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2019.05.18
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​​​​​​​​​​​高田瑞穂「新釈現代文」(ちくま学芸文庫)
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 ぼく自身が受験生だった頃、繰返し読んだ現代文の参考書がありました。その参考書がなんと筑摩書房から文庫として復刊されています。高田瑞穂「新釈現代文」(ちくま学芸文庫)です​。​​
 人間の理解や知識は、関心と経験を経ることなしには決して育ちません。人間の文化を、その根底において支えているものは、いつの場合でも生活の必要ということなのです。
​  海を知らない山国に生まれた文明に、船を期待することはもともと無理なことでしょう。もっと身近なことで言えば、例えば我々の身体というものは、我々の最も親しいものです。むしろ我々自体です。われわれの行為とは、つまり我々の身体の様々な運動であります。​
  しかしそれでいて、我々はその身体を絵にしようとすると、なかなか上手く描けないのが普通です。
  ところが、特殊な人々がいて、それを苦もなくやってのけます。それは画家たちです。それがすぐれた画家か否かということは別問題として、とにかく画家である以上は、人間の姿態をそれらしく描き出すことくらい朝飯前のことにちがいありません。

 何故か。

 画家は常に、描くという意識において人間を見ているからです。

  画家にとって描くということは、彼の生活の本質ですが、画家でないわれわれには、そうではないからです。それならわれわれの生活の本質はどこにあるか。
 あなた方は現在高校生であるか、高校の卒業生であるかどちらかでしょう。そして大学入試という当面の課題を共有しているわけです。そうすると、あなた方の目下の生活の中心をなすものは、高校卒業程度の学力を体得するということであるはずです。
  画家は描くことに生活の意味を認めるが故に、描くことが出来たのでした。それなら、あなた方は、勉学に生活の意味を認めているのですから、学力を高めてゆくことが出来るのは当然のことでなくてはならないはずです。従ってあなた方の、学問的関心は、高校卒業程度という一応のレベルに立って、その範囲において、あらゆる分野に、常に生々と働いていなくてはならぬはずです。そして、受験のための勉強も、つまりは、そういう関心をなるべく広く、深く、生々と保つということの上に考えられなくてはならぬはずです。
  そこに私は、一番正しい受験準備の姿があると信じます。もしそうしていれば、すでにあなた方の問題意識は充分の幅と深さを持ち得ているにちがいありません。しかし、私の見聞する所によると、事態は必ずしもそういう風に、うまくいってはいないように思われます。
  特に、現代文がわからないという嘆きが、そのことを物語っていると思います。現代文がわからないという場合の多くは、実はあなたがたの問題意識が極めて希薄である場合か、または全然欠如していることの告白であると私は断言いたします。
  ここで是非一つ、あなた方一人ひとり、ご自分の心を覗いていただきたいものです。何がありますか。もしそこにあるものが、単に、見たい、聞きたい、食べたい、行きたい等の、総括して自分の感覚を満たそうという願いだけだったとしたら、そういう人に、入試現代文が難解であるのは、当たり前ではありませんか。
  そういう人は、無理をして、自分の精神年齢を引き上げなくてはなりません。無理をする事がどうしても必要です。たとえば、仲間が口をそろえて難しいという本があったら、無理をしてそれを読破して、いややさしいと言うのです。批評家などが盛んにほめるが、あんな小説―映画でもよろしい―のどこが面白いのかさっぱり解らないと友達が言ったら、それをよく読み、熱心に見て、いやたしかに面白いと言うのです。
 こういう無理は、青春期においては少しもみにくいものでも、恥ずかしいことでもありません。青春時代は、人間的教養を身につけなくてはならない時期です。Cutivationとはもと耕作し、育成することです。
 懐かしい文章です。学校の先生の授業には飽き足らない毎日だった少年が、心に刻み込んだ記憶があります。​ 現代文の入試問題が解けなくて困っている人にはこの参考書は難しすぎるかもしれません。知的な守備範囲を拡げようとしない人には、そもそもこの参考書自体が読みきれないと思うのです。
 むしろ、現代文は得意だが、問題集の図式解説のばかばかしさに飽き足りない人や、国語の先生になろうと考えているような人にお薦めです。

 今さら、受験参考書を、という気持ちはよくわかりますが、これを読むと読書しなければならないという気持ちになる不思議な参考書でした。書店の棚でちょっと覗いてみてください。(初出2011・07・14)(S)

追記 2019・05・18
​​ ​高校の国語に「論理国語」なる科目が始まるらしい。哲学研究者の内田樹さんが​「内田樹の研究室」​というブログでこんなふうに書いておられました。​​​
 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。
​​「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

​ 文章を読むとか、書くという行為が、すぐれて「論理的」な行為であることを、諄々と解説し、受験問題を解いてゆく「新釈現代文」という受験参考書は、今こそ読まれるべきだと思います。​
 しかし、現場の若い教員や、教員を目指す学生さんたちの中に、世の風潮通り「すぐに使えるマニュアル的方法論」を手に入れることに汲々としている傾向があることは否定できません。「そんな面倒くさいことはやっていられません、さっと、わかるように言ってください。」そうおっしゃて、こんな本には見向きもされないことでしょう。そういう「非論理的」感受性には、「文学国語」を読むことも不可能だと思いますが、老人の繰り言でしょうか。
追記2020・09・09

 コロナ後の世界が始まりつつあります。蔓延する伝染病を克服する方法は、どうも、根拠なしに「こんなものはこわくないのだ。」という妄想にも似た「安心感」を蔓延させることのようです。
 スター気取りでテレビに出て来て、やりもしていない対策を、やっているかのように語っていた、インチキ政治家たちは、次々と鳴りを潜め、「自助」とか「自衛」とか、公共の責任を果たす態度のかけらもない言葉を政治スローガンとして流行させ国民を煙にまき始めています。
 決定的に失われているのは論理ですね。ムードや空気に酔わせることでインチキを正当化するのが全体主義者、ファシストたちの常道でしたが、ムードに酔わないための薬は、地道に「論理」を追う「思考力」以外にはありません。
 しかし、何よりも「考える」ためには「他者」、「他者」とともにある「社会」、人と出会う「場」を失ってはならないと思うのですが、自らのことばで語ることができない政治家の姿は「まさに」「他者」を失った現代のシンボルだと思います。しかし、彼が失っているのは振り返って「考える力」だということを忘れてはいけないと思います。
 一人、一人が考え始めることがポストコロナの社会を変える力を芽生えさせるのではないでしょうか。

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最終更新日  2020.12.07 17:14:59
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