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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2020.12.01
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​​石塚真一「BlueGiant Supreme 11」(小学館)


​ 10月のマンガ便で届きました。「ブルージャイアント ヨーロッパ編」最終巻です。​
​​​ 仙台の広瀬川の堤防で、初めて手にしたテナー・サックスの練習に夢中だった、高校生宮本大くんが、ヨーロッパに渡り、そこで出会った3人のミュージシャンとマネージャーのガブで結成したカルテット「DaiMiyamoto NUMBAR FIVE」の成長の物語でした。
​​​ 
​​​​小柄なドイツ人女性ベーシスト、ハンナ・ペータース。神経質なポーランド人で、正確でストイックなピアニスト、ブルーノ・カミンスキー。いかにもフランス人らしく、「音楽の自由」を体現しているドラマー、ラファエル・ボヌー。そしてアジアからやって来たテナー・サキサフォン奏者宮本大が、ヨーロッパの北の果ての街、ノルウェーのモーシェーンまでやって、ヨーロッパ最後のライヴに挑みます。​​​​
​​ 133回目の、このライヴで、宮本大君「サンキュー、ヨーロッパ!」の言葉をのこして、ジャズの聖地、アメリカに向けて旅立つわけです。​​
​​ ここまでに、作者石塚真一の手によって描かれているのは、「DaiMiyamoto NUMBAR FIVE」カルテットが、ヨーロッパでたどり着いた、音楽のすばらしさが、国境や性別、個々の嗜好を越えて結実していくという、ビルドゥングスの物語の、ひとつの頂点だった思いました。​​
​​​​​ こういう、台詞なしの演奏シーンのすばらしさがぼくは好きですが、「オレは行くんだ。」という叫びが、ページいっぱいに響いてくるこのシーンを書いたからには、石塚真一もまた、宮本大君とともにアメリカで苦労するほかないのではないでしょうか。​​​
 すでに「BlueGiant  EXPLORER 1」は発売されています。ニュー・ヨークではなく、東海岸の町シアトルに上陸した宮本大君ですが、彼に、どんな物語が待ち受けているのか、ホント、楽しみですね。



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最終更新日  2020.12.01 01:01:22
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2020.11.30
「100days100bookcovers no36」(36日目)
 ​水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)​


​​あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり​​
​ ​​​​謡曲の「井筒」紀有常女が謡う(これでいいのかな?)和歌はこんな短歌でしたね。「古今和歌集」巻1、春の部に 「さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける」と詞書があって「読み人知らず」として載っていて、これに対する返歌が下の和歌です。​​​​
​​けふ来ずはあすは雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや​​
​ ​​​面白いことに、こっちには在原業平という読み手の名前が出てきます。「伊勢物語」の十七段に、二つの和歌の「詞書」も、まんま出ていますから、そっちが先でしょうか。​​​
​​​​​​ 謡曲の「井筒」というのは世阿弥の作ですね。そもそも、「伊勢物語」ネタで、二十三段「筒井筒」に登場した少女が思い出に浸るとでもいう「物語」だったと思いますが、世阿弥の天才は、待ち続ける、こういうお面をつけた女性が「井筒」を覗くところにあると思うのですね。
「井筒」というのは井戸のことですが、その井戸をのぞきこむと、まあ、そこに何が映るかというところに「ドラマ」があるわけです。​​​​​​

 なんていうふうに書くと、シマクマ君「お能」について知っているに違いないと「生徒さん」達は騙され続けた30数年だったわけですが、実は、ぼくは「お能」なんて100%知りません。どこかの神社の能舞台で現代演劇をやっているのを見たことはありますが、「お能」体験は皆無です。
 というわけで、DEGUTIさんの紹介を読んで、ただ、ひたすら「どうしようかな?」だったのです。
 白洲正子は食わず嫌いやし、松岡心平はちゃんと読んでないし、そういえば観世寿夫「世阿弥がどうたら」というのがあったけど、ああ、多田富雄「免疫の意味論」はどこにあったっけ。まあ、「お能」がらみのなけなしの知識の周辺を、そういう調子でウロウロしていたんです。
​ でも、まあ、偶然というのはあるものなのですね。最初に書いた「あだなり」の和歌が、コロナ騒ぎのステイホームで読んでいた一冊にジャストミートしていたのです。「井筒」と聞いて、そこだけ、なんか知ってるぞと思いだしたのがこの本です。​
 ​水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)​
​うすべにの けだものなりし いにしへの さくらおもへば なみだしながる​
​ ​なんていう現代短歌の歌人で、三島由紀夫に見出されたということが妙に有名な春日井健という歌人のお弟子さんです。
 登場以来、若い若いと思っていたら、今や還暦だそうで、新古典派の、何といっても名前がいい、水原紫苑「桜論」です。​
 「古今和歌集」から現代の「歌謡曲」まで、「桜」の毀誉褒貶を、まさに縦横無尽に論じている評論ですが、メインは「梅」から「桜」へと移り変わる「平安王朝400年」の時代と歌人の「詩意識」の変遷を100首以上の和歌に注釈を施しながら、紀貫之の「古今集」から、「新古今」、西行、定家へと辿る前半150ページでした。
 後半は、能から、江戸文芸を経て、近代文学の「桜」を話題にしています。たとえば、本居宣長にこんな和歌がありますね。
​​しき嶋のやまとこころを人とはは、朝日ににほふ山さくら花​​
​ 彼女に言わせればこうなります。
​​「ここには『枕の山』のような無邪気さが無い。これ見よがしな、いやなうたである。」​​
​ ときっぱりと切って捨て、こう言い加えます。
​​「まして、宣長のあずかり知らぬこととはいえ、太平洋戦争末期の1944年10月、最初の特攻隊が、この歌から「敷島隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と命名されことを思うと、やり場のない憤怒を一体どうしたらいいのだろう。」​​
​ ぼくは、彼女の歌には当然漂っているわけですが、このナイーブな言い切りの、気っぷのよさのようなものが好きなのですが、現代口語短歌に対する評価も、シャープだと思います。
さくらさくらさくら咲き始め咲き終わりなにもなかったような公園 
                          俵万智
​ ​例えば俵万智のこの歌についても、こんなふうにいっています。​
「文体こそ口語だが、内容は王朝和歌そのままで、桜の加齢と空虚を簡潔に言い当てている。」
俵万智については、只者ではない実力はわかったが、基本的に健康な世界観が、死や破滅が大好きだった私とはあわなかった。」
​「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に                         穂村弘​
​ 人気の現代歌人、​穂村弘​のこの歌に対してはこうです。
​「もうすぐ私たちは死んでしまうのに、こんな子供みたいなことを言ってどうするのだろう、と思った。」​​
​ ね、この視点です、ぼくが好きなのは。
​ もっとも、最後の疑問に穂村弘はこう答えたそうです。​
​​「僕たちは死なないかもしれないじゃないか。」​​
​ というわけで、今回も「ネタ本」系なのですが、最近の読書報告ということでバトンを引き継ぎます。YMAMOTOさんよろしくね。​(Simakuma・2020・08・17​)


