帝国の騎士2-1(帝国の兄弟 番外編)
ゲルマニア帝国の帝都ヴィンドボナ、街はゲルマニア皇帝の居城である皇宮を中心に発展しており様々な区画に分かれている。例えば貴族の住まう屋敷が建つ貴族区、平民達の住居や店が並ぶ平民区などが代表的なものであるが、その区画の一つにイルバル区と呼ばれる区画があった。この区は皇宮の周囲に建ち並ぶイルバル宮を中心とした区画であり、ナイトオブラウンズを始めとする騎士達の活動所点であった。そのイルバル宮の訓練場に今、二人のラウンズの騎士が向き合っていた。一人は長身で金髪の青年、ナイトオブスリーの地位に就くジノ・ヴァインベルグ。そしてもう一人がナイトオブフォー、褐色の肌と黒髪の女性ドロテア・エルンストであった。ジノの手には槍が握られており、纏った訓練着は汗と土で汚れていた。対するドロテアの手には何も握られていなかった。武器を持った者対無手の者、その有利不利は明らかである。しかし二人の形勢はその全く反対となっていた。すなわちジノの劣勢。これが二人の実力の差を明確に示していた。ジノ・ヴァインベルグは神経を、感覚を限界まで研ぎ澄ました。もう使える体力はそれほど残っていない。勝負を決めるのはほんの一瞬の好機に己の瞬発力を爆発させられるかどうか。目の前の相手ではそれすらも危ういのだ。ドロテアの一挙一動に集中する。険しい表情のジノに対してドロテアの様子は対照的なものであった。余裕すら感じられる立ち姿、笑みこそ浮かべていないものの危機感を感じていないかのような穏やかな表情。そこにジノは焦りを感じていた。「来ないのであればこちらから行くぞ」地面を蹴り飛ぶように近づいてくるドロテア。悔しいが身体能力と言う点ではドロテアはジノよりもはるかに上の能力を持っていた。ジノの槍が高速の突きを放つが、その全てを紙一重で避けていく。当然の事ながら訓練とは言え槍の先端の刃は潰されていない実戦用のものだ。槍の穂先に触れて揺れた彼女の前髪を睨みながら、ジノは巧みに立ち位置を変えながら距離を詰めさせないように攻撃を続けた。しかし次の瞬間、突きを繰り出すべく引いた槍の動きが止まった。否、止められたのだ。槍の中程をドロテアの手が掴んでいる。疲れているとは言え手加減などしているわけもない。それなのに高速で動く槍を掴まれ、ジノは焦りと悔しさで顔を歪めた。そしてすぐにやって来るだろう攻撃に備える。「反応が遅い!」怒声と共に槍を持つ手に衝撃が走る。長い脚が振り上げられており、左手の甲に爪先がめり込んでいる。痛みと痺れが手から腕へと伝わりジノの槍を操る動きが鈍くなった。その隙をドロテアは見逃さない。ジノの意識が手元に向かっている事を察知して蹴りを繰り出した足を素早く戻し、今度はジノの脇腹と膝をめがけて放たれた。短い呼吸音の後、風を切る鋭い音。ジノは咄嗟に脇を締め脇腹へのキックを肘で防ぐが膝への攻撃はまともに受けてしまう。万全であれば堪えられた一撃も長く厳しい訓練で疲労の溜まった足には重く響く。急に力が抜け膝ががくりと落ちた。「ッ!?」「気を抜くな、馬鹿者!!」僅かな注意の散漫、視界からドロテアの姿が消える。気配と空気の流れを辿っていくが、ジノがドロテアの姿を捉える前に勝負は決してしまった。視界が大きく回る。体が宙に浮く感覚、遅れて背中に大きな衝撃が走った。喉から空気の塊が吐き出される。重い瞼を押し上げると青い空がジノの目に飛び込んできた。そして厳しい表情をしたドロテアがジノを見下ろす。「まだまだ鍛え方が足りん。長い得物のリーチを完全に活かせないとは情けない」いやいや、それは相手があんただからだろう。心の中でそっと呟く。「ラウンズたる者、魔法だけが優れていれば良いわけではない!あらゆる武術、体術を駆使して最大限に敵を殺す、それがラウンズの戦い方だ」よろよろとジノが立ち上がる。