~あるがままの愛しさ~ しぃ・こーちんぐ

2006/04/29(土)20:14

自らの命を絶つことの衝撃

痛い。。。(11)

私はコーチングと共に再評価カウンセリングというのも勉強している。 これは「抑圧された感情を解放する」ために、専門家ではなく、 普通の人同士がカウンセラーとクライアント役を交代しながら 聞きあい、感情を吐き出しあうものである。 これを生活の中で活用するようになって気づいたのは、 どれだけ日常生活の中で私たちが感情を抑圧して生きているか、 そしてそのこと自体に多くの人が気づかないでいるということである。 子どもは、転んだらその痛みをしっかりと受け止め、 大泣きした後、ケロッとして笑顔で遊んでいる。 泣くこと、震えること、汗をかくこと、どれも緊張・恐怖・不安・痛みの感情を 体の中にためずに解放する方法であり、そうやって自然治癒力を高めている。 しかし、これらの、いわゆる負の感情は、社会の中で表立って表現することを 許されてはいない。 とはいえ、行き場のなくなった感情を、抱えておくとしんどい。 だから、痛みを感じないように、存在すら気づかないようにと、 感情はますます抑圧されるようになる。 そうして「ストレス」となった抑圧された感情は、 八つ当たり、やけ食いやけ飲み、買い物、カラオケ、女、暴力、病気など、 手を変え品を変え何とか外に流れ出ようとする。 痛みや恐怖を感じるのは、命あるものとして当然のことだと思う。 しかし、それをその感情のまま存在を認め、許してあげなければ、 妬みや暴力となり、戦争や殺人へと変わっていく。 しかし、この暴力や戦争が人間の本質だとは、私は決して思わない。 生命体として持つのがあたりまえである「恐怖」という心が現れているだけなんだと。 ではなぜ「恐怖」があるのか。 生命としては種を存続させること、自我を安全な場に留めておくことが、 おそらくDNAの中に刻まれてしまっている、というのがひとつの原因だと思う。 そうして、もうひとつは、、、 それは、人間が、果てしなく優しく賢い生き物だからなんだと思う。 今日、自分の悲しみや恐怖にスポットを当てるところからカウンセリングを始めたのだが、自分の悲しみを味わいきった後、ふと浮かんできたのは、毎日通勤に使っている中央線が頻繁に人身事故のため止まることだった。 どれだけの苦しみと絶望を抱えて、その人はホームを蹴ったのだろう。 その人の苦しみ、残された人たちの砕け散る心、現場に立ち合わせた人たちの衝撃。 全てをひとつひとつ手に取るかのように味わいながら、私は泣き叫んだ。 全く知らないその人たちの、行き場のなかった痛みを、その人たちに代わって 心ゆくまで私は震え、おののき、金切り声をあげ、叫んだ。 そんな自分を、遠めに冷静に観察している自分は、 電車が遅れている理由を「あぁ、またか」と涼しい顔で聞き流していた 最近の私を思い返していた。 あれは私が冷たい人間になったからではないんだ。 人はあまりにも優しく、生命を自ら絶つということはあまりにも衝撃的で、 目を伏せずにはいられないのである。 再評価カウンセリングを通して自分の感情を味わう経験をするまで、 私はこんな自然なことにも気づけなかったのである。 そうして自分の悲しみと、人類の悲しみを味わいきったあと、 訪れるのは、静寂であり、安堵であり、慈しみであることも、どうしても伝えておきたいのだ。 どこまでも深く、深く、潜った最後に現れる、揺るがない岩盤。 絶対的な安心感と生命力。 全ての人間の中にある、本質という名の大地。 そこまで、人が安心してじっくりと潜っていくための道具として 私は生きていきたいと思う。

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