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最終更新日  2020.11.30 00:03:37
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2020.11.29
​​内山節「戦争という仕事 内山節著作集14」(農文協)


​​​ フェイス・ブックというSNS上で知り合った方が、「二十四節季の暦」の記事を投稿されていて、ぼく自身も、自宅の「某所」に下がっているカレンダーが、その暦だということもあり、うれしくなったのですが、ちょうど読んでいた内山節という哲学者の「戦争という仕事」というエッセイ集に「断片化」という題で二十四節季をめぐる話がジャストミートしました。​​​
​ とりあえず、その記事を引用してみます。要点を整理すればいいようなものですが、内山節という人の書き方も知っていただきたいので、全文書き写します。​
「断片化」
 いつの頃からか私のなかには、普通のカレンダーの暦と二十四節季の暦とが、二重に存在するようになった。それは、上野村で農業をすようになってからのことで、農事暦や村の暮らしの暦としては、二十四節季のほうが的を射ている。

 たとえば二十四節季では、今年(2005年)は三月五日が「啓蟄(けいちつ)。虫が冬眠からさめる日である。上野村では、ちょうど咲きはじめたフキノトウの花に蜂がやってくる頃で、私も近づいてきた春を感じながら、そろそろ春の農作業のことを考えはじめる。そして三月二十日は春分。私が土を耕しはじめる季節の到来である。今年は十月八日が寒露、二十三日が霜降である。この頃私は、秋野菜のの成長を見守りながら冬の備えを積み重ねる。こんなふうに、村で自然とともに暮らしていると、二十四節季のほうがなじむ。
 ところがその私も、東京にいるときは、カレンダーの暦で暮らしている。仕事のスケジュールなどが、普通のカレンダーの暦でつくられているのだから、それに合わせる他ない。
 このふたつの暦は、私にとってはずいぶん質が違っている。二十四節季から私が感じ取るものは、自然であり、季節、村での仕事や暮らし方、村の様子である。それは、あらかじめつくられている暦なのに、私の一年がつくりだした暦のような気さえする。それに対してカレンダーの暦はまるで私の上に君臨しているような感じで、たえず私を圧迫しつづける。
 二十四節季には、暦とともに、つまり時間とともに生きているという充足感があるのに、カレンダーの暦にむかうと、消えていく時間、過ぎ去っていく時間ばかりが感じられて、時間自体のなかに充足感がなくなる。
 労働は時間とともに展開する肉体的、精神的な活動である。たとえば、私たちは一日の八時間を労働として活動するように、労働には必ず時間が伴われている。ところがその時間の質はひとつではなく、労働とともに時間をつくりながら生きているという充足感に満ちた時間も、消えていく時間の速さに追い立てられるばかりの時間も現れてくる。
 もちろんどんな暮らし方をしていても、人間が時間に追われることはあったに違いない。私の村の暮らしでも、近づいてくる夕暮れに追われながら、その日の畑仕事に精を出すことはしばしばである。だがそれでも、東京の時間=現代の時間とは何かが違う。村では、自分がつくりだした時間のなかに、忙しく作業をこなさなければいけないときが現れてくるのであって、人間の外に君臨する時間に支配され、管理されるわけではないのだから。
 このようなことの背景には、結ばれていく時間と断片化していく時間との違いがあるような気がする。村の時間は、結ばれていく時間である。仕事の時間と暮らしの時間が結ばれ、それは自然の時間や村の一年の時間とも結ばれる。啓蟄になると、虫がでてきて、畑のときが近づき、人間たちの春の暮らしがが始まり、村は次第に春祭りへとむかっていくようである。この結ばれていく時間のなかに、みずからがつくりだしている「生」がある。
 ところが、カレンダーや時計に管理された現代の時間には、このような結びつきが感じられない。仕事は仕事の時間に管理され、それだけで自己完結してしまう。つまり断片化しているのである。暮らしの時間はさらに断片化し、それぞれの個の時間として自己完結する傾向をみせている。自然の時間や地域の時間との結びつきも切断されていく。そして、断片化したそれぞれの時間を、カレンダーや時計の時間が管理する。
 創造的とは、総合的ということとどこかで関係しているのだと思う。村では創造的な農業をやろうと思えば、自然のことも、村や暮らしのことも知らなければできないように、どんな仕事でもそれがさまざまな領域と結びついているとき、仕事の創造性も生まれる。
 私たちは、結ばれていく時間を失ったとき、創造性も失ったのだと思う。断片化された時間から生まれてくるものは、時間の管理であり、それと同時に私たちは、時間をつくりながら生きているという充足感も喪失した。
 そして、だから私たちの前には、豊かなのに豊かではないという現実がある。
                 ​(「戦争という仕事 著作集⒁」P274~P276)​
​ ​内山節​という哲学者は、新コロちゃん騒ぎでウロウロ徘徊することがはばかられるようになって、読み始めた人です。ちょこちょこと読んで、名前は知っていた人ではあるのですが、農文協という所から全部で15巻の著作集が出ていたので、読みでがあるかなという気がして、とりあえず、第14巻「戦争という仕事」を借りてきました。​
​​ 2004年から2005年にかけて、「信濃毎日新聞」に連載された「哲学の構想力―仕事をめぐって」という連載に、「戦争の世紀」、「世界の変わり目を感じる」という2本の原稿が追加されて、まとめられている1冊でした。​​
​ 題名が気に入って、借りたのですが、「哲学の構想力」だったら後回しになっていたと思います。読み始めてみると、内容はかたい書名とは裏腹で、日々の暮らしのなかに話題を見つけたエッセイ集でした。​
​​ 内山節は、著作集にまとめられた思索の過程を貫いて、「労働」、「仕事」、「働くこと」を考え続けている哲学者だと思います。​​
​​​​​ このエッセイでは人間に共通の営みである「働く」ということを考えはじめれば、「時間」ということを考えることは避けてはいられないし、そこで感じている「時間」のなかに、その時々の人間の生きている姿が映し出されているということが語られていると思いますが、ぼく自身、コンクリートの箱に住み、その、冷たい壁に、なぜ、二十四節季の暦をかけて、毎日読み返すのか、なぜ、SNSに投稿される「小雪」とかの記事に心惹かれるのか、少しわかったような気がしました。​​​​​
 読み終えて、ヤッパリ本を手に入れたくなったのですが、叱られそうなので躊躇していますが、どうなることやらという感じです。

