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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2019.06.30
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​​吉本隆明 「17歳」 「吉本隆明 代表詩選」(思潮社)
​​​​​​​​​​​
   ​​ 十七歳     吉本隆明​

  きょう
  言葉がとめどなく溢れた

  そんなはずはない
  この生涯にわが歩行は吃りつづけ
  思いはとどこおって溜まりはじめ
  とうとう胸のあたりまで水位があがってしまった

  きょう
  言葉がとめどなく溢れた
  十七歳のぼくが
  ぼくに会いにやってきて
​   矢のように胸の堰を壊しはじめた​


​  ​六十歳を越えた一人の男のもとに、十七歳だった時のその男が会いにやってくる。夢の中のことか、現実か。少年の姿を前にして、溢れてくる言葉。六十数年の生涯、上手に言葉にすることは出来なかった、しかし、ずっと言いたい本当のことがあったのだ。男の口を閉ざさせていたものは、仕事か、生活か、常識か。ともあれ、大人になるということが口を閉ざすことであるような、自らの中の少年を押し殺すことであるような倫理観は誰にも共通することだろう。​​
  「堰を切る」という言葉がある。十七歳の少年だった自分が六十数歳の男の、溜まりに溜まった思いの堰を切ったのだ。よみがえった少年の日のまっすぐなまなざしに揺さぶられる、黙り続けてきた人生の意味。​
  およそ五十年にわたる社会生活から引退を余儀なくされ、老人と呼ばれるようになる。いつの時代であれ、誰もが通りかかるに違いない人の一生の曲がり角で、ふと、どこかへ帰っていこうとする「こころ」の行方を見据えた作品。まず、そんなふうにこの詩を読むことは可能だろう。
 ここで、作者​吉本隆明​をめぐる年表に目を通してみよう。
​ 詩人は1924年生まれ。十七歳は​1941年​。昭和十六年、12月に「この国」がアメリカに対する帝国海軍の奇襲(?)で始めた太平洋戦争勃発の年。彼は東京府立化学工業学校応用化学科五年生。現在でいえば工業高校の三年生だった。​
​​​​​​ この詩が書かれたのは​1990年​。平成二年。詩人は六十六歳。前年の​1989年​、太平洋戦争を統帥した天皇ヒロヒトが寿命を終え、昭和天皇と諡号で呼ばれるようになり、翌年の1991年、自衛隊というこの国の軍隊が、1941年の、あの日から五十年の歳月を経て、アメリカが始めた戦争に参戦するために海外派兵を始めることになる。​​​​​​
 ​​​ こう見てみると、「十七歳のぼく」「ぼくに会いにやってきた」のにはそれなりの理由があったのではないかと感じないだろうか。そこから、もっと積極的なこの詩の読み方ができないか。​​​
 
作家の高橋源一郎​は「吉本隆明代表詩選」(思潮社)の編者あとがきにこう書いている。​​
          ​​​​​

 ずっと以前からそう思っていたが、いまもそう思う。きっと、これからもずっとそう思うことになるだろう。つまり、吉本隆明の詩を読まなければ、ぼくは小説家にはならなかっただろう、ということだ。
 吉本隆明の詩を読まなくても、詩や小説や批評に興味を持ったかもしれない。それから、書いてみようとさえ思い、書きはじめたかもしれない。だが、仮に、書きはじめたにせよ、ぼくはもうそれをやめているか、暇な時の楽しみにしているか、そのいずれかだったに違いない。つまり、詩や小説や批評は、たいへん好ましく、面白く、刺激的ではあっても、さらに、自分が書いていたとしても、それにもかかわらず「他人事」にすぎなかったにちがいない。しかし、ぼくは、結局、吉本隆明の詩を読んでしまったのだ。
 吉本隆明の詩をひとことでいうなら「倫理的」であるということだ。しかし、それは、誰の(あるいは何の)、何に(あるいは誰に)たいする倫理なのか。
 その詩は、言葉に関して「倫理的」であるようにも、言葉以外の一切に関して「倫理的」であるようにも、また、詩的表現に関して「倫理的」であるようにも、詩的表現が成立する根拠に対して「倫理的」であるようにも見える。つまり、全世界に対して「倫理的」であるように見える。だが、不思議なのは、その詩が「倫理的」であるが故に「美的」であることだ。古来、「倫理的」であることと「美的」であることは深く対立するものではなかったか。その謎を解くことは、いまもぼくにはできないのである。​​
​​​​​ この詩を支えている「倫理」にたどり着ければ、詩が直接的に表している「老い」の叙情に、もっと深く広がりのある風貌を与えることができるのではないだろうか。​​​
​​​  戦後最大の思想家と呼ばれながら、どこかに切ない「倫理」を感じさせる「抒情」を詩として書き残した詩人であった吉本隆明も、2012年に去った。​​​
 ​ちなみに「共同幻想論」とか「言語にとって美とは何か」(角川文庫)とか、1970年代の大学生には、読み超えるべき壁のような書物であったが、今の学生さんたちには見向きもされないだろうし、たとえ手にとっても歯が立つまい。ははは。​
​ しかし、「詩」から読み始めることは可能かもしれない。そう思う。​
​​
​(S)初出2006・09・27 改稿2019・06・30​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​


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最終更新日  2023.05.20 21:59:04
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