逆に言えば
「作らなければ存在しない」という事になる。
カメラが向いていない場所は
はなから「存在しない」のだ。
ここが実写映画やドラマ(の現場)と
大きく異なる所だろう。

映画などのエキストラだと
「主演の人の後ろを歩いてください」といえば
買い物であれ、カップルのブラブラであれ、
各々が演出の枠を出ない域で
アドリブで動いてくれる(エキストラには
細かい指示はあまりされない)けれども、
アニメーションという「絵」ではそうはいかない。

表情はもちろん、
つま先の向き、膝の曲げ下ろし、指のかたち、
髪型だってそれぞれに「作り出す」ことが
要求される。
だから主要キャラクタのほかにも
「画面に人物が映り込む」状況で、
なおかつ、それらの人物が
主要キャラクタと同等の激しい運動を
おこなっているようなスポーツの描写となると、
これはもう、作業量として想像を絶する。

人間(キャラクタ)だけではない。
「対象と同じ動きをする
カメラで追いかける」場合ならば、
つまりは「背景」(建築など)が
常に動いていなければならない、と
いうことになる。
もちろん、
登場人物は静止しているわけではない。
別れた友人を思いながら、
涙ながらの全力疾走だったり、
迫り来る最新型のモンスターマシンの
動向を気にしながら、
激しくギアやハンドルの
操作をしなければならないのだ。

プロスポーツを設定する物語であれば、
「観客席」の人々も画面上では
高速で動いていなければ
不自然(に感じてしまう部分)が
多くなってしまうのだ。

アニメーションにおける、
会場が満員のコンサート風景のような場合、
テージ上の女の子たちは良く動いているけれど、
実際のミュージシャン(売れている)たちの
ライブビデオなどの映像と比べると、
動く(自走式など)カメラで
「会場にいる観客」というシーンを
見つける事はあまり多くはない。

会場の大きさやファンの総数というのは
『作り事』であるアニメのほうが
はるかに巨大なものとして
設定されているようにみえるのに、
「巨大さ/壮大さ」をスポイルするように、
固定されたカメラワークが基本になっているのは
むしろこの理由からだと推察できる。

絵を描く(時期的に、
描きはじめている諸氏も多い?)人なら
わかるだろう。
背景も込みの絵は情報量(手間)が
圧倒的に増えるのだ。
さらに、スポーツの場合、
『劇中劇』(ステージ)と違って、
カメラのアングルが多角的になる。
「基本的に観客側から舞台をみている」という
形ではないからだ。
たいていのプロスポーツは観客席で
試合用のコートがぐるりと取り囲まれている。

ということはつまり、
一切が別人である観客たちが、
それぞれの表情で、それぞれのリアクションで
コートを注視している衆人環視の下で、
常人ならざる運動能力をもったアスリート達が
とんだりはねたりまわったりするのだ。

絵でこれを徹底的に描写することが
必須となる設定の物語の
アニメなど、それだけでもう
「エベレストを昇るつもりです」と明言している
ようなものなのである。大変な仕事である!

さらに専門でないとはいえ、
学生時代に経験はした人間が多いスポーツが
舞台背景となると、奇跡の人も真っ青の、
何重苦を背負うつもりですかという感じだ。
「体験しているもの」だからこそ、
ファンタジーの境目が難しくなる。
高くジャンプした際に
翼が生えて羽が舞ったり、
小さい光の星が観客を洗脳するかのように
会場を覆ったり、
というようなイメージを
「背景(観客)を隠す」テクニックで
多用してしまうと、そこでその作品は
『ギャグコメディ』と位置づけられてしまう
可能性が高くなる。
このかねあいが試合の流れ決定づける。
まさにトラジション・ゲームだ。(用法不適切?)

すると『黒子のバスケ』はどうだろうか。

おお、まったく翼が生えない。
ダンクを決めるヤツも、パスを回すヤツも
スクリーン(壁になって動きを阻む役)の誰にも
翼が生えてこないではないか!

専門的にはバスケをプレイしたことなどない
国井のレベルではプロスペックの競技者の
動きとして
「どこまでが動いてどこまでが動いていない」かは
もうわからない! ここがすばらしい!

さらに国井的に特筆すべきは

『ユニフォームの胸元をたぐって
 口元の汗をふく』

ここの描写よっ!
ここよ! あたしの視点はここなのよっ!
誰がなんというと、
カッコいい男の子が
「汗をふくしぐさ」って重要なのっ!
きゃぁ! きゃぁぁぁ~!!!

     yuri.jpg

さて。
来週はせっかくだから(?)
動く壁(背景/人物)に対して、
「静止」について考えてみようか。
もちろん、
「絵が動いていないアニメ」などという
話ではない。






最終更新日  2012.07.13 15:21:58
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