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最終更新日  2020.11.29 00:09:21
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2020.11.28
​​​​​ 北村薫「詩歌の待ち伏せ 下」(文藝春秋社)​


​​​​ ミステリー作家、北村薫「詩歌の待ち伏せ」(文藝春秋社)ですが、「上巻」を以前、案内しましたが、今回は「下巻」の案内です。​​​​
​ 本書は文春文庫版「詩歌の待ち伏せ(1・2・3)」となって、出ていましたが、最近、「詩歌の待ち伏せ(全1巻)」(ちくま文庫)といういで立ちで、「筑摩書房」が復刊しているようです。​この文庫版は、「続」も収めているようで、お得ですね。
 ぼくが手にしているのは、単行本の上・下巻ですので、それぞれの文庫版との所収内容の異同はよくわかりませんが、単行本の下巻の内容は、「オール読物」(文藝春秋社)という月刊誌の2001年9月号から、2003年の1月号に掲載された記事がまとめられているようです。
​​​ まず、いきなり読者の心をつかむのが、土井晩翠の長編詩「星落秋風五丈原」(「星落つ秋風五丈原」と読みますが、)の一節に対して、北村薫が、みずからの子供の頃の記憶をめぐって、繰り広げる「ことば」探偵ぶりです。​​​
 この詩の題名を見て「三国志」諸葛孔明の最後だとピンとくる人は、よほど「三国志」のお好きな方でしょうね。ぼくよりお若い方で、ピンとくる人がいるとは、ちょっと想像できません。
 とてつもなく長い詩なのですが、今回の話題のためには、第1章の第1連があれば十分ですのでここに載せてみます。
星落秋風五丈原  土井晩翠

祁山悲秋の風更けて

陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病篤かりき
​ 島崎藤村「初恋」という詩がありますが、「まだあげ初めし前髪の」の、あの詩と同時代の作品ですが、まあ、対照的ですね。
​​ で、この土井晩翠の詩を北村薫は小学生の頃に暗唱して覚えていて、その暗唱を思い出す機会があって、ふと、疑問に思う事柄に出会うのです。​​
​ ところで、この記事をお読みの皆さん、北村薫さんは、この第1連の詩句を正確に暗唱すればするほど、はてな?と思う1行があることに気付くのですが、それは何行目だったでしょう?​
​​​​​ 高校生や大学生の皆さんであれば「零露の文」とか、「鼓角の音」あたりに引っかかってしまうでしょうね。
 たしかに、普通では出会わない漢語表現ですが、辞書を引けばわかります。前者は草露の様子で、「文」は文章の意味ではなけて、模様「あや」を意味しています。後者は軍を鼓舞する笛太鼓をあらわす言い回しです。「角」は角笛でしょうね。​​​​​

