ゴジラ老人シマクマ君の日々

2022/10/25(火)08:09

週刊 読書案内 米本浩二「評伝石牟礼道子:渚に立つひと」(新潮社)

読書案内「水俣・沖縄・アフガニスタン 石牟礼道子・渡辺京二・中村哲 他」(20)

​​​米本浩二「評伝石牟礼道子:渚に立つひと」(新潮社)​​​​​ ​​​​​​​​​​ 河出書房新社から「池澤夏樹個人編集:世界文学全集」全30巻が2011年に出版されて、その中に日本文学としてただ一作選ばれたのが石牟礼道子の「苦界浄土(三部作)」でした。​​ ​​​​「石牟礼道子が世界文学!」​​​​  言葉の後ろにつくのが!マークなのか?なのか、微妙なニュアンスで評判になった。「そりゃあ!マークでしょう」と思ったが、出版に際してつくられた「苦界浄土刊行に寄せて」というビデオを見て、どうでもいいやとおもいました。ビデオが気に入らなかったのです。 ​ ​ 映画の中で石牟礼道子は、こう語っています。(ぼくなりの要約なので、本物はユーチューブで検索していただけば、誰でも聞けます。)​​​​​​ 本当のテーマというのは人間が生きるということについて美しい話をどなたとでもできるようになりたかったというのが悲願のようにありましたのに、うかうかと年を取ってしまいました。​ ​ これをお読みいただく方々にとっては、まあ、一つの災難であろうとは思うんですね。こういう暗い材料を文字に書いて、本にして、何の予備知識もない方々に読んでいただくわけですので、なんだか申し訳ないような、自分の背負っている重荷をその人たちに背負っていただいて、加勢してくださいとお願いをするような気持ちで、申し訳なく思います。​ ​​​  馬鹿の一つ覚えといったらいいんでしょうか、ほかのことはあまり考えられずに、やっとやっと、考え、あの、これまでに、自分にとっては不可能だったようなことを何とか書き終えましたけれど、重荷でございましょうけれどお読みいただければ幸いでございます。​​​​​ その石牟礼道子が今年(2018年)二月に亡くなって、とてもショックでした。彼女は、ちょうど、ぼくの母親の世代の人でした。彼女の生き方は、なんというか群を抜いていると思っていたのですが、どこがどうなって、そうなっているのかわかりませんでした。​ ​​​ ​石牟礼道子の死のちょうど一年前に米本浩二という毎日新聞の記者(だった人かな?)が「評伝 石牟礼道子」(新潮社)を発表しました。書いた人は知らない人だったのですが、読みだして納得しました。三年がかりで書き上げた労作でした。​​​​​  ​序章に、米本浩二がこの評伝執筆を決意するにあたって、「岩の上でもじもじする」ペンギンの背中を押した渡辺京二という思想家の言葉が記されていました。 ​​ 渡辺京二は作家(こう呼ぶのは、ぼくには抵抗がありますが、でもまあ作家なのかな?)石牟礼道子を、最初に発見し、その出発から死に至るまで支え続けてきた人だと思います。​ ​ 支えると言っても、生半可なことではなかったのではないでしょうか。「義によって助太刀いたす」という「水俣病を告発する会」の70年当時のリーダーの、有名な言葉がありますが、渡辺京二という人は、石牟礼道子に対して生涯をかけた「助太刀」を貫いた人だとぼくは思います。世の中には、凄い人がいるものなのです。​  本書をお読みいただけばわかることですが、水俣病闘争の初期に石牟礼と出会い、晩年にいたっては、食事の世話、原稿の清書から出版社との交渉に至るまで、黒子のように付き添ってきた人です。 ​​ 渡辺自身にも「もう一つのこの世:石牟礼道子の宇宙」(弦書房)という評論集があるのですが、その渡辺が米本浩二に語りかけた言葉が本書にありました。​​ ​​ 石牟礼道子に密着して話を聞く。伝記に尽きるわけだよ。彼女の言葉と、著書の引用、関係者の証言、この際、戸籍調べもして、ノートも未発表原稿も、ほかのなにもかも全部ぶちこんで、伝記を書く。