劇中、ギンコが蟲師のたまり場で仲間に言われる言葉に
印象的なのがあった。
「ギンコは探幽の業平だからな」
これで、探幽とギンコは悲恋に終わることが暗示される。
そして狩房家を訪れ、外に出てつかの間の安らぐ時間を過ごす二人。
探幽が言う、
「たまの義太夫は、恋だの死んだのと、好かん」
は、義太夫で唄われる道行きから、伊勢物語を連想した。
「ギンコ、これは(二人が外に出て風景を見ていること)道行だぞ」
と、嬉しそうに探幽が言う。道行とは駆け落ちのこと。好きなんだねえギンコのことが。
伊勢物語は業平が高貴な身分である藤原高子を背おい、
荒れの原(名前失念)を夜通し走り、芥川の辺に着き、あばら屋に高子を隠したが
そこは鬼がいて(というのは嘘で高子を取り戻された)、高子は・・・
という悲恋の話なので、
この二人はどうしてもあい結ばれない、ということが分かる。
などと解釈してみる。
しかし、試写会で観ていた若い人たちに、はたして
道行 の意味が分かるだろうか。
分かれば二人の関係にとても興味がわくのだろう。
ツキガミに憑かれたヌイが村の道を歩き、ヨキを求め
村の子の手を取る、が振り切られてしまうが
山奥のあばら家から男が出てきてその手には子どもの死体が・・・
というところは子どものヨキを求め続け
叶わぬとツキガミとして取り付いてしまうんだろう。
ギンコが回復し、狩房家を出るとき、見送りにはたまだけで
その隣に立つべき人探幽はなく空間があるだけ。その空虚な広さ。
などは、探幽の寂しさ悲しさの表現だろう。こういう表現、好き。
沼に入るヌイが力強くヨキを突き放したのに、めしいになったヌイはなぜ
ヨキを呼びそばに居ろといったのか?
ギンコがヌイを救うときあばら家から光が出たのは?
最後にヌイが白く発光したのは?
など、原作を読んでいないと分かりづらい部分があるにはある。
難しいとかじゃなく。
前半面白くて後半がごちゃっとして、そこだな。
映像としては、探幽が文字を捕まえて巻物に戻すところが
かっこよかったなあ。
。。。。。。。。。。。。
2日経って思い返すと。
ひょっとしてこの映画は、
小津安二郎とか木下恵介とかそういう系統?
そう理解すれば、淡々と描かれる世界に納得できるのではないだろうか。
この映画に反応が弱い人は、
「味わう映画」に出会ったことがないのでは。
おそらく。この作品も何年か後に高い評価を得るのではなかろうか。
黒澤作品のように。
続きは3/16「旅芸人入るべからず」