​​​​​ 問題の個所は、第1行「祁山悲秋の風更けて」なのです。この1行目の終わりの語句が「風吹きて」か、「夜更けて」の、誤植ではないかと考え始めたところから、「風更けて」という、言い回しの正否に対して北村探偵が活躍し始めます。​​​​​
​ 「『風更けて』か?そういえば、変だなあ。」
 そう思わなくても文章は面白いのですが、そこは、やはり、なるほど変だと思った方が、ノリはいいわけです。かくいう、ぼくは、なんか、どこかにあったような、という、いつものボンヤリなのですが、もちろん、北村探偵の方は、きっちり仕事をなさっています。​

 ミステリーのネタバレは、御法度です。そうはいっても、これでは案内にならないので証拠品だけですが、ここに掲示します。
​​さ筵や待つ夜の秋の風更けて月を片敷く宇治の端姫​​
​ 新古今のあの歌人だったのですね、犯人は。
​​​​ 「風更けて」「月を片敷く」というような表現は、当時、「達磨歌」と非難された新しい発想だったそうですが、やがて新風として「影ふけて」とか「音ふけて」という使い方に広がったということも捜査報告書に書かれているのですが、北村探偵は、そこからもう一歩踏み込み、鎌倉後期の歌人にまで捜査の手を広げたうえで、明治の詩人、土井晩翠の「言語感覚」に戻って筆を擱きます。​​​​
​ 北村少年の「暗唱まちがい」という疑いは見事にはらされたわけです。​
 そのうえ、ボンクラな読者は、平安朝末期の「詩意識」の変化の現場を、実例付きで勉強できたという決着で、お見事としか言いようがありません。
​​ 付けたしのようになりますが、本書について、もう一つ、これは是非という文章があります。最終章に記された、病床の歌人中城ふみ子と編集者中井英夫との間で交わされた「最後」の手紙に関するエピソードです。​​
衆視のなかはばかりもなく嗚咽して君の妻が不幸を見せびらかせり
冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか
​ 中条ふみ子の、この二つの短歌を上げた後、乳癌末期で死の床にある歌人と、東京の編集者との間で交わされた「愛の手紙」の謎についてです。​
 まあ、ここから先は、立ち読みででも結構です。本書を手に取っていただくほかはありませんね。
​​​ ところで、この「詩歌の待ち伏せ」(上・下巻)の装幀ですが、上巻が「青葉・若葉」、下巻が「紅葉・落葉」とシャレていて、本書中のイラストも面白いのですが、大久保明子さんのデザインで、イラストは群馬直美さんという方だそうです。​​​​こういう本は、手に取るだけでも楽しいですね。
追記2020・11・29
「詩歌の待ち伏せ(上)」​の案内は書名をクリックしてください。
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最終更新日  2020.11.29 00:19:34
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2020.11.27
​​​オム・ユナ「マルモイ」元町映画館​


​ 2020年の秋、だから今年の秋ですが、辞書を作る映画を2本みました。1本目は「博士と狂人」というイギリス映画で、オクスフォード英語辞典Oxford English Dictionary、通称OEDの誕生秘話とでもいう映画でした。​
 登場人物や、映画としての物語についてはここでは触れませんが、辞書を作っている人の「ことば」の集め方が、「失楽園」とか「聖書」とか、書物での使用法の引用をメインにしていたことが印象的な映画でした。
​​​​ 2本目がこの映画「マルモイ」でした。
 チラシの副題には「ことばあつめ」と記されています。「マル」は朝鮮語で「言葉」「モイ」「集める」という意味だそうです。「言葉+集める」で、朝鮮語では「辞書」という意味になるそうですが、この映画は、文字通り半島全土で使用されている日常語を「集める」様子を描いた映画でした。​​​​

​​ 文盲で「置き引き」や「すり」を働いて二人の子どもを育てている、刑務所帰りのキム・パンスという男と、留学帰りで、朝鮮語学会を率いるエリート、リュ・ジョサンという、インテリ青年の出会いから映画は始まりました。​​
​​ キム・パンスを演じる、ユ・ヘジンという役者さんが我が家では人気で、実は、この日も同伴鑑賞でしたが、期待にたがわぬ大活躍でした。
 辞書を作ろうかという真面目な人たちや、なぜか、京城中学というエリート学校に通う中学生の息子や、小学校に上がる前のかわいくて利発な娘にかこまれて、「フーテンのトラ」の、渥美清もかくやという大活躍でした。​​

 脚本の力でもあるのでしょうが、本来、抵抗映画として重くなるほかはない映画全体を、彼の存在が明るく、勢いづける原動力となっていて、大したものだと思いました。

 映画を見終わって、チッチキ夫人が、ぼそりといいました。
「映画の中のいろんなことが、ああなったのって、日本人がやった事でしょ。映画の中で、頑張っている人に、そうだ、そうだと思いながら、なんだか悲しくなってきたわよ。」
「うん、あの、オニーさんの方が留学から帰国したソウルの駅前で、子どもたちが言うたやろ、日本語で。ぼく、朝鮮語できません、って。それから、小学校に上がる娘が言ううやん。キム・スンヒのままがいい、って。」
「あの子ら、今、80越えてはんねんな。うちのオカーチャンとかと一緒くらいやろ。台湾でもそうやろ。」
​ そのまま話がとぎれて、帰宅しましたが、気にかかったことがありました。唐突ですが、朝鮮語で「国語」といういい方はあるのだろうかということです。
 日本の学校では、今でも、日本語のことを「国語」と言います。でも、この言葉を、直訳で英訳すれば「National language」であって、「Japanese」ではありません。
 韓国語では「ウリマル」といういい方があるそうです。「ウリ」「私たちの」「マル」「言葉」「私たちの言葉」という意味になるそうですが、「ハングル」を指すそうです。日本語の「国語」とは少し違いますね。
 で、数年前に読んだ本を思い出しました。「国語という思想」(岩波書店)という、イ・ヨンスクという、一橋大学の学者さんがお書きになった本です。
 その本で彼女は、日本語を「国語」と固有名詞化した、近代日本のイデオロギー、政治的意図について詳細に論じていて、スリリングな本ですが、この映画を見て、イ・ヨンスクさんが、なぜ「国語」を研究対象にしたのか、彼女が言う「近代日本のイデオロギー」の正体とは何だったのかが腑に落ちた気がしました。