ドロテアはその様子を睨むように見て、やがてため息をついた。声の調子からやや棘が消える。「お前達は現時点ではラウンズに足る能力をどうにか満たしていると言った所だ。うかうかしていると誰かにその地位を持っていかれるぞ」「はい・・・」「お前は肉体的にも精神的にも今が成長期だ。鍛錬は怠るなよ」悔しいがまだ自分は他のラウンズのレベルにはない。ジノはギッと拳を握り締めた。その時、不意に別の声が二人の元へと届く。「ドロテア、今日はその辺にしてあげて」二人が声のした方を見る。ナイトオブトゥエルブ、モニカ・クルシェフスキーだ。普段はスカートを身に付けている彼女だが、今日は訓練に参加した事もありパンツスタイルである。手には黄緑色のマントを持ちこちらへと歩み寄って来る。その背後にはジノと同じようにふらふらの様子のアーニャが付き従っていた。ジノとアーニャが視線を合わせる。そうか、お前もか、言葉もなしに二人は軽く頷き合ってお互いの頑張りを労った。「今日はジノとアーニャをランぺルージ大公の屋敷に連れていかないといけないのよ」「ああ、なるほど。明日は帝国議会に出席しなければならないからか」「そういう事」仕方ないなとドロテアが言う。「ジノ、明日は議会の前に皇宮へ集合する事になっている。我々は皇帝陛下と共に議場へ向かう。言っておくが絶対に遅れるなよ」「Yes, my lord」「それでは行って良し!」そう言うとドロテアは副官に持たせていたマントを肩にかけ宮殿の中へと戻っていく。いつの間にか集まっていた観衆もそれぞれの持ち場へと戻って行った。ジノは部下からタオルと水を受け取ると頭から水を被る。火照った体から熱が奪われ気持ち良い。「ドロテアにたっぷり扱かれたようね」クスクスとモニカが笑う。かく言うモニカもアーニャの担当でなかなか厳しいと聞いているのだが、目の前の彼女からはそれが想像できない。知らない方がいいんだろうなとジノは思った。ラウンズの中でも随一の女性らしさを見せるモニカ、そのイメージを壊さない方が精神的には良い。「さ、その格好でルルーシュ様に合うわけにはいかないでしょう。早く着替えてきなさい。アーニャもよ」「「Yes, my lord」」どうやら休む暇もないようだった。「あれ?」ラウンズ専用の騎士服に着替え、それぞれ濃緑色と桃色のマントに身を包んだジノとアーニャがモニカに連れられイルバル宮の門へと行くと、そこには二台の馬車が止まっていた、そしてその前に一人の青年が立っている。彼の顔を見て、ジノは思わず声を上げた。彼もジノ達に気付いたのか、少しだけ頬を緩めてすぐにモニカを見て表情を引き締める。「皆様を屋敷へお連れするようにとランぺルージ大公から仰せつかっております。どうぞ、お乗り下さい」「ありがとう」モニカは軽く彼に会釈を返すとアーニャと共に後ろの馬車へと乗り込んでいく。ジノは彼の隣に並ぶと楽しげに笑った。「久しぶりだなぁ、リヴァル。お前どうしてここに居るんだ?」「お前・・・、俺は先輩だぜ?」「まあいいじゃないか。で、なんでルルーシュ先輩の所で働いてるんだ?」ルルーシュは先輩で俺はタメ口かよなどとリヴァル・カルデモンドは少しだけぼやくと仕方なくといった調子で答える。「俺、この冬からルルーシュの秘書官として働いてるんだぜ」「へえ、父親が反発しなかったのか?」「まあ俺の家も没落しちゃったしな。俺が働かないと家族が食っていけないし。それに皆が学院やめちゃったから詰まんなくてさ」「なるほど」「ま、俺の話は後でゆっくりやるとして。とりあえずさっさと乗ってくれよ」リヴァルが馬車の扉を開く。ジノは馬車へと乗り込もうとして、中に先客がいる事に気付いた。それはジノが良く見知っている人物だった。