そういう仕事をするには、己を虚しくしないといけませんからね。若いときは、そういうふうに己を虚しくするのはなかなかできない。ほかにいっぱいするべきこと、楽しいことがあって、己を虚しくしようとは思わないでしょう。熱烈なファンはいっぱいいるんだけどね、そこまでやろうとする人はいないね。だけど、まあ、そんなもんでしょう。  後世になってやっと研究者があれこれほじくりはじめるんでしょう。それはそれで結構なんです。ただ、関係者が生きているうちにね、話を聞けばね、相当面白い本ができると思う。  彼女は逸話集ができるから。変わってますから、すること言うことが。珍談奇談、山みたいにあるわけですからね。ただそれは残さないと消えてしまう。珍談奇談の類は僕も書いていません。イギリスが島国の話はちょっと書きましたけど。彼女らしい面白い話はたくさんあるんですよ。書き残さねばならない。発表しなくてもね。書かないと消えてしまう。​​​​​​​ こんなふうに言われて、米本浩二は、その責任の重大さに、きっと震えたに違いないとぼくは思います。​​  1970年代初頭、首都に翻った「怨」という一文字の吹き流しと、「死民」というゼッケンを発案し、チッソ本社前の路上に患者とともに座り込んだ、闘う人。「苦界浄土」をはじめ、数々の傑作を世に問い続け、今や、世界的評価を得ている作家。 祈るべき 天とおもえど 天の病む​​ 晩年、こう詠んだ詩人について、「変わってますから」と励まされて書くことは、それ相当の肝が据わらなければできる仕事とは思えません。​ ​ 黒地に「怨」と染め抜かれた吹き流しから私が感じるのは、正体不明の遺物と向き合う生理的、根源的な恐怖である。​ ​​​​ 石牟礼道子を書くということは、彼女が世に現れた当時、何も知らなかった小学生だった米本浩二にとって、「根源的恐怖」の正体を突き止めようと勇気を奮う決意なしには、なしえなかったのではないでしょうか。​ ​ しかし、彼は書いたのです。​ ​​​​​​​​​​米本 封建的な農家の嫁という立場で書くのは大変だったでしょう。 石牟礼 水俣病をやり始めたときは、お姑さんから、道子さんたいがいにせんね、弘がぐらしか(かわいそう)ばい、と言われました。(以下略) 米本​ ご実家の反応は? ​​​​石牟礼 お前がやっていることは昔なら獄門さらし首ぞと父が言った。覚悟はあるのか、と。ある、というと、そんならよか、と言いました。獄門さらし首、なるほどと思いました。安心しました。だれよりも、産んでくれた親が一番わかってくれているなと思いました。(以下略)​​​​    米本 七〇年、大阪のチッソ株主総会に向かっているころに、作家の三島由紀夫が自衛隊で割腹自殺しています。 石牟礼 彼のひどく古典的な死に方は、わたくしの水俣病事件と思わぬ出会いをすることとなった。と『苦界浄土三部作』に書きました。三島さんほどの人が、もったいなかと思った。死ぬくらいなら患者さんの支援に加勢してもらいたかった。三島作品をちっとは読んどったです。まあ、文章がきらびやかで、とても新鮮に思えて、私は才能を認めていました。孤高というか、規格外というか、普通の文壇的な作家とは違うち思うてましたね。勝手に親近感を覚えていたから‥‥。(以下略) 米本 (ミカン)いただきます。あの、今の時代をどう思いますか。 石牟礼 日本列島は今、コンクリート堤になっとるでしょう。コンクリート列島。海へ行くと、コンクリートの土手に息が詰まる。都会では小学校の運動場までがコンクリートです。これは日本人の気質を変えますよ。海の音が聞こえんもん。 米本 水俣病の現在をどう見ますか。 石牟礼 水俣病の場合はまず棄却という言葉で分類しようとしますね。認定の基準を決めて、認定の基準というのは、いかに棄却するかということが柱になってますね。国も県も。そして乱暴な言葉を使っている。言葉に対して鈍感。あえて使うのかな。