 「国語」「帝国臣民」を押し付け、「言葉」「名前」を奪った統治政策の「悪質さ」は、まだ十分に検証されてはいないのではないでしょうか。ヨーロッパの帝国主義諸国も同じことをしたいう人もありますが、果たしてそうでしょうか。「同じこと」とは、実は言えないのではないでしょうか。
 ぼくは「国語辞典」を愛用していますが、なぜ、この「国語」という言い方に疑問を持たなかったのでのでしょう。そんなことを考え始める映画でした。
監督 オム・ユナ
製作 パク・ウンギョン
脚本 オム・ユナ
撮影 チェ・ヨンファン
編集 キム・サンボム
キャスト
ユ・ヘジン(キム・パンス)
チョ・ヒョンド(キム・ドクジン:中学生の息子)
パク・イェナ(キム・スンヒ:幼い娘)
ユン・ゲサン(リュ・ジョンファン)
キム・ホンパ(チョ・ガプイン先生)
ウ・ヒョン(イム・ドンイク)
キム・テフン(パク・フン)
キム・ソニョン(ユ・ジャヨン)
ミン・ジヌン(ミン・ウチョル)

2019年・135分・韓国
原題:「Malmoe」 The Secret Mission
2020・11・13元町映画館
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最終更新日  2020.11.27 00:02:07
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2020.11.26
​​​​​ナショナル・シアター・ライヴ 2020
​ノエル・カワード「プレゼント・ラフター」神戸アート・ヴィレッジ​


​​​ 久しぶりのナショナル・シアター・ライヴでした。ノエル・カワードという人の「プレゼント・ラフター」というお芝居でした。
 「さあ、ここで笑って!」とでもいう意味なのでしょうか。正真正銘の「喜劇」なのです。
 登場人物相互の愛憎関係といい、女優になりがっている女性の登場といい、脚本家志望の「狂気」の青年といい、まごう方なきの喜劇で、英語がわからないぼくでも笑えるつくりでした。
 なのですが、最後の最後には、ちょっと物悲しいというか、ギャリー・エッセンダインという、真ん中に立ち続ける、最悪な男のありさまが他人ごとじゃないと、65を過ぎた老人に思わせるのですから大したものでした。​​​

 つくづく、英語ができたら、もっと面白いだろうなあ、と思うのはいつものことですが、俳優たちの「存在感」に揺らぎがない「空気」で見せる舞台は、やはりレベルが高いのでしょうね。

        ​映画.com

​​ 写真はギャリーと離婚(?)しているにもかかわらず、「仕事のためよ」とかいいながら、ちっとも出て行かない別れた妻リズとの、にらみ合いですが、お芝居全部が、このにらみ合いの中で展開していたようです。これはこれで、かなり笑えるシーンなのですが、ホント、夫婦って何なんでしょうね。​​


演出 マシュー・ウォーカス
作 ノエル・カワード
キャスト
アンドリュー・スコット
インディラ・バルマ
エンゾ・シレンティ
キティ・アーチャー
ソフィー・トンプソン
2019年・180分・イギリス
原題:National Theatre Live「Present Laughter」
2020・11・16神戸アート・ヴィレッジ
​​​追記2020・11・26
​ これで、神戸でのナショナルシアター2020のプログラムは終了なのですが、「真夏の夜の夢」を見損ねたが、返す返すも残念でした。プログラムの日程を度忘れしていて、一週間も気付かなかったことにショックを受けています。​
 物忘れがひどくなっていて、ちょっとヤバいんじゃないか、不安になっています。

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最終更新日  2020.11.28 00:24:49
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2020.11.25
​​​​川上泰徳「シャティーラの記憶」(岩波書店)


