山田史生「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)
教員を目指している人にも、だから当然、受験生にも、漢文が苦手という人が結構たくさんいらっしゃいますね。。受験勉強でも、授業の教材でも、本当はね、「漢文」は難しくないんですよ、ということを教えてくれる本を紹介します。
山田史生という弘前大学の教育学部の先生がお書きになった「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)という参考書があります。本屋さんに行っても、受験参考書の棚ではなくて、新書の棚に並んでいるので、なかなか気づかれないようです。
漢文を読むということは、ちょっと変な面倒くさい作業なのですが、それ以前に、漢字嫌いの高校生、大学生諸君にはかなり苦痛な作業であるだろうということはよく見かける光景ですね。
というわけで、とりあえず漢文攻略という目的を持つときにまず最初に「漢字って何よ」というところから入らないとしようがないわけですよね。
詳しく話し出すと、これはこれで大変なのですけれど、要するに日本語の中になぜ、どんなふうに漢字があるのかという素朴なところの説明をすっ飛ばして勉強が始まるのが、今の学校という制度の現実なんですね。
学校で習うことや先生が言うことを上手に口真似できる子どもが優秀だという押し付けで、センセーがただの馬鹿かもしれないってことは明かさないないんです。
漢字一つとっても、なぜそうなのかは考えさせない。それじゃだめですよね。ところがこの本では、例えば「仮定」という構文がありますが、こんなふうに説明しています。
父
まず仮定形からだけど、そのまえに「仮定」という表記がダメなことについて説明しておきたい。
娘
え?どういうこと?
父
「反」という字形をふくむ字には「板・坂・版・販・飯・叛」などがあって、どれもみな「ハン」という音をもっている。「仮」の正字は「假」で「暇・霞・瑕」などがその仲間で、みな「カ」という音をもっている。この中の「假」だけを仲間はずれにして「仮」と書き、板や坂や飯の仲間にするのは、ひどく不都合なんだ。
娘
なるほど。だったら「暇定」と書けばいいんじゃないの?
父
そうなんだけど、多勢に無勢っていうか、このさい目をつぶって「仮定」で行こうとおもう。どうか軟弱なパパをゆるしてほしい。
娘
一句浮かんだわ。「パパもまたNOといえない日本人」オソマツ。
おわかりでしょうか。実はセンセー方の大半もご存じないし、知っていても時間がかかるからすっ飛ばしている。そういう所から入るんですよね、この参考書は。
「漢字から漢文への文化の変遷」が意識されてるこういう「漢文」の参考書は、僕が知る限りあまりありません。
次は「漢文から日本語へ」という移入の扱われ方ですね。「反語」の説明のところにこんな会話があります。
父
「以臣弑君、可謂仁乎」これは「臣をもって君を弑す。仁と謂ふべきか」と読む。「仁と謂ふべけんや」と読んでもいい。仁じゃないってことが明らかなのに、あえて疑問のかたちに読むことによって、かえって語気を強めているわけ。
娘
「仁ということができるだろうか、いやできない」って訳すんでしょ?父
わざわざ「~できようか、いやできない」と訳すことはない。だって日本語として不自然だろ?いったいだれがそんな話しかたをするだろうか、ってこれも反語だけれど。
娘
でも学校でそう習ったわよ。
父
パパを信じてくれ。「家来でありながら君主を殺すのは仁といえるだろうか」のあとに「いや、いえない」と附け足さないと意味が伝わらないというのは、かなりヘンだよ。家来でありながら君主を殺すのは、たいてい仁とはいえないけど、ひどい暴君だったりすることもあるしさ。だからヘタに「いや、いえない」と附け足すと、「家来でありながら君主を殺すのは、かならず不仁であると」ということになりかねない。
娘
そうよね。「~だろうか、いや~でない」という訳し方は捨てることにするわ。
内情を言えば、反語の訳の後ろに「~ない」を付けさせるのはセンセーの採点の都合のためだったりするのです。わかっているかどうか、言うことを聞いているかどうか、確かめたくて仕方がないのがセンセーというものなのですね。
ところが、この本は、漢字の本質から漢文へ。漢文から自然な日本語へ。筆者の考えが一貫していて、信用できる。これなら、苦手な皆さんも読めるんじゃないでしょうか。
これを読んでおもしろければ、次は「白文なんか読めなくても大丈夫。」と喝破する加地伸行さんの「漢文法基礎」(講談社学術文庫)がおすすめ。小川環樹さんの「漢文入門」(岩波全書)にたどり着ければ高校の教科書やセンター試験どころの話ではなくなりますね。(S)
大学受験漢文について、トータルな力の養成にはこっちですね。書き手の実力が半端じゃありません。
2018/06/05
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