あえて使うんでしょうね。棄却する。  一軒の家から願い出ている人が一人いるとしますね、私はあんまりたくさん回ってないけど、ほんの少数の家しか回ってないけども、行ってみると、家族全員、水俣病にかかっとんなさるですよ。家族中ぜんぶ。ただその人の性格とか食生活とか生活習慣が先にあるんじゃなくて、水俣病になってる体が先にあるもんで、病のでかたがちがうんですよね、ひとりひとり。  魚を長く食べ続けたと訴えても、それを証明する魚屋さんの領収書とかもってくるようにという。そんなものあるわけない。認定する側の人だって魚屋さんから領収書貰ってないでしょう。そういうひどいことを平気で押し付けてくる。証明するものって、本人の自覚だけですよね。それをちゃんと聞く耳がない。最初から聞くまいとして防衛してますね。  自分のことを一言も語れない、生きている間、もう七〇年になるのに自分のことを語れないんですよ、患者たちは。(以下略) 米本 パーキンソン病との闘いがつづきます。 石牟礼  複合汚染だと思っています。私の今の症状の中に水俣病の患者とそっくりの症状がある。原田正純先生に『私にも水銀が入ってますよね』と言ったら、『当たり前ですよ』とおっしゃいました。箸をとりおとす。鉛筆をとりおとす。ペンをとりおとす。なんか手に持っていたものを取り落とすことがしばしば。そして発作がきますけど、脳の中がじわじわしびれてくるんですよ。(以下略)​​​​​​​​​​​​​ できあがった作品は、例えば、ぼくの「どこがどうなっているのか」、生い立ちは、家族は、生活は、という疑問に、実直に答えてくれています。  石牟礼道子が背負い込まねばならなかった「重い荷物」の由来と遍歴を丁寧に解き明かしているともいえるでしょう。 ​ しかし、それ以上に、米本浩二自身が、石牟礼道子という「もう一つのこの世」に生きた人間を、海の向こうに、はるかに見晴らす渚に立っている印象を、素直にもたらすものでした。書き手の、実直ともいうべき誠実が形になった伝記だと思いました。乞う、ご一読。​ ​​追記2019・11・12  ​​​​​石牟礼道子「苦界浄土」​はこちらで案内しています。表題をクリックしてみてください。​​​​追記2020・01・23​  この本が文庫になるそうだ。現代という時代が過去をないがしろにすることで、ありえない夢を見ようとしているのではないかと疑うことが、最近増えた。忘れてはいけなかったり、大切にすべき考え方や生き方は「過去」の中にもある。  忘れてはいけない人を描いた米本さんの誠実が輝いている本だ。めでたい。 追記2022・10・04  ​石牟礼道子の伝記を書いた​米本浩二​​​​が、新たに「水俣病闘争史」(河出書房新社)を書いて、この夏の終わり、国葬騒ぎの最中の2022年8月に出版されました。感想はべつに書こうと思いますが、70年代、学生時代を、初めて石牟礼道子や渡辺京二を読んだ頃を彷彿させる読書でした。  で、まず、こっちの投稿の修繕をやりました。「水俣病闘争史」の案内も近近投稿するつもりですが、さて、どうなることやらです(笑)​​追記2022・10・25  ​「水俣病闘争史」(河出書房新社)​の感想を書きました。題名をクリックしてみてください。 ​​​​​                                                                                                                                                                                    2018/09/01 ​​​​ ​ボタン押してね!​ ​ボタン押してね!​ ​ ​​ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る