 図書館の棚で偶然手にして、2020年の夏の間繰り返し借り出した本です。
 「シャティーラ?なんか聞いたことがあるなあ。」
​ きっかけは、ふと、興味を持ったに過ぎない本でしたが、読み始めると一人、一人のインタビューに引き込まれながら、徐々にレバノンベイルート近郊にあるシャティーラ・キャンプを焦点の真ん中にして、ゴラン高原、ヨルダン川、アッカ、テルアビブ、ガザ、といった地名が、パレスチナ難民キャンプ、中東戦争、サブラ・シャティーラの虐殺、オスロ合意、といった歴史的事件を想起させながら浮かんできます。
 そして、レバノン、シリア、ヨルダン、イスラエルというふうにパレスチナ地方の地図が少しずつ輪郭を得て拡がっていく気もするのですが、やはり、あのあたりというボンヤリとしたイメージが綺麗に拭われるわけではありませんでした。​
​ 著者の川上泰徳は、このインタビューをまとめた本が出来上がる経緯をこんなふうに記しています。​
パレスチナの難民キャンプ「シャティーラ」はレバノンの首都ベイルートの繁華街ハラム通りから南東4キロ、タクシーを拾って渋滞が無ければ15分とかからない。​
​わたしは2015年から18年までの4年間に毎年1カ月から2カ月、延べ6カ月間、ベイルートに滞在し、シャティーラ・キャンプに足を運んだ。​
 1948年の第1次中東戦争で、イスラエルが独立し、70万から80万のアラブ人(パレスチナ人)が故郷を追われ、難民化した。パレスチナ人はそれを「ナクバ〈大厄災〉」と呼ぶ。
 2018年で70年を迎えたパレスチナ人の苦難の経験に触れるために、第1世代から現在の若者である第3世代、第4世代まで約150人にインタビューを重ねた。
​ ​取材と言っても、一人でシャティ―ラ・キャンプに行き、日本人のジャーナリストだと名乗って「パレスチナのことを調べています。あなたの話を聞かせてください」と頼んで、インタビューを行うだけである。すべてのインタビューは私がアラビア語で行った。​
 ​誰であれ、話しをしてくれる人間を探してインタビューを続けた。当然ながら話を聞いて見ないと、相手がどのような体験をしたかは分からない。インタビューでは事件やテーマごとに証言者を探すのではなく、一人一人について子供の時から現在までの経験をたどる方法をとった。人によっては5回、6回と話を聞いた。
​ ​長年、朝日新聞で、パレスチナを担当してきた1956年生まれの記者である川上さんが、新聞社を離れ、一人のジャーナリストとして最初に選んだ仕事がこのインタビューだそうです。​
​​ ぼくはが最初に感じたのは、自分とほぼ同じ時代に学生であり、社会人として「日本」という国で生きてきた彼が、何故、「シャティーラ」にやって来たのか、「シャティーラ」とは、いったいどういう場所なのかという二つの疑問でした。



 上に載せた、年表や地図を繰り返し見返しながら読み進めるうちに、二つの疑問が、少しずつ解けていくように感じました。
​ あなたはいまのシャティーラを見ている。もし、あなたが50年代のシャティーラに来ていたら、テントと小屋を見たでしょう。60年代に来たら石を積んだ壁のある家がありました。70年代には平屋の家が建ち、道路が通って、光がさし、風が吹き抜けていました。80年代に来たら、一面の破壊の跡です。90年代には家が建って、道路が狭くなっていくのを見たでしょう。そして、2000年代になれば、道路はなくなり、風は通らず、太陽も、空も見えない。人々の生活はますます困難となり、窒息寸前となっているのです。​
​ ​​​​​NGO「子どもと青少年センター」の代表であるマフムード・アッバスという人の言葉です。1949年パレスチナ難民キャンプとして設立されたシャティーラの風景の移り変わりが語られています。​​​​​
​ ​​その後、84年シャティーラの虐殺ビデオを見た。その中に映っていた父親が私の母親や弟妹の写真を持っているのを見た。私は6日間の休暇をとってシャティーラに戻った。その時父から虐殺の話を聞いた。虐殺で母や弟妹が殺されたことを初めて知った。​

 88年にキャンプ戦争が終わった後、アラファト派と反アラファト派の戦闘が始まったが、私は参加しなかった。
 私は23歳になっていた。10代のころは人と話すこともできない子供で、撃てと言われれば撃ち、殺せと言われれば殺した。
 しかし、年を経て、命令に従うだけではいけないことを学んだ。戦うことにどんな意味があり、どんな利益があるのかを考えるようになった。パレスチナ人同士闘ってもパレスチナの解放にはつながらないと思って、私は闘うことをやめた。​
​​ 1966年シャティーラで生まれ、11歳で銃の打ち方を習い、戦闘に参加し、今、一人ぼっちで暮らしているアクラム・フセインという人の言葉です。家族や、自らの人生について語っているインタビューの一部です。
​​ シャティーラの生活は大変です。電気もないし、水もない。水道から出るミスは塩水ですよ。電気不足はレバノン全体ですが、政府の電気は4時間の通電の後、4時間または6時間の停電を繰り返します。停電の時は民間の電気業者から電気を買っています。
 私の家の契約は2・5アンペアで、使えるのは電灯と冷蔵庫だけです。夕方のテレビのニュースを見るためには、冷蔵庫の電源を切らねばなりません。それでも電気代は月50ドルになります。
 飲料水は水を売りに来る業者から定期的に買っています。その水代が月に20ドルです。
​ ​​月給800ドル溶接工ムハンマドという人の​妻サマルさん​が口にした、今のシャティーラの暮らしです。​​
​ 新聞記者としてニュースを伝えることを仕事にして生きてきた川上泰徳は、新聞に載る記事を、遠い他国のニュースとして読み流し、悪意も善意も感じない「無関心」な、ぼくのような人間たちに、そこで生きている「人間」の素顔を伝えることで、「同情」ではなく、「共感」が生まれることを願って、この仕事を始めたのではないでしょうか。​
 フト手に取るという、小さな関心から、読者になったぼくは、こんな本が存在することを紹介することから、ぼくの中に生まれた「共感の芽」を育てていきたいと思いました。一度、手に取っていただければ、うれしく思います。



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最終更新日  2020.11.25 12:28:56
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2020.11.24
​​​​ロイ・アンダーソン「ホモ・サピエンスの涙」シネリーブル神戸


​ 映画を見終えるまで、ロイ・アンダーソンという監督について何も知りませんでした。予告編を見て、チラシにある、シャガール「街の上」という絵を模したかに見えるシーンに興味を惹かれました。​
 そもそも、「街の上」という絵は、ぼくでも知っている有名な絵ですが、この絵のイメージで、作家の村田喜代子が小説「屋根屋」を書いていたのを思い出しました。
 その小説では、空中で抱き合う男女という、イメージを、どんなふうに段取りするのかというのが、まあ、作家の腕の見せ所だったように思いますが、さて、この映画はこのシーンをどんなふうに使うのかと、興味惹かれたわけです。