「エニアグラム伯爵じゃないですか!」「やあ、ジノ君。久しぶりだなぁ」クラウス・エニアグラム、ナイトオブナインであるノネット・エニアグラムの実兄であり北部の武門エニアグラム家の長男である人物だ。ノネットが豪快な気質であるのに対してクラウスは穏やかな落ち着いた性格で、ジノにとっては気さくに話せる相手でもあった。「いつも通りクラウスで良いよ」「それじゃあ御言葉に甘えて・・・、クラウスさんもルルーシュ様の所へ?」「勿論だよ。父上が隠居したいと言いだしてなぁ。春から私が家督を継ぐ事になったんだ。だから今回の議会は私が元老院議員として出席する事になっているんだ」「へぇ・・・」「何分初めての経験だろう?結構緊張しているんだが、ジノ君も一緒だと少し心強いな」「ははは、まあ俺はラウンズ枠での出席ですけれどね」馬車がゆっくりと動き始める。リヴァルは二人に気を利かせたのか、御者の隣にでも座っているらしい。「ところで・・・」ふとクラウスが口を開いた。「君は知っているかな?トリステインとの同盟交渉はツェルプストー辺境伯が交渉役を務めるそうだよ」「ツェルプストー?本当ですか、それ」「ランぺルージ大公が指名したそうだよ。あの御仁もランぺルージ大公に擦り寄ったかいがあったというものだろうな」西部の名門ツェルプストー家が以前よりルルーシュ寄りの立場を取っているのは有名な話だ。ルルーシュの筆頭騎士であるジェレミアの妻はツェルプストー家の出であり、弟のロロの留学にも娘を同行させている。その成果もありツェルプストー家はかつての権力を取り戻し始めていた。「トリステインとの交渉は上手くいっているんですか?」そうジノが尋ねるとクラウスは人の悪い笑みを浮かべた。「いや、全然」「はい?」「交渉にはクルデンホフル大公家とクロヴィス殿下が仲介に入っているんだけれど、肝心のトリステイン側の代表がなぁ。よりにもよってヴァリエール公爵なんだ」「え・・・、それはちょっと無茶な話じゃ・・・」クラウスの言葉を聞いた聞いたジノが顔を引き攣らせる。トリステインのヴァリエール公爵とツェルプストー辺境伯の確執は有名な話で、両家が長年戦場や社交界で対立してきたのはジノも知っていた。そんな二人が軍事同盟の交渉をした所で纏まるとは思えなかった。「何でそんな人選が?」「これもランぺルージ大公の指名だそうだ。まあ、実際の所『ゲルマニアはまだ同盟を組む気は無い』って事だろうな」現段階ではアルビオン王国はまだ健在である。そんな状況での同盟形成ではトリステインも譲歩する気はないだろう。だがこれがレコン・キスタによる脅威が現実化した状況でならばどうなるだろうか。レコン・キスタの地上への野心は明らかで、トリステインは格好の獲物である。トリステインも危機が目の前に迫れば多少の不利な条件も少しならばと譲歩する気になるだろう。つまりこの人選はゲルマニア側の同盟交渉を遅らせる意図があると言える。そしてもう一つ、マザリーニ枢機卿による政治の舵取りに対する妨害。マザリーニ枢機卿は先見の明がある人物である。故にこの軍事同盟を推進する立場にあった。本来ならばその交渉役には彼が付くはずだった。その為この交渉が長引けばマザリーニが強引に口出しをしてくる可能性はかなり高い。もしマザリーニがそうした手段に出ればその強引な手に対する反発は少なからず起こるだろう。トリステイン内で反マザリーニの気運が巻き起り、そこに付け込む事が出来ればゲルマニアは外交上有利な立場に立てるのだ。一石二鳥の謀、それがルルーシュの目論見だった。「なんて言うか、政治って面倒ですね」「それが貴族の仕事だからな」クラウスは肩を竦めて見せた。馬車は揺れながらイルバル区から貴族区へと入っていく。向かう先はランぺルージ大公の屋敷、すなわち北部貴族の派閥会の会場である。