 なんと、映画が始まると同時に、このシーンが始まりました。もちろん意味不明で、そのあとタイトルが出て、男と女が街を見下ろすの高台のベンチで、向こうを向いて座っている、チラシの下にあるシーンから、もう一度始まります。
 曇った空と、街の向こうの山のない風景が延々と映し出されます。途中、男が女にないか言いましたが、忘れてしまいました。
 ぼくは、その時、「ひょっとしたら、このまま眠り込んで、目覚めた時に映画は終わっているんじゃないか、何度見直しても必ず眠り込む、そういう仕掛けなのではないか。」などということをぼんやり考えていたのでした。
 で、眠り込んでしまったのかって?
 不思議なことに寝ることはありませんでした。一つ一つのシーンは、それぞれ1回のカットで写されているようです。数えていませんからわかりませんが、30シーンぐらいあったと思います。1カットが終わると暗転して、さっきのシーンとは何の脈絡もない次のシーンが始まります。
 何に引き込まれたのかはわかりませんが、必要最小限のナレーションが、映像の連鎖のコンテクストにたどり着きたいぼくにとっては、唯一の助けなのですが、とうとう、映画の「ストーリー」を理解することはできませんでした。
​ 「街の上」のシーンは、映画の中ごろに、もう一度出てきます。二人の下に広がる「街」は、どうも廃墟のようです。​
​​ 「絶望したヒットラー」や、「シベリアの地平線まで列をなして歩く敗残兵の行進」という、意味の分かる「歴史的」なシーンもあります。​​
​ 「神を信じられなくなった牧師」は、複数回登場します。牧師は精神科医の診察を受けますが、解決はしなかったようです。​
 数え上げていけば、面白いシーンは、いくらでもあります。どのシーンも面白かったと言ってもいいかもしれません。もっとも、なにが面白かったのかって聞かれると困ります。


 で、何だったんだろう。「悲しく」も、「おかしく」も、「腹立たしく」もない。それが、帰り道の感想でした。
 とはいうものの、ぼくは、この監督の作品が映画館でかかれば、きっと見に行くと思います。この監督が映像を羅列することで暗示しているかに見える、世界の切り取り方について、今回、何となく感じた、正体不明の「共感」を確かめたいと思うからです。
 なんか、感想になっていませんが、正直に書くとこうなってしまいました。あしからず。


監督 ロイ・アンダーソン
製作 ベルニラ・サンドストロム  ヨハン・カールソン
製作総指揮 サーラ・ナーゲル  イザベル・ビガンド
脚本 ロイ・アンダーソン
撮影 ゲルゲイ・パロス
美術 アンデシュ・ヘルストルム  フリーダ・E・エルムストルム  ニックラス・ニルソン
衣装 ユリア・デグストロム  イーザベル・シューストランド  サンドラ・パルメント  アマンダ・リブランド
編集 ヨハン・カールソン  カッレ・ボーマン  ロイ・アンダーソン
ナレーター イエッシカ・ロウトハンデル
キャスト
マッティン・サーネル(牧師)
タティアーナ・デローナイ(空飛ぶカップル)
アンデシュ・ヘルストルム(空飛ぶカップル)
ヤーン・エイェ・ファルリング(階段の男)
ベングト・バルギウス(精神科医)
トーレ・フリーゲル(歯科医)
2019年・76分・スウェーデン・ドイツ・ノルウェー合作
原題「About Endlessness」・「OM DET OANDLIGA」
2020・11・24・シネリーブル


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最終更新日  2020.11.24 23:38:57
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2020.11.23
​​​​​トム・ムーア  ロス・スチュアート「ウルフウォーカー 2」(映画館のピーチ姫)

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 「ウルフウォーカー」を先日観ました。「ブレンダンとケルズの秘密」を、その昔見逃して、「やってるよ!」と以前の店長さんに勧められたのでね。​​

 見終わって1時間くらいでつらつら書いたのがあったので送ります。
 絵本みたいな背景に、直線と曲線で描き分けられる世界。やっぱり魅力的なので過去作もちゃんと観ようと思います。
 登場人物たちになんでその名前をつけたのだろうかと考えてしまう癖がありまして、今回もたがわず、そうなりました。
 特に今回はケルトだ!なんか聞いたことのある名前がいっぱい出てきた!となったので余計に気になってしまいました。

​​​​​​​ イングランドから来た少女ロビン緑の人ロビンフッド、その相棒のハヤブサには魔術師マーリン、森で出会った「ウルフウォーカー」の少女メーヴは妖精の女王の名前。ではロビンの父グッドフェローズは?​​​​​​​


 ググリました。ありがてえなワールドワイドな知識にすぐアクセスできる現代社会。
​ 民間伝承としてロビン・グッドフェローという妖精がいるんだそうです。人間と妖精の子としていたずら好きで人に親しみを持つ存在なんだそうです(諸説あり)。​
​​ そうか、少女ロビンも妖精だったのか。相棒マーリンだって人と夢魔の子だ。​​
​​​​ 彼女がRobin Goodfelloweであることから、父親はGoodfellowe護国卿から呼びかけられるわけですが、この呼び名がなんとも皮肉だなと思うのです。
 彼のキャラクターは単純に「いいやつ」というより、「属するもの」として「善き人」という感が強いのです。従順であるものとして運命づけられ、護国卿の仕打ちが「怖いから」従わざるを得ないのだという苦しみを抱える人ね。​​​​

「怖いのだ。お前が牢に入れられてしまうこと、お前と離れ離れになることが」
「今だって檻の中にいるじゃない」
​ 少女二人の冒険譚だと思って見ていたけれど、実は違うんじゃないか。だって彼女たちはまだ「人の世界」に属しきってはいないのだ。あちらとこちらを作ってはいないのだ。
 この映画の中で、ある種本当に冒険し、何かを見つけたのは父親だったんじゃないか。そんなふうに思うのはわたしが歳を取ったからでしょうか。


​ ところでもう一人、呼び名のある人が出てきます。イングランドの護国卿 ’Lord Protect'です。彼は神’Lord’の御心を主張してアイルランドの開拓(侵攻)を進めようとしていました。彼自身がLordを名乗りながらです。
 そして、ファンタジーの生きている世界アイルランドで、イングランドのLordは墜落するのです。なんともまあ過激な話じゃないでしょうか。
 時代設定としてまんま、護国卿クロムウェルなのだと、これも後から知りました。好奇心は人を賢くするね!​

 じゃあ、またね。​好きなことは、よく勉強するピーチ姫でした。
追記2020・11・23
 「ゆかいな仲間」の一人、ピーチ姫は映画がお好きなのですが、ときどき、感想を送ってきたりします。せっかくなので、「映画館のピーチ姫」というカテゴリーで紹介してしまうことにしました。
​ 今回はシマクマ君チッチキ夫人が同伴鑑賞したアニメーション映画「ウルフウォーカー」を彼女も見たようで、いろいろ調べて教えてくれました。なかなか興味深い視点だと思うのですが、いかがでしょう。​

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最終更新日  2020.11.23 02:05:16
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2020.11.22
​​​​フランシス・アナン「プリズン・エスケープ」神戸アートヴィレッジ


 神戸のミニ・シアター、具体的にはパルシネマ、シネマ神戸、元町映画館、そして、アート・ヴィレッジ・センターの4館は、互いに予告編を流し合うという、粋なことをしています。
 この映画の予告編は、元町映画館で見て、上映を待っていたのですが、1週間、カレンダーを違えていて、最終日に何とか見ることができました。最近、いろんなカン違いが頻発していて、何となく不安なのですが、まあ、クヨクヨしたって仕方がありません。

​​​ 何を期待して、待っていたのか?もちろんサスペンスです。主役であるティム・ジェンキンを演じるのが、あの、ダニエル・ラドクリフだというのが、この映画の売り文句の一つですが、「ハリー・ポッター」のシリーズを、ただの1本も、きちんと見たこともないぼくには、チラシの写真をみても、さほどの興味が湧くわけでありませんでした。​​​
​ ぼくが、「オッ!?」と思ったのは、​「木製の鍵」​「10の鉄扉」のところでした。
 で、どうだったかって?ぼくには十分楽しめました。​

​​ 「木製の鍵」の制作過程が、まず、この映画の「見どころ」だったと思いましたが、ダニエル・ラドクリフが神経の細い、手先の器用でプラモデル作りが好きそうな、まあ、どっちかというと、今にも壊れそうな男、とても、脱獄なんていうタフな仕事は出来そうにない男をよく演じていたと思いました。​​
 ぼくは、この童顔の主人公がいつ倒れるのか、という一つ目のサスペンスがこの映画を支えていたと思いました。
​​ 脱獄を決行する当日になって、脱獄という行為が「アパルトヘイト」という非道に対するプロテストであることが、そのあたりをボンヤリ見ていたぼくにも明確になるのですが、連帯しながらも、尻込みをするデニス・ゴールドバーグを描いたところにぼくは共感しました。​​
​​ かつて「パピヨン」という、脱獄映画の傑作を見たことがありますが、ぼくには崖の上から跳ぶスティーヴ・マックインよりも、彼の雄姿を見下ろす、ネズミ男、ダスティン・ホフマンの方に感情移入する傾向があります。この映画でも「跳べない人」の姿を、かなり丁寧に描いていたことに好感を持ったわけです。​​
 もちろん、サスペンスのクライマックスは、脱獄を決行する最後の20分でした。「足音」、「息遣い」、「木製の鍵」という要素だけで、「見つかるかもしれない」、「開かないかもしれない」、「折れるかもしれない」という不安が畳みかけてくる気分は、久しぶりにサスペンス気分満喫でした。
​ とどのつまりは、黒人用タクシーの運転手の「頷き」でホッとさせられて、反アパルトヘイト映画だったことを思い出したのでした。​
​ それにしても、魔法が使えないハリー・ポッター君、今回は、なかなか健闘していたのではないでしょうか。​
監督 フランシス・アナン
原作 ティム・ジェンキン
脚本 フランシス・アナン  L・H・アダムス
撮影 ジェフリー・ホール
美術 スコット・バード
衣装 マリオット・カー
編集 ニック・フェントン
音楽 デビッド・ハーシュフェルダー
キャスト
ダニエル・ラドクリフ(ティム・ジェンキン)
ダニエル・ウェバー(スティーブン・リー)
イアン・ハート(デニス・ゴールドバーグ)
マーク・レナード・ウィンター(レオナール・フォンティーヌ)
2020年・106分・イギリス・オーストラリア合作
原題「Escape from Pretoria」
2020・11・21・神戸アートヴィレッジ
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最終更新日  2020.11.24